<ブギウギ ・ブギの女王編>20週~24週までの解説/考察/感想まとめ【※ネタバレあり】

続・朝ドライフ

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2023年10月2日より放送スタートしたNHK連続テレビ小説「ブギウギ」。

「東京ブギウギ」や「買物ブギー」で知られる昭和の大スター歌手・笠置シヅ子をモデルにオリジナルストーリーで描く本作。小さい頃から歌って踊るのが大好き、戦後の日本を照らす“ブギの女王”となっていく主人公・福来スズ子を趣里が演じる

CINEMAS+ではライター・木俣冬による連載「続・朝ドライフ」で毎回感想を記しているが、本記事では、「東京ブギウギ」のヒットで“ブギの女王”となったスズ子の活躍を描く20週~24週の記事を集約。1記事で感想を読むことができる。

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もくじ

第92回のレビュー

第20週「ワテかて必死や」(脚本:櫻井剛)には第91回でちらっと顔を出したタイ子(藤間爽子)が本格的に再登場しました。タイ子は大阪時代、スズ子(趣里)の幼馴染。芸者さんの娘で、結婚、妊娠して東京に行きましたが、スズ子と連絡をとっていたかは不明です。

スズ子は「東京ブギウギ」が、”戦後の混乱のなか先行きの見えない”人々を励まして大ヒット。”ブギの女王”の異名で、大スターの道を歩んでいました。

愛子は楽屋で山下(近藤芳正)が面倒を見ていて、ステージが終わるとスズ子は一目散に楽屋で待っている愛子のもとへと向かいます。

人気が高いいま、もう一曲出して、さらに盛り上げていこうと、羽鳥(草彅剛)に頼んでいるところですが、彼もまた「東京ブギウギ」が大ヒットしたため、仕事の依頼が引きも切らず、スズ子の新曲に手が回らなくなっていました。

みんなに「信じてお待ち下さい」とだけ言い続けるしかなく、山下に「信じて!」(間)「お待ち下さい(にっこり)」という草彅さんの話し方が面白かった。

スズ子の人気は、もちろん、天才作曲家・羽鳥の力と、スズ子の歌と踊りの魅力によるものではあるのですが、どうやら雑誌「真相婦人」の記事が人々の関心を煽っているようでもありました。

スズ子が妊娠して「ジャズカルメン」を演じていた頃から周囲をうろつき「腹ボテカルメン」と記事を書いた鮫島(みのすけ)が最近も、「コブ付き」と記事を書き、それが、新しい女性の生き方として評判を呼んでいたのでした。

大げさに誇張し、虚偽も曖昧な、俗っぽい記事は、書かれた当人としてはこんな書き方はいかがなものかと思うものですが、これによって一層多くの人たちの興味を引くことも事実。マスコミとスターはある種、持ちつ持たれつのような関係であることは、いまも昔も変わらないようです。

鮫島は、戦争に負けた弊害が噴出していて、夜の街に、パンパンと呼ばれる街娼たちが存在することを懸念し、スズ子に意見を求めます。

スズ子は「どないな事情があるかわからへんのに良いも悪いも言えまへん」「生きるためにしてることを他人がとやかく言えまへん」等と答えますが、書かれた記事を読んだ、ラクチョウのおミネ(田中麗奈)が勢いよく楽屋に乗り込んできました。何をそんなに憤慨しているのでしょうか。田中麗奈さんの振り切った演技に迫力があって、場が引き締まりました。

戦争による弊害――といえば、靴磨きの少年が街にいることも、そのひとつでしょう。
少年・達彦(蒼昴)は稼ぎを増やすために、道に水たまりを作って、お客を罠にかけようとします。少年がこんなズルをするようになるのも、戦争で貧しい生活を強いられているから。

そして、この少年が実はタイ子の息子であることを、スズ子はまだ気づいていません。タイ子は病に伏せっていて、代わりに達夫が懸命に働いているようです。
タイ子は息子が口ずさむ「東京ブギウギ」を「その歌嫌いなの」と強く拒否。スズ子の歌だと知っての言動なのでしょうか。
あんなに明るく輝いていたタイ子がすっかり荒んだ姿になっていて、心配です。

先週から戦後復興編(?)の趣が加わりました。が、なんだか唐突に、困窮している人たちが出てきたり、困窮している人たちがスズ子の歌で救われることがナレーションで説明されていたりして、おばちゃんである筆者は惜しい感じがしています。が、民衆を描けないのは、いまにはじまったことではなく、現代的な表現の変化あるいは進化とも言えるでしょう。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第93回のレビュー}–

第93回のレビュー

突如、ラクチョウのおミネ(田中麗奈)が怒鳴り込んで来ました。「真相婦人」の記事で、スズ子(趣里)がおミネたちパンパンについて語っているのを見て、自分たちの何がわかるのかと激怒したのです。

記事は、スズ子が話したことが、湾曲され誇張されて書いてありました。
言ってないことが書かれる、というのはいまでもよくあります。

筆者は、基本、取材する側ですが、たまにコメントを求められることもあります。そういうとき、やっぱり、こんなこと言ってないのに……と思うようなまとめられ方をされて困るときがあります。

さて、スズ子は、このままおミネに誤解されることが我慢ならず、娼婦たちのいる街へと向かいます。街娼たちに囲まれて、歌を歌えと言われ、歌うと、なんとも下手くそで、誰も福来スズ子だと信じません。

ここで、すばらしい歌声を聞かせると、街娼たちが感動しちゃうので、ここはあえて下手にして、くすっと笑わせようという狙いなのでしょうか。

気分が乗らないと歌えないのか、ただでは歌えないのか、わかりませんが、あまりにもスター歌手の威厳がなさすぎて、いささか落胆もしたのですが、この場面では、スター歌手のように手が届かない人ではなく、もっと身近で親しみやすいヒロインを描く選択をしたのかもしれません。

「どうせあんたにあたいらの気持ちなんかわかりゃしない」とおミネに距離を取られてしまうスズ子ですが、実は、違いなんかないということを描きたいのかなと想像します。

折しも、秋山(伊原六花)が遊びに来て、スズ子のスターっぷりに舌を巻くと、
「スターやなんてとんでもない やってることはこれまでとなんも変わらへんのやし」とスズ子は答えています。

「東京ブギウギ」で一躍大スターになってしまったスズ子と周囲の格差が大きく広がって。でも当人は何も変わっていない。いつまでも、大阪の銭湯で育った庶民派なのだということなのでしょう。

スズ子は人知れず、愛助(水上恒司)を亡くして、残された愛子の育児と仕事を両立して踏ん張っている。秋山は、スズ子がもう歌えなくなるんじゃないかと心配していましたが、立派に立ち上がったことを喜んでいました。こんなふうに、わかる人にはわかることがありますが、わからない人たちは好き勝手言うものなのです。

街娼たちも、いろいろ事情があってのことなのに、世間から、やっかいな者たちとして誤解されています。理解されていない者同士、わかりあえるでしょうか。

ところで「真相婦人」は「真珠夫人」のもじりでしょうか。大正時代に菊池寛が発表した小説「真珠夫人」は庶民に愛され、映画やドラマになって人気を博しました。

2002年、フジテレビ系で昼ドラとして放送されたバージョンは、原作と異なる部分が多かったのですが、食卓に「たわしコロッケ」を出す場面など、極端な表現がおもしろいと大ブームになりました。

この頃(00年代)は、朝ドラより民放の昼ドラが盛り上がっていたと、筆者は拙著「みんなの朝ドラ」に書いています。やや低迷していた朝ドラが再び盛り上がるのは2010年以降です。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第94回のレビュー}–

第94回のレビュー

街娼たちのいるところへ、話し合いに向かったスズ子(趣里)
一対多数で、緊張感が漂います。

「誰かが勝手にはじめて勝手に負けた戦争だろ。あたいらは巻き込まれただけ」
(おミネ)

戦争によって、生活ができなくなった女たちは、好きでもない男に抱かれるしかなくなった。お気楽に歌を歌っているスズ子とは立場が違う。

「(おミネたちの事情も慮らず悪くいう)汚い世間に、持ち上げられてお気楽に歌っているあんたとは立場が違うって言ってんだよ」と言うおミネ(田中麗奈)
「お気楽なんかじゃない!」「ワテかて必死や!」とスズ子は反論。自分がいかに不幸だったか語ります。

スズ子と街娼たちは、お互いの辛さを吐露し、あっという間に和解します。

ともすれば、街娼たちの悲劇を聞いたスズ子が、私のほうが不幸と、悲劇マウントを取ったようにも思えますが、決してそうではありません。それぞれの事情や心情を受け入れ合うことの大事さをここでは学ぶべきでしょう。

立場が違っても、それぞれが自分なりの悲しみを背負っているのです。

とはいえ、こんな簡単に和解するのなら、最初から、街娼たちは、スズ子の歌が好きで、元気になるのだという話でも良かった気もするのですが、ドラマには緩急が必要なのです。

女性の問題を一気に詰め込んだ回で、ひとつ問題が解決したら、今度は、すっかり弱ったタイ子(藤間爽子)がスズ子の前に現れます。なんというめぐり合わせでしょう、ガード下で靴磨きをしていた達彦(蒼昴)はタイ子の子供だったのです。

「なんで(こんなことに)」と心配するスズ子に、「スターさんには関係ありません」と激しく拒絶するタイ子。わかる。わかります。同じように子供時代を過ごしてきた友人が、スターになって輝いているのに、自分は貧しく、病気に罹って思うように動けない。こんな惨めな姿を見られたくないものです。

おミネたちも、タイ子も、山の上にいるスターと裾野を這いずっている自分たちは違うという、運命の格差の残酷さを恨みます。私だって不幸と言いつつも、ばかじゃないから、自分がかなり恵まれていることは実感しているはず。そんなとき、スズ子はどう対応するのかーー。

なかなかデリケートなところに踏み込もうという意気込みは良しとして、戦後、苦しい生活を余儀なくされている女性たちの生活をドラマ全体の主題ではなく、ワンエピソードとして短時間で描くのはなかなかの勇気と手腕が必要です。

そこはベテラン脚本家の櫻井剛さん、一話完結の連ドラを書くような手付きで、手堅く要素をまとめあげます。この期間で、これとこれとこれを用いて、戦後の女性たちの生き方をテーマに、一週間分の脚本を書いて、というオーダーに必死に応えた成果なのではないでしょうか。

どんなときでも、笑って歌うことで福を呼ぶーー福が来るで福来スズ子、と母ツヤ(水川あさみ)がつけてくれた芸名に託された希望も、ここで改めて語ります。

【朝ドラ辞典:夜の女(よるのおんな)】

明治〜昭和の戦後を舞台にした朝ドラでは、生活苦から、夜の女に身を落とす登場人物が描かれる。
たいていは、ヒロインの前に、親しかった人物が変わり果てた姿になって現れ、ヒロインが胸を痛める展開に。「おしん」では親友・加代があやしい店で客をとっていて、病気になり死亡、残された子供をおしんが引き取る。「カーネーション」ではパンパンになった親友・奈津に糸子が手を差し伸べる。「べっぴんさん」ではお嬢様だった悦子様が戦争で没落し、子供を養うために水商売をしていたが、大急百貨店の小山と再婚し再起する。
ヒロインは恵まれている分、世の中の不幸な人たちにも目を向け、できるかぎりのことをするという
道徳的な展開になっている。
類語:パンパン、街娼、夜の蝶、水商売

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第95回のレビュー}–

第95回のレビュー

スズ子(趣里)タイ子(藤間爽子)との再会は悲しいものになりました。
かたや、国民的人気歌手になり、かたや、貧しく、病にかかり寝たきりで息子に働かせている。
だから、タイ子は、スズ子のことを知らないと言い張ります。

いったんはそのまま帰ったスズ子でしたが、また、達彦(蒼昴)に靴磨きを頼みます。
このとき、愛子はいません。誰に預けたのか。やっぱり山下(近藤芳正)なのか。

靴磨きをしてもらいながら、タイ子の夫や親戚が戦死して、母一人子一人であることを知るスズ子。

何年も会ってなかったけれど、スズ子はすぐに前の関係に戻れるのです。何年も会ってなかったけれど、困っているタイ子を放ってはおけません。

「タイ子ちゃんは福来スズ子の生みの親や」と達彦に言うのは、ほんとうにそう思ってもいるでしょうし、達彦を元気づけたい気持ちもありそう。母親が病気で何もできずにいるのではなく、いまをときめく福来スズ子の恩人で、すごい人なのだとわかれば、ちょっとは気持ちも上向くでしょう。

スズ子は、おミネ(田中麗奈)に相談。おミネの話から、自分のちからで生き抜きたいという気持ちに寄り添うことが大事と感じたスズ子は、パンパンたちを靴磨きの客として紹介します。

以前、達彦の売上を奪った少年たちは、おミネが撃退。今日も田中麗奈さん、かっこよかったー。

過去最高の売上をあげた達彦が意気揚々と帰宅すると、タイ子はお金の出処を疑います。そっと様子を伺っていたスズ子は辛抱たまらずタイ子の前に。

タイ子の「こんな不幸のどん底にいてんのに聞こえてくんねん。どこにいたかて、あんたの『ブギウギ』言う歌が」という涙声が胸に響きました。つらい。

タイ子はスズ子の原点で幼馴染とはいえ、登場回が少なく、彼女のことを、すっかり忘れていた視聴者もいたようです。なにしろ、最後の登場は第40回。ツヤ(水川あさみ)が亡くなってお別れ会のときです。このとき、出張のたびに呼んでくれたお客さんと結婚して東京に行くから「東京でまた遊んでね」と言っていました。

結局、お互い、東京で1回も遊ぶことはなかったようです。

タイ子がなぜここまでスズ子を拒否するのか考えるうえで、重要な点があります。

タイ子は芸者の子供で、若干、世間から引け目を感じながら生きていた人物です。お父さんは、たまに家に来るだけです。つまり妾的なものだったのです。それでも、タイ子の母も彼女も、芸で身を立てるのだという矜持を持って生きていました。

そしてタイ子はお客に身請けされました。東京での結婚生活が、幸福だったでしょう。その夫が戦死ーー。タイ子も体を壊して思うように働けなくなってしまった。そんなつらい生活に「東京ブギウギ」が応援歌のように流れてきても、どん底のタイ子には、励まされるどころか惨めになってしまう。勝手に想像すると、恵まれない環境でも前を向いて生きてきたのに、結局、自分は不幸になってしまった絶望に苛まれ、愉快に歌っているように見えるスズ子が、まぶし過ぎて辛い。

当時「東京ブギウギ」で救われた人たちがたくさんいた一方で、歌なんかで救われないと思っていた人たちもいたでしょう。素敵な歌でみんな元気に復興、という短絡的な展開にしない配慮を感じます。

達彦の売上を巻き上げた少年たちにも、スズ子は「みんな生きるのに必死や」と理解を示しています。
彼らのことも一方的に悪者にはしていないのです。

ただ、ひとつ気になったのは、達彦のところにパンパンたちが群がって、ほかの靴磨き少年たちの仕事があがったりになってしまっていたことです。平等って難しい。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第96回のレビュー}–

第96回のレビュー

「あんたのブギウギ言う歌が」とタイ子(藤間爽子)から「東京ブギウギ」を忌々しいもののように言われてしまったスズ子(趣里)

華やかなスポットライトを浴びているスズ子に比べ、自分が惨めで恥ずかしいという悲しむタイ子に「恥ずかしない」とスズ子は言い切ります。

ひとりで達彦(蒼昴)をこんなに立派に育てたのだからと。たしかに、達彦はとてもいい子。こんな荒んだ生活のなかで、母を助けて懸命に働いています。

 スズ子が達彦に注目するのは、愛子の育児に悩んでいるからでしょう。日々、愛子を育てるのにいっぱいいっぱいになっているからこそ、タイ子の大変さがわかるし、尊敬もする。愛子も達彦みたいに育ってほしいと思ったでしょう。特殊な能力による職業ばかりが立派なのではなく、母や専業主婦だってすごく立派なのだという作り手の気配りを感じます。

 「義理返させてねえな」とスズ子。少女の頃、義理と人情を大事にしないといけないと母ツヤ(水川あさみ)から習ったスズ子は、タイ子の初恋に協力しようとして余計なことをしてしまったのですが(第2話)、長い年月をかけて、ついに義理を返すことができたということです。初恋の人のなまえ(松岡)をスズ子はすっかり忘れていましたが(第95回)。

 転校してきたとき、はじめに声をかけてくれたタイ子、歌や踊りを職業にすることを教えてくれたタイ子。おせっかいだけどそれが役に立つこともあるとスズ子の個性を認めてくれたタイ子。その恩を返すことができたのです。義理とは、恩返しするというような世の道理のことです。

この感動パートをアヴァンで描ききってしまう脚本家・櫻井剛さんの手際の良さに舌を巻きました。

 診察の結果、病気は脚気。ものすごく悪い病気じゃなくてよかった。結核じゃなくてよかった。

 全て丸く収まったのは、おミネ(田中麗奈)の助言があってこそ。おミネは施しを受けずに自力で生きていくための職業訓練高校をつくるのが夢だと語ります。スズ子がなにか協力したいというと、あんたのできることは歌だよと、おミネ。

史実では、スズ子のモデル・笠置シヅ子さんはおミネのモデルらしいお米さんの厚生施設づくりの夢に協力したそうです(砂古口早苗による評伝「ブギの女王・笠置シヅ子のズキズキワクワクああしんど」より)。

 いろいろ問題が解決し、スズ子はやる気になって、羽鳥(草彅剛)の元へ。

話を聞いた羽鳥は「ジャングル・ブギー」を一気呵成に書き上げます。

映画監督からもらっていたぶっ飛んだ歌詞に曲をつけたのです。これは、史実では、巨匠・黒澤明監督で、映画は三船敏郎主演の「醉いどれ天使」です。笠置シヅ子はこの映画に出て、「ジャングル・ブギー」を歌っています。

 「ジャングル・ブギー」は女性が猛獣のようになって大暴れするイメージの曲。女性のたくましさを歌ったものです。まさに魂の叫び、野生の解放という感じで、血湧き肉躍ります。趣里さんは、獣というよりは、魔女のような雰囲気の衣裳とメイクで妖艶に歌い踊りました。

 会場には、おミネやパンパンたち、タイ子と達彦も来ていて、楽しみます。おミネたちはノリノリで立ち上がって踊りだすほどですが、タイ子や達彦はびっくりしたのでは……。いや、タイ子も芸者だったから、ときには羽目を外して踊ることにも躊躇はないかも。

 【朝ドラ辞典2.0 ロングパス(ろんぐぱす)】
ネット用語で、伏線を回収するまでに、長い期間をかけること。
最終回の頃に、初期(子供時代など)のすっかり忘れていた出来事が出てきて物語に重要な役割を果たすと大いに盛り上がる。
 
【朝ドラ辞典2.0 倉庫(そうこ)】
一部で使用されているネット用語で、登場人物が役割を終えて出てこなくなることを「倉庫に入った」という。
しばらくしてまた必要になると「倉庫から出す」という。都合よく出入りすることを
揶揄した用語。再び登板する人物はいいが、倉庫に入ったきりの人物も少なくない。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第97回のレビュー}–

第97回のレビュー

第21週「あなたが笑えば、私も笑う」(脚本:櫻井剛 演出:盆子原誠)は昭和24年(1949年)の夏。

スズ子(趣里)の仕事は順調で、映画の仕事も入ってきます。が、愛子(小野美音)はやんちゃ盛りで家でも仕事場でも落ち着きがありません。かなり大きく成長したように見えますが、「ジャングル・ブギー」が1948年の作品なので、愛子はまだ2歳くらいです。

家では、障子に穴を開けたり、小麦粉を頭からかぶったり。スズ子は困りつつも、頭ごなしに叱ったりはせず、愛情を注ぎます。相変わらず、他人に任せることなく、自分で育てたいと意地を張っています。

手伝えるのは、山下(近藤芳正)のみ。こんなときこそ、先週、再会したタイ子(藤間爽子)達彦(蒼昴)と仲良くして協力してもらえたりしないのでしょうか。ところがタイ子は大阪に帰ることになりました。この時代に珍しく、向こう三軒両隣的なつきあいが皆無なのは、やっぱりスターだからでしょうか。

いつも親切な麻里(市川実和子)が預かりましょうか、と言っても頑なに頼らないスズ子。
羽鳥(草彅剛)は「青い山脈」(49年)という映画の主題歌が大ヒット、一層多忙になっていました。以前、群像劇の主題歌を依頼されていましたが、それはこの「青い山脈」だったのです。原節子主演の青春群像劇であります。

翌、1950年から日本映画は黄金期を迎えますので、羽鳥やスズ子が映画に進出していくのも自然な流れ。
スズ子は、タナケン(生瀬勝久)との共演の人情喜劇の時代劇『タナケン福来のドタバタ夫婦喧嘩』の撮影に愛子を連れていきます。撮影中は山下に見てもらいますが、山下も年齢的に、元気な子供の面倒を見きれないようで……。スター福来スズ子のために撮影所の人たちも手伝うことになります。

はじめての映画の現場で勝手もわからないうえ、撮影所の人に負担をかけるのだったら子守を雇ったほうがいいのでは……と思うのは気のせいでしょうか。結局、愛子は現場で動き回って、皆が目を離したすきにケガしてしまいます。そして、スズ子は撮影を中断して愛子の元へ――。

ふつうに考えたらこんなことにならないだろうと視聴者をイライラさせるイライラエンタメになってきました。イヤミスみたいなもので、負の感情でも心が揺さぶられるほうがいいのです。だから、スズ子が知恵もお金も使わない、意地っ張りの不器用な、素朴な人として描かれます。

条映撮影所とは、「カムカムエヴリバディ」に出てきた映画の撮影所(ロケ地は東映京都撮影所)。三代目ヒロインひなた(川栄李奈)の勤務先でした。この時代なら初代モモケン(尾上菊之助)がいそう。個性的な監督がいるのも条映ならではなのか、見た目は派手なのに気が弱そうな監督(レ・ロマネスクTOBI)が、タナケンに「監督、声出せよ」と言われていました。

タナケンとスズ子の丁々発止のやりとりはテンポが良くて、楽しめます。タナケンが再登場してくれてよかったー。

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–{第98回のレビュー}–

第98回のレビュー

「苦労も努力も関係ない。つまらんものを見せたら最後、そっぽをむかれてしまいだよ」
(タナケン)

スズ子(趣里)の仕事中、愛子(小野美音)がケガをしました。
幸い大事に至りませんでしたが、撮影を止めてしまい、タナケン(生瀬勝久)はスズ子に、彼女が子育てに忙しいという事情など、観客には関係ないのだと厳しく助言します。

その言葉が響いたのかどうか、結局、スズ子は愛子に振り回されっぱなし。
それを見たタナケンの表情は険しかったように感じます。

育児も仕事も大事で、両立したいという気持ちは尊重すべきです。が、芸の道はまたちょっと違っていて、一般的な、仕事も結婚も子育てもすべてやりたいという願望が満たされるものではないのです。なかには、満たされるような仕事の仕方を選択する人もいます。でも、結婚も子育ても、なんなら介護も捨てないとやれない仕事もあるのです。

厳しいタナケンが、私生活を捨てて芸一本なのかはわかりませんが、芸一本の人がいます。
茨田りつ子(菊地凛子)です。未婚で出産し、その子供を実家に預け、ひたすら仕事をしています。歌以外で声を使いたくないように気をつけていて、自伝執筆の仕事が来ても、歌を優先しています。

一方、スズ子は、仕事と子育てを両立していることで、街娼たちからも共感と支持を得ていて、ここまではうまくいっていました。

仕事も私生活も諦めないスズ子と、私生活を捨てているりつ子。この対比に目をつけたのが、「真相婦人」記者の鮫島(みのすけ)。りつ子を挑発し、スズ子への宣戦布告のような記事を書きます。

ブギはもう終わり、つまり、ブギに頼っている福来スズ子はもう終わり――今の言葉で言うと「オワコン」とりつ子が言ってるかのような大げさな文言です。でもスズ子は経験者ですから、鮫島があることないこと書いたに違いないと最初は思いますが、鮫島は口八丁手八丁。まんまと乗せられて、りつ子と対談することに……。

「あれ」と我に返るスズ子で「つづく」になる流れは、愉快な連続ドラマ『スズ子さん』といった雰囲気。15分の短期間にほのぼの笑えるライトなドラマを狙った作品は過去にも「とと姉ちゃん」や「まんぷく」「エール」などがあります。

著名な実在する人物をモデルにして、その人が歴史にも残っている偉業を成し遂げる大きな流れのなかにちょいちょいライトなコメディを挿入し、主人公をキャラとして定着させる構成です。

「まんぷく」は安藤サクラと長谷川博己の芝居と、月9や大河も手掛けた福田靖の脚本で、福子と萬平をキャラ化もできたうえに、テーマもきちっと書け、楽しくまとまりましたが、「とと姉ちゃん」は、軽すぎると、丁寧で上品な生き方を好む「暮らしの手帖」ファンに物足りなさを感じさせ、「エール」は本編の途中にスピンオフが入るなどして、古関裕而の歌のドラマをもっと見たい層を戸惑わせました。

「ブギウギ」もスズ子を”スズ子さん”にしたかったのだと感じます。が、実在する人物を漫画やアニメのようなキャラ化するのは簡単そうで難しい。その人の真面目な面が世の中に浸透しているからです。

おそらく、鮫島は、キャラドラマなら、「ゲゲゲの鬼太郎」でいったら、ねずみ男的な存在でしょう。いつでも鬼太郎の邪魔をするズルいやつですが、なぜか憎めないキャラに鮫島もなり得るはずなのですが……。

オリジナルのキャラを作るのは難しいので、著名人をお借りしてキャラ化して、ライトなドラマを作ることはトライだとは思うし、実際「まんぷく」は成功したのですから、幅広い人に愛されるドラマをこれからも試行錯誤しながら作り続けてほしいものです。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第99回のレビュー}–

第99回のレビュー

「続けるしかない。邪魔されようが誤解されようが芸で伝えるしかない。生き方でわかってもらうしかないんだよ。歌手も役者も」
(タナケン)

第98回に続いて今日もタナケン(生瀬勝久)が名言ぽいことを言いました。

「真相婦人」の記者・鮫島(みのすけ)の策略で、スズ子(趣里)茨田りつ子(菊地凛子)と対談をしましたが、逆に喧嘩のようになってしまいました。

歌一本で頑張っているりつ子には、スズ子が歌、映画、育児とあれもこれもやっていることが理解できないようです。対立するふたりをさらに煽ろうと、鮫島が余計なことを言うものだから、スズ子は思わず声を大きくし、つられて愛子(小野美音)が泣き出し、対談は途中で終わってしまいました。

たぶん、見ている人の誰もが思うことでしょうけれど、対談の場に、子供を同席させないでしょう。和気あいあい、子育て、私生活を語る対談だったらまだしも、スズ子はりつ子の誤解を解きたいと思って対談をすることにしたわけで。

しかも、子供を実家に預け、仕事一筋にしているりつ子のことを思えば、対等に話す対談に子供は同席させないという配慮もあるべきではないのかなとも思います。

ただ、「ブギウギ」の場合、「リアリティライン」を低めに設定してあると認識できれば、対談に2歳の幼児を同席させることも許容できるのです。「リアリティライン」とは文字通り、リアリティ、あるいは説得力のハードルの高さです。例えば、ファンタジー要素多めなら低く、なんでもありとなり、高めなら、ファンタジーぽい要素は排除されて、いかにリアルかが問われます。

「ブギウギ」は実在したモデルがいて、一部、史実も取り入れているため、リアリティラインが高いように錯覚しがちですが、そうではありません。そのことは、実は前半でしっかり宣言されていたのです。え、ほんとに? いつ? と思ったみなさん、思い出してください、「桃」を。

前半、スズ子が病気になって寝込んでしまったとき、季節外れの桃をねだりました。そのとき、奇跡的に手に入った桃は、ツヤ(水川あさみ)が危篤のときにも登場し、一瞬ツヤが元気になりました。

ファンタジックなエピソードによって、「ブギウギ」はリアリティラインの高い物語ではなく、ファンタジー寄りになっていたことが、おそらく、ほとんどの視聴者には伝わっていない。それがこのドラマの残念なところです。

たいていの人が現実的な物語だと思って見ているため、6歳の子役が2歳の役を演じていることの不自然さ、その子をやたらと仕事に同行させて、周囲に迷惑をかけるもやもや、スズ子が歌にたいしてどの程度、思い入れがあり鍛錬を行っているか本気度の曖昧さが気になってしまう。が、魔法の桃が出てくる物語だと思えば、すべてが淡く描かれていても問題ないのです。

さて、ドラマの話しに戻します。
対談は途中で終わってしまいましたが、記事はスズ子とりつ子が大バトルしたような内容に創作されて
雑誌が発売されてしまいます。

いまは、原稿チェックさせないのは権威ある新聞くらいですが、この時代はどこもチェックのない時代だったのでしょう。

りつ子にブギはもう終わり、と言われたスズ子は、新曲もブギで勝負しようと奮起します。はたして、スズ子は、歌を、ブギを、まだまだ続けていけるのでしょうか!

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第100回のレビュー}–

第100回のレビュー

「ブギの人気だってすぐに終わるわ」とりつ子(茨田りつ子)に指摘されたスズ子(趣里)は、あえてブギで勝負したいと、羽鳥(草彅剛)にブギの新曲を頼みます。

最初、羽鳥はブギではない曲を考えていましたが、スズ子の思いに刺激され、やっぱりブギで勝負しようと考えます。そうして、誕生するのが「ヘイヘイブギー」。「ヘイヘイ」とノリノリの羽鳥がユーモラスでした。

史実でも「東京ブギウギ」「ジャングル・ブギー」などがヒットしたあと、ブギ流行りになりました。
1948年(昭和23年)、スズ子のモデル・笠置シヅ子は前年発表した「東京ブギウギ」が大ヒットし、4月に映画「醉いどれ天使」が公開、そこで「ジャングル・ブギー」を披露。そのあと、自伝「歌う自画像」を出版。そして「ヘイヘイブギー」を発表します。そのとき、笠置は34歳でした。

自伝や、評伝などを読むと、48年が笠置ブームのピークで、そのあと、ブギを笠置のみならず、多くの歌手が歌うようになり、空前のブギブームがやってきて、やがて、ブームが終わっていきます。

笠置の自伝のまえがきには、自分の意志を離れて世間のイメージが先行してしまうことへの戸惑いのような感情が記されています。マスコミなどが書いた自分はほんとうの自分ではないというようなことも書いてありました。「ブギウギ」の鮫島(みのすけ)はここから生まれたキャラクターでしょう。

歌と踊りの、日本人離れしたパワフルさや、楽曲の陽気さから、そういう人と思われがちながら、ふだんからそんなに弾けているわけではなく、人見知りもするし、生い立ちには暗いものがあり、愛する人にも先立たれたシングルマザーという身の上。明るさの裏側の影なる部分が自伝には書いてあり、ドラマは、できるだけそちらを大事にしようと考えたのだと思われます。

だから、スターなのだから、すぐに家政婦も雇えるはずなのに、まわりに迷惑がかかっても家政婦を雇う決断ができず、2歳児を抱えて仕事をし続ける迷走したヒロインという、極端な描写に走ったのかもしれません。

でもそれもようやく終了。鮫島のウソに騙され、スズ子が人気にあぐらをかいていると思い込んでしまったりつ子が、真実を知り反省し、お詫びなのか、家政婦・大野晶子(木野花)を紹介します。

りつ子と同郷の東北の人、大野。この人によって、スズ子の生活が一変しそう?

第100回で最も印象に残ったのは、りつ子のセリフ。

「あんたら人気商売だろう 話題にもあがらなくなったら終わりですよ」と鮫島に憎まれ口をたたかれたりつ子が返した言葉がこれ。

「上等じゃない。人気が欲しくて歌ってるわけじゃない。客なんてひとりでもいいのよ。たったひとりでも一生忘れられない歌、聞かせてあげるわ」
(りつ子)

茨田りつ子の歌への想いが現れていました。人気やお金が欲しくて歌っているわけではない。
戦争中の彼女の態度もそうでした。彼女は、自分の信念を歌っているのです。

タナケン(生瀬勝久)もそうで、自分の芸に厳しいのは自分に厳しいことです。

では、スズ子はどうでしょう。スズ子は、自分の芸に関して論じることはまったくありません。歌の何が好きなのか、なぜブギをもっと歌いたいのか、はっきり言葉にしません。

スズ子は羽鳥にもらった「ヘイヘイブギー」を「あんたとマミーの歌やで」とただただ目の前にいる愛子(小野美音)しか見えていないのです。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第101回のレビュー}–

第101回のレビュー

りつ子(菊地凛子)の計らいで突如現れた家政婦・大野晶子(木野花)は朝6時から来ておいしそうな朝食を作ってくれます。

いい匂いで目覚めたスズ子(趣里)の表情は、いつだったかの、麻里(市川実和子)が一日、家事を代わってくれたときの表情と似ていました。

久しぶりに、自分でやらずとも誰かが作ってくれた家庭の温もりに浸れる安心感や喜びに満ち、肩の力が抜けた表情でした。

愛子を残して、試写会と打ち合わせに向かうスズ子。たしかに、試写会に愛子がいたら、途中でぐずって、映画がちゃんと見られないでしょう。連れていかなくてよかったと思います。大野の現れたタイミングがよかった。

映画の出来が良かったので、タナケン(生瀬勝久)も上機嫌で、撮影中のスズ子の問題(愛子にかまけて撮影に穴を開けた)は「そんなこともうみんな忘れてるよ」と水に流してしまいます。

さすが、実力勝負の人。私生活や性格なんて関係ない。芝居が巧くて面白ければいいのです。でもそういう実力至上主義がハラスメントにもつながるわけで、現代社会では通用しなくなっていますが。タナケンだって、舞台稽古のときは、けっこうハラスメント的な言動をしていましたから。

条映での試写会のあと、コロンコロンレコードで打ち合わせが予定されていましたが、置いてきた愛子のことが気になって、スズ子は打ち合わせを山下(近藤芳正)に任せて帰宅。すると――。

愛子はおとなしく、洗濯物をたたむお手伝いをしていました。
そして、ほったらかしにしていた破れ障子もきれいに張り替えられていて……。

「女の子だもの お花の障子は破きませんよ きっと」
(大野晶子)

大野さんのアイデアは素敵でした。現代的な感覚だと男の子にもお花の障子を破かない子はいる、と言い出す人がいそうで、「女の子は」と分けづらくなっていますが、女の子はかわいいものが好き、お花が好き、というやさしい感覚はなくしたくないものであります。そこは、かわいいものやお花が好きな人はいる、というふうになるのでしょうか。

そういえば、壁掛けの花瓶にも大野さんによってようやく花が活けられています。かつて、愛助(水上恒司)がいた頃は、花が絶えなかった家ですが、亡くなってからは花が飾られることがなくなっていました。

安定した感情でやさしく接すると、子供も安定してやさしくなるようで、結局、スズ子が焦っていたため、愛子も不安定になってしまっていたということでしょう。いまやもう全然表情が違います。

スズ子は愛子の激変に感動し、家が落ち着いたことに心から安堵し、大野さんに感謝し、彼女に任せようと決意します。

「ずっとひとりでがんばってきたはんでね。これからが私がいます。頼ってけ」とスズ子をやさしくねぎらう大野さん。
ここまで長かった――。長すぎた――。

そして出来上がった「ヘイヘイブギー」は、スズ子にとっては愛子への歌になったのです。

「あなたが笑えば私も笑う」というサブタイトルにもなっている歌詞の「あなた」は、「愛子」のこと。
芸に人間性が出るというタナケンの言葉のように、「ヘイヘイブギー」にはスズ子の母の愛がこもったのです。でも、羽鳥(草彅剛)は恋の歌と思って作ったようなのですが。実は、母の歌だったという、
意外性の物語でした。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第102回のレビュー}–

第102回のレビュー

花田家に新しい一員が。家政婦の大野晶子(木野花)さんです。よくできたかたで、なかなか他人に愛子(小野美音)を任せることができなかったスズ子(趣里)も、大野さんには委ねることができました。

大野が来て半年。すっかり楽になったスズ子は、紹介してくれたりつ子(菊地凛子)に礼を言いに行くと、りつ子の口から大野の痛ましい過去が語られます。

明るくしっかり者に見えた大野でしたが、戦争で天涯孤独になっていたのです。
激しい空襲で孫の手を離してしまった記憶がいまも大野の脳裏を時々よぎるようなのです。

ぼうっとしている大野のアップが映ります。でもその横には、愛子が。幼い少女と一緒にいることが大野の心を癒やすようです。

スズ子のなかの空洞をりつ子が察し、同じように空洞を抱えた大野に引き合わせることで、お互いの穴を埋めることができるのではないかというはからいが成功しました。

大野のおかげで愛子は嫌いな人参を食べられるようになりました。
大野の作った漬物は美味しい。手に秘密があるのかなと、スズ子は大野の手に触れます。それは、孫の手を離してしまった手です。

そして、スズ子と大野と愛子が三人で買い物に行くとき、三人は手をつなぎます。すれ違った人が三人を家族と勘違いします。

失くしてしまった手の先がもう一度戻って来ました。

スズ子の家庭生活があたたかくなったところですが、仕事のほうでは悩みが。
次なるヒットを期待されていますが、なかなか「東京ブギウギ」を超えるヒットが出ません。

「自分と競争させられているみたいでんな」と困惑するスズ子。
「ずっと気持ち良う歌ってそれをお客さんに楽しんでもらってきただけやのに」というスズ子に、それが「福来スズ子」だと山下(近藤芳正)は励まします。

スズ子のモデルである笠置シヅ子がどうだったか正確なところは自伝や評伝を読んでもわかりませんが、庶民的な雰囲気で、生真面目で、でも歌って踊ると何かを超越したような独特のものを発揮し、人々を魅了する、というところでしょうか。

福来スズ子の、ふだんは普通だけど、ステージに立つと人々を魅了してしまう不思議な力を感じるには、趣里さんが主演した映画「ほかげ」を見ると補完されるでしょう。
戦争で何もかも失った主人公に残された、ただ生きるための獣性のようなものを、趣里さんが力強く演じ、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を受賞しています。

大野さんとの家族愛、スズ子の仕事の悩みの2本を15分の間にうまくまとめ、
かつ、タナケン(生瀬勝久)のアクシデントで次回に引っ張る。よくできた回です。

大野の事情に関しても、唐突に空襲体験を出してきたなあとも思いましたが、それをまず知って大野を雇う気持ちになるのでは、彼女への同情のようになってしまいます。まず彼女の家政婦としての実力や人間力にスズ子が参って、そのあと、実は……と裏話が明かされ、ますます信頼感が深まるという、考え抜いた構成なのでしょう。櫻井剛さんのいい感じにまとめる才能が遺憾なく発揮された一編です。

しかも、なんでスズ子はりつ子の楽屋に何ももっていかず、逆にドーナッツをごちそうになるのか、とか、タナケンが舞台でケガしたら、週刊誌よりも業界ですぐに話題になるだろう、ましてスズ子の耳にはすぐに入ってくるだろうというような、ドラマ小姑向けのツッコミどころもたっぷり用意してくださっています。第22週「あ〜しんど♪」(脚本:櫻井剛 演出:小島東洋)の見事なはじまりです。今週も楽しく!

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–{第103回のレビュー}–

第103回のレビュー

「真相婦人」に掲載された、タナケン(生瀬勝久)がケガをして公演が中止になったという記事を読み、スズ子(趣里)山下(近藤芳正)と入院先に見舞いに行きます。

朝ドラ名物・立ち聞き――スズ子は病室の前で、タナケンがマネージャーに大声を出しているのを聞いてしまいます。

いつもクールで斜に構えていたタナケンが、まっすぐ熱く、動けない自分の焦燥感を語ります。

以前、舞台装置の下敷きになって負傷した足を騙し騙しやってきたのが、とうとう悪化してしまい、復帰してもいままでのような動きはできないと医者に言われてしまったタナケンは、いても立ってもいられない様子です。

スズ子はいまはゆっくり休むべきと思いますが、タナケンは、そんなことをしたらすぐに忘れられてしまう。空いた椅子には別の者がすぐに座る。代わりはいくらでもいる。それが業界の常だと達観しています。

待っていてくれるお客様を喜ばせたい。でも、体はもう動かない。さぞ辛いことでしょう。

でも、「やぶ医者め」と自分を鼓舞し、「見事に復活してみせる」とスズ子の見舞いの林檎を力強くかじります。

たくさんの人を笑わせたいという大きな欲望は、演劇というものに対する強い思いの現れですが、りつ子(菊地凛子)のように、お客さんがたったひとりでも感動させる、という考えとは違っていて、たくさんの人に笑ってほしいという欲望がタナケンのなかでは大きいのです。

絶望と焦りと、それでも負けたくない克己心。いろんな感情がないまぜになって制御できなくなっているます。タナケンのいつもの冷静さを失っている感じが伝わってきました。

それだけ演劇に心血を注いできたのです。たくさんの人に支持されてきたのに、急速に離れていかれる怖さ、孤独になることへの恐れ。芸術とビジネスとの矛盾も抱えているのが、芸能を行う人達の業です。業界歴の長い、山下はそれを理解しています。

スズ子もいまや「ブギの女王」として大スターで業界の荒波に揉まれているはずですが、楽しく歌っているだけでここまで来た彼女にはまだタナケンのような感情がわかっていないようです。

いや、スズ子だって、声のケアや、身体のケアは、絶対にやっていると思いますし。それこそ、産後、体型や体力を戻す努力などは大変だったでしょう。「ワテかて必死や」というセリフもあるように、必死に芸を磨いていると思うのですが。

タナケンの気迫に刺激され、スズ子は羽鳥(草彅剛)の自宅を訪ね新曲の相談をします。羽鳥も、純粋に音楽のことだけ考えていられた頃を懐かしんでいました。

誰もが最初は、好きなだけではじめたものが、いつしか、ビジネスの大波に飲まれて、好きなだけではやれなくなっていく。その悩みを、タナケンもスズ子も羽鳥も抱えています。

大野(木野花)に頼まれた買い物をして帰ってきたスズ子に、さらに驚きの報告がもたらされました。トミ(小雪)が……。

楽しいことばかりは続かず、つらいことがどんどん押し寄せてきます。ケガや病気や災害や戦争、死と人間には限界を痛感させられる出来事がたくさんあります。それにどう対処したらいいのか、どうするスズ子。

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–{第104回のレビュー}–

第104回のレビュー

トミ(小雪)が亡くなりました。
愛子(小野美音)が生まれてすぐ、スズ子(趣里)を訪ねて来てから、ずっとご無沙汰していたようで、葬儀に愛子を連れて参列したスズ子は、もっとしゃべりたかったと惜しみます。

結核を患っていたようで、トミは会うことを遠慮していたのかもしれません。
結核といえば、愛助(水上恒司)
トミはマスクもしないで、つきっきりで看病していたので、感染したのかも。

そう思うと、スズ子は丈夫だし、恵まれています。

久しぶりに登場した坂口(黒田有)が、すっかり気の抜けたような表情をしていて、ずっと気を張ってトミに尽くしてきたのだなあと思わせました。「ブギウギ」の収穫のひとつに、黒田有さんの演技力を知ったことがあります。

東京に戻ってきたスズ子に、羽鳥(草彅剛)が新曲「買物ブギ」を届けます。
スズ子が訪ねて来たときに、買い物カゴをぶら下げて、にんじん、ごぼう……と買うものを懸命に記憶しようと繰り返していたことから発想が生まれたのです。

史実では、モデルの服部良一は落語から発想を得たようです。

その歌は、大阪のノリが色濃く、今まで以上に難しい。「ややこし、ややこし」とスズ子は、珍しく、譜面に赤鉛筆でチェックを細かく入れて、練習に励みます。

第103回でタナケン(生瀬勝久)の舞台に賭ける激しい情熱に感化されて、「負けていられない」と言っていたので、その影響かもしれません。いや、これくらいは、皆、いつもやっていることだと思うのですが……。

音楽に関しては筆者は専門ではないのですが、俳優の場合、台本にチェックを細かく入れるのは若い人には多いようです。以前、キネマ旬報で映画に関するインタビューをしたとき、草彅剛さんもはじめの頃は台本に書き込みをしていたらしいです。だんだんそういうことはをしなくなって、その場で感じたことを表現するようになったとか(大意)。
また、沢口靖子さんは台本に付箋がびっしりついているとか。

逆に台本はそのままきれいな人もいるようです。

そういう感じで、人それぞれだし、キャリアがあがると取り組み方も変わっていくことはあるようです。鍛錬の仕方は人それぞれで、大事なのは、常にルーティーンにならないように、新鮮な気持ちで仕事に取り組むことができるように心がけることなのではないでしょうか。

ワンマンショーに向けてはりきるスズ子に、山下(近藤芳正)が辞めると言い出します。トミが亡くなって彼もまた気が抜けてしまったようです。

愛助にべったりでトミに首にされたようですが、トミ、愛助と二代に渡って村山興業に尽くしてきて、自分の仕事はもう終わりと思ったようです。

スズ子に尽くしてきたのも、結局は、村山家への忠誠心だったのかもしれないです。

トミの祭壇の前で、ひとり佇む山下の背中のカットが、山下の長い道のりと、そうして歩んで来た「心の糸が切れた」様を表しているようでした。また、たくさん集まった記者を抑える手際はよくて、山下のキャリアの長さと敏腕さを感じました。

スズ子は必死に止めますが、山下は聞かず、「わしらの時代は終わったんや」「スズさんはこれからの人と仕事をするべきだと思うんです」と言って、若い後継者として柴本タケシ(三浦獠太)を連れてきます。

ところで。この回、お葬式に記者がたくさん押し寄せていました。関西芸能界の大御所・村山トミが亡くなったこと、生前、ひっそりと関わりのあった福来スズ子が葬儀に現れたということで、大注目だったのでしょう。

でも、そこに鮫島(みのすけ)はいません。スズ子をあんなに追いかけていたのに。りつ子(菊地凛子)に「消えなさい」と言われてすごすご消えちゃったのでしょうか。それとも彼は、大勢の記者が集まる場には行かず、個人プレーの記者なのでしょうか。あー気になる。

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–{第105回のレビュー}–

第105回のレビュー

山下(近藤芳正)がスズ子(趣里)のマネージャーを辞めると言い、新しいマネージャーを連れてきました。

柴本タケシ(三浦獠太)は山下の親戚で、妹の息子でした。身内かい。

身内でも信頼できればいいですが、大学出ではあるものの、実績も経験もなく、
「やる気はある」「あいつやったらスズさんを支えてくれると思います」と山下は言いますが、逆に育ててくれという感じに思えます。

山下は最近は、愛子(小野美音)の面倒も献身的に見ていたので、好々爺という印象でしたが、そもそも、愛助(水上恒司)を甘やかして、トミ(小雪)に疎まれた人物で、単純に、実直で、勤勉で、優秀で、善人で、というタイプではありません。道楽者で、なんとなく調子のいい人であったのです。

第104回のシリアスな場面だけ見ると、そのことを忘れてしまいそうになりますが、第105回の、まだ何者でもない甥をスズ子に押し付けるいい加減さこそ、山下の真骨頂なのです。

未知数の人物が悪いわけではなく、何かを秘めている場合もあるし、これから成長していく可能性はあります。でも、どうやらタケシはとくに、芸能の仕事に興味があるわけでもないようで、そのうえ、おじさんに似たのか、調子がいい。そこが心配です。

歌に興味があると言いながら、羽鳥(草彅剛)に挨拶に行ったとき、どの歌が好きかと聞かれて答えられません。たぶん興味がないのです。
「一曲に絞るなんてとてもできません」とその場しのぎのことを言います。

このとき、羽鳥が「それは仕方ないよ。数えきれないほど作ってきたからねえ」と言って済ませてしまいます。タケシをかばったわけでもなく、天然なのでしょう。

タケシは、レッスン中に居眠りしてしまったりして、なんだかやる気が感じられません。スズ子は元々、山下が辞めることを肯定してないので、使えない若者に苛立ちます。

思えば、スズ子はこれまで、誰かに助けてもらうばかりでした。すごく恵まれていて、みんなが彼女に手を差し伸べてくれて、順風満帆でした。大事な人が次々死んでしまうとはいえ、羽鳥がいる限り、歌手としては困りませんし、山下が忠実に尽くしてくれていました。

羽鳥も「君はもう一人前だ」とスズ子に太鼓判を押したので(今更という気もしますが)、これからスズ子が、自分より若い者を引っ張っていく立場になるという流れなのでしょう。

「買物ブギ」をお披露目するワンマンショーに羽鳥が出られないということもあり、スズ子は、ほんとうにひとりで頑張らないとなりません。

ただ、タケシのいいところは、愛子のお守りには最適なところです。若くて体力があって、人も悪くない。

タケシの仕事はじめ、スズ子の家に迎えに来たとき、スズ子の家にある風見鶏が風に吹かれて向きを変え、新たなターンを思わせます。いいほうに向くといいのですが……。

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–{第106回のレビュー}–

第106回のレビュー

新しいマネージャー柴本タケシ(三浦獠太)がポンコツで、スズ子(趣里)は気が気でありません。

新曲「買い物ブギ」をワンマンショーに向けて仕上げないとならないのに、頼りの羽鳥(草彅剛)山下(近藤芳正)もいなくて、逆に、新人の面倒を見ないとならないなんて……。

考えてみたら、もう一人前とかいうのはさておいて、コンサートの前に、使えない新人マネージャーの補完をしないとならないなんて、冗談じゃない話だと思います。山下が急に倒れたとか五木(村上新悟)のように逃げたとかいうわけではないのですから、引き継ぎをするのはコンサートが終わってからが妥当でしょう。

そういう常識のない行為をしてしまうのが山下なのです。しかも、身内のプー太郎をスズ子に押し付けている。

タケシは最初は調子よく誤魔化していましたが、大学中退で、働いても続かない、夢中になれることが見つからない、さまよっている人でした。

スズ子は、はな湯時代から、アホのおっちゃんたちと仲良くしてきているので、
社会貢献しているしっかり者でなくても目くじらを立てることはありません。小夜(富田望生)に対してもかなり広い目で見ていました。困ったなあと思いながらもついつい面倒見てしまうのです。

結局、山下は、スズ子のそういうところに甘えたのでしょう。

おそらく、この時代の芸能界は、スズ子や山下に限ったことではなく、いまほどビジネスライクではなく、身内とか独特の人間関係などで成り立っていたと思います。

トミ(小雪)も、やたらと「家族」を強調していました。才能や実力以前に、家族になることで守られるという、独特のルールみたいなものが存在していたのです。身分制度が厳然とあった時代、そうやって、身分のかなり低い人達は仲間をつくって歌や踊りを見世物にしながら、生きていくしかなかった。大河ドラマ「光る君へ」の散楽の人たちみたいなものです。

明治時代になって身分制度がなくなると、芸能をやっていた人たちはスターとして、地位や名誉や財産が得られるようになり、立場が逆転していくわけですが、元はそういう感じなので、かなりラフな感覚な人たちもたくさんいるのだと思います。そこが良さでもあるのです。

エンタメとは、自分のいまある状況がどんなにつらくても、貧しくても、しがらみを忘れて、ひととき楽しむものです。

劇場とは、そこにいる人たちが立場なんて関係なく、フラットになって楽しむ場所。スズ子のモデルである笠置シヅ子さんはあらゆる境界をぶち破って、空間を祭りのような場所に変える力をもった逸材だったのです。つまり、スズ子もそうです。そうでないといけないのです。

新曲「買い物ブギ」をスズ子は全身全霊で歌い踊ります。日常のいろんな問題は微塵も感じさせず、ひたすら愉快に、明るく。

羽鳥(史実では服部良一)の作詞作曲した「買い物ブギ」は羽鳥が久々に音楽の自由を感じたというだけあって、意味なんてない、へんな歌です。

商品の羅列で、ややこしややこし、と理屈を破壊し、音楽と言葉の楽しさだけで満たされます。

スズ子のステージを見て大喜びするお客さんを見たタケシは、エンタメの仕事の意義を知り、自分もこの業界で頑張ろうと思うようになると、という筋書きです。

ワンマンショーの初日に寝坊して遅刻したタケシに、大野(木野花)が「正直にぶつかれ、ウソも誤魔化しもなく、正直にぶつかって一生懸命働け」と助言しました。

それでか、タケシは、スズ子に実は音楽にも興味はなかったと告白します。

スズ子の姿に、やりたいことがみつからなかったタケシも、芸能の世界の魅力に取り憑かれたことでしょう。

客席では山下が見ていて、頭を下げながらそっと席を立ちます。
できの悪い甥っ子もこれで安心と思ったのでしょう。

いや、彼は、トミたちの時代の人間なので、大阪芸能界のドンであるトミが亡くなったいま、自分たちのようなやり方の時代は終わったと思ったのかもしれません。ここから芸能がどんどん巨大ビジネスになっていくのです。

正直なところ、今週の脚本は、途中でちょっと気の利いたセリフを言ってまとめてしまう回が多く、それはまるで、歌が好きでもないのに好きだとうそぶくタケシのようでもありました。ここで決めセリフを言っておけば丸く収まるように見えます。確かにまとまっていますし、その手際はじつに見事です。でもそこに実がない。あるいは、ほんとうはそれを主題に描きたいけれど、説得力を持たすまで練ることができなかった、そんな感じがしました。なぜ、そうなっているのか、そこが知りたい。

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–{第107回のレビュー}–

第107回のレビュー

柴本タケシ(三浦獠太)がマネージャーになってから2ヶ月、花田家は、スズ子(趣里)愛子(小野美音)大野(木野花)、タケシの4人になりました。

第23週「マミーのマミーや」(脚本:足立紳)の時代は1950年です。

働き者でやさしいおばあちゃん、稼ぎ頭のお母さん、体力あるお兄ちゃん、すくすく育つ子供という感じで、にぎやかです。

タケシが若くて元気なので、子供を遊ばせてあげられるのがいい。お父さんがいない家なので、山下(近藤芳正)がタケシに代わったのは、こう見るといい判断だったように思えます。スズ子はタケシを「ター坊」と呼ぶようになっていました。

愛子のために、もっと広い家に引っ越すことにスズ子が決め、準備をはじめた頃、羽鳥(草彅剛)がアメリカ行きの話を持ってきます。

4ヶ月、アメリカで、巡業。歌手としては腕試しの絶好のチャンス。ですが、問題があります。愛子を連れていくことができないのです。

当然ながら、愛子はスズ子が自分を置いてアメリカに行くことを認めません。
いつも頼りになる大野さんもこればかりは、容易に自分にまかせて「いってらっしゃい」とは言えません。

大野と愛子がどんなにうまくやっていても、愛子の母はスズ子しかいない。それでもアメリカに行くべきか、悩んでいるうちに、タケシからアメリカ行きの話を聞いてしまった愛子は激しく泣きじゃくります。この回、愛子のぐずる演技が迫真でした。

アメリカで歌手として成長したい欲望と、歌手である前にふつうの母でありたいという思いの間で葛藤するスズ子。

そんなとき、麻里(市川実和子)が、
「あなたは母であると同時に、歌手福来スズ子なんだから」と背中を押してくれました。

そう言ったあと、「ごめんなさいね、うるさいおばさんで」と断る麻里。

スズ子がアメリカ行きを決心したことを聞いた大野は、愛子をちゃんと説得するように言ったとき、「うるせえおばさんでごめんだ」と断ります。

どちらも助言したあと「うるさいおばさん」と自嘲気味に断りを入れる。
これにはふたつの効能があります。

ひとつは、麻里と大野の気遣いがわかること。
ひとつは、話しの流れがややご都合主義というか誰かが次の展開をセリフで
案内している機械的な印象になりがちなところを、和らげます。

こういう工夫があるかないかで、感じ方はだいぶ変わります。

実のところ、この回、うるさいのは、麻里でも大野でもなく、羽鳥だと思います。
羽鳥は自分がアメリカに行くことに夢中で、スズ子に決心をせっつきます。
彼は、家庭より、音楽を優先しているので、スズ子の迷いを理解して寄り添うことはしません。
草彅さんの話し方と羽鳥のキャラづくりに配慮があるので、決してやな感じに聞こえないのがさすがであります。

麻里と大野は、やさしくて、ちっともうるさくないのに、「うるさくてごめん」と言う。お断りすることなんてない、ほんとにやさしい、思いやりにあふれた人たちに囲まれてスズ子は幸せ者です。

ところで、羽鳥家の食卓にあったドーナッツは、先日、スズ子が茨田(菊地凛子)の楽屋でごちそうになったドーナッツと同じものでしょうか。同じときに撮影したのか。この時代はドーナッツが流行っていたのか。

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–{第108回のレビュー}–

第108回のレビュー

愛子(小野美音)の反対を押し切って、アメリカ行きを決意したスズ子(趣里)

その前に お見送りコンサートが行われました。ミネ(田中麗奈)ほか街娼たちが応援にやってきます。

コンサートは大盛りあがりでしたが、愛子はずっとふくれっ面のまま。

出発の日、窓ガラス越しに、じとっとした目でみつめる愛子。窓ガラスが母と子の距離を物語るようです。
そっと抱きしめ「もっともっと大きな歌手になりたいねん」と夢を語ります。

ドラマではスズ子の歌手としての矜持はあまり描かれていないので、愛子でなくても、なんで行く必要あるのかと理解しづらい感じはあります。

ただ、ひとり、家を出て、深い決意をしたように目をつむる、その表情は印象的で、本来、趣里さんはこういうシリアスな演技が得手だと感じます。この線でドラマが描いてほしかった気もしますが、コミカル路線を今回は選択したのでしょう。最後までがんばってほしい。

ここまで長めのアヴァンで、主題歌が流れ、スズ子がアメリカに行って数日後に羽鳥家の人々がケーキをもって遊びに来ます。アンゼリカののった、昔の色合いのケーキです。

そしてあっという間に3ヶ月が経過。新居が完成します。
それを大野(木野花)と愛子が見に行くと、スズ子から手紙が。
新居が完成する日に合わせて、サプライズ的に新居のほうに郵送したのでしょうか。その手紙には、アメリカでの写真がたくさん入っています。

活躍しているマミー・スズ子の姿がいっぱいですが、仕事の写真ばかりではなく、子供が喜びそうなアメリカの珍しいものを写真に撮ったりはしないのでしょうか。

このドラマを見ていると、自伝や評伝に書かれた面とは違う、ただがむしゃらに生きた人の姿が浮かんできます。一見平凡な庶民の家に生まれながら、じつは実の父母ではなかったという複雑な身の上。でも苦労はなく好きな歌を仕事にすべく楽団に入り、さらに上を目指して上京。天才作曲家・羽鳥(草彅剛)に見出されあれよあれよという間に人気歌手に。

その才能を通して、愛助(水上恒司)と恋愛関係になるも、愛助の家には認められず、内縁のまま子供を生み、愛助は亡くなりシングルマザーに。

家族の縁がどこか薄いが、芸能の運だけはよく、豪邸を建てられるほどの大スターになっていくが、深く考えず、目先のことにただただ懸命になる。
たまたま歌や踊りが、個性的で時代に合っただけの、素朴な人物。

特別な人なんていない、ということをいまの世の中に訴えたいのだと思います。が、特別ってなんでしょう。特別だからえらいわけではないです。だからいばることはないし、あがめることもない。

才能が高い人は厳然たるもので、大谷選手のように才能のある人はいるわけです。そういう人たちはポテンシャルもありますが、トレーニングしたり工夫して才能を磨いています。そして、それが人々を元気にさせるのです。

スズ子のモデルである笠置シヅ子さんは、「買物ブギ」では振り付けを自分で考えたそうです。

一方、スズ子はすごく頑張って歌って踊ってはいますが、それはまわりがお膳立てした環境で、ただ歌って踊る傀儡のようにも見え、じつはそういう哀しい、時代に祭り上げられただけの人だったのではないか、という乾いた解釈が浮かんでしまうのです。

芸能界ってきれいなものでも、いいものでもないのは薄々わかる現代。でもそこで生き残るしかない人たちがいる。彼ら、彼女たちはうんっと稼いで、豪邸とか建ててしまう。その豪邸も、不在の間に、自動的に建って、引っ越しも住んでしまう。人任せ。金任せ。

ふつうの母でいたい、と言いながら、ふつうでは全然ない環境にスズ子は生きている。ライスカレーや中華そばというセリフで、ふつう感を出そうとしてはいるけれど、不在の間に娘と家政婦を豪邸に引っ越しさせる感覚は庶民感覚の斜め上をいっている。

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–{第109回のレビュー}–

第109回のレビュー

4ヶ月のアメリカ巡業を経て、スズ子(趣里)が帰国。愛子(小野美音)とおずおずと感動の再会を果たします。
小さい子だから4ヶ月の間に「大きくなった」と感じるのも当然でしょう。
大人になると、時が経つことを早く感じるものですが、小さい子にとって、4ヶ月とは長そうです。

離れていた愛子を愛おしそうに抱きしめるスズ子。
このドラマがやけに子供に尺を使っていると感じるのは、ホームドラマ、母と子という題材を大事にしているのみならず、スズ子のモデルである笠置シヅ子さんの娘さんがいらっしゃるからなのではないでしょうか。
とすれば、もっとひたすら愛くるしい子供像を描いてもよさそうなものですが、愛子はひたすら寂しがりやで、ややひねくれた感じに見えます。大活躍する歌手の母をもった、父のいない子供の寂しい心を、ここぞとばかりに描いているのかもしれません。

確かに、母がどんなに大スターでも、子供にとっては関係ないこと。それよりもそばにいて構ってほしいだけでしょう。とはいえ、豪邸に引っ越して、次第に物心もついてくれば、贅沢な生活に満足を覚え、母がスターであることにもプライドをくすぐるようになるかも。愛子はこれからどんなふうに育つでしょうか。

豪邸に引っ越してきたら、ご近所づきあいがはじまりました。三鷹時代はいっさい近所づきあいをせず、ひっそりと暮らしていたスズ子ですが、引越し先では有名人。ご近所さんも浮足立った気持ちでお呼ばれします。子供たちは広い庭で遊んでいます。

ただ、ご近所の主婦たちは、このへんは旧家の人が多くて芸ごとの方は馴染みがないと言うなど、やや閉鎖的な雰囲気も感じますし、いかにも表面的なつきあいになりそうな印象です。こんなつきあいだったら、ないほうがよさそうな気もします。

引っ越して1年、家族団らんの日々、香川の梅吉(柳葉敏郎)が危篤という電報が届きました。梅吉は癌を患い、写真館も閉じて、自宅で寝たきりになっていました。

仕事を調整し、愛子を連れて、急ぎ香川に向かうスズ子。愛子ははじめて海を見て、はじめて祖父に会います(赤ちゃんのときに一度会ってはいますが)。

広くて清々しい海は気に入り「香川ええとこやな、好きや」と喜ぶ愛子ですが、祖父に対しては距離があります。危篤ということがわからないから、「マミー、遊びにいこう」などとぐずります。

ただ、亀は気に入って「かわいいわあ」と愛でます。この言い方がかわいかった。
梅吉は「六郎(黒崎煌代)の分まで生きとんのやろ」と、亀を大切にしていたようです。

あんなに活発だった梅吉が動けず、布団に入ったまま。でも、神妙なままでは終わらないのが「ブギウギ」です。
来てくれたことで「2時間ほど寿命が伸びた」という梅吉。
「相変わらずつまらんなー」と返すスズ子。

そして、スズ子が倉庫で、梅吉がこれまで撮った写真を見ていると、水着の女性たちの写真がいっぱい。以前、東京に来たときに、そんな話しをちらっとしていましたっけ。露出度は水着以上のものはなくてホッとしました。
水着であろうと、家族写真であろうと、皆、自然な笑顔です。花田家の写真もそうですが、全員カメラ目線の家族写真ではないところが、「ブギウギ」の良いところです。

ところで、第109回では、スズ子がご近所さんに「がっかりしてまへんか、うるさいおばはんで」と言っていました。

第107回では、麻里(市川実和子)大野(木野花)が「うるさいおばさん」と自分たちのことを言っていました。「うるさいおばさん」を3連発することでおもしろさを狙っているのだと思います。でも、女性視聴者のほうが多いであろうドラマで「うるさいおばさん」という言葉を何度も使うのはどうなのでしょう。そんなことを問うのも「うるさいおばさん」的ではありますが。

たぶん、「ませませ」言葉の豪邸のご近所さんは「うるさいおばさん」にぴきっとなり、
はな湯で育ったスズ子は「うるさいおばさん」に罪悪感なく、ケロッと使っているのでしょう。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第110回のレビュー}–

第110回のレビュー

父、危篤と聞いてスズ子(趣里)愛子(小野美音)を連れ慌てて香川に来ると、梅吉(柳葉敏郎)は寝たっきりながら、意識があって、話もできました。

もしかしたら、スズ子が帰ってきたから、元気になったのかもしれない。そういうことってあるもので。我が家も、忙しいときにかぎって身内が危篤と呼び出され、そのたび復活して、複雑な気持ちになったことが何度もありました。

連絡する側からすれば、危篤とすれば、帰ってくる、という期待もあるのかも。

何にせよ、梅吉は孫の愛子に会えたのも嬉しかったことでしょう。最初は距離のあった愛子も、亀を媒介に梅吉と仲良くなります。

梅吉「あほやけどかわいいねんそいつ(亀のこと)」
愛子「あほなん?」

梅吉ががんばって起き上がり、愛子と亀の写真を撮影しているとき、
スズ子は倉庫で見た数々の水着の写真について、花田松吉(木内義一)ユキ(沢暉蓮)に「へんなこと 聞いてよろしいでっか」と訊ねていました。
まさか、愛子にも「へんなこと」をしていたら、と不安にさせる流れです。

ですが、みんなに好かれる梅吉の人柄ゆえ、水着写真を撮ってもらった女性たちは喜んでいたという。なんと、ユキも撮ってもらっていたのです。

ヌードがなくてよかったと思います。なんならそれも撮っていそうに想像してしまいますが、朝ドラでそれは無理でしょうし、昨今のコンプライアンス的にもたぶん、無理。

まじめに働いていたと思っていた、とスズ子はぷんすか。
まじめに働いてはいたけれど、どこか羽目を外しがち。それが梅吉の魅力なのです。

楽しく写真を撮ってもらい、ごきげんさんで梅吉の部屋から戻ってきた愛子は、にーっと笑います。その顔は梅吉のにーっという顔に似ているし、さらには、スズ子のにーっという顔にも似ていました。

そうか、趣里さんのにーっと、顔面に力を入れた満面の笑顔は、柳葉さんの笑顔を意識していたのかもしれません。

血が繋がっていなくても家族、ということがここで示されたような気がしました。血が繋がっていると、姿形がどことなく似るものですが、スズ子と梅吉の場合、血が繋がっていないので、DNA的には受け継いだものはないはず。

でも、精神的なものは一緒に長く暮らしていれば似てきてもおかしくありません。スズ子の陽気なエンターテイナーっぷりは梅吉ゆずりでありましょう。

スズ子は梅吉の部屋に行き、意識を失って見えた父に向かって、実の父娘ではないことをなぜ話してくれないのか、と独り言のように言います。

いつかホントのことを言ってくれるのを待っていたスズ子。でも梅吉はツヤ(水川あさみ)に釘をさされていたのですから言うわけありません。

梅吉は起きてスズ子のひとり語りを聞いていて、ほんとの父娘なんだから、言う必要ないだろう、と言うのです。こういうのは、人情ものとして、染みます。

梅吉「1番優しいのはスズ子や。なあんも知らんふりしてくれとったんやな。知らんふりしてわしら親にさせとってくれてたんやな」
スズ子「そやで こっちも感謝してほしいわ」

感動的だけど、こういうふうに軽く受け流す感じもいいのいです。

血は繋がってないけど心と心で繋がっていると言って、
梅吉は、スズ子と「東京ブギウギ」の替え歌「父ちゃんブギ」を歌います。

替え歌だし、はじめて一緒に歌うのに、なんだかふたりの調子はうまく合っていて。とくに秀でた替え歌でもないのに、その素朴すぎるところがまた泣けるのです。「あほや」というのがぴったりで。つい、笑ってしまうスズ子。でも、泣いてしまう。
体の苦しみを必死で我慢してにーっと笑っている梅吉。
一旦、歌って笑って緩んだ、スズ子の身体から、梅吉への思慕と涙がどっと出ます。

素直じゃない、意地張っている人たちが、素直になるのはほんとに難しい。心が決壊したその瞬間をみごとに描いています。

あちこち綻びがあって全部が全部優れた物語ではないですが、こういう良いところが時々あるので見逃せません。

※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。

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–{第111回のレビュー}–

第111回のレビュー

梅吉(柳葉敏郎)が亡くなりました。
祭壇には、ちょっと気取った顔の遺影が。自然な笑顔を撮影するのは得意だった梅吉ですが、弟が100回も撮り直したと涙ながらに語る写真はよそ行きという皮肉。でも、いつでも自然な笑顔だったので、よそ行きの表情もたまにはいいでしょう。

そこへ、キヌ(中越典子)が現れます。
15年ぶりの再会です。
キヌはすっかり老いて、白髪が多く杖もついています。

スズ子(趣里)とキヌは香川の海岸、大きな松に座って語り合います。

梅吉は香川に戻ってから、キヌとその息子たちとも交流していたようです。子供たちの写真もたくさん撮ってくれたとキヌ。
ツヤ(水川あさみ)がキヌと連絡を断っていた分、何かしないとと思ったのかもしれません。

成長したふたりの息子(スズ子の異父兄弟)は何も知らずに愛子と楽しく遊びます。

スズ子、キヌ、愛子、ふたりの息子。複雑な家族関係です。

息子たちに「お母さんを大事にな」とスズ子が言ったとき、キヌは何かそわそわした表情をします。「お母さん」という言葉が響いたのでしょう。
スズ子はあえて、「お母さん」と言ったのでしょうか。あるいは「お母さん」と言ったとき、ふと、何か気づいたのかもしれません。

別れ際、スズ子はややためらいがちに「また 会いましょうね」と声をかけました。

さらに、ふたりの息子たちに支えられ、去っていく背中に向かってスズ子は、愛子(小野美音)にキヌのことを「マミーのマミーや」「愛子のおばあちゃんや」と教えます。

それを背中越しに聞いたキヌは喜びに心震わせ、振り返ります。

このとき、ちょっと先を歩いていた息子たちは「マミーのマミー」が聞こたでしょうか。聞こえたらびっくりだし、どう思ったのか。いや、ここではキヌにしか聞こえなかったということなのでしょう。スズ子のファンだったという息子、母とスズ子が友達であるだけでも嬉しいのですから、異父きょうだいと聞いたら腰を抜かすでしょう。

おそらく、スズ子は自分も母になって、しかもシングルマザーの苦労を味わっているので、ようやくキヌの思いもわかるようになり、心を軟化させられたのだと思います。

愛子は、「マミーのマミー」「おばあちゃん」と言われてもピンと来てないようです。

幼い愛子は、梅吉の死を理解できません。いないことが不思議でならず、梅吉の寝室で亀を抱えてきょとんとするばかり。

東京に戻る日、愛子は「この子、うちと離れとうないみたい」と亀に未練たっぷりですが、スズ子は東京に連れていくことを許しません。

愛子は、自宅に戻ってからも、梅吉が撮ってくれた愛子と亀の写真を見ながら「ホンモノのほうがいい」とさみしそう。ちょうど、そのとき、スズ子は、15年前にキヌからもらった、実の父・菊三郎からもらった金の懐中時計を見つけます。

時計を手にした愛子は「かいらしい時計や」とにっこり。

えええ、時計をもらったら、亀のことはもういいの? やっぱり幼いからそういうもの?

いずれにしても、亀は六郎と梅吉の魂を宿して香川に残り、時計は、キヌと菊三郎の魂として血の繋がった愛子に託されました。

でも、新居の仏壇代わりに飾った写真が、梅吉、ツヤ、愛助(水上恒司)の3枚で、六郎(又野暁仁)が写った家族写真が外れていました。六郎〜〜(涙)。

単に画角に収まらなかっただけで、隅に飾ってあって、来週になったら飾ってあることがわかるようになっていたらええなあ。

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–{第112回のレビュー}–

第112回のレビュー

第24週「ものごっついええ子や」(脚本:足立紳 演出:二見大輔)は、華やかな「羽鳥善一二千曲記念ビッグパーティー」ではじまりました。

羽鳥(草彅剛)の作曲した曲が2000曲になった記念にパーティーを羽鳥が自ら開催。ポスターまで作ります。コンサートではなくパーティーなのに。

スズ子(趣里)はその会の余興を熟考した結果、ラインダンスをやることにしました。

茨田りつ子(菊地凛子)も誘うと、しぶしぶながら承諾。
豪邸の庭で「もっと上げる」とスパルタレッスンするスズ子。「もっと上げる」は梅丸少女歌劇団時代の大和さん(蒼井優)がみんなを鼓舞していた言葉です。
スズ子は、あのときみたいなキラキラした思いを取り戻したいのかもしれません。

その成果は見事にパーティーで披露され、拍手喝采を浴びることとなります。
ここでのスターは茨田です。これまで微動だにしない姿で暗い歌ばかり歌っていた茨田が、明るい顔で美脚を高々と上げて踊りました。

趣里さんはもともと足がきれいに上がってラインダンスがお見事なのですが、まさかの菊地凛子さんが頑張っていて、楽しく見ることができました。菊地さんは、回を増すごとに、肩の力が抜けてきて、りつ子の強情っぱりだけどかわいげのある、ユーモラスな間合いで、茨田りつ子を魅力的な人物に形作ってきているのを感じます。

りつ子のラインダンスを見た羽鳥は「やられたらやり返すぞ」と半沢直樹みたいなことを言って、ラインダンスに参加。「僕だってやれるぞ」とご機嫌に踊ると、最後、足を高く上げた瞬間、スッテンと転んで尻もちをついてしまいます。

それでもニコニコの羽鳥。「これがほんとのサプライズだ」を笑いながら繰り返しました。

これは撮影中のハプニングをそのまま使用したのかと思ったら、草彅さんが、こういうふうにしたらどうかと提案したものだそうです。

ヤフーニュースエキスパートの取材で筆者は制作統括の福岡利武チーフプロデューサーから聞いたとき、さすがだなーと思いました。福岡CPが、転ぶ瞬間、足を高く上げているとおっしゃっていて、注意して見ると、確かに足を上げることできれいに反り返って転んでいるんですよね。ダンスのようなアクションのような見事なパフォーマンスです。

身体能力が高く、場数を踏んできただけあるアクション。転んだあとのリアクションもほんとに面食らっているように見えます。

そういえば、パーティーの前にスズ子が、サプライズラインダンスを思いつき、りつ子を誘ったとき「先生、腰抜かされますよ」と言っていました。この「腰を抜かす」を実際にやってみたということでしょうか。台本を読み込んで、工夫したのだとしたら、すばらし過ぎます。

そして、ここではスズ子、りつ子、羽鳥。長い年月一緒にやってきた3人が、並んでダンスを踊ることで、彼らの歴史と友情みたいなものを感じさせるいいシーンでした。

タケシ(三浦獠太)は客席でノリノリで、リズム感があるのを感じるのは、カズダンスの三浦知良さんの息子さんだからでしょうか。芸がないとスズ子に言われてましたが、手品もなかなかでした。

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–{第113回のレビュー}–

第113回のレビュー

昭和30年(1955年)。愛子(このか)、8歳。

愛子に友達がいないことを心配したスズ子(趣里)は、豪邸で盛大な誕生パーティーを催します。
人はたくさん集まって大盛況ですが、愛子がむすっとしています。

結局、近所の子に、からかわれる始末。
有名人を鼻にかけているように思われてしまって逆効果でありました。東京で母譲りの大阪弁を使っているのもからかわれる要因です。

さらに、誕生会の記事を鮫島(みのすけ)が記事に書きたて揶揄します。鮫島、まだいた。トミ(小雪)の葬儀には取材に来なかったのに。

スズ子は父がいない分をなんとか埋めたいと思い、大野(木野花)からもう少し放っておいてもいいのではないかと助言されても、ピンと来ません。

スズ子が愛子を思えば思うほど、距離が開いていくようで……。
悩んだすえ、羽鳥家に相談に行きますが、やっぱり他人はそれぞれ好き勝手言うばかりで、スズ子の悩みは解決しないのです。

昔の愛子はかわいかったとスズ子は落ち込みます。
え、そんなにかわいかった? わりとわがままだった記憶なのですが……。いや、幼い頃の愛子は母にべったりで、離れるのを嫌がっていたので、それがかわいかったのでしょう。いまは離れていくばかりで、それがスズ子には気がかり。

「ブギウギ」では一貫して、娘を独り占めしたい母の気持ちを描き続けています。
はじまりは、ツヤ(水川あさみ)です。たまたま預かったスズ子を実母に返さずに自分の子供にしてしまいました。ツヤは最期までスズ子に執着し続けました。それが強い愛となってスズ子は大切にされ、すくすくのびのび自由に育ったのです。

スズ子にとって母の教師はツヤですから、その溺愛を体で学んでしまっているので、べったりすることしか思いつかないのでしょう。大阪の花田家の場合、軽みのある梅吉(柳葉敏郎)がいたので、ツヤの重たい愛情を緩和していました。
親がうっとおしいと思うこともなく、毎日楽しく生活できたスズ子。幸せだったんですね、と大野は言います。そう、スズ子はとても恵まれた環境で育ったのです。

いまのスズ子にはバランスをとってくれる夫がいない。が、その分、大野やタケシ(三浦獠太)が別の価値観を持ち込んでくれているはずなのですが……。

それにしてもスズ子は人の言うことを聞きません。何か言われると必ず「いや……」と反論します。趣里さんの演技で、いやな感じには見えないのですが、よくよく考えるととても自我が強い人物に描かれています。

自分を大事にするのはいいことです。けれど、他者の意見をまったく聞かないのはどうなのか。道徳的な主人公の多い朝ドラにしてはスズ子は珍しい。他人の言うことは聞かず、でもほとんど他人に助けてもらって人生が成り立っています。子供のときのスズ子はそんなふうに見えず、天真爛漫でしたが、大人になって出生の秘密を知ってからこじれてしまったようです。

溺愛されて育ち、自分の思いどおりに生きながら、周囲に助けてもらえるスズ子だから、娘にもそういうふうにしか育てられない。その”砂糖漬け”のように甘い愛情は一向に愛子に伝わりません。

つまり、幼いときの愛子は危うく、愛に溺れてわがままに育ちかけたところ、ひとりで母の愛情はおかしいと気づき、親離れを目指す、賢い子供なのです。

そんなとき、花田家にあやしい電話がかかってきます。

電話の主は「娘を誘拐されたくなかったら3万円出せ」と言います。

……誘拐されたくなかったら? 

その前に、家には脅迫状が届いていて「ムスメノイノチガオシカッタラ」と新聞や雑誌の切り抜きを組み合わせて書いてありますが、それをムスメこと愛子が受け取ってくしゃくしゃに丸めて捨ててしまいます。

誘拐を計画している人物は、ずいぶんとトンチンカンなようです。

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–{第114回のレビュー}–

第114回のレビュー

音楽ドラマから刑事ドラマへ?
番組の公式X(旧Twitter)まで「違うドラマがはじまったかと思った」と呟いていました

※関連記事「朝ドラ辞典:た行「違うドラマが始まったかと思った」

謎の人物(水澤紳吾)が花田家に電話をかけてきて「誘拐されたくなかったら金を出せ」と脅迫します。電話に最初に出た大野(木野花)は「誘拐するって」と大騒ぎ。

「手紙を見たか」というので、スズ子(趣里)が玄関に探しに行くと、愛子(このか)がポイ捨てしたものが落ちていました。

そこには「イノチガオシカッタラサンマンエンヨコセ」と書いてあります。

1955年当時の3万円はいくらでしょうか。
週刊朝日編「戦後値段史年表」によると、1952年、カステラ1本400円、55年、とんかつ150円、ランドセル2500円。国家公務員の賞与、19575円とあります。
3万円は国家公務員の賞与の2回分に足りないくらいの額で、そこそこ高いけれど、バカ高い感じでもないようです。ランドセルが10人分、カステラが75本買えます。
犯人の慎ましさを感じる金額です。

誘拐したから金を払えではなく、これは犯行予告です。こんなのあり?と思いますが、江戸川乱歩の推理ものなどでは犯行予告はよくあることです。「ルパン三世」でもありますね。

怪盗が「今夜盗みに伺います」などと予告して、されたほうは厳重に警備しますが、犯人は包囲網をかいくぐり華麗に盗んでしまうのです。

誘拐といえば、乱歩の「黒蜥蜴」。お金持ちのお嬢様を怪盗・黒蜥蜴が予告し、名探偵・明智小五郎が警護につきますが、みごとに誘拐されてしまいます。

「ブギウギ」の電話の主は、スズ子に訊ねられて自分の名前を言ってしまいそうになるほどのうっかりさんに見えますが、実は黒蜥蜴のような、ルパン三世のような大怪盗なのでしょうか(ないない)。

名前は「オダジ」まで言ってしまい、オダジマでは?と予測されてしまいます。
筆者はオダジと聞いて「オダジョー」かと思ってしまいました。

第114回の見せ場は、高橋刑事役の内藤剛志さん。他局の刑事ドラマで大活躍の内藤さんですから、出てきただけで、刑事らしさが滲みます。
内藤さんが出てくれば、犯人を見事、捕まえてくれそうな安心感もあります。

といっても、まだ愛子は誘拐されていません。
当の本人は、学校帰り、なんだか家に帰りたくなくてのろのろしていると、空き地で汚れた服を着た少年・一(井上一輝)に出会います。

誘拐エピソードは、犯人がいかにもドジっぽいので、深刻な展開にはならない気がして気楽に見られると思いきや、愛子と一との関係はなんだかしんみり。

一は、愛子の誕生パーティーにも来ていたそうですが、愛子が気づいていませんでした。それだけ空疎なパーティーだったということでしょう。

愛子とまったく違う環境にある一。一冊の漫画をボロボロになるまで何度も読んでいると言います。
貧富の差が激しく、有名人の家に生まれたことを、一はうらやましがります。愛子にはなんの価値も見いだせない家なのに。

庶民派刑事も「さすがにいいお宅ですな」「芸能人のかたははじめてでして」とスズ子を自分たちとは違うふうに見ていました。

スズ子はあまり自覚していませんが、いつの間にか、彼女は世間とずいぶん、違うところに来ていたようです。

スズ子は自分の立ち位置も、愛子の気持ちもわかっていません。

誘拐を警戒し、スズ子は愛子に、誘拐の話は隠し、明日は学校を休めと言います。
でも愛子は一とまた会う約束をしていました。せっかく心をゆるせそうな同世代の人物に出会えたのに……。しかも一は謎の男と関係があって……。

悲しいすれ違いの物語になるのでしょうか。

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–{第115回のレビュー}–

第115回のレビュー

愛子(このか)誘拐の犯行声明が出されたため、スズ子(趣里)は学校に行かないように言いきかせますが、愛子は反抗します。

一(井上一輝)に会う約束をしていたからです。
愛子の気持ちに聞く耳を持たないスズ子。事情が事情で無理はないですが、
「悪い人のほうがマミーよりええわ」と愛子は突っぱねます。

スズ子はちっとも気持ちを聞いてくれなくて、ようやく本音の話せる友達ができそうになったのに、と愛子は苛立ちが抑えられません。

そしてまた電話がかかってきます。
3時に3万円を日帝劇場に、マネージャーか家政婦に持ってこさせろと言われ、タケシ(三浦獠太)が行くことになりました。そりゃあ、大野(木野花)を危険な目に合わせてはいけないでしょう。

身代金の受け渡しを混んだ日帝劇場のロビーにしたのは、犯人・小田島大(水澤紳吾)は、混んでるから紛れることができる思ったのでしょうか。雑踏にはたくさんの刑事が一般客に紛れて見張っています。

そこへタケシがお金を持って現れます。
向こうから犯人が来て、身代金の激しい攻防が――。
「離せ」「いやだ」「離せ」「いやだ」と
すったもんだのすえ、犯人は取り押さえられました。

手錠に帽子をかける高橋(内藤剛志)。さすが人情派です。

一件落着。タケシはスズ子の家で、武勇伝を語ります。
警察にスカウトされたと調子に乗りますが、大野さんの「お世辞だと思いますけど」の言葉がふさわしい。

実際、タケシ自体はがんばってはいましたが、さほど大したことをしていません。この日「あさイチ」にゲスト出演した三浦さんはタケシを「ダサい」と言っていましたが、タケシのダサい行動を三浦さんは鮮やかに演じていました。

ぼんやりキャラを演じているので、ぼんやり見えますが、その間合いがいいし、ポイントを抑えた演技をします。犯人が来るまでのおどおどした心の震えもよく表現されていました。そこだけ妙にナイーブな演技で。
カメラワークも推理ものふうのアングルに工夫がしてあります。

推理ものふうといえば、次は刑事ものふうの取調室コントです。
取調べ中、カツ丼が届きます。
小田島に食べさせるのかと思いきや、おもむろに高橋が食べ始め……。
そのあと、特上が小田島の前に。

蓋を開けたら三つ葉がゆっくり動くのが臨場感。
すごく美味しそうな分厚い肉に、小田島は、息子に思って涙します。
一は鶏肉が好きそうでしたが、とんかつもきっと好きでしょう。

取り調べの食事(出前)は、食べた人の支払いになるそうで、小田島に特上を買えるお金はないと思いますので、高橋が自分の分と二人分自腹で払ったのでしょう。
勝手に特上を注文して、あとから請求されたら容疑者もたまったものじゃありません。

ちなみに、役立つ参考資料、週刊朝日編「戦後値段史年表」にはかつ丼の項目がなかったのですが、とんかつは、東京都心部の飲食店で並一皿、ライス別だと、1955年時点で150円。天丼並一杯。150円です。3万円あったらとんかつ200皿、あるいは天丼200杯食べられます。

無事、犯人が捕まったものの、愛子は約束を破ったと浮かない顔。
翌日、一は転校が決まっていました。この時点ではまだ、愛子は自分を誘拐しようとした人物が一の父親とは知りません。

一がいた空き地にも姿はなく、気落ちして帰宅すると、一の父が誘拐未遂犯であることを愛子は知ってしまいます。

母娘の溝はますます深まって……。

明日は趣里さんが「あさイチ」に出演です。楽しみ。

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–{116回のレビュー}–

第116回のレビュー

「まさか犯人が愛子ちゃんのお友達のお父さんだったなんてねえ」(麻里〈市川実和子〉)

愛子(このか)の誘拐未遂犯・小田島(水澤紳吾)が捕まって、息子の一(井上一輝)は親戚の家に引き取られ、早々に転校していきました。

保護者が犯罪未遂を犯したとあっては、学校にも居づらいことでしょう。誰も事情を知らないところで再デビューしたほうがいい。

ショックなのは愛子です。せっかくできた友達があっという間にいなくなり、しかも、その父親が自分を誘拐を計画していたとは……。

冷静に考えると、小田島は誘拐する気はなくて、脅してお金をとりたいだけだったのでしょうけれど。それにしても杜撰な犯行でした。

愛子に、スズ子より小田島のほうがマシと、悪者にされてしまったスズ子がたまらず、
羽鳥夫婦に相談にいきます。

麻里が同じ母の立場からスズ子を慰めます。こういうとき、羽鳥(草彅剛)は役に立ちません。

でも帰りがけ、スズ子が「わては……わてが歌うことで お客さまに楽しんでもろたり 少しくらい力になったりせえへんかなという気持ちがどっかにあったんです。わての歌を聞くことで なんぞ辛いことがあったらつかのま忘れてくださいねって」と思っていたけれど、小田島父子の貧困に自分の歌は役に立たないと痛感したことをおずおずと述べます。

すると、羽鳥は答えます。
「〜しょせんは余裕のある人間が作って余裕のある人間たちが楽しんでいるだけじゃないか、そんなふうに思ってしまうことが僕にもあるんだ」

ただ、羽鳥は「僕程度の作曲家はね、ちょっとでもお客の暇つぶしになればいい。なんて思うこともあるよ」と本音をつけくわえました。

スズ子はこれまで、おミネ(田中麗奈)タイ子(藤間爽子)の生活の苦労を目の当たりにしてきていますが、そのときは彼女の歌で力になれた、ひまつぶしにでもなれた、と思ってきたのでしょうか。

実際、歌がヒットして、たくさんの人達が楽しんだからこそ、豪邸を建てることもできたわけで、自分の歌が役に立った証が、裕福になったことだと思っていたのかもしれません。

それが今回、その裕福さに目をつけて、食い詰めた貧しい者が脅迫してきたことで、ようやく世界を俯瞰して見ることができたということでしょうか。気づかないよりは気づいたほうがマシだけれど……。

スズ子は拗ねている愛子のために、高橋(内藤剛志)に頼み込み、一と愛子を会わせることにします。

このとき高橋が、実は福来スズ子のファンであったことを明かし、警察手帳にサインを頼みます(3枚分も)。

人情派刑事、趣味も庶民的でありました。そして、仕事中は個人的趣味を決して出さない生真面目さ。でも、スズ子の頼みを聞くから、その代わりサインをねだっているみたいにも見えて、それはカツ丼のくだりよりもいかがなものかという気もしないではありません。

結局、福来スズ子ブランドで物事を動かしたようにも見えてしまうのが少し残念な気がしましたが、世の中、結局、そういうものなのかもしれません。

高橋に連れられて、一は愛子に会いに来て、愛子のモヤモヤも晴れました。
一と愛子の幼い純粋さには、いやなところが一切ありません。

「みんないい子」で一件落着。

今朝は「あさイチ」に趣里さんがプレミアムトークでゲスト出演。
いよいよあと2週を残すのみとなりました。

「家族も音楽もどちらも一番」な「欲張り」と麻里にいわれたスズ子。「悩んだりしながら生活して歌い続けていくしかないと思うわ」とも言われます。
最後まで、その生き方を貫けるでしょうか。

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–{「ブギウギ」作品情報}–

「ブギウギ」作品情報

放送予定
2023年10月2日(月)より放送開始

出演
趣里、水上恒司 、草彅 剛、蒼井 優、菊地凛子、水川あさみ、柳葉敏郎 ほか


足立紳、櫻井剛<オリジナル作品>

音楽
服部隆之

主題歌
中納良恵 さかいゆう 趣里 「ハッピー☆ブギ」(作詞・作曲:服部隆之)

ロゴ・タイトル制作
牧野惇

歌劇音楽
甲斐正人

舞台演出
荻田浩一

メインビジュアル
浅田政志

語り
高瀬耕造(NHK大阪放送局アナウンサー)

制作統括
福岡利武、櫻井壮一

プロデューサー
橋爪國臣

演出
福井充広、鈴木航、二見大輔、泉並敬眞、盆子原誠 ほか