トマス・ハリスの同名小説を映画化した『羊たちの沈黙』が2024年1月31日に午後のロードショー(テレビ東京)で放送される。
本作はアカデミー賞で主要5部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞)を受賞。作品賞を受賞している唯一のホラー(サイコサスペンス)映画でもある。
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前置き:短い出演時間でも映画全体を「支配」するアンソニー・ホプキンス
何よりも取り上げられやすいのは、アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクター博士の特異なキャラクターだろう。非常に知的で紳士的にも思えるが(だからこそ)、人の肉を喰らう殺人鬼としての恐ろしさが際立っている。118分の上映時間のうち出演時間は25分に満たないにもかかわらず、映画全体を「支配」しているかのようなインパクトは絶大だ。
そのホプキンスは自身の役を研究するうちに「特別な時以外はまばたきをしない」ことが爬虫類と同じだと気づいたり、『2001年宇宙の旅』の「理性的な殺人マシン」でもあるAI・HAL9000にも似ているとも言及したり、FBI訓練生・クラリスのウエストバージニアの訛りを指摘するのはホプキンスのアドリブ(その時にジョディ・フォスターがたじろぐのは演技ではなく「本当」)といった逸話も面白い。
役作りも入念で、ホプキンスは連続殺人犯のファイルを参照するのはもちろん、殺人鬼が収監された刑務所を訪問したり、法廷審問にも立ち会ったりしたそうだ。
そのレクター博士とクラリスとの奇妙な関係性、グロテスクな美術や手に汗握る演出、様々なメタファーが込められた奥深さなど、名作であることに異論はまったくない。同じくジョナサン・デミ監督作であるライブ映画『ストップ・メイキング・センス』の4Kレストア版が2024年2月2日より上映スタートとなるので、併せて観ればそのデミ監督の「映画の上手さ」を知ることができるだろう。
そのうえで、『羊たちの沈黙』は「問題」として語られている要素があることをお伝えしておきたい。その問題は作り手も「わかっている」ともいえるのだが、それでも危うさは大いにあり、そのことを1991年の公開から30年以上経った今に振り返ることは、確かな意義があると思うのだ。
その理由を、本編のネタバレを含みつつ記していこう。
※以降、映画『羊たちの沈黙』の犯人像、主人公クラリスの背景、そしてラストのネタバレの記述を含みます。また、1960年の映画『サイコ』の一部ネタバレも含みます。
–{殺人鬼バッファロー・ビルの問題}–
1:同性愛差別を助長すると抗議を受けた、殺人鬼バッファロー・ビルの問題
本作は同性愛者団体から激しい抗議を受けた。殺人鬼バッファロー・ビルを、女装するだけでなく、半裸(ほぼ全裸)で踊る場面を見せたりもする、狂気的かつ露悪的な存在として描いたため、同性愛差別を助長すると非難されたのだ。
遡れば、1960年の映画『サイコ』でも殺人鬼が異性装する様を描いており、そちらもトランスジェンダーの偏見や差別を助長したという指摘がある。その他の映画でも、トランスジェンダーが殺人鬼や死ぬ運命にある役柄ばかりを担わされた問題は、Netflixのドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』でも取り上げられている。
ただし、『羊たちの沈黙』の劇中でクラリスは「倒錯趣味と暴力に関連性はない。倒錯者はおとなしいもの」と言っている。「倒錯」という言葉は適切ではないし、十把一絡げに「おとなしい」と決めつけるのも誤りではあるが、はっきりと「異性装やトランスジェンダーそのものには問題はない」と言及されているのだ。
また、レクター博士はバッファロー・ビルについて「自分を性的な倒錯者だと思い込んでいるだけさ」とも語っている。つまり「実際には性同一性障害ではない」のであり、ただ「女性になりたい」という変身願望を、病院から性転換手術を拒否され続けた後に、女性の皮を剥がして繋ぎ合わせ、それを着ようともする、残忍な殺人衝動へと発展させてしまった、というわけだ。
とはいえ、そのバッファロー・ビルを極めて気味の悪い殺人鬼として、周りの美術も含めグロテスクに描いたことは事実。これらの「同性愛や異性装も、問題ではない」「問題は、変身願望を殺人衝動へとすり替えてしまったこと」という言及も、「言い訳をしているだけ」と言われても否定はできないし、セリフとして提示するだけでは不十分ともいえる。
なお、監督のジョナサン・デミは、1993年公開の次作『フィラデルフィア』にて、同性愛とエイズに対する差別と偏見に苦しむも、法廷で戦い続けたゲイの弁護士の物語を手がけている。抗議に対して、作品で応えようとした作家でもあるのだ。
2:女性への偏見と差別が表れたクラリスの描写
本作は女性への差別と偏見も描いた作品でもある。レクター博士の隣に収監された多重人格の囚人ミグズはクラリスへの性的嫌がらせを牢の向こうからでも平然と行う。それだけでなく、クラリスは精神病院院長のチルトンから「美人」であることを踏まえ「ボルティモアで一泊しないか?」と誘われたりと、セクハラに近い抑圧を受けており、男性がほとんどの職場の中でもクラリスは「なんとかうまく立ち回ろう」としていたことが伝わる。
そのチルトンから「早く(自分ひとりでレクター博士と会うと)言ってくれれば無駄な時間が省けた」と言われ「少しでも先生とご一緒できればと」と応えるのは、その代表だろう。
クラリスがシャッターを開けようとした時に、肉体労働を嫌っているという運転手が手伝おうともしないのも、女性を暗に見下している態度にも思える。(バッファロー・ビルが重いソファーを車に運ぶ様を女性に見せて襲うという、親切心を利用するおぞましさは、その対比となっている)
他にも、クラリスは女性である自分を軽んじていると思しき警察官たちに帰るようにと、毅然と声をあげたこともあった。
また、レクター博士はミグズの嫌がらせのひどさについて謝罪をする(その後に1日中なじって自殺させる)ものの、クラリスの理解者である上司のクロフォードが性的な欲望を抱いているのではないかと推測するため、クラリスから「それはミグズの汚い言葉と同じ」と批判される。
いかに紳士的に接しようとしても、女性へのセクハラの言動の浅ましさはあるのだと、はっきりと描いているのだ。(そもそも、レクター博士がいかに紳士的に見えようが、その本質はバッファロー・ビルと同様に残忍な殺人鬼だ)
また、ジョディ・フォスターは1976年公開の『タクシードライバー』で12歳の少女娼婦を13歳にして演じて高い評価を得たものの、その熱狂的な支持を自称する者がレーガン大統領暗殺未遂事件を起こしために映画業界から一時的に離れたこともある。
その後もジョディ・フォスターに付きまとう、その過剰なまでの崇拝、または性的なイメージも含む「見られ方」の問題も、クラリスには反映されているようにも思えるのだ。
ただ、それらのクラリスへのセクハラ的な描写が意図的なもの、それを持って女性への差別や偏見へ向き合った作品であるとはいえども、やはり現代では悪い意味で過剰なストレスとして感じてしまう、いい描き方とはいえないという見方もあるだろう。
またクラリスとバッファロー・ビルは、一種の合わせ鏡のような、似た境遇も持ち合わせている。クラリスは幼い頃に母を亡くし、父も10歳の時に強盗に射殺されてしまった。ビルもまた肉親ではない者に育てられた。
それでもクラリスは、映画冒頭でのFBIの訓練用トレーニングコースに「苦しさ」「悶え」「痛み」「苦痛を愛せ」と書かれたように「耐える」生き方ができたが、幼少時に虐待も受けていたビルはそうすることができず、歪んだ願望を殺人衝動へと変換させてしまった、という言い方もできるだろう。
ただ、「自らの力で道を進む女性」と「女性への変身願望を持つ殺人鬼」という対比がまた、同性愛や異性装やトランスジェンダーへの偏見を助長させかねないというのも事実だろう。
–{タイトルの意味は、ポジティブかネガティブか}–
『羊たちの沈黙』のタイトルの意味は、ポジティブかネガティブか
クラリスは、幼少時に暮らしていた牧場で、屠殺される子羊たちを救えなかったことがトラウマとなっていた。これは、FBIという「命を救えるかもしれない」職業を目指すクラリスが、実際に殺人を阻止して女性(=子羊)を救い、かつてのトラウマを克服するまでの物語であり、その悲鳴が聞こえなくなることが、『羊たちの沈黙』というタイトルにポジティブな意味で表れている、という解釈もできるだろう。
だが、クラリスは上院議員の娘キャサリンを救えても、ラストのレクター博士からの電話に対して、トラウマを克服できたとは明言できていない。しかも、レクター博士は「古い友人を夕食に…」と言って電話を切り、自身への嫌がらせをしてきたチルトンを次のターゲットと決めたかのように、雑踏へ消えてしまうシーンで幕を閉じる。子羊たちが沈黙した(殺される被害者の悲鳴はもう聞こえない)とはいえない結末でもあるのだ。
さらに、ポスタービジュアルでは(クラリスらしき)女性の口に(バッファロー・ビルがサナギを死体の口に入れ込んでいたと思しき)蛾の成虫がいる。この蛾をよく見ると(劇中でバッファロー・ビルに殺された人数である)6人の裸の女性が描かれており、それはサルバドール・ダリの作品が元ネタだ。
その蛾の模様が裸の女性はもとより「髑髏」に見えるのは、「死」を象徴しているということだろう。つまりは、タイトルの「沈黙」は殺人鬼に殺されたり、あるいはクラリスのようにセクハラ的な抑圧を受けたために、「被害者(子羊)がその苦しみを言うことができない」というネガティブな意味も含んでいる、それをもって問題提起をしているともいえるのだ。
このように、『羊たちの沈黙』は同性愛や異性装やトランスジェンダー、はたまた女性への抑圧を描く作品としては危うさがある、いや大いに問題をはらんでいる一方で、作り手はその問題を無視しているわけではなく、むしろ向き合おうとした姿勢がみられるのだ。
その賛否を含めて語り合うことにも、また意義があるだろう。
(文:ヒナタカ)