『アリスとテレスのまぼろし工場』の「6つ」の考察 いたくてやさしい、岡田麿里監督からのメッセージとは

映画コラム
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2023年9月15日よりアニメ映画『アリスとテレスのまぼろし工場』が公開中。まず、本作は『すずめの戸締まり』の新海誠監督がX(旧Twitter)に投稿した言葉が、的確に作品の魅力を語りきっているように思う。

前置き:「確かに知っていた」閉塞感を描く


「情景も言葉も人物も常にぎりぎりに張り詰めていて、世界にはよそよそしい謎ばかりがある。あの冬の町の閉塞感を、自分も確かに知っていたような気がするのです」

この言葉通り、本作のもっとも重要なキーワードは「閉塞感」と断言して差し支えない。キャラクターそれぞれの危うい心や関係性がいつか「壊れる」のではないかというハラハラが展開する恋愛劇でもあるし、「時間が止まった町」のさまざまな謎が明かされていき冷酷なまでの真実へとつながっていくミステリーでもある。

加えて、テレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などの脚本家としても知られる岡田麿里監督らしい、思春期の少年少女の「痛々しさ」「生々しさ」がはっきり打ち出されている。さらに「気持ち悪い」「居心地が悪い」といったネガティブにも思えるワードも頭に浮かぶが、それも意図的なもので褒め言葉にもなるし、後述するメッセージを持つ作品には確かに必要だったのだと思えた。

300館以上の公開規模のアニメ映画としてはあまりにも「攻めた」「賛否両論を呼ぶのもいとわないような」特徴があるとも言えるのだが、新海誠監督が「自分も確かに知っているような気がする」と答えている通り、描かれている感情や心理そのものは普遍的なものだ。特に「思春期をこじらせていた経験」「どこにもいけない閉塞感」に思い当たる人であれば、存分に「ささる」内容になっていると思う。

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「ささった」筆者個人にとっては2023年の映画のベスト候補。もしもささらなくても、『チェンソーマン』や『呪術廻戦』などの制作会社MAPPAによる美麗な風景と躍動感のあるアニメ表現は間違いなく観る価値がある。しかも、榎木淳弥や上田麗奈や久野美咲などの声優の演技も圧巻で、映画『ちはやふる』の横山克による流麗な音楽との相乗効果も抜群。しっかりとしたエンターテインメント性もあるので、実は「観る人を選ぶ」と同時に「広く開かれている」映画でもあると思う。何より、作品の濃密な魅力を真に体感できる映画館でこそ、見届けてほしいと願うばかりだ。

ここからは、ネタバレありで作品の謎や、そもそも「何を描こうとしていたのか」について解説していこう。観る人によって多様な解釈ができる、考察の幅が広いことも、本作の大きな魅力であることは間違いない。

※以下、『アリスとテレスのまぼろし工場』のラストを含むネタバレを記しています。観賞後にお読みいただくことをオススメします。また小説版、劇場パンフレット、岡田麿里監督の自伝本『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』の内容の一部にも触れています。

–{いつの時代の物語なのか?タイトルの意味は?}–

1:いつの時代の物語なのか?

劇中で工場の爆発事故が起きて、時が止まり町が「まぼろし」となったのは、劇中の漫画雑誌の背表紙にあったように1991年でほぼ間違いない。中学校の女子たちがブルマを履いていたのも、ブルマが一気に排除されハーフパンツやジャージに移行していったのは1992年以降なので矛盾がない。正宗の叔父の時宗も、1991年式のバイク「ZZR1100C1」に乗っていた。

また、1976年4月23日生まれの岡田麿里監督も、1991年の4月まで14歳だった。劇中が冬の季節だったことも踏まえれば考えれば、おそらくは1991年1月~2月。これから春が来る、進級を迎えるタイミングだったのだろう。

重要なのは、1991年はバブル景気が崩壊した年ということだ。映画のラストで工場が廃墟になっていたことも合わせて、まぼろしとなった町そのものが、日本中にあった「バブル景気の崩壊後に周りから置いてかれてしまった」「衰退していった土地」を暗喩ようにも思える。ここから『千と千尋の神隠し』の冒頭部や、『すずめの戸締まり』の廃墟に残された「人々の記憶」を思い出す方もいるだろう。

そして、まぼろしとなった町で14歳の姿のままの正宗と睦実は、現実の世界では結婚していて、2人の娘である五実は同じ年頃までに成長していた。ふたりが結婚したのが20代中盤、それから五実が生まれてから14年が経ったと考えれば、工場の爆発事故から数えて25年前後の時が経っている、現実の正宗と睦実は40歳前後になっていると考えていいだろう。

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小説版では「『成人(18歳)に該当する』とされた子ども達は話し合いの場を設けさせられた」「小学生くらいに見える子どもも車を運転している」「何年が経過したのか……この考えを意識的に遠ざけるようにしていた。そうでないと、気持ちが持たない」といった記述もある(五実が町に来てからは10年が経っていることは明記されている)。

そして、ラストシーンでは、五実(沙希)は成人になったばかりで、春から美大に通っていると小説版に書かれている(10年間にわたり失踪していた彼女の周りの反応なども記されている)。つまりは、おおむねで以下のような時代の流れになっているのだ。


・1991年 工場の爆発事故により町が「まぼろし」になる(現実ではバブル崩壊が起きる)

・2001〜05年ごろ? 現実の正宗と睦実が結婚、五実が生まれる

・2005〜09年ごろ? 4歳の五実がまぼろしの町へとやってくる

・2015〜19年ごろ? 五実が14歳にまで成長。物語のメインの年代(まぼろしの町は1991年のまま)

・2019〜23年ごろ? ラストで五実(沙希)が18歳になり、現実の廃墟になった町に訪れる


ラストシーンの年代を2023年と仮定して、バブル崩壊だけでなくコロナ禍も経た物語という解釈をしてもいいだろう。バブル景気後の衰退だけでなく、新型コロナウイルスのパンデミックにより世界中の人が味わった閉塞感も、劇中の物語には確実に反映されているのだから。実際に、岡田麿里監督は「この数年、私たちはそれ(皆が同じような閉塞感)を経験したと思う」などとパンフレット掲載のインタビューで言及している。

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また、あのまぼろしの町での閉塞的な暮らしを、20年以上も続けているということがあり得ないと感じる方も多いだろう。外界から閉ざされた場所で(特に現実の人間である五実への)食料をどう維持しているのかという疑問もある。とはいえ、作品に重要なのは理屈そのものよりも、閉塞的な状況にあまりに「慣れてしまい」、思春期の鬱屈した気持ちを抱えたままで「大人になれない」というメタファーだ。何より、「まぼろし」という曖昧な存在になっていたからこそ、町の住人たちは(劇中で言及されているようになんとなく理解しながらも)ずるずるとループするだけの長い時を過ごしてしまったのかもしれない。

2:タイトルの意味は?

「アリスとテレスのまぼろし工場」というタイトルを聞いて不可解に思った方は多いだろう。アリスとテレスという名前のキャラクターは劇中に登場していないからだ。

実は、監督・脚本の岡田麿里は、小学生の時に教わった哲学者のアリストテレスが、クラスのみんなが「アリスとテレス」と双子の名前のように言っていたのが面白くて、10年ほど前に書いた小説のタイトルに「狼少女のアリスとテレス」とつけていたそう。スタッフからの提案で、その小説と「根っこ」は変わらないという今回の映画にも「アリスとテレス」を残したのだという。「まぼろし工場」という舞台と合体させたのは、「生きることや存在意義について、哲学的にというか考えてみたい作品だった」という意向もあったらしい。

また、哲学者のアリストテレスは「希望とは、目覚めている者が見る夢だ」という言葉を残しており、小説版では正宗の父の昭宗がその言葉と共にノートに書いた「希望を見る資格のある少女(五実)を犠牲にしてなりたつこの世界に、なんの意味があるのだろうか?」という問いかけもしている。

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さらに重要なのはアリストテレスが提唱した哲学用語「エネルゲイア」だ。劇中の漫画には「哲学奥義エネルゲイア」という必殺技が登場していたようだし、小説版では大学で哲学をかじっていたという昭宗が「エネルゲイアってさ、人間固有の行為なんだよね。始まりと終わりの乖離が無い、行為と目的が一致した、ただ『今』を生きるっていう」などと語る場面がある。

この言葉通り、エネルゲイアとは、始まりと終わりを見据えての目的そのものの行動ではなく、今というこの瞬間を味わう状況のことを指している。例えば旅行において最短ルートで目的地に辿り着くこと(これを「キネーシス」と呼ぶ)ではなく、寄り道をしてご飯やスイーツを食べたりしたりすることがエネルゲイア。登山において頂上にいち早く辿り着くことではなく、土を踏みしめる感触や道中の景色を楽しんだりすることもエネルゲイアだ。

これまではまぼろしの町で目的もなくただ日々を過ごすしかなかった正宗が、五実を現実に送り出すことを目的とした行動を成し遂げ(これはキネーシス)、新しい生き方もといエネルゲイアを築くまでの物語だと言ってもいい。

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何しろ正宗と睦実は、五実を送り出す行動を成し遂げ「生きている」という実感を得ていた。実際にはまぼろしのまま、これから消えてしまうかもしれない正宗と睦実であっても、これからはエネルゲイア的な発想である「今を生きている」実感を持って過ごせるに違いない。まるで旧約聖書のアダムとイブのように、いやエネルゲイアを提唱した哲学者の名前から派生したアリスとテレスのように、正宗と睦実はこれから「新しい生き方」ができるのだろう。

–{「痛みやにおいを感じる」「悪口を聞いたことがない」の意味は?}–

3:痛みやにおいを感じる意味は?

本作は何気ないシーンにもしっかり意味がある。例えば、冒頭でこたつで勉強をしてきた正宗たちが「おなら」を臭いと思ってこたつから出る、というシーンがある。たわいもないギャグに思えるが、これは「現実」であることもはっきりと示している。

何しろ、そこからすぐに工場が爆発し、みんなは「まぼろし」となるのだ。「気絶ごっこ」といった危険な遊びをしていたのも、後に「痛みをあまり感じない」ことが理由だと語られている。

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正宗の母が「生姜ではなくにんにくが入った生姜焼き」を作って「見た目が『おんなじ』ようであったらたいして変わんないよ」と言うのも、正宗たちが見た目はそのままでもまぼろしに変わってしまったことを示唆していたのだろう。小説版では正宗の叔父の時宗が、「変わらなくはない」「こいつ(にんにく焼き)のほうが、本物よりも上等だ」と、その見た目がおんなじもの=正宗を肯定するような言葉もあった。

そして、正宗が狼のような少女・五実のおまるを「臭い」と思ったのは、彼女が「現実の存在」であるからだ。そして、正宗と睦実はお互いのにおいがしないことを言いつつも、「心臓の鼓動が早い」ことを確かめ合いつつもキスをする。最後に五実を現実に送り届けた後、草むらを転がり落ちた睦実は、「ちゃんと痛い」とも言った。

これらは痛みやにおい、はたまた心臓の鼓動を「感じる」ことそのものが、「現実」である証拠という示唆だ。その物理的な痛みやにおいは不快感も伴うし、同時にやはり「生きている」という証拠にもなる、ということだろう。

正宗に恋をするも失恋した同級生の園部の身体にひびが入ったり、ラジオのDJになりたいと願っていた康成もまぼろしの町から消えてしまうのは、(精神的な)痛みに耐えきれなかった、(実際はまぼろしでも)現実を直視できなかったためとも言える。

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また、正宗は睦実に対して「好きな気持ちが大嫌いという気持ちとすごく似てて……」と自問自答している。恋愛に限らず、好きと嫌い、快感と不快感といった、相反する気持ちが同居している、矛盾しているのは、実はよくあることだ。それもまた「生きている」証拠だろうし、それは後述するクライマックスの精神的な「痛い(いたい)」にもリンクしている。

4:「悪口を聞いたことがない」の意味は?

五実は、正宗と睦実の長いキスを見て「仲間はずれ」にされた気持ちになり、そしてまぼろしの町に止まろうとまで考えていた。下世話な言い方をすれば、娘とその母による、父を取り合うバトルが勃発するのだ。

この「母親との対立」は、岡田麿里監督の実体験が確実に反映されている。自伝本『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』では、たとえばテレビアニメ『花咲くいろは』に登場する自由奔放な母親・皐月というキャラクターについて、「(私の母親と)圧倒的に違うのは『現状を打破できる力がある』こと」「自分の母親に『ここが足りない』と思っている要素を積み上げた存在」だと言い切っている場面もある。

そして、『アリスとテレスのまぼろし工場』の劇中では、睦実は義父である佐上に「母さんから、あんたの悪口を聞かされたことなんて、一度だってない」と言っているのだが、これとほぼ同じ「(岡田麿里自身の)母親は、一度も父親の悪口を言ったことがなかった」という文言が、自伝本の中にある

その岡田麿里の父親は、家からくすねた金を使って浮気をして、離婚後も養育費も払うはずがなかった。そんな父親に対して母親が悪口を言わなかったのは、彼女が裏表がなく、すぎたことをグチグチ言う性格ではなかったからだそうだが、岡田麿里自身も母親から父親との面会希望を問われて、「別に会いたくない」どころか、生まれて初めて「どうでもいいって感情は存在するんだ」と思ったらしい。

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つまり、睦実が佐上に言ったセリフは、「あんたなんか悪口すら言ってもらえない」、転じて睦実からの「あんたなんてどうでもいい」という、ある意味で「愛なんてまったくない」ことを告げる言葉だと言っていいだろう。

そんな佐上は、正宗の「父さん、なんでこんな奴と友達だったんだよ」という言葉に対し、驚いた様子で「昭宗氏が、僕のことそう言ってたの?」と聞いていた。佐上はカルト宗教の教祖のように不明確なことを並べて住人たちの支持を得ようとした(結果的に数人の信者がついてきた)ものの、彼が本当に欲しかったのは友達だった、その友達だと思ってくれた友達はもう消えてしまった、というのが切ない。

–{クライマックスの言葉の強烈さと尊さ、そしてラストの言葉の意味}–

5:クライマックスの言葉の強烈さと尊さ

クライマックスの睦実の言葉は、あまりに衝撃的かつ「強い」ものだ。

「ねえ、五実。トンネルの先には、お盆だけじゃない。いろんなことが待ってるよ。楽しい、苦しい、悲しい……強く、激しく、気持ちが動くようなこと。友達ができるよ。夢もできる。挫折するかもしれないね。でも、落ちこんで転がってたらまた、新しい夢ができるかもしれない……」

「いいなあ。どれもこれも、私には手に入らないものだ」

「だから、せめてひとつくらい。私にちょうだい。正宗の心は、私がもらう。この世界が終わる、最後の瞬間に思い出すのは、私だよ

普通の映画であれば感動的な、ただただひたすらに娘の未来を肯定する言葉だけを告げてもおかしくないのに、「挫折するかもしれない」というネガティブな可能性に言及するのはまだしも、「(あなたが好きな)正宗の心は、私がもらう」と悪意すらある言葉をぶつけるということに、まずは底しれない恐ろしさを感じたのだ。

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だが、この、誰かを傷つける悪意ある言葉をぶつけてしまうことが、今までの岡田麿里の作品にもあった強い作家性だ。そして、そもそも悪意を放つのは何故か。それは、正宗が「好きな気持ちが大嫌いという気持ちとすごく似ている」と言ったように、好きと嫌いは同居し得るからだろう。好きの反対は嫌いではなく、睦実が佐上に言ったように「どうでもいい」なのだ。睦実は、五実が好きだからこそ、お互いに「嫌い」を誘発させる言葉を言ってしまったとも言える。

だが、それ以上に「正宗の心は、私がもらう。この世界が終わる、最後の瞬間に思い出すのは、私だよ」というセリフは、シンプルに五実にジェラシーを抱いた睦実のエゴイスティックなまでの欲望とも言える。そもそも思春期のままの姿をしていて、パンツをわざと見せるという異常な行動までして正宗を五実に引き合わせ、同級生の園部に上履きを捨てられると園部の上履きを履くという「悪意に悪意で応える」こともして、五実に涙をペロペロとなめられていた正宗に「てめえ、やっぱりオスかよ!」と感情を露わにしていたこともある。

さらに、睦実は(14歳の姿のままの彼女だけに押し付けることも間違っているが)10年にわたって五実にネグレクト同然の間違った育て方をしていたとも言える。やはり生々しく痛々しい言葉をぶつけてしまうキャラクターだったからこそ、「こんなことも言ってしまうのかも」と納得ができるのだ。

だが、それ以上に、睦身のやさしさをも感じる。なぜなら、「正宗は、私のことが好きで。私は、正宗のことが好きなの」という睦実の言葉に「なかまはずれ!」と憤る五実に対し、最終的に睦実はこう言うのだ。

「いつもどんな瞬間も、五実を思っている人達が、トンネルの先で、五実を待ってる」

「いつもどんな瞬間も、五実を思っている人達」とは、言うまでもなく現実の、五実(沙希)の両親である現実の正宗と睦実だ。睦実はまぼろしであり、すぐにでも消えてしまうかもしれない自分、ましてや悪意のあるエゴイスティックな言葉をぶつける自分ではなく、五実には現実の母である睦実(と父の正宗)に愛して愛されてほしい(なかまはずれでもなくなる)と心から願っていたからこそ、やはりあえて「嫌われる」ための言葉をぶつけたとも思えるのだ。

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この言葉に対する五実の返答は「だいきらい。だから、いっしょにいかない」だった。だが、その後にまぼろしの町から去り行く睦実は「いたい、いたぁい」と泣いていており、それもやはり好きと嫌いが同居していることを示している。映画ではわかりにくいかもしれないが、小説版ではその「いたい」は「痛い」ではなく「(一緒に)いたい」だとも書かれていた。

本当は一緒にいたいけれど、行かなければいけない。お互いに本当は好きだけど、自分を嫌いにさせる言葉をぶつけて、ぶつけられたほうも大嫌いだと言う。それぞれが矛盾しているようで、していない。それもまた人間の感情の複雑さであり、「生きている」証拠なのだと思えたのだ。

余談ではあるが、岡田麿里は自伝本の中で、中学生になって登校拒否の度合いが上がっていたこともあって、自身の母親から「こんな子ども、産まなきゃ良かった」「あんたさえいなければ、私はもっと幸せだった」とひどい言葉を投げかけられたものの、岡田麿里本人は「私はひねくれているので、それらのベタすぎる言葉にあまりショックを受けなかった」という記述がある。クライマックスのあまりに強烈な睦実の言葉は、そのようにベタではまったくない、だけどやはり「好きと嫌いが同居する」母親の言葉として、岡田麿里本人が望んでいたものかもしれない。

6:失恋は「生まれる」、そして、あなたは変わっていっていい

ラストで五実(沙希)はこう言う。「私の、初めての失恋が生まれた場所だ」と。「恋」を「失う」と書くはずの失恋を、「生まれる」と言うのは変わっているようでもあるが、やはり納得できる。前述したクライマックスにおける五実の「いたい、いたぁい」を、睦実は「生まれたばかりの赤ちゃんのような泣き声」と表現していたし、その失恋こそが、これまで狼に育てられたような少女だった五実が、人間として現実を生きる第一歩だと思えたからだ。

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さらに、岡田麿里監督は、ラストに込めた想いについてこう語っている。

「恋と失恋の物語であり、決断の物語でもあると思うんです。生きている限りいろんな決断がありますが、そこに痛みを感じないで済む人はいない。でも、そうでなければ得られないものは必ずある。そういう想いを込めました」

この言葉通り、劇中のキャラクターはそれぞれ変わらないこと、あるいは傷つかないことにより、閉塞感をずっと抱えていた。だけど、まぼろしでありどこにもいけないはずの、14歳の姿のままのはず正宗と睦実はキスをして、五実を現実に送り出すことで、「生きている」という実感を得ることができた。正宗の同級生の陽菜は篤史に告白して両思いになれたし、正宗の叔父の時宗も「いい母ちゃんで終わらせるつもりはないから」と「これから」の関係を匂わせていた(他にも、小説版では妊娠したまま出産できなかった女性のとある顛末も語られている)。

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そう考えると、やはり本作で訴えられているのは、ただひたすらに「変化の肯定」だ。たとえ閉塞感を抱えたとしても、どこにも行けないと思い込んでいたとしても、決断は何かをきっと変えることができる。失恋だけでなく、決断による大きな変化、それがたとえ痛みを伴うものであっても、人生において大切なものになる。それは、多くの方が思い当たることであるだろうし、これからの希望にもなるはずだ。

また、その「変化」というテーマそのものにも、岡田麿里の実体験が反映されている。岡田麿里は前述した通り、母のベタな罵りの言葉にはショックを受けなかったものの、「この生活を続けていたら、これからお前はどうなってしまうんだ」と、具体的な進級の話で攻められていたら、相当なダメージを受けたはずとも自伝本で語っている。かつての岡田麿里にとって、未来を考えること、変化が訪れることは、むしろ怖いこと、ものすごく痛いことだったのだ。

だが、ほぼ引きこもり生活を得て、シナリオライターになると決断をした岡田麿里は、脚本家や監督にもになった。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』では、自身と同じく引きこもりになった男の子を主人公にしたこともある。そんな岡田麿里が、「変化は痛みを伴うかもしれないけど、あなたは変わっていっていいんだ」と尊いメッセージを掲げる『アリスとテレスのまぼろし工場』は、岡田麿里という作家の集大成と言ってもいい。

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そう考えると、これだけ尖った特徴を持つ作品であり、岡田麿里自身が言う「決して口当たりがよい物語ではない」にもかかわらず、やはり広く開かれた、なんとやさしい作品なのかと、改めて称賛せざるを得ないのだ。

(文:ヒナタカ)

–{『アリスとテレスのまぼろし工場』作品情報}–

『アリスとテレスのまぼろし工場』作品情報

ストーリー
製鉄所の爆発事故により出口を失い、時まで止まってしまった町で暮らす14歳の正宗。いつか元に戻れるようにと、何も変えてはいけないルールができ、鬱屈とした日々を過ごしていた。

ある日、気になる存在の謎めいた同級生・睦実に導かれ、製鉄所の第五高炉へと足を踏み入れる。

そこにいたのは、言葉を話せない、野生の狼のような少女・五実ー。

二人の少女とのこの出会いは、世界の均衡が崩れる始まりだった。止められない恋の衝動が行き着く未来とは?

予告編

基本情報
声の出演:榎木淳弥 上田麗奈 久野美咲/八代拓 畠中祐 小林大紀 齋藤彩夏 河瀨茉希 藤井ゆきよ 佐藤せつじ/林遣都 瀬戸康史

監督・脚本:岡田麿里

公開日:2023年9月15日(金)

配給:ワーナー•ブラザース映画 MAPPA