ABEMAで配信されてきた「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」(全9回)が、9月10日(日)で最終回を迎えた。論破王ひろゆきが、ナミビアのナミブ砂漠に置き去りにされ、自力でアフリカを横断するという型破りな旅番組。ネット界隈での盛り上がりに刺激され、筆者も毎週楽しく視聴させていただいた。
この企画を知ったときにまず思い浮かべたのが「東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい…」。現在でも放送は続いているが、初期は東野幸治と岡村隆史、そしてディレクターという超少人数でインドや中国に弾丸海外ロケするという、仕込みナシのいきあたりばったり旅番組だった。
それゆえに二人がカルチャーギャップに素直に驚いたり、思わぬ展開に目を見張ったり、演者の“素”の部分が強調されていたのが新基軸。企画ありきの「世界の果てまでイッテQ!」や、ゲストの思い出に迫る「アナザースカイ」とは根本的に異なるアプローチなのである。
「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」も、<最小人数で旅をするノープラン番組>という基本フォーマットは「旅猿」と同様。だが、お笑いタレントである東野・岡村とは違い、ひろゆきは実業家。番組を盛り上げるための、“おいしい”リアクションをしてくれる訳ではない(番組プロデューサーも、「番組の都合を一切考えない。基本的には演者としては機能しない」とはっきり明言している)。
おそらくそんな理由から、制作サイドはいくつかのルールを設けて、コンテンツとして成立する保険をかけた。
- 軍資金として10万円が貰える
- 番組としての撮れ高が発生すれば、追加の軍資金2万円が貰える
- 国境を越えると、さらに追加の軍資金5万円が貰える
- 移動は陸路のみ
- 一カ国につき一箇所は、24時間以上滞在する町をもうける
(C)AbemaTV,Inc.
実はこの番組の最も恐ろしいところは、ひろゆきという唯一無二の存在によって、上記のルールが無効化されていること。彼は持ち前のネゴシエーション能力と卓越したITリテラシーで、かかる難局をクリアしていく。予算がオーバーしないように自らタクシーの値段を交渉するし、ブッキングドットコムで最安値の部屋を予約してしまう。追加の軍資金ルールが意味をなしていないのだ。
陸路に限定することで、移動手段の確保が困難だと思われたものの、最初にヒッチハイクで車を拾った以降は、タクシーやバスを上手にやりくりする余裕旅。本人も第一回で「あとは消化試合ですね」と高笑いしているくらいだ。
(C)AbemaTV,Inc.
おそらく視聴者の興味は「理屈ばかりこねているひろゆきが、理屈だけでは通じない場所に放り込まれることで、悪戦苦闘する姿を見ること」だったはず(少なくとも筆者はそうだった)。だが旅慣れたバックパッカーとして尋常ならざる能力を発揮する彼の前に、制作サイドの目論見は完全に崩れ去る。
むしろ、そのプロセスを赤裸々に描いてしまうことが、「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」の先進性なのである。
–{演者とスタッフの関係性が入れ替わる、逆転現象}–
演者とスタッフの関係性が入れ替わる、逆転現象
(C)AbemaTV,Inc.
さらにいえば、この番組では演者とスタッフの関係性すら逆転している。異邦の地で四苦八苦するタレントの姿をとらえるコンテンツが通常の旅番組とするならば、「世界の果てに〜」は、演者のひろゆきが旅の段取りをしたり、ディレクターの質問を英語で通訳したりする。もはやコーディネーター的な役割すら担っているのだ。
いじられキャラの豊川ディレクターは、現地の人々を許可なく撮影しまくっては怒られ、途中から参加した俳優の東出昌大に「ご経験人数は?」「初体験は何歳?」とゲスな質問を繰り返しては呆れられ、木の上から湖に豪快ダイブする。演者ではなく、ディレクター自らが出川哲郎のようなポジションを取ることで、予定調和から抜け出そうとしている。表方・裏方が入れ替わったその構造が、極めて革新的なのだ。
この番組のハイライトは、X JAPANのToshl(龍玄とし)が途中合流するも、出会って30分で解散するという衝撃の展開だろう。ザンジバル島に向けて乗船しようとするひろゆきだったが、Toshlはスケジュールの都合上同行できない。
3人揃ってのロケを撮りたい豊川ディレクターは「ここに残った方がいい」と伝えるが、最終的には演者による話し合いを促す始末。それに業を煮やした東出がひろゆきとの直接対話を提案し、結局ひろゆきだけがザンジバルに向かい、東出&Toshiがダルエスサラームに残ることとなる。
表面上はにこやかだが、どう考えてもギスギスした雰囲気。旅のハプニングはむしろ、ディレクターの(意図的な?)段取りの悪さによってもたらされているのだ。そんな番組、なかなかない!
印象に残ったのが、ひろゆきが二人と別れてからつぶやく「人は一人で生まれて一人で死ぬ」という言葉。三人の珍道中を期待していた制作サイドの目論見をあっさり飛び越えて、彼は孤独を選択する。だがそれは旅の本質であり、人生の本質でもあるだろう。
「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」は、番組としての約束ごとをすべて無効化することで、革新的なコンテンツとなっているのである。
(文:竹島ルイ)