『正欲』で稲垣吾郎が見せた本気の実写化|原作の細部まで語る表情

映画コラム

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朝井リョウによるベストセラー小説を実写化した、映画『正欲』。筆者は本作の原作を読んだときにまさに言葉を失ったのだが、その衝撃は今回の実写映画を観た後の感想にもそのまま繋がった。それは、繊細なテーマを取り扱う原作を映像作品として再構築したとは思えないほどに、違和感なく脳内のシーンがリンクしたからだろう。

そしてこの痛烈な衝撃作を映像化するにあたり、俳優としての真価を観客に見せつけたのが稲垣吾郎と新垣結衣のタッグだ。中でも、“普通の生き方”に囚われた寺井啓喜(てらいひろき)を演じた稲垣の演技は、原作のキャラクター性を自然に汲みながらも、映画ならではの寺井を作り上げていたように感じる。

本稿では、原作小説『正欲』における寺井の立ち位置と映画の微妙な差異をなぞらえながら、本作の稲垣の演技を振り返っていく。

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映画『正欲』で稲垣が演じた「普通に囚われた男」

まずは、稲垣が演じていた寺井という男がどういう人物だったのかを一度整理しよう。

寺井は横浜地方検察庁に勤める検事だ。彼は動画配信を始めた不登校の息子に不安を抱いており、世間からの断絶を何よりも恐れている。「子どもは学校に必ず行くべき」と主張する彼自身、レールから外れた人間へと向ける視線は冷ややかなものである。

亭主関白な一面のある、堅物で融通の聞かない男。ある意味では“どこかにいそうな”中年男性でもある寺井を、稲垣は完璧に演じ切っていたのではないか。寺井の固定観念に囚われた頑固な性格が最も表れていたであろう夫婦喧嘩のシーンで声を荒げる稲垣の姿には、演技といえど鳥肌がたった。

また、本作において、寺井は正義や普通というものを重んじる人間であり、特殊性癖を持つ桐生夏月や佐々木佳道とは真逆のポジションにいる人間として描かれていた。

この「理解できる範疇の“普通”しか理解したくない」とも取れる寺井の言動の数々は、原作に通ずる部分も多い。しかし、改めて比較をしてみると若干の違いが見受けられる点もある。

–{原作からカットされた寺井の「あるシーン」}–

原作からカットされた寺井の「あるシーン」

実は、筆者が原作を読んだときに寺井の登場シーンの中で最も印象に残った場面はカットされていた。

それは寺井の中に「(情事の場面において)涙を流す人を見て性的に興奮する」性癖があることが明らかになる場面だ。該当の場面の一部を、下記に引用する。

啓喜は、由美に覆いかぶさり、腰を動かしながら、由美の瞳が涙で満ちていくのをみるのが好きだ。(中略)「涙を流す人を見て性的に興奮するなんて、おかしいよね?」由美に両目を覗き込まれる。「それって、通常ルートから大きく外れた、バグだよね?」目の前の由美が実際にそう言ったのか、頭の中にその言葉が勝手に響いただけなのか、啓喜にはもうよくわからない。                           

朝井リョウ『正欲』p.268

この“通常ルートから大きく外れたバグ”というのは、寺井自身が特殊性癖を持つ人々に対して向けている感情でもある。

要するに原作には、自分の中にもある大なり小なり“普通じゃない”部分を寺井が自覚する場面が存在する。そういう意味で、原作の寺井は、もう少し共感を持てるような「普通とは何か」に揺らいでいるキャラクター性が垣間見える部分を持つ。

とはいえ、ただでさえ様々な視点が重なり合ってストーリーが進む本作でこれらの要素を全て盛り込むのは簡単な話ではない。またこの部分をカットしたからこそ、映画という限られた尺の中では寺井の立ち位置がより際立っていたようにも思う。

一方で、この僅かな揺らぎを映画で全く感じなかったかといえば、そうではないのかもしれないと感じられる側面もあった。決定的なネタバレは避けるが、最後の桐生との会話の中に、筆者は寺井の葛藤を見た気がした。

桐生の気持ちを考えると残酷にも見える寺井の態度だが、彼はこの一連の様々な出来事を経てもなお「今まで通りに正義を貫くことを決めた」という風にも捉えられないだろうか。それを感じさせたのが、桐生との再開にも毅然とした態度を貫く稲垣の演技だった。

序盤では“何も知らなかった”寺井が、自分の周囲の出来事と向き合っていく中で“何かを知った”。その絶妙な違いが、ラストシーンで稲垣が寺井として纏う空気感からよく伝わってきたのだ。

さすがは稲垣。『半世界』『窓辺にて』などで高い評価を得てきたベテラン俳優の風格が漂っている。

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『正欲』を誰の物語として見るか

本作はさまざまなテーマ性が重ねられている。だからこそ、寺井とは逆の場所に立つキャラクターたちのインパクトが強く、どうしても桐生や佐々木サイドに目がいってしまいがちな側面もあるかもしれない。しかし、寺井を軸にして物語を考えてみると少し見え方が変わってくる。

映画の中で一貫して寺井が掲げていた正義とは何だったのか。そして、本当にその正義は最後まで彼の中で本当に1ミリも揺らぐことがなかったのか。その答えは、台詞以上に、俳優・稲垣吾郎が生み出した“映画『正欲』の寺井”が表情で語っていたように思う。

(文:すなくじら)

–{『正欲』作品情報}–

『正欲』作品情報

ストーリー
横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。

ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。

予告編

基本情報
出演:
稲垣吾郎 新垣結衣 磯村勇斗 佐藤寛太 東野絢香 山田真歩 宇野祥平 渡辺大知 徳永えり 岩瀬亮 坂東希 山本浩司

監督・編集:岸善幸 

原作:朝井リョウ『正欲』(新潮文庫刊) 

脚本:港岳彦 

公開日:2023年11月10日(金)

配給:ビターズ・エンド