ケイト・ブランシェットはさるインタビューで、映画『TAR/ター』についてこんなコメントを残している。
「この映画はロールシャッハ・テストのようなもので、暗示しつつも決して確定されない情報に対して、人々がどのような判断を下すかを示しています」
ストーリーを乱暴にまとめてしまえば「世界から賞賛を浴びている音楽家が、その権力の座から滑り落ちていく物語」となる。だが、実際はそう単純ではない。監督を務めたトッド・フィールドは、限定的な視点で物語を紡ぐことを周到に回避している。明快に回答を打ち出すことを拒否している。ゆえに本作は抽象的で、観念的で、謎に満ちているのだ。
ケイト・ブランシェットが語る通り、この映画について語ることとは、ロールシャッハ・テストと同義なのだろう。個人の理念や社会的スタンスが、本作を通してあぶり出されてしまう。『TAR/ター』は怪物的作品であると同時に、ヘタをすれば炎上しかねない「触るな危険」映画なのである。
とはいえ筆者は、#MeTooやキャンセル・カルチャーといった現代的テーマをサブテキストに含んではいるものの、精神崩壊&ノイローゼ系のニューロティック・ホラーだと受け止めている。ネタバレありで解説していこう。
※本記事はネタバレを含むので、未鑑賞の方はご注意ください。
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独裁者としてのリディア・ター
ケイト・ブランシェットが全身全霊で演じきるリディア・ターは、音楽界のスーパーエリート。女性初のベルリン・フィル首席指揮者であり、ジュリアード音楽院で教鞭を執る教師であり、民俗音楽の研究家であり、作曲家としても超優秀。おまけにエミー賞・グラミー賞・トニー賞・アカデミー賞まで制覇している。
また彼女はレズビアンであることを公言し、ベルリン・フィルでコンサートマスターを務めるシャロン(ニーナ・ホス)とパートナー関係を結んで、ペトラという娘と三人で暮らしている。
人を惹きつける圧倒的な才能、マエストロとしての風格。彼女はクラシック音楽界のカリスマだ。その一方でリディアは常に高圧的な態度を崩さず、独裁者として君臨している。気に入らない副指揮者は平気で切るし、若く美しい新人チェリストのオルガ(ソフィー・カウアー)に一目惚れすれば、楽団の反発におかまいなく肩入れしてしまう。しかも彼女はその地位を利用して、恒常的にセクシャル・ハラスメントまで行なっていた。
いま映画界では、#MeToo運動の世界的な広がりと呼応するように『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)や『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(2022)など、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)に警鐘を鳴らした作品が数多く作られている。
にもかかわらず、本作ではその流れと逆行するかのように、女性を加害者に据えてしまっているのだ。
–{ジェンダーレスな方法による権力の検証}–
ジェンダーレスな方法による権力の検証
この映画には、過去の差別的・ハラスメント的言動や行動に抗議して、排斥しようとする運動……キャンセル・カルチャーに言及する場面もある。ジュリアード音楽院で、ターが生徒に授業を行うシーン。
「バッハは女性差別主義者だから好きになれない」という若い音大生マックスの発言に対し「個人のパーソナリティーと、作品としての偉大さを同列に扱うべきではない」と彼女は執拗に彼を追い詰める。
もしくは、前任の指揮者アンドリス(ジュリアン・グローヴァー)との会話シーン。性的暴行の告発を受けて解雇となったジェームズ・レヴァインやシャルル・デュトワといった音楽家に対し、明らかに同情的な態度を見せている。リディアは芸術至上主義者であり、作家主義者なのだ。
実在の女性指揮者マリン・オールソップは、『TAR/ター』に対してはっきりと「不快な作品」と公言している。
「女性として、指揮者として、そしてレズビアンとして、この映画に不快感を覚えました。リディアを虐待者に仕立て上げるなんて、私にとっては心が痛むことでした。すべての女性、すべてのフェミニストは、そのような描写に悩まされるべきだと思います。この映画には、実際に虐待をしている多くの男性が登場しているはずなのに、代わりにその役回りを女性に据えて、男性的属性をすべて与えている。それは反女性的な感じがするのです」
ニューヨーカー誌のリチャード・ブロディ記者も「『TAR/ター』はいわゆるキャンセル・カルチャーに狙いを定めて、アイデンティティ・ポリティクスを揶揄する、退行的な映画だ」と一刀両断。#MeTooの文脈から、批判的な意見が噴出している。
だがケイト・ブランシェットは「私にとって、この映画が素晴らしいところ、そして物語が洗練されたところとは、ジェンダーレスな方法で権力を検証していることです」と反証。
監督のトッド・フィールドも「私は誰が権力を握ろうとも、それは彼らを腐敗させるものだと固く信じています。つまり、それは不幸な事実なんです。私たちは動物の一部です」と語っている。
そう、この映画はジェンダー論を振りかざす作品なのではなく、権力構造について切り込んだ作品なのだ。トッド・フィールドの発言をもう1つ引用してみよう。
「テーマとして、これは権力についての映画であり、権力はピラミッドであるということです。その頂点はどのように支えられているのでしょうか。その頂点とは、権力構造の頂点に座っている人物のことです。そしてそれは共犯関係であり、多くの人を巻き込む他の多くの事柄についてです」
ジェンダーも、年齢も、国籍も関係ない。権力に酔いしれるものは、誰であれ破滅への一途を辿ってしまう。
むしろマリン・オールソップが主張する「男性的」「反女性的」という属性を引き剥がすことで、『TAR/ター』はその臨床実験を遂行しようとしているのだ。
–{恐怖の侵食}–
恐怖の侵食
この映画は「Tar on Tar(ター、ターを語る)」という自伝の発売イベントとして、公開インタビューを受けるシーンから始まる。インタビュアーは、ニューヨーカー誌の有名ライターであるアダム・ゴプニク本人。虚構の物語に、本物のジャーナリストが登場しているのだ。
その中でターは「【指揮者】とは“時間”を支配する存在なのだ」と貫禄たっぷりに熱弁する。タクトを振ることで、彼女は無の時間を創り出し、有の時間を創り出す。それはすなわち「【権力者】とは“時間”を支配する存在なのだ」という表明だろう。
だが、かつて指導を行なっていたクリスタという若い指揮者が自殺し、彼女に対するセクハラ行為が告発されると、完璧にコントロールされていた時間は、次第に制御不能になっていく。鳴り止まないメトロノーム。執拗に繰り返されるチャイム音。研ぎ澄まされた耳で美しい音楽を創造してきた彼女は、逆に過敏すぎる聴覚によって、心の平衡を失っていく。
『TAR/ター』には、ほぼ全てのシーンにリディアが登場している。彼女の視点によって物語が紡がれている。だから彼女の精神に軋みが入れば、映画も同調するように軋んでいく。現実と夢の境界線が曖昧になる。
本作は、男性恐怖症の女性が次第に精神を崩壊させていく『反撥』(1965)や、若きバレリーナが幻覚や妄想に悩まされる『ブラック・スワン』(2010)と同趣の、ニューロティック・ホラーなのだ。
象徴的なのは、森の中でジョギングしているリディアが、突然女性の叫び声を聞くシーン。おそらくあの声の主は、リディアの頭の中だけで鳴り響いているクリスタだろう。そしてこの悲鳴は、ホラー映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)からの引用なんだとか。
もしくは、リディアが娘のペトラをベッドで寝かしつけるシーン。薄暗いためなかなか気づきにくいが、部屋の隅に“何者か”が座っている(クリスタの幽霊だろうか?)。アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』(2018年)のように、目を凝らさないと判別できない系の恐怖が発動している。怖すぎ。
極め付きは、オルガを追いかけてリディアが廃墟のような空間に足を踏み入れるシーン。戦時中の東ベルリンのごとく荒れ果てた空間に、突然黒い犬が迷い込んできて、彼女は必死に逃げ回る。おそらく、この場所は現実のものではない。(そもそもオルガという女性は本当に実在するのだろうか?)
精神のみならず、顔面も崩壊してしまったリディアは、完全に“向こう側”に足を踏み入れてしまう。
–{『そして「モンスターハンター」}–
そして「モンスターハンター」
リディアはドイツを離れ、フィリピンの地で再起を図る。非常に示唆的なのは、ボートで川を上っていくとき、現地の少年が『地獄の黙示録』(1979)について言及することだ。この川にはワニが棲みついていて、それはかつて映画スタッフがこの地で撮影した時の置き土産なのだと。
そう言われてみると、リディアを乗せたボートを俯瞰で捉えたショットは、哨戒艇に乗り込んでジャングルの奥地へと向かう『地獄の黙示録』のワンシーンのようだ。
フランシス・フォード・コッポラ監督によるこの超大作には、ジャングルに自分だけの独立国家を築くカーツ大佐(マーロン・ブランド)という謎の独裁者が登場する。リディアもまた、ヨーロッパから離れてアジアで新たな栄光の時代を創り出そうとしている。そう考えると『地獄の黙示録』はフィリピン・パートの補助線として完璧に機能しているのだ。
……と思ったら、どうもこれは『地獄の黙示録』ではなく、実際には同じマーロン・ブランド主演の『D.N.A./ドクターモローの島』(1996)のことを言っているらしい。(なぜ字幕で『地獄の黙示録』になっているかは謎)
ただこの『D.N.A./ドクターモローの島』も、マッド・サイエンティストが孤島でヤバい実験をする話なので、「未開の地で独裁者になる」というアウトラインからは外れていない。
そして、驚愕のラストシーン。コスプレ衣装に身を包んだ観客たちを前にして、リディアはゲーム「モンスターハンター」のタクトを振る。「高尚なクラシック音楽の頂点に鎮座していた彼女が、ゲーム音楽に身を落としてしまった」とか「古典音楽から離れ、今最も新しい音楽に挑戦した」とか、この場面に対する解釈は人それぞれだろう。
正直筆者は「モンスターハンター」解釈に対して一家言がある訳ではない。むしろ気になるのは、このフィリピン・パートは本当に現実の世界なのか?ということだ。ニューロティック・ホラーとしての体裁を考えるのなら、これもまたリディアの空想の世界なのではないか。
トッド・フィールドが仕掛けた罠は、出口のないラビリンスのようだ。冒頭で述べた通り、この映画は抽象的で、観念的で、謎に満ちている。我々は、映画の隅々にまで散布されたかけらを拾い集めて、自分なりの解釈をするしかない。きっとそれこそが、トッド・フィールド監督が望む映画体験なのである。
(文:竹島ルイ)
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–{『TAR/ター』作品情報}–
『TAR/ター』作品情報
ストーリー
ベルリン・フィル初の首席女性指揮者ター。天才にして、ストイック、傲慢、そして繊細―。
芸術と狂気がせめぎ合い、怪物が生まれる世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター。
彼女は天才的な能力とそれを上回る努力、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功する。今や作曲家としても、圧倒的な地位を手にしたターだったが、マーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんな時、かつてターが指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは、追いつめられていく──。
予告編
基本情報
出演:ケイト・ブランシェット/ノエミ・メルラン/ニーナ・ホス/ジュリアン・グローヴァ―/マーク・ストロング ほか
監督:トッド・フィールド
公開日:2023年5月12日(金)
製作国:アメリカ