2023年5月12日より映画『TAR/ター』が公開される。その内容は「世界的な女性指揮者が精神のバランスを崩していくサイコサスペンス」とシンプルに説明できなくもないはずなのだが……本編は良い意味でまったく普通じゃない、ものすごい“劇薬映画”でもあった。
何よりも申し上げておきたいのは「映画館で観てほしい」ということ。もちろん派手なアクションや壮大な展開などがあるわけではないが、極めて情報量が多く、後述する特別な映画体験ができる作品だからこそ、他に邪魔が入らない、集中できる環境で観る価値がある。
158分と上映時間は長いが、個人的にはのめり込むように観ることができた。さらなる魅力を記していこう。
1:超絶エリートな女性の「世界」の崩壊を描く
本作の主人公であるリディア・ターは、端的に言って超絶エリート。世界最高峰の名門オーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で女性として初の首席指揮者となり、作曲者としても権威ある賞を総なめ。並外れた才能を持ち、それを上回る努力を重ね、類まれなプロデュース力もある、なるほど圧倒的な地位にいるだけの理由がある女性に思えて……とある出来事をきっかけに(あるいはそれ以前から)彼女の築き上げた「世界」は崩壊の一途を辿っていく。
序盤の会話からターの博識さ、物怖じしない度胸や揺るぎない精神が窺い知れる一方、徐々に「あれ……この人やりすぎだし、いくらなんでもそれは……」となる、傲慢な部分も見えてくる。生徒との対話では教師という立場であっても不遜に思える発言をするし、決定的なのは幼い娘をいじめたと思しきクラスメイトに対して言葉で「脅し」をかける場面だった。小さな子どもにすら、過剰に抑圧的な態度を取る様、そのほかも言葉の端々から「どこかおかしい」と思えるようにもなっている。
ただし、この映画はそのターを一辺倒に悪い人間であるとかといった「ジャッジ」をしない。ひとりの人間のありようを、その日常や会話から丹念に描くことで、才能と努力で手にした世界がいつ崩壊するのか、その崩壊の「種」がどこにあるのか、「探す」ことにも面白さがある映画なのだ。
2:『ブルージャスミン』の役とは表裏一体のケイト・ブランシェットの“怪演”
そして、本作はアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、撮影賞、編集賞の計6部門にノミネートされており、実際の映画を観てもそれぞれの分野で絶賛を浴びることに大納得できる。特にケイト・ブランシェットは2度目の主演女優賞を受賞しても、異論はほとんどなかっただろうと思えるほどの、凄まじい「怪演」だった。
過去にケイト・ブランシェットが主演女優賞を受賞した『ブルージャスミン』では、一文無しになっても「ぜいたく癖」が抜けない、偉そうにふんぞりかえっているがゆえに身を滅ぼしていく、「虚栄心まみれ」な女性の説得力が半端なものではなかった。
だが、今回はそちらと似ているようで違う、あるいは表裏一体のようで正反対の、ほぼ世界一と言える地位を自分の力で手にしたがゆえの傲慢さのある女性という難役を「本当にこの世にいるとしか思えない」ほどの実在感で演じ切っていた。
3:良い意味で困惑する、出口のない迷宮に迷い込んだような映画体験
とはいえ、本作は(冒頭で掲げた通りシンプルなプロットでもあるようで)決してわかりやすい物語ではなく、「あれはどういう意味だったんだ?」などと良い意味で困惑する内容でもある。後の展開につながるような意味深なシーンや会話があり、これは伏線として回収されるだろうと思ったら、まったく回収されなかった(ように思えた)り、はたまた予想外のことがさらに異常な事態に繋がったりもする。
おかげで、本作はまるで「出口のない迷宮に迷い込んだような感覚」さえ抱く、特別で奇妙な映画体験ができる。伏線が回収されなかった(ように思えた)としても、「いや、これは伏線がどうとかでなく、実はここだけでこういう意味があるんじゃないか?」「いや、ここでこうなっているから必然的なシーンだったんだ」と考察がしたくなるし、上映時間が長いにも関わらず、もう一度観たくもなる。ということは、実は周到に計算がし尽くされている映画でもある。まさに作り手の狙いにまんまとハマったということでもあるだろう。
また、ターは同性愛者でもある。もしも、その同性愛者かつ、社会的地位のある女性を悪し様に描いたとしたら、同性愛や女性への嫌悪だと批判を浴びそうなところだが、この映画『TAR/ター』の本編を観てみると、そうとは思えなかった。それは、やはり単純にジャッジをしない作品の姿勢と、やはりケイト・ブランシェットの「本当にこの世にいる人としか思えない」演技と存在感があってこそだ。
–{予測不可能な結末!実はブラックコメディか?}–
4:予測不可能な結末!実はブラックコメディか?
そして、衝撃的なのはクライマックスおよびラストだ。もちろんネタバレになるので詳細はいっさい書かないでおくが、もはや「どういう気持ちになれと?」とさえ思える、誰も予想はできないであろう「何か」が用意されている。
このクライマックスおよびラストを含めて、(もちろん超現実的なことは起きないのにも関わらず)もはや「ぶっ飛んでいる」様は、良くも悪くも戸惑ってしまうが、その戸惑いも含めて面白い映画なのだ。結末に限らず毒っ気はかなり強く、もはや変な笑いが出てしまうブラックコメディ的なシチュエーションもある。観終わってみたらやっぱり「この映画は一体なんなんだ!?」とやはり困惑する。そんな映画でもあるのだ。
5:権力者への戒めの物語なのかもしれない
物語を読み解くヒントがあるとすれば、トッド・フィールド監督が本作の発想について語った以下の言葉だろう。
「子供の頃に何が何でも自分の夢を叶えると誓うが、夢が叶った途端、悪夢に転じるというキャラクターについてずっと考えていた」
「リディア・ターは芸術に人生を捧げた結果、自分の弱みや嗜好をさらけ出すような体制を築き上げてしまったことに気づく。彼女はまるで全く自覚がないかのように、周囲に自分のルールを強要する。しかし、作家のジャネット・マルカムが言うように、『自覚していたとしても、非道は許されない』のだ」
なるほど、単純に解釈するのであれば「例え夢を叶えたとしても、他者に対して非道なことをしたり、一方的なルールを強要してはいけない」という、普遍的な権力者への戒めの物語とも取れるだろう。そのことを、指揮者という「コントロールする立場」の人間の視点で描くことには必然性がある。
ターの場合、周囲に対して厳しいことそのものは自覚しているようにも思えるのだが、それが度を越していることに彼女はどうやら気づいていないし、おそらくは積もり積もった自信があるがゆえになかなか反省しようともしない。たとえ、ターのように才能や努力でのしあがったという自信がなかったとしても、それは誰もが注意をしておかなければいけないことなのかもしれない。
おまけ:今年のアカデミー賞はアバンギャルドな映画が目白押し?
2023年のアカデミー賞受賞作&ノミネート作は、良い意味でアバンギャルドで変わった内容の映画が多い印象がある。ごく簡単に紹介してみよう。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』……主婦が確定申告中にマルチバースを救うためバトる映画。U-NEXTで配信中。
【関連記事】<考察>『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』から考えるマルチバース論
『イニシェリン島の精霊』……「なぜかよくわからないけど友達に嫌われている」ことから始まる閉鎖的な場所での大喧嘩。ディズニープラスで配信中。
『逆転のトライアングル』……だいたい性格が悪い人たちが船に乗り合わせて大惨事が起きる、通称「汚いタイタニック」。
【関連記事】アカデミー賞3部門ノミネートの『逆転のトライアングル』が超良い意味で「汚いタイタニック」だった件
『EO イーオー』……かわいいロバが人間の良い部分も悪い部分も知っていくロードムービーで、ロバ版『A.I.』または『2001年宇宙の旅』的とも言える内容。2023年5月5日より劇場公開中。
そんな中でも、冒頭に掲げたように「世界的な女性指揮者が精神のバランスを崩していくサイコサスペンス」と、それだけだとわかりやすく思える『TAR/ター』が、ぶっちぎりでアバンギャルドで変わった映画だとは思ってもみなかったのである。
しかし、これらの単純明快ではない、主体的に考えられる、奥深い内容の映画こそ、普通の映画に飽き飽きしている方にこそ観てほしいし、それこそ映画の多様な面白さであり魅力であるとも再確認できたのだ。ぜひ、劇場で『TAR/ター』を観てこその「この映画は一体なんなんだ!?」という衝撃を受けてほしい。
(文:ヒナタカ)
–{『TAR/ター』作品情報}–
『TAR/ター』作品情報
【あらすじ】
世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター(ケイト・ブランシェット)。彼女は天才的な能力とそれを上回る努力、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功する。今や作曲家としても圧倒的な地位を手にしたターだったが、マーラーの交響曲第5番の演奏と録音に対するプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんな時、かつてターが指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられた彼女は追いつめられていく……。
【予告編】
【基本情報】
出演:ケイト・ブランシェット/ノエミ・メルラン/ニーナ・ホス/ジュリアン・グローヴァ―/マーク・ストロング ほか
監督:トッド・フィールド
上映時間:159分
配給:ギャガ
映倫:G
ジャンル:ドラマ/音楽
製作国:アメリカ