<考察>『生きる LIVING』を読み解く“3つ”の視点

映画コラム

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誰が予想できただろうか?

黒澤明『生きる』を南アフリカ出身の監督がリメイク。脚本カズオ・イシグロでアカデミー賞にノミネートされる世界線を。

『生きる』は「死ぬまでに観たい映画1001本」において、黒澤明が偉大なるヒューマニストである証拠として掲載されている名作である。

30年も休まず働いてきた男が死を前に自分の人生を省みる。やがて、小さな公園を作るために尽力し、「生」を感じていく。シンプルなストーリーとは裏腹に、トリッキーな三幕構成となっている『生きる』を南アフリカ出身のオリバー・ハーマナス監督が映画化した。脚本はノーベル文学賞作家であるカズオ・イシグロ。一見すると全く結びつかない組み合わせだが、実際に観てみると上質なリメイク作となっていた。

今回は、以下の3つの観点から比較して『生きる LIVING』について掘り下げていく。

  • 黒澤明版『生きる』
  • カズオ・イシグロの小説
  • オリバー・ハーマナス過去作

本稿はネタバレを含むため、鑑賞後に読むことを推奨する。

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1.黒澤明版『生きる』から読み解く

■実はトリッキーな三幕構造

黒澤明版『生きる』の構造は極めてトリッキーである。

これはこの物語の主人公の胃袋である。噴門部に胃癌の兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない

(中略) しかし今、この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら、彼は時間を潰しているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないからである。

とナレーションが語り、志村喬演じる市民課長・渡辺の生き様が描かれる。余命僅かだと知った彼は、飲み屋で小説家に人生の楽しみ方を教えてほしいと懇願する。

ここから、非常に長い時間かけて快楽の世界に溺れながら虚無感を増幅させていく第二幕が始まる。パチンコにバー、ダンスホールを転々としながら快楽を覚えていく彼は、メフィストフェレスのような存在へと変貌を遂げる。やがて役所を辞めた部下・小田切を同じ道へ誘うものの、彼女からの拒絶をきっかけに正気を取り戻し、役所へ舞い戻る。

通常であれば、虚無の果てに生きる目的を見出した渡辺の活躍が描かれるはずだ。しかし、本作では第三幕へ入った途端、葬式の場面が映し出される。そして、通夜の席で役所の人間が渡辺の話をすることを介して、東奔西走しながら小さな公園完成を実現させていく彼の姿が綴られていくのである。

■《説明セリフ》の黒澤明版、《眼差し》のリメイク版

黒澤明版『生きる』では、説明セリフを中心とした人生論が展開されていた。ナレーションはもちろん、家族や職場の人間までもが渡辺の人生をジャッジしていく。例えば、小田切が仕事中に小話をする場面がある。休んだことがない労働者が、その理由をきかれる。自分がいないと仕事が回ってしまうことが怖いから休まないと答える。

社会の歯車となった者が自身の存在意義に苦悩する様を風刺したものであるが、渡辺は笑うわけでも怒るわけでもなくスルーする。明らかに自分のことを言われているにもかかわらず何も感じなくなってしまっているのだ。一度、無感覚になった者の心を動かすことは難しい。たとえ、死を目前にしても心を動かすことができない。

映画は徹頭徹尾、他者からのノイズを渡辺に送り続けていく。その中で、心動かされる瞬間が訪れる。無感覚を知っているからこそ一度エンジンがかかると、他者からのノイズに左右されることなく目標を達成していく。彼の人生を生きることとなる。つまり、黒澤明版『生きる』は説明セリフといったノイズを用いることで、「生きた時間とはなにか?」を観客に訴えかける作劇となっている。

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一方で、今回のリメイクでは眼差しが重要視された作りとなっている。 組織内のパワーバランスを維持するため、調和が求められる。この視点を強調するために序盤は、新入社員・ピーターを主軸に置く。出勤初日、先輩に話しかける。しかし、先輩は傘でもって彼の行動を制止する。

職場では、彼が話す度にピタッと周囲の動きが止まり鋭い眼差しが注がれる。調和を乱す存在としてピーターを凝視していることが画で表現される。これは後述する、終盤の職場の場面でも一貫して描かれる。ピーターに注がれる厳しい眼差しとそれに対する心理が、ウィリアムズの生き様と重ねあわさることで「生きた時間とはなにか?」を語り直そうとしているように見える。

カズオ・イシグロの小説と比較することで、この語り直しの正体が浮かび上がってくる。

–{2.カズオ・イシグロの小説から読み解く}–

2.カズオ・イシグロの小説から読み解く

■カズオ・イシグロ小説との共通点

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カズオ・イシグロはなぜ、リメイク版『生きる』の脚本を手がけたのか?

今回の執筆にあたって、何冊か彼の小説に触れてみた。すると、類似の物語が多いことに気付かされた。

「日の名残り」では、執事スティーブンスが新しい従業員として自分の父親ウィリアムと女中を雇う。父親は70歳を超えるベテラン執事である。ある日、女中がウィリアムの仕事ぶりを心配する。しかし、スティーブンスは彼女の心配を受け入れない。その結果、事故が発生してしまう。雇い主からウィリアムの仕事を減らすよう言われると、二つ返事で説得を試みる。組織の調和を優先するあまり、問題の本質に気づけず事故が起こってしまう様が描かれているのだ。

本作では、屋敷内で発生するこの問題を第二次世界大戦時にイギリスがドイツに対して行った宥和政策の失敗と重ね合わせている。

組織の流れに従順がゆえに盲目的になってしまう点は『生きる』と共通している。カズオ・イシグロの場合、システムの中で盲目的になってしまう人間を、組織(=ミクロ)/国家(=マクロ)の視点で描く傾向がある。

■「浮世の画家」との関係性

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今回のリメイク版『生きる』を分析する上で重要な作品がある。それが「浮世の画家」だ。

アトリエ武田工房は、外国人向けに日本画を制作している。短納期で大量に作品を納品できることを売りにしているせいで、従業員は睡眠時間2〜3時間の労働を強いられることとなる。外国人に「日本らしさ」は分からないと劣化していく品質。

そのような工房に中原が入社する。彼は職人としての質を貫こうとするので制作スピードは遅い。これが原因で「カメさん」と呼ばれイジメられる。この状況に疑問を持った小野は、中原に対するイジメを止めようとする。そして工房を去り名声を得るようになる。そんな彼も終戦とともに凋落していく。その原因が戦時中、国家に貢献できる絵画を提供しようとし、批判的視点を失ったからである。

デビュー作「遠い山なみの光」で、以下のように書いたカズオ・イシグロ。

いちばんいけないのは、自分の目で見、疑いをもつことを教えられなかったことです。日本は史上最大の不幸に突入してしまったのです
「遠い山なみの光」(早川書房、p208より引用)

そんな彼が、批判的な眼差しを持っていてもシステムに取り込まれ盲目的になってしまうケースを描いたものが「浮世の画家」なのである。

本作のエッセンスは『生きる LIVING』終盤のアレンジにて表現されている。第三幕、列車の中でウィリアムズの部下たちが彼の生き様を模範にする誓いを交わす。しかし、いざ案件が舞い込むと棚に仕舞われてしまう。「それは……」と声をかけるピーターに対しての眼差しは厳しいもので、部下たちがシステムに再び取り込まれてしまったことを示唆している。

まさしく、「浮世の画家」で描かれた《言うは易く行うは難し、継続するはさらに難しな世界観》をリメイクしているといえよう。

■舞台が1950年代イギリスなのはなぜか?

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ところで、『生きる LIVING』はなぜ1950年代イギリスを舞台にしているのだろうか?

本作の公式サイトによると、カズオ・イシグロは以下のように語っている。

「自分の人生において大切な作品である日本の名作『生きる』の英国版を誰か作ってくれないものかと、ずっと思っていました」とイシグロは言う。

(中略)

イシグロは以前からこのストーリーはイギリスでも通用するものだと感じていた。『生きる』は第二次世界大戦の敗戦国側を扱った作品だが、復興と再生という仕事は勝者にとっても同様であり、帝国の権利意識、禁欲主義、慎み深さなど、両国の間には類似性があった。
『生きる LIVING』公式サイトより引用

先述の通り、カズオ・イシグロの作品は国家と結びつけた作品が多い。今回の場合、システムに取り込まれていく上司像とイギリス史を結びつけることで、1950年代イギリスを舞台に映画化したことへの理解が深まることだろう。

1930年代、イギリスは宥和政策により、友好国であるチェコスロバキアを捨て、ナチス・ドイツによる制圧を許してしまう。その政策に反対する者がいた。チャーチルである。しかし、国の政策を非難する彼ですら流れに飲み込まれてしまう。多くの命を死にさらすと反対していたノルマンディー上陸作戦の敢行を許してしまうのだから。

イギリスは第一次世界大戦時にも、オスマン帝国に勝利した後の領土分割を巡ってアラブ、フランス、ユダヤ教徒それぞれに都合の良い協定を結ぶ三枚舌外交を行い、パレスチナ問題を複雑化した歴史がある。また1950年代のイギリスは、大きな政府により非効率な労働が蔓延していた。

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森川慎也は論文「カズオ・イシグロと理想主義」の中で、1960年代のイギリスは生活水準が向上し、「世界をより善くしていきたい」と考える理想主義の時代だったと語っている。その時代の影響を受けているカズオ・イシグロは70年代にホームレス支援を行っている。一方で彼の初期作品では、理想を過信するあまりに盲目的になってしまう人を描いている。それを一人称の語りによって気づかさせるギミックが用いられていると分析している。

森川慎也の論考を踏まえると、『生きる LIVING』クライマックスにおけるピーターの描写は理想主義を維持しようとする人物の危うさを描いているといえる。封殺されかけた案件に対して「それは……」と言うものの、周囲の空気に耐えきれず、手を引っ込めてしまったピーター。彼には「世界をより善くしていきたい」と思うあまりに周囲に合わせてしまう側面を持っているのだ。

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彼は恐らく、理想を持った状態で60年代を迎えるであろう。鈍化した労働環境も変えられるであろう。しかし、一歩間違えれば上司のように保守的な仕事をしてしまう。カズオ・イシグロはその危うさを、変容する時代の境界線である1950年代に立つピーターへ背負わせたのだ。

このように、カズオ・イシグロの小説は『生きる』と共通した人間心理を描いていることが分かる。だから、彼がリメイク版の脚本を手掛けることは必然であったといえる。そして黒澤明は「生きた時間とはなにか?」を問いかける物語を描いているのに対し、カズオ・イシグロは「世界をより善くとはなにか?」を問いかけている。

そのため、世界をより善くしようとする運動の影に潜む、社会システムに取り込まれてしまう人間の弱さが終盤であらわになるアレンジが施されているのだ。

–{3.オリバー・ハーマナス過去作から読み解く}–

3.オリバー・ハーマナス過去作から読み解く

■オリバー・ハーマナス監督って何者?

最後に、本作を監督したオリバー・ハーマナスについて掘り下げていく。

彼は報道写真家としてキャリアを始める。ケープタウン大学で学びやがてカリフォルニア大学から奨学金を受ける。2006年には、ローランド・エメリッヒ監督からの支援を受けてロンドン・フィルム・スクールの修士課程へと進む。2009年に『Shirley Adams』で監督デビューを果たす。

学校帰りに銃撃され障害を患ってしまった息子を、万引きと施しを受けながら育てる女性を扱った本作は、南アフリカ国内の映画賞South African Film and Television Awardsで監督賞を受賞した。

2作目の『Beauty(Skoonheid)』では、人種差別と同性愛嫌悪を公言している男の生き様を描いた作品を発表。同性愛嫌悪である一方で、自身も同性愛者であるフランソワは、友人の息子であるクリスティアンに恋をする。しかし、彼はフランソワの娘と付き合っていた。嫉妬に震えるフランソワは、娘に攻撃的になる。

ヒッチコックを意識したと語るオリバー・ハーマナスの描くショットは鋭利だ。白昼のビーチで遊ぶクリスティアンとアニカ。それを遠くからフランソワが見つめ、電話をかける。恐ろしい形相で彼女に脅迫を始める。この場面では『裏窓』を彷彿とさせる構図を用いて、一方的に眼差しを向ける者の抑えきれない衝動を表現しているのである。

この作品は前作同様、South African Film and Television Awardsで監督賞を受賞したほか、カンヌ国際映画祭でクィア・パルムも受賞。国際的に評価された彼は、次回作『The Endless River』でヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に選出されることとなる。

■『Moffie』との関係性

『生きる LIVING』では、新入社員が列車に乗って職場を目指すオリジナルパートから始まっている。この場面を読み解く上で、オリバー・ハーマナス監督の前作『Moffie』が重要となってくる。『Moffie』は『Beauty』同様、同性愛者を扱った作品である。『Beauty』は主人公の葛藤が加害へと向かう話であったことに対し、『Moffie』は抑圧へと向かう話となっている。

抑圧されていく自己を象徴的に表現する場面として列車が使われている。兵役に就くこととなった青年は、列車に乗る。車内は、暴れたり、嘔吐をしたり、酒を飲む青年たちで混沌としている。しかし、駅に着くと青年たちは一体となって車窓から罵声を浴びせている。その先にいるのは黒人だ。アパルトヘイト下において、黒人は強烈な差別の対象とされてきた。青年は傍観者として、暗黙的にこの暴力へと加担してしまう。

そんな彼が兵舎に着けば、同性愛者であることを隠し通さなければならない。隠しきれなければ、駅にいた黒人のように暴行を受ける可能性があるからだ。当事者として無数に向けられる男性の眼差しを掻い潜りながら彼は生き残っていく。

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車窓を鏡像に見立てたギミックは『生きる LIVING』でも活かされている。ピーターは車窓からウィリアムズを目撃する。若々しいピーターとは対照的に朽ち果てたような彼は、社会によって摩耗してしまった彼の将来を映す鏡のように映し出される。しかし、実際にはウィリアムズは改心し、社会をよりよいものにしていこうとする。

一方で、ピーターと同じボックスに座っていた先輩たちは、希望の誓いを交わすもののシステムへと取り込まれてしまった。列車の内外で類似の世界を形成しながらも、双方の世界にいる人の行動は正反対だ。似ているようで異なる世界の中、行動を選択していく。映画は彼が変わらぬ人たちが集うボックス席から飛び出し、窓の外にいるウィリアムズの方へと向かっていくような印象を与えるように、ピーターをブランコへと導き終わるのである。

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カズオ・イシグロの小説では、よく鏡像となる人物が登場する。「わたしたちが孤児だったころ」では、上海で暮らすイギリス人クリストファーの葛藤を強調する存在として、日本から上海へと移り住んだアキラが登場する。アキラの行動を通じて、アイデンティティの拠り所を模索している。

「浮世の画家」でも小野と中原の関係性が鏡像を形成している。類似の性質を持ちながら、異なる行動、対立関係が生み出される。カズオ・イシグロ作品の特性がオリバー・ハーマナス監督『Moffie』で演出された技術と化学反応を起こし、物語を強固なものへと昇華させていった。

オリバー・ハーマナス監督は現在『The History of Sound』の撮影に入ろうとしている。主演は『ゴッズ・オウン・カントリー』のジョシュ・オコナーと『aftersun/アフターサン』で第95回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたポール・メスカル。第一次世界大戦中を舞台に、アメリカ人の声や音楽を集めていく二人の青年を描いた物語とのこと。

この演出力の高さを踏まえると、次回作も期待したいところである。

(文:CHE BUNBUN)

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参考資料

–{『生きる LIVING』作品情報}–

『生きる LIVING』作品情報

ストーリー
1953年。第二次世界大戦後、いまだ復興途上のロンドン。公務員のウィリアムズ(ビル・ナイ)は、今日も同じ列車の同じ車両で通勤する。ピン・ストライプの背広に身を包み、山高帽を目深に被ったいわゆる“お堅い”英国紳士だ。役所の市民課に勤める彼は、部下に煙たがられながら事務処理に追われる毎日。家では孤独を感じ、自分の人生を空虚で無意味なものだと感じていた。そんなある日、彼は医者から癌であることを宣告され、余命半年であることを知る――。

彼は歯車でしかなかった日々に別れを告げ、自分の人生を見つめ直し始める。手遅れになる前に充実した人生を手に入れようと。仕事を放棄し、海辺のリゾートで酒を飲みバカ騒ぎをしてみるが、なんだかしっくりこない。病魔は彼の身体を蝕んでいく…。ロンドンに戻った彼は、かつて彼の下で働いていたマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)に再会する。今の彼女は社会で自分の力を試そうとバイタリティに溢れていた。そんな彼女に惹かれ、ささやかな時間を過ごすうちに、彼はまるで啓示を受けたかのように新しい一歩を踏み出すことを決意。その一歩は、やがて無関心だったまわりの人々をも変えることになる――。

予告編

基本情報
出演:ビル・ナイ/エイミー・ルー・ウッド/アレックス・シャープ/トム・バーク ほか

監督:オリヴァー・ハーマナス

公開日:2023年3月31日(金)

製作国:イギリス