『すずめの戸締まり』新海誠監督の優しさが沁みる「10」の考察

映画コラム

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すずめの戸締まり』は、新海誠監督の「使命」、そして心に沁みる「優しさ」をとても強く感じる作品だ。

細かい描写や小説版の記述、物語の結末を鑑みればみるほどに、そのことがよくわかる。その理由を、本編で「これってどういうこと?」と多くの人が疑問に思う部分に筆者独自の解釈を示しつつ、ネタバレ全開で「こうなのかもしれない」という解説・考察をしていこう。

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※本記事は『すずめの戸締まり』の内容・結末ならびに、小説版の一部のネタバレ、また入場者プレゼントの「新海誠本2」の一部の内容に触れています。作品観賞後にお読みいただくことをお勧めします。

1:鈴芽が標準語で話している理由は?

鈴芽は4歳の時に、叔母の環に「うちの子になろう」と言われて、九州の宮崎県に移り住んだ……はずである。しかし、環はもちろん、同級生も思いっきり宮崎弁を話しているのに、12年もその土地で過ごしたはずの鈴芽が標準語を話しているのはなぜなのか。

実は、小説版では鈴芽が天気予報を見て、「お天気お姉さんのイントネーションは完璧な標準語だ」と思う一幕がある。そこから、鈴芽は(おそらくは宮崎にやってきた日の4歳の頃から)意図的に標準語で話そうとしていたことが窺い知れるのだ。

では、なぜ鈴芽は標準語で話そうとしているのか。それは終盤で、環に「それ(心配されここまでついてきたこと)が私には重いの!」「私だって、いたくて一緒にいたんじゃない」と、つい心の奥底にあった、言ってはいけないことを言ってしまったこととリンクしているのではないか。鈴芽は、そのように過保護ぶりが重い環と「同じ言葉に染まりたくなかった」のではないか、と。

2:叔母の環の「キャラ弁」が象徴していた「重さ」

また、環は毎朝「キャラ弁」を作っており、同級生からも「出た、おばさん弁当」とからかわれていた。小説版では「(わざとじゃないが)お弁当をときどき学校に持っていくの忘れてしまう」「(Lサイズのランチボックスが)ずっしりと重い」などの記述もある。キャラ弁は環という存在の重さそのものであり、それから解放されたい鈴芽の心理も示していたのだ。

さらに、鈴芽は包帯の扱いについて「慣れているんだな」と草太に聞かれ、「お母さんが看護師だったから」と返している。母の椿芽とは4歳の時に死に別れているはずなのに、そこまでできるのは、やはり母と同じような人間になりたい、という願いがあり、日頃から看護師の仕事の「練習」をしていたからではないか。そこには、環から解放されたいという感情はもとより、自立したいという心情もあったのかもしれない。ラストに「看護師になるには」という本が映っており、明確に母と同じ職業を目指していることも示唆されていたのだから。

なお、小説版では旅が終わった後、「環さんと口げんかすることが増え、でもそれはどこか気持ちの良い思考の交換作業でもあった」「作るお弁当は相変わらず凝りに凝っていた」という記述もある。相も変わらず環の鈴芽に対する感情は重いが、(言ってはいけないものとはいえ)本音を一度は交わしたことで、お互いに軽い不平不満を言い合え、より良い仲になった、ということなのだろう。

ちなみに、RADWINPSによる未使用楽曲に「Tamaki」があり、こちらでは環の心情が表れていて、良い意味でとてもしんどい激重ソングだった。劇中で使われなかったことも納得だったので、ぜひ聞いてみてほしい。

–{鈴芽のそばで舞っている二匹の蝶の意味は?}–

3:鈴芽のそばで舞っている二匹の蝶の意味は?

劇中では、「二匹の蝶」が鈴芽の近くで舞っている、もしくは止まっているシーンがいくつかあることにお気づきだろうか。

(1)目覚めた鈴芽の周りに舞っている

(2)バス停で待っている時、逆さに止まっている(アップで映る)

(3)東京で地震が起こる時に、飛び立っている(アップで映る)

(4)東北に向かった道中、芹澤が「こんなに綺麗な場所だったんだな」と話す場面でも舞っている

(5)常世で鈴芽と幼い頃の鈴芽が出会った時、初めは大きくなった鈴芽のところにいた二匹の蝶は、3本脚の椅子のところに移動する。その後に蝶は、椅子を渡された幼い頃の鈴芽と、大きくなった鈴芽のところ、それぞれに一匹ずついる

小説版では、子ども用の椅子を作るときに母の椿芽から「ピンクと青と黄色、どれが好き?」と問われ、幼い頃の鈴芽はモンキチョウがお母さんの後ろで舞っていて、すごく可愛いと思ったから「きいろ!」と答えていた、とも書かれている。

また、幼い頃の鈴芽が使っていた日記帳の表紙はアゲハチョウでもあった。アップで映る(2)と(3)も同じくアゲハチョウ。それ以外で鈴芽のそばで舞っているのは、おそらくはモンキチョウなのだろう。

これらの蝶が示すものとは何だろうか。仏教で蝶は魂を運んでくれる存在であり、ギリシャでも魂の象徴ともされていることなどから、二匹の蝶は鈴芽の両親の魂であり、鈴芽を見守ってくれているのではないか、といった考え方もできるだろう。

また、荘子の「胡蝶の夢」は「現実と夢がはっきりと区別できないこと」、転じて「人生の儚さやうつろい」を意味する説話だ。鈴芽が4歳の時に、大きくなった自分と出会ったこと、その夢か現実かもわからないことを覚えている状況そのものを蝶は示していたのかもしれない。

筆者個人は、蝶が幼い頃の鈴芽と、大きくなった今の鈴芽、それぞれの近くに舞っていことから、やはりこの物語が最初と最後で繋がっている、後述するように幼い鈴芽が「光の中で大人になっていく」こと、彼女への祝福を意味しているのではないか、と思えた。

4:ダイジンの意味は「大臣」だけではない

災いを封じる役割を担う「要石」が変化した姿であるダイジンは、さまざまな「含み」のある存在だ。劇場パンフレットによると、強大な存在で大事な役割を担っているということで「大臣」という漢字が当てられていて、同時に「大神(ダイジン)」の意味も込められているという。

さらに、神戸のスナックでは、小説版、またバリアフリーの字幕にて、ダイジンは大臣でも大神でもなく、「大尽」という漢字が当てて呼ばれている。「大尽」とは「たくさんのお金を使って豪遊するお客」のことだ。

また、愛媛の旅館でも、神戸のスナックでも、「珍しく客入りが多い」ことが語られている。ダイジンは明らかに「福の神」的な効果をもたらしているのだ。

また、ダイジンと終盤に登場するサダイジンは、人とのコミュニケーションが「できる」というよりも、地震を鎮める目的のために人とのコミュニケーションを「必要」としているようにも思える。(ひょっとするとダイジンはSNSでバズって鈴芽に気づいてもらうことも計算ずく?)

事実、来場者プレゼントの「新海誠本2」にて、ダイジンとサダイジンは地震を封じる役目は自分たちだけは果たせないから、人との共同作業で産土(うぶすな)という土地の神を鎮めようとしている、と書かれている。ダイジンは後ろ戸の場所へ鈴芽と草太を導いていたし、サダイジンが環に本音を言わせたのは鈴芽との関係を前に進めさせるためだったのだそうだ。人との協力が必要な神様、というのも発想として面白い。

–{叶えられなかったダイジンの願い}–

5:叶えられなかったダイジンの願い

ダイジンは神様であると共に、鈴芽の「願い」を体現しているとも解釈できる。そのいちばんの理由は、初めて鈴芽の目の前に現れた時、痩せ細っていたはずのダイジンが、「ねぇ、うちの子になる?」と聞かれた途端に喋り出し、ふっくらとした体つきになっていたことである。

さらには、草太が要石になった後に鈴芽に「大っ嫌い!」と言われると、ダイジンは痩せ細ってしまう。しかも、最後に常世に行く直前に「後ろ戸にあるところへ案内してくれていた」とわかったダイジンへ「ありがとう!」と鈴芽が言った瞬間、またふっくらとした体つきになる。ダイジンは、明らかに鈴芽の気持ちによって変化する存在なのだ。(痩せ細ったダイジンは環と芹澤へ「うるさい!」と喋ったことはあったが、その後に鈴芽に「ねぇ、なんで喋らないの」と問われても答えないこともあった)

そして、鈴芽が環へ「私だっていたくて一緒にいたんじゃない!」「環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!」と言った時、ダイジンは驚いて顔をこわばらせている。ダイジンは鈴芽から「うちの子になる?」と何気なく言われたからこそ鈴芽が好きになったのに対して、鈴芽は環から「うちの子になる?」と本気で言われることを望んでいなかった。そのような残酷な対比が、そこにはある。

ダイジンは最後に「すずめのこにはなれなかった」「すずめのてで(自分を)もとにもどして」と言って、本来の要石の姿に戻る。ダイジンは鈴芽にとって草太がどれだけ大切な存在であったがわかった、草太と共に生きたいという願いを受け取ったからこそ、ほとんど自己犠牲的にそうすることを望んだのだろう。

鈴芽のその願いのためには、要石に戻るしかない。自分は鈴芽の子どもになりたくてもなれないけど、そうするしかないんだ。それに、鈴芽だって、誰かの子どもになることを望んではいなかったんだから。そのように、ダイジンは思っていたのだろう。

 6:ダイジンは鈴芽の願いそのものかもしれない

そう考えると、改めてダイジンがかわいそうで、あまりに救われないとも思ってしまう。だが、ずっと要石であったダイジンにとって、その言葉を投げかけてくれた鈴芽と、5日間だけでも共に旅ができたことを、束の間でも幸せに感じていた、という解釈もできるだろう。

そして、筆者個人は、ダイジンは固有の自我や人格を持つ存在というよりも、やはり鈴芽の願いそのものだった、という説を推したい。

その根拠のひとつは、世界のあらゆる神は、逆説的ではあるが「人が存在していると考えたからこそ存在している」ということだ。日本では「八百万の神」という森羅万象に神を感じる古来の考え方があるし、はたまた動物に限らない無機物にも霊が宿っているという「アニミズム」の概念もある。ネコに姿を変えたダイジンは、そうした世界的にある神や霊を神に見立てた考えと同様、いや人格化した存在であり、やはり「願ったからこそ存在している」のではないか、と。

さらなる根拠は、マクドナルドのハッピーセットの、公式スピンオフ絵本『すずめといす』にもある。こちらでは鈴芽の幼少期の思い出が描かれていて、そこでは(草太の人格ではない)まだ4本脚のままだった子どもの椅子が、鈴芽と一緒に母の椿芽のために料理を作る姿が描かれている。そこで、鈴芽がどうして喋れるのか、歩けるのかと聞くと、椅子は「すずめが、ぼくをともだちだとおもってくれたからさ」と答えているのだ。



この絵本における椅子は、幼少時の鈴芽のイマジナリーフレンド(想像上で作り出した友達)でもあるのだろう。この時に椅子の言った「ともだちだとおもってくれた」ことと、後に大きくなった鈴芽が「うちの子にならない?」とダイジンに言ったことは、やはりリンクしているように思う。どちらも鈴芽がそう思ったから、そうなろうとする存在なのだ、と。

また、鈴芽も口では環へひどいことを言ってしまったし、過保護ぶりが重いと思っているのも事実ではあるけれど、潜在的には叔母の環の子どもになってもいい、好かれたい、という気持ちも同居していたのではないか。それが、鈴芽の子どもになりたいという、ダイジンの願いにも転換したようにも思えたのだ。

そう考えれば、要石に戻ったダイジンを憂わなくても大丈夫なのではないか。ダイジンは人格や自我を持っているというよりも、鈴芽自身、またはその願いが具現化した姿である、と思えば。それに、また、いつの日か、ダイジン(=鈴芽の願い)は姿を変えて、鈴芽のところに現れることもあるのかもしれない。

ちなみに、新海誠自身は、要石の正体については明確な設定はないことを前提にしつつ、ダイジンについて「子どもの閉じ師だったんじゃないかと思いながら脚本を書いていた」「元は人間だったこともあるのかもしれない」などとティーチインで語っていたこともある。前述してきたことは、筆者の個人的な「こうだったらいいな」という一方的な考察に過ぎない。観た人が、それぞれの思うダイジンの幸せや、またはその後(また以前)の物語を、想像してみるのもいいだろう。

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–{「未来」ではなく「明日」と言った理由}–

7:「未来」ではなく「明日」と言った理由

本作のラストで、大きくなった鈴芽は、4歳の頃の鈴芽に「あなたは光の中で大人になっていく」などと、「生きている未来の自分から」、それが「決まっている」ことが告げられている。

ここで、大きくなった鈴芽は「私は、鈴芽の、明日(あした)」と自己紹介する。ここで「(12年後の)未来」ではなく「明日」と言ったのは、明日が「1日後」だけを意味するのではなく、「明日があるさ」などの言い回しに代表されるように「希望」に転じる言葉だから、ということもあるのだろう。

また、「明日」は繰り返し繰り返しあるものだ。その明日を繰り返した結果としての、今の鈴芽がここにいるのだと、大きくなった鈴芽は教えたのではないか。彼女は実際に、「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して……」とも言っているのだから。

また、新海誠監督作品では、『秒速5センチメートル』や『天気の子』で「大丈夫」という言葉が出てくる。それは登場人物を鼓舞すると同時に、作品を観る観客へも贈られている。それは、具体的に「大丈夫」という言葉が使われていなくても、実は新海誠作品の全てで共通している精神性でもあったように思う。

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今回の『すずめの戸締まり』では、もともとは「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と3回繰り返すいう案もあったそうだが、それを「明日」という、それ自体が「(大丈夫の)繰り返し」も意味する言葉として打ち出したのも、見事だと思うのだ。

さらに、「新海誠本2」によると、椅子が3本脚になっているのは、鈴芽の(震災や母を失った)心の傷や欠落も表現しているそうだ(3本脚になった理由そのものは津波に巻き込まれたから)。だからこそ、大きくなった鈴芽が「3本脚でもきっと立てる」みたいなことを幼い頃の鈴芽に言って渡すという流れも考えていたが、結局はやはりグッとシンプルな「鈴芽の明日」になったという。「明日」という、ただひとつの言葉には、これほどの多くの意味があったのだ。

8:「自分自身に言ってあげる」は新海誠監督の成熟か

もう1つ、やはり重要なのは、ラストで鈴芽が自分自身に言ってあげている、ということだろう。それは、これまで「他者との出会いにより自分が変わることができる」という考えを持っていた、新海誠監督という作家の成熟とも考えられないだろうか。たとえば、過去に新海誠監督は、このように語っていたこともあったのだから。


「いつまでも今のままの自分でいたいと思っている人って、多くはない気がします。自分はこう変わりたい、こういう人生を送りたいという気持ちを、皆切実に抱えていると思うんです。それらを叶えてくれるものは、他者との出会い以外にありえないのではないでしょうか。自分1人で内発的に人生を変えていくことは難しいと思います」

「新海誠の世界 時空を超えて響きあう魂のゆくえ」榎本 正樹 著 KADOKAWA 394Pより


そんな新海誠自身が、日本のさまざまな土地を渡り歩いて、それぞれの場所で他者と出会って、そして最後に「自分自身」に出会って、そして変わる物語を作ったのだ。

また、新海誠監督は、これまでの作品で、時には過剰に感じてしまうほどにたくさんのモノローグを入れていた、転じて「自問自答」をする作家だったと思う。だが、今回の『すずめの戸締まり』には、鈴芽が母の椿芽が椅子を作った時の夢を見た後の「(椅子を)大事にしていたの、いつまでだっけ」以外では、モノローグがなくなっている。

自分自身に向き合うことを、モノローグという手法ではなく、文字通りに「自分に会う」ことで描くということ、そして(過去の)自分に出会ったことで成長する物語を描いたことも、感慨深い。

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–{「運命は決まっている」からこその優しさと、連想する作品}–

9:「運命は決まっている」からこその優しさと、連想する作品

『すずめの戸締まり』は「光の中で大きくなっていく(生きてゆく)」という「決まった未来」転じて「決まった運命」を肯定する物語だ。

この『すずめの戸締まり』の精神性は、実は危険で、曲解されやすいものでもあると思う。何しろ、世の中の出来事があらかじめ「そうなる」ように定められているというのは、一種の「運命論(決定論)」的でもある。作品によっては、運命論は人間の力が介在できない、努力なんか無駄だ、といったネガティブなものとして捉えられることもよくあり、その運命をむしろ乗り越えていく人間の力や気高さを描くこともある。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(特に第6部の『ストーンオーシャン』)はその代表だろう。

だが、『すずめの戸締まり』はそれとは良い意味で全く真逆だ。「必ず同じ結果になる」からこそ、前述したように新海誠監督作に通底する「大丈夫」だという言葉を、しかも「繰り返し」という意味も含んでいる「明日」へと転換している。それは、過去の自分に会うことができるファンタジーの物語だけでなく、現実の今に生きている人すべてに当てはまる、そして届けるということに、本作の優しさがある。この映画を観ているあなたも、大きくなった鈴芽が、幼い頃の鈴芽に言ってあげたように、光の中で大きくなった、だから大丈夫なのだ、と。

ここから思い出されるのは、新海誠監督が好きなSF短編小説『あなたの人生の物語』だ。実は、新海誠監督は、その映画化作品『メッセージ』を試写で観た時の感想をつぶやいており、それは予告編の冒頭でも使われている。



『あなたの人生の物語』を未読、または『メッセージ』を未見の方のために詳細は秘密にしておくが、両者とも『すずめの戸締まり』と非常に近い精神性、そして物語構造を持っていることは告げておこう。そして、運命論的な価値観を、極めて論理的に、かつ「優しさ」込みで提示していることも、共通しているのだ。『すずめの戸締まり』が気に入った人に、ぜひ読んで(観て)いただきたい。

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10:震災を経て、「生きている人」にエールを送る

前述した「光の中で大きくなっていく」というメッセージは、とことん「生きている」人に向けられているものだ。逆に言えば、それは死んだ人に向けられてはいない。多くの方が亡くなった東北大震災を扱っていながらひたすらに今生きている人へのみエールを送ること、そもそもの東北大震災をエンターテインメントを通じて描くアプローチに、賛否両論はあってしかるべきだろう。

だが、その作品の姿勢こそ、筆者個人は支持したい。そのいちばんの理由は、主人公である鈴芽と、そして草太が、共に「生きている自分を大切にしていなかった」からだ。

鈴芽は旅の道中で、立ち入り禁止の看板を飛び越えたりと危険な行為ばかりしていて、草太に「死ぬのが怖くないのか?」と問われ「怖くない!」と即答していたこともあった。さらに「生きるか死ぬかなんて、ただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思っていました」と言う場面もあった。

草太も草太で、教師を目指しながら、「大事な仕事は人からは見えないほうがいい」という名目で、閉じ師の仕事だけでは生活できないが「両方やるさ」と言っていた。そのくせ、教員採用試験の直前に閉じ師の仕事のためのに九州に渡っており、椅子になってしまったから仕方がないとはいえ試験をすっぽかしてしまう。草太は友人の芹澤に「あいつは自分の扱いが雑なんだよ」と言われていたように、きっと普段の生活でも、自分を大切にしない行動ばかりをしてきて、芹澤に心配されていたのだろう。

だからこそ、鈴芽が「草太さんがいない世界が、私は怖い!」と言ったこと、草太が「もっと生きたい、死ぬのが怖い!」と願ったことは呼応している。

「死ぬのが怖くない」というのは、「死んでも構わない」という考えと、さほど違いはない。生きているのに、そう思ってしまうこと、自分を大切にしないことは、何よりも悲しいことではないか。震災から生き残ってサバイバーズ・ギルトを背負っていたであろう鈴芽と、震災を防ぐ仕事を受け継ぎ身を犠牲にしている草太は、共にそうなのだ。草太の祖父の羊朗に右腕がないこともその「犠牲」を示していたのだろう。

鈴芽と草太が、ただ「生きたい」と願うこと、それでいいんだと肯定することこそ、この物語でもっとも重要だったと言っても過言ではないだろう。

だからこそ、鈴芽が「行ってきます」と言い最後の戸締まりをして、物語のラストに草太に「おかえり」と言うことも、深い余韻が残る。鈴芽はこの旅で、慌てて椅子になった草太とダイジンを追って宮崎の家から出発した時も、草太の部屋から制服に着替えて再出発をした時も「行ってきます」は言えなかった。だが、過去の自分に出会って、「生きている自分」を肯定してから、やっと言えたのだ。

そして、「おかえり」は、東北大震災で亡くなった人たちが言えなかった言葉でもある。それはとても悲しいことだ。劇中でも、東北で過去の人々が「行ってきます」「行ってらっしゃい」と言っていたが、「おかえり」や「ただいま」と言う場面はない(その場面での最後の「行ってきます」は鈴芽の母の椿芽のものだったようだ)。

だが、鈴芽は生きているからこそ、草太に共に旅をして、そして「おかえり」が言えた。だからこそ、『すずめの戸締まり』は「生きている人」へのエールの作品なのだ。「行ってきます」と「おかえり」、それが言い合えることこそ、奇跡なのだと。

もちろん、そのメッセージは、現実で東北大震災で被災した人、大切な誰かを亡くした人を、傷つけてしまう可能性もある。もしかすると、欺瞞だと怒る人もいるかもしれない。だが、鈴芽と草太のように「死んでもいいと思ってしまっている」「自分を大切にしていない」人にとって、それは福音になり得る。それこそ、『すずめの戸締まり』という作品の役割であり、それを成し遂げることが新海誠が背負った「使命」なのではないか。

改めて、もう一度、繰り返し言おう。『すずめの戸締まり』は、全ての「生きている人」に向けられた、とても、とても優しい作品なのだ。

(文:ヒナタカ)