2022年11月11日より、映画『あちらにいる鬼』が公開されている。作家の井上光晴とその妻、そして瀬戸内寂聴をモデルとした作品であり、原作小説を井上光晴の娘である井上荒野が執筆している。
ポスターのイメージなどから「落ち着いた感動的な人間ドラマかな」と思うかもしれないが、実際の本編はとんでもなかった。寺島しのぶ・豊川悦司・広末涼子による三者三様の「普通は理解できない人間」の説得力が半端なく、性的な描写によるR15+指定も納得の「超劇薬映画」だったのだから。
そもそも『あちらにいる鬼』というタイトルからして不穏であるし、「愛という言葉を持ち出せば、すべてが許されるのだろうか。」というキャッチコピーも「単純ないい話ではないですよ」という注意書きのようだ。
実在の人物、それも原作者にとっての母と父と「父の不倫相手」の物語を、(アレンジや創作の部分もあるとはいえ)よく小説として書いて、映画化したものだと感嘆せざるを得なかった。
豊川悦司の色気と、ド直球の嫌悪感
本作の物語を端的に言えば「夫の不倫を黙認して平穏な夫婦生活を続けていく」というもの。豊川悦司演じる作家・白木篤郎(モデルは井上光晴)は妻を放っておいたまま、ありとあらゆる女性を口説き、抱いて、時にはあっさりと捨てていく……有り体に言って、クズ野郎なのだ。
驚いたのは、作り手がそのクズぶりを隠そうともしないどころか、ド直球に観客へ「嫌悪感」をぶつけてくることだ。何しろ、映画冒頭で「2回も子どもを堕胎し、自殺未遂をした愛人」が登場する。蓮佛美沙子が演じた、自身を廃人と呼ぶほどに憔悴した、愛人の絶望の表情を、忘れることができない。その愛人に対しての白木篤郎の言動もまた嫌悪感を倍増させる。
加えて悔しいのが、「確かにこれはモテるのだろう」と思えるほどの色気が豊川悦司にはあり、目の前の誰かを籠絡させる魅力の持ち主という説得力もあることだ。「クズなのに魅力的で見逃せない」おかげで、感情がぐちゃぐちゃになっていくような感覚があった。
そんなクズの豊川悦司への共感度は個人的には完全無欠の0%だったが、他の登場人物もまた、「50年ほど前の当時の価値観としては」という枕言葉がなくてもいいほどに、「おかしい」と思ってしまうものだった。
広末涼子の生気のなさと、不倫をする夫への尊敬と愛情
広末涼子演じる妻は「流されるまま」に、夫の不倫を受け入れているようにも見える。特に、前述した自殺未遂をした愛人と話し合う場面で、広末涼子は「耐える感情、悲しむ表現、妻として複雑な想いは、極力表情に出さないように意識して演じた」と語っており、その目はほとんど「死んでいる」ように見えるほどに輝きがなく、その表情は何かを「諦めたように」すら見える。
「生気のない人間の顔はこうなるのか」という衝撃もあったが、意外というべきか、広末涼子はこの役を演じるに当たって、「夫への尊敬と愛情」に軸足を置いていたという。彼女は夫の全てを理解したいと願い、はたまた精神的に一体化することで、自分自身の安息の場を求めているのではないか。さらに、浮気(不倫)という出来事にさえ、どこか客観的に、彼の魅力として捉える感覚もあったのかもしれないなどと、分析していたという。
本来ならば嫉妬や激怒をするはずの不倫を「魅力」と捉えるなんて、やはり通常の感覚からすれば理解できないものだろう。だが、そこに大胆にアプローチして、実際に見事に表現した広末涼子が、良い意味で恐ろしく思えるほどだった。
–{寺島しのぶの生き様の魅力と、単純な言語化ができない衝撃}–
寺島しのぶの生き様の魅力と、単純な言語化ができない衝撃
実質的な主役である、寺島しのぶ演じる長内みはる(モデルは瀬戸内寂聴)もまた、「不倫相手」という前提があるからこそ、やはり簡単には感情移入はできない人物だ。だが、屈託のない笑顔はチャーミングで憎めず、奥ゆかしく見える一方で自由奔放でもある「生き様」も魅力的に思えてしまう、ある意味で豊川悦司演じる白木篤郎とも似たキャラクター(だからこそ2人は惹かれ合った)とも言える。
寺島しのぶは自身の演じたことの役について「“すごく生きてる”っていう人」「無駄がない生き方というか、やりたいことは全てやるし、突き進むし、我慢しない」などと、魅力を語っている。これらの言葉は確かに実際の瀬戸内寂聴のイメージに近いし、見た目そのもの全く異なっていても、「瀬戸内寂聴=寺島しのぶ」に本当に見えてくる。
白眉となるのは、やはり「出家」をするまでの一連のシーンだろう。もちろん「髪を剃って」尼さんになるわけだが、そのシチュエーションそのものと、寺島しのぶの表情に鳥肌が立った。美しいとか、哀しいとか、単純な言語化ができない衝撃も、そこにはあったのだから。
「他の人とは違う」価値観を描く
振り返っても、やはり「夫の不倫を黙認して平穏な夫婦生活を続けていく」物語は、個人的にはどうしても共感はできないし、拒否反応を覚えてしまう人は多いだろう。だが、そうした「他の人とは違う」価値観を描くことこそ、本作の意義なのではないか。それをはっきりと示した、原作者の井上荒野と、豊川悦司の言葉を、少し長めではあるが引用しておきたい。
井上荒野「一般的には夫に愛人ができたら、相手の女を憎むのが普通だと思われているけれど、普通なんてどこにもないんですよね。どういうふうに思い、どういう態度で処するかは、人の数だけ違うんだなと思います。もともと母は、父の他の女の人のことを私たちの前で悪く言ったことはないんです。きっと、怒るとしたら父に対してであって、寂聴さんに対してはむしろ、どうしようもない男を愛した者同士としてのシンパシーがあったのかなと思います。寂聴さんのことはむしろ好きだったんじゃないかな」
※朝日新聞の本の情報サイト「好書好日」2019年2月8日公開の記事「作家・井上光晴とその妻、そして瀬戸内寂聴…長い三角関係の心の綾 井上荒野さん「あちらにいる鬼」より抜粋
豊川悦司「今、この関係を日本で成立させようとしても、数の論理でバッシングされ、否定されてしまうでしょう。でも、文化というものが実在するとしたら、数の論理で否定してしまう風潮が一番の敵なんじゃないかなと思います。5人いて4人が『これは良くない』『これは正義じゃない』と言うと、残りのひとりはもう何も言えなくなる。そういう同調圧力がどんどん広がってきている。でも、文化というのは、こんな愛し方っていうのもある、こんな関係もあると、世界で、たったひとりで立っている人に向かって語りかけ、それについて自由に考えるものであってほしい」
※マスコミ向け資料より抜粋
確かに、不倫を黙認することを含め、愛の形は人それぞれだろう。もちろん、本作で描かれた関係を理解できない方は、そのままでもいいとも思う。ただ、「こういう関係がある」ことを知ることは、それだけでも意義のあることなのではないだろうか。
なお、『あちらにいる鬼』というタイトルは、登場人物が「鬼さんこちら」と、まさに鬼ごっこをしているような感覚も表しているのだという。3人が3人ともが鬼であり、楽しんで鬼ごっこをしていた人生を送っていた考えると、彼らのことを少しだけでも理解できる……?のかもしれない。
ドキュメンタリー映画『全身小説家』も要チェック
余談ではあるが、作家・井上光晴を追ったドキュメンタリー映画に、原一男監督の『全身小説家』(1994)がある。
こちらは、「いかに井上光晴を崇拝しているのか」という彼の生徒たちの語りが続く様に圧倒される内容だった。しかも井上光晴が「虚言癖」を持っていたこともつぶさに語られるのだが、それもまた「嘘を含めてその人を愛する」という価値観へと転換していき、さらに彼が描いている「嘘そのものの小説」のフィクション性をも肯定していくようでもあった。
『全身小説家』と『あちらにいる鬼』を合わせて観れば、井上光晴と、その周りにいる人たちに「すごい人生を送っている」「こんな愛の形があるのか」と、ある種の畏怖の念を抱くのではないだろうか。ぜひ「他の人とは違う」価値観に触れる、貴重な体験をしてみてほしい。
(文:ヒナタカ)
–{『あちらにいる鬼』作品情報}–
『あちらにいる鬼』作品情報
【あらすじ】
1966年、講演旅行をきっかけに出会った長内みはると白木篤郎は、それぞれに妻子やパートナーがありながら男女の仲となる。もうすぐ第二子が誕生するという時にもみはるの元へ通う篤郎だが、自宅では幼い娘を可愛がり、妻・笙子の手料理を絶賛する。奔放で嘘つきな篤郎にのめり込むみはる、全てを承知しながらも心乱すことのない笙子。緊張をはらむ共犯とも連帯ともいうべき3人の関係性が生まれる中、みはるが突然、篤郎に告げた。「わたし、出家しようと思うの」。
【予告編】
【基本情報】
出演:寺島しのぶ/豊川悦司/広末涼子 ほか
監督:廣木隆一
上映時間:139分
配給:ハピネットファントム・スタジオ
映倫:R15+
ジャンル:恋愛
製作国:日本