『バブル』ほど不遇な評価を受けたアニメ映画は、未だかつてなかったのではないだろうか。
筆者は、そう思うほどに、本作のことが大好きだ。それどころか、一生大切にした作品になった(一緒に観ていた5歳と6歳の甥っ子も気に入っていた)。実際に、劇場公開が開始してからは、SNSでスクリーン映えをするアクションや映像表現はもちろん、作品を奥深く読み込んだ上での賞賛の言葉も相次いでいる。
だが、本作はNetflixでの先行配信が開始してすぐに悪評が悪評を呼んでしまった、評判そのものが一時的に負のスパイラルに陥ってしまっていた印象がある。詳しくは後述するが、本作は人によってはネガティブに捉えやすい、拒絶反応を覚えやすい特徴が確かにあり、否定的な意見も十分に理解できる。映像に没入しにくい家で観る環境では、表面的な要素ばかりが捉えられやすかった、ということもあるのではないか。
だが、本作に限らず「周りの評判が悪いから観ない」というのは、とてももったいないことだ。圧巻の映像表現やアクションはもちろん、物語としても間違いなく「ささる人にささる」内容であり、現実で生きる力を得る人もいるはずだ(筆者がそうだ)。そうでなければ、今になって「評判の悪さは聞いていたけど観てみたら面白かった」「良い映画じゃないか」といった意見が、これほど多くあがることはないはずだ。
そして、『響け!ユーフォニアム』などで知られる武田綾乃によるノベライズ版が、掛け値なしに傑作だと断言できる内容だった。キャラクターの掘り下げ、重要なエピソード、示唆に富む哲学的な問答、気になっていた設定が事細かに書かれており、映画だけではモヤモヤしていたところが、全て「好き」へと変わっていったので、ぜひ多くの人に読んでほしい。何より、後述する“普通”になれないマイノリティーとしての悩みを持つ主人公のヒビキの気持ちがより深くわかって、彼のことが大好きになった。読んだ上でもう一度映画を観て、そして泣いた。
現在、『バブル』は公開3週目にしてほとんどの映画館で1日1回のみの上映となってしまっているが、まだ間に合う。可能であればスクリーンで堪能してほしいと、心から願う。その理由は、アクションやボイスキャストの魅力も解説した、以下の記事も参考にしてほしい(ちなみに、Netflix版と劇場公開版ではオープニング映像が異なっている)。
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Netflixで観る場合も、スマホやタブレットではなく、できる限り大きなモニターと優れたサウンドシステム(ヘッドホン)を用意してほしい。以下からは、筆者が本作を繰り返し観て、やっと気づくことができた、大好きになれた理由について、初めはネタバレなしで、途中からネタバレを含めて、たっぷりと考察・解説をしていこう。
1:“普通”には生きられない、マイノリティーたちの物語
『バブル』の劇中では、謎の“降泡現象”により荒廃した東京の街で、危険なパルクールのバトルをしている若者たちの姿が描かれる。重要なのは、彼らが“普通”には生きられない、だからこそ、この地にいるということだろう。
例えば、劇中では彼らの多くが身寄りを失った孤児であり、本来は不法滞在者でありながら特別に免除されていること、年長者のシンからは「外の世界はあいつらにとって息苦しいのさ」ということが語られている。
加えて、キャラクターの中には何らかの欠落や障害を抱えた、あるいはそれに類する者がいる。主人公のヒビキは聴覚過敏のためにヘッドホンが手放せない。シンは事故により片足が義足になっている。アンダーテイカーのリーダーはAI音声のみで話す。関東マッドロブスターのリーダーは柔らかいグッズ(おそらく「ライナスの毛布」的なもの)の匂いを嗅いでいたりもする。そして、ヒロインのウタは人ならざる存在であり、触れられると消えてしまうかもしれない(ハイタッチを拒んでいたりする)ことも描かれている。
彼らがずっとそのパルクールに興じているばかりでいられない、いわゆる「モラトリアム」の状態であることも、主人公のヒビキの「いずれここは出ていく、でも今すぐは行けない」というセリフからもわかる。リーダーのカイが「海技士試験」の問題集を読んでいるのは、現状で船の運転をするためだけでなく、自分の将来を考えているからではないか。
「変わってしまった世界で今できること」、劇中の若者たちにとって、荒廃した東京の街でのパルクールは、まさにそれだったのだのだろう。もちろん、東京の外の世界、マジョリティー側で生きることもできるはずなのだが、彼らはそうしなかった。いや、そうできないでいたのだろう。『バブル』はそんなマイノリティーである彼らの、そして主人公のヒビキが(後述もするが)“自分”を肯定できるようになるまでの物語でもあるのだ。
2:変わってしまった世界で“できることをする”若者たちの姿
『バブル』の「未曾有の事態により変わってしまった世界(東京の街)」はコロナ禍の現実を思わせるし、彼らが(退廃的であるが)美しいその場所で、パルクールでできる限りの力を発揮する様は、「NEO合唱」と銘打たれた2020年のポカリスエットのCMも連想した。コロナ禍の初期にリモートでしか会えないことを逆手に取って、「今」だからこその表現をする若者たちの姿は、とても感動的だ。
もちろん、ポカリスエットのCMとは違って、『バブル』の劇中の若者たちは誰かに見せるためにパルクールに興じているわけではないし、犯罪行為までして世界中に配信するアンダーテイカーはむしろ明確に不快な存在として描かれていたりもする。だが、この「映画」を観ている観客には、やはりパルクールをしている姿そのものが、美しいものとして映る。
『バブル』の企画はコロナ禍の前にスタートしており、その現実の世相を鑑みたものではないのだが、変わってしまった世界(東京の街)も含めて、その世界でこそできることを全力でやり切る人々が、輝かしく尊いものとして思えること。それが『バブル』が目指したことのひとつなのではないか。
※これより『バブル』の結末を含む本編のネタバレに触れています。鑑賞後にご覧ください。
–{ヒロインのウタはどのような存在だったか?}–
3:ヒビキにとって、ウタはどんな存在だったか
『バブル』で拒絶反応を起こす方が多い要素として、ヒロインのウタのキャラクター性がある。彼女は初めからヒビキに懐いていて、彼のことをずっと肯定してくれて、そして恋までもしているように思える、言ってしまえば都合の良い存在だ。
彼女は『惑星ソラリス』(72)のような姿形を変える知的生命体であり、主人公にとって都合が良いのは実際に「そういう存在だから」でもある(ノベライズ版では具体的な泡やウタの設定、なぜ地球にやってきたか、ヒビキと出会った理由などの考察が語られている)。劇中では「なんか変な格好だしよ……」や「まるでニワトリとヒナね」や「よくあんなヤツに懐いたよな」といった批判的な言葉も投げかけられているが、やはり賛否両論を呼ぶ理由にはなっているだろう。
だが、筆者はウタが単なる都合の良い存在、恋をする相手というだけでなく、ヒビキにとっての「できることを通じて得た好きという気持ち」「アイデンティティー」「生きる理由」の象徴として考えれば、大いに納得ができた。
ヒビキは子どもの頃から聴覚過敏であることに悩み、母親は彼を自分の手で育てることを諦め、施設に預けた。しかし、ヒビキは「音を嫌いになりたいわけじゃない、本当はずっと探しているんだ、あの音を」とも口にしている。その気になる音(歌)のする場所に行って出会ったのが、ウタだった。そしてヒビキはウタに自分の過去を話し、パルクールで共に駆けて行き、勝利を掴んだ後の夜、ウタにこう言う。「ずっと俺だと思っていたのは、俺じゃなかった。ウタが来て、初めて俺になった」と。
ヒビキは初めからパルクールが得意であり、チームのエースとして活躍している。でも、楽しくはなさそうだった。最年少のウサギを助けたりすることもあるが、結局は置いて行ってしまうし、その他のチームメイトと打ち解けるそぶりもない。だが、ウタと駆けて行ったヒビキは、ヘッドホンを落としてもそのまま駆けて行き、その後のパーティーでもチームに感謝を告げる(さらにノベライズ版では、ヒビキが周りと違って“普通”になれない心情が細やかに描かれている)。
現実には、ウタのような都合の良い存在はいない。だが、何か今できることをやっていて、それ自体が好きになれた瞬間、それをもってアイデンティティーにできた、周りと打ち解けたり、生きる理由になったという方は、現実にいるだろう。ウタのような「きっかけ」は、どんなことにおいてもあるはずなのだ。
また、ヒビキがあっさりと聴覚過敏を克服した(ように見える)ことに対して、障害を軽く考えすぎじゃないか、という意見も見かけたが、筆者はそうは思わない。荒木哲郎監督は実際に当事者に話を聞き、街中の踏み切りや扉の開閉といった「人工音」を苦痛に感じるのに対し、水の流れる音や木々の葉が擦れ合う「自然音」には癒されると聞くなど、十分なリサーチをしている。それをもって、ヒビキとウタのいちばんの思い出となる場所は「自然音の塊」のようにするという、舞台の構築も行ったのだそうだ。
また、大人になってからの聴覚過敏は、心因性のものも多いという。筆者は当事者ではないので簡単にわかったような気になっていけないが、「今できること」を続けていくうちに、何か悩みや心因性の病気が克服できるようになることは現実にある、だからこそ希望になると思うのだ。
さらに余談だが、パンフレットの荒木哲郎監督の言説によると、ウタは映画『道』(57)のようなしゃべらないヒロインを、ヒビキがチームメイトと打ち解けていく過程は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(14)を参考にしたのだという。彼らのコミュニケーション自体が現実離れしているので賛否両論を呼びやすいのだが、根底には名作映画からの引用があったのだ。
4:ウタが学び、知ったこととは何か
ウタは終盤に、自分を連れ戻そうとする知的生命体の集合を「姉様」と呼ぶ。このことに唐突さを覚えてしまった方は少ないないだろうが、これはウタ自身が童話「人魚姫」から引用した呼び名にすぎない。
荒木哲郎監督によると、ウタは自分が習った言葉しか話せない設定であり、「人魚姫」を読んで得たボキャブラリーの中から、泡、つまり自分を連れ戻しにきた存在を見て、「姉様」という言葉が出た、ということなのだそうだ。
参考:【ネタバレあり】日本が『にんぎょ姫』をアニメ化したら重力が壊れてパルクールをした:映画『バブル』荒木哲郎監督にインタビュー | ギズモード・ジャパン
これ以外にも、ウタは見たり、教えてもらったことを積極的に学んでいる。初めにネコのように四つん這いのまま飛んだり跳ねたりしたのも直前にネコに遭遇したためであるし、ヒビキからはパルクールにおける身体の動きも教わっていた。マコトから自然界に“渦”があることを聞き、フィボナッチ数列(自然界によく現れる法則)の渦の図形も描いていたのは、彼女もまた自然から生まれた存在であることを示しているのだろう(実際にラストでマコトは渦を見上げ、ウタの存在を感じ取る)。
本作はその「学び」こそを肯定していると言っていい。ノベライズ版のみにあるエピソードでは、ヒビキたちは東京に残された高齢者に日用品を運ぶ仕事をしており、その高齢者から「作家の言葉があなたという人間を構成する」「知識が人格を作るのよ」などと諭される場面がある。
ウタは初めこそ純粋を超えてただ親についてくる子どものようであったが、マコトを拉致したアンダーテイカーに対し、カイの言葉も借りて「ボコす」と怒りの感情を見せるなど、人格のある存在として描かれるようになっている。
そして、ウタは「人魚姫」の物語を読んでいて、泡になって消えてしまう悲劇的な結末を迎えるはずの、人魚の幸せを学んでいた。だからこそ、最後に同じように自身が消えてしまう前に、その「人魚姫」の一説を心の中で語ると同時に、ヒビキとの幸せな日々も思い出していた。
さらに、ウタは前述したヒビキの「ずっと俺だと思っていたのは、俺じゃなかった。ウタが来て、初めて俺になった」という言葉に呼応するように、「ヒビキに会えたから、私は私になれた。これが人の心、さみしいと思う心、誰かを愛おしいと思う心」と言い残し、消えていった。
そのウタの言葉は、「人魚姫」を読んだだけでは、絶対に知り得ないことだったろう。ウタは最後に、悲劇的な「人魚姫」の物語という単純な知識を超えた、人の感情や愛情の素晴らしさを知ったのだ。それをもって、ウタもまたアイデンティティーを獲得し、本当の意味での幸せをも知った物語の、なんと感動的なことだろうか。
また、マコトが「人魚姫」の物語を「嫌い」と言っていたように、「消えてしまったけど幸せでした」という内容は、それだけを表面的に捉えれば、欺瞞に思えてしまうかもしれないものだ。『バブル』はその「人魚姫」の物語を真摯に語り直し、また新たな価値を見出すという意義もあるのだ。
–{破壊と再生を繰り返す世界への肯定感}–
5:破壊と再生を繰り返す世界の肯定
劇中では「世界は破壊と再生を繰り返す」という言葉が登場する。それはコロナ禍はもちろん、戦争や災害などの破壊的な出来事が起こったとしても、いつかは再生をしていく(実際に歴史的にそうなっている)という、今こそ響くポジティブなメッセージとなっている。
また、脚本家のひとりである虚淵玄は、「ウタの目を通して見る世界は、不思議に満ちた、じつに美しくて尊いものです」「つまりウタは、ヒビキだけじゃなく、この世界の全てに恋をしたんだろうなっていう思いがある」とも語っている。つまり、本作はヒビキとウタのラブストーリーに止まらず、最終的にはこの世界そのものを肯定するメッセージも込められていると言っていい。
個人の辛い悩みは尽きないし、世界中にはどうしようもない悲劇も起こる。だが、それでも、世界は美しい。ウタのように何かを学んでいければ、ヒビキのように自分を好きになれるきっかけがあれば、素晴らしいことはきっとあるだろう。
そして、劇中でのウタとの別れは永遠のものではないと、ラストシーンとエンドロールで明確に示されているし、それはウタの声優を担当したりりあ。が歌う主題歌「じゃあね、またね。」にも表れている。もちろん現実では死んだ者、失ってしまったものは元には戻らないが、再び同じような喜びや幸せに巡り合うことは、きっとある。世界は破壊と再生を繰り返す、だからこその希望は得られる。『バブル』で紡がれたのは、そんな物語なのだ。
おまけ1:元々「ささる人」に向けられた物語
『バブル』はNetflixで全世界に配信され、300館以上で劇場公開された、完全にマジョリティーに向けられている作品であり、荒木哲郎監督もそれを意識していると明言している。だが、前述した通り、実際はマイノリティーに属する若者たちを描いた物語であり、やはり「ささる人にはささる」内容であったと思う。
そのNetflixでの先行配信は「認知の獲得」のためということだが、(筆者も期待していたのだが)映画館での体験をしてほしいと願う作り手の狙いからすれば、やはり良い方法だったとは言えないだろう。Netflixでは数日にわたり映画での視聴数No.1を獲得していたし、商業的には決して失敗とは言えないのかもしれないが、やはり映画館でこそ真価を発揮する内容であったので、「もったいない」という気持ちになってしまう。
参考:映画「バブル」 WIT STUDIOと荒木哲郎監督に聞く日本アニメの10年後 | Forbes JAPAN
また、いわゆるセカイ系の設定や、ボーイ・ミーツ・ガールの要素、美麗な風景からは「新海誠監督っぽさ」を思わせるし、その面でも魅力ももちろん大いにあるのだが、本質的な物語は全く異なる。それもまた、受け手に「新海誠らしさを目指しているようでなんか違う」「既視感ばかりがある」ネガティブな印象を与えてしまったのかもしれない(劇中に「シン」「カイ」「マコト」という名前のキャラがいるのも意味深だ)。
だが、「ごく一部の人にささる」作品もまた意義のあるものだ。本作に限らず「世間的な評判は良くないけど自分は好き」という作品に出会った方は、少なくはないだろう。それは、その人が強固に持っている好み、もっと言えば価値観を再確認できたということでもあるので、その気持ちは大切にしてほしい。その逆もしかりで、本作に否定的な評価を下した方も、その意見を変える必要はない。それもまた、その人にとっての価値観なのだから。
おまけ2:アップになった時の「メイクアップ」の賛否
もう1つ、本作が賛否両論を呼ぶ理由のひとつに、「顔のアップになると画の雰囲気がガラッと変わる」ことがある。荒木哲郎監督によると、これは『甲鉄城のカバネリ』でもみられた「メイクアップ」と呼ばれる手法であり、「心情を強調する効果」の他、今回は「強い欲望を“エロス”も意識して印象づけたい」という意図もあったという。
実際、ウタが自分の指を口でくわえる様などには、かなりのエロティシズムを感じさせる。これがまた多くの方の拒絶反応を呼んでしまったわけだが、愛情を超えた少し危うい関係性を漂わせるというは、個人的には嫌いではない。“生命”を描くのに“性”をほのめかすように描くというのは真っ当でもあるし、それを(指で触れたりキスをすること以外の)性的な行為ナシで描いたことは賞賛したいのだ。
おまけ3:合わせて観てほしい映画3選
最後に、この『バブル』と似た要素やテーマを感じられた、公開中&これから公開の映画を紹介しよう。同時多発的にこれらの映画が劇場公開されることにも、不思議な縁を感じさせる。
1:『シン・ウルトラマン』(2022年5月13日公開)
『シン・ウルトラマン』も『バブル』も、人類が人ならざる知的生命体とコンタクトし、そして共に困難に立ち向かうSFだ。しかも、前者の監督は樋口真嗣で、後者は荒木哲郎という、「進撃の巨人」の実写映画版とアニメ版それぞれの監督による最新作が、同日より公開されたという事実もある。
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2:『ハケンアニメ』(2022年5月20日公開)
アニメの”覇権”をめぐってバトルをするお仕事映画であり、現在SNSでは絶賛に次ぐ絶賛が寄せられている作品だ。キャッチコピーに「刺され、誰かの胸に。」とあるように、「誰かのためになるアニメを作る」クリエイターの心意気に感動があるし、「非リア充」へのメッセージが込められていることも、「好き」や「マイノリティー」についての物語である『バブル』に通じていた。そして、(劇中)アニメのクオリティーが驚くほどに高く、「映画館で観てほしい」と強く願えることも共通している。
【関連記事】『ハケンアニメ!』注目して観たい「3つ」のポイント
3:『アルピニスト』(2022年7月8日公開)
断崖絶壁に命綱なしで挑む、若き登山家に密着したドキュメンタリー映画だ。劇中では彼が子どもの頃にADHDと診断され、小学校では周りになじめなかったマイノリティーであったこと、登山に挑むことで「自分が自分になれた」ということも語られている。『バブル』でパルクールをしている若者たち、特にヒビキもそれと同じ意志を持っていた。命の危険がある行為は側から見れば推奨できないかもしれないかもしれないが、それが彼らにとっては逆に生きる理由にもなる、その価値観も教えてくれる。
前述してきた通り『バブル』はマイノリティーに、「ささる人にはささる」作品であるが、こうして似ている作品を思えば、やはり多くの人に向けられている内容でもあるのかもしれない。ヒビキの“普通”になれないという悩みも、実は同様の悩みを持つ者は少なくない、“普通”のことだとも思える。そして、多くの方が否定的な評価を下しても、一部の人に届いた作品は、やはり大切にしたいし、そうであってほしいと、改めて強く願うのだ。
参考書籍:
『バブル』パンフレット
『バブル』 (集英社文庫)武田綾乃
–{『バブル』作品情報}–
『バブル』作品情報
ストーリー
世界に降り注いだ泡<バブル>によって重力が破壊された東京。ライフラインも断たれ、家族を失った一部の若者たちの住処となり、ビルからビルに駆け回るパルクールのチームバトルの戦場と化していた。危険なプレイスタイルで注目を集めていたエースのヒビキはある日、無軌道なプレイで重力が歪む海へ落下してしまう。そこに突如現れた、不思議な力を持つ少女ウタがヒビキを救う。
驚異的な身体能力を持つウタは、ヒビキや彼のチームメンバーたちと一緒に暮らし始める。そこには、メンバーたちの面倒を見ながら、降泡現象を観測する科学者マコトもいた。ウタは、賑やかな仲間たちと他愛もない会話で笑い合うような日常生活に馴染んでいく。そして、なぜかヒビキとウタだけに聴こえるハミングをきっかけに、二人は心を通わせるようになる。
しかし、ヒビキがウタに触れようとすると、彼女は悲しげな表情で離れてしまう。ある日、東京で再び降泡現象が始まる。未知の泡が降り注ぎ、東京は沈没の危機に陥る。ウタは泡が奏でるハミングを聴き取り、突然ヒビキの前から姿を消してしまう……。
予告編
基本情報
声の出演:志尊淳/宮野真守/梶裕貴/畠中祐/広瀬アリス/宮野真守/梶裕貴/畠中祐/千本木彩花/三木眞一郎/りりあ。 ほか
監督:荒木哲郎
Netflix配信日:2022年4月28日(木)
劇場公開日:2022年5月13日(金)
製作国:日本