『ルパン三世 カリオストロの城』が改めて映画館上映!初公開された1979年12月は「こんな時代」だった

ニューシネマ・アナリティクス

■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」 

2021年は「ルパン三世」アニメ化50周年ということで、これを記念して10月1日から『ルパン三世 カリオストロの城』4K+7.1ch版が全国50館で2週間限定上映されます。
(同時上映は原作者モンキー・パンチが総監督を務めた短編『ルパンは今も燃えているか』)

今更説明の必要もない宮崎駿監督の映画監督デビュー作『カリオストロの城』ではありますが、本作は1979年12月15日に日本で初公開されました。

では、この時期の映画界は、そして本作はどのような状況で迎えられたのか、ちょっとばかしタイムリープして振り返ってみることにしましょう!
 

1979年12月に公開された映画たち

まず1979年12月に日本で劇場公開された主な作品をざっと列記しておきます。
(※公開日は東京基準)

(1979年12月1日)
『スネーキーモンキー 蛇拳』『地獄の蟲』

(1979年12月8日)
『007 ムーンレイカー』『ドラキュラ都へ行く』『マイ・ライフ』『女の叫び』

(1979年12月15日)
『マッドマックス』『エアポート80』『アルカトラズからの脱出』『ワンダラーズ」『メーン・イベント』『Mr.BOO!ギャンブル大将』『戦国自衛隊』『もう頬づえはつかない』

(1979年12月22日)
『天使を誘惑』『関白宣言』(2本立)『トラック野郎故郷(ふるさと)特急便』『夢一族 ザ・らいばる』(2本立)

(1979年12月28日)
『男はつらいよ 寅次郎春の夢』『神様がくれた赤ん坊』(2本立)

いやはや、なかなか壮観なラインナップですが、やはり目を引くのはシリーズ第11作でジェームズ・ボンド(ロジャー・ムーア)が宇宙へ行ってしまったことでファンの論議を呼んだ『007 ムーンレイカー』でしょうか。

『マッドマックス』は当時日本では馴染みのないオーストラリア映画界から放たれた、かつてないヴァイオレンス・アクションとして大きな話題となり、主演メル・ギブソンの出世作となるとともにシリーズ化されていくことになります。

逆に1970年代パニック映画を象徴するエアポート・シリーズ第4弾で当時の最新鋭機コンコルドを題材にした『エアポート80』は、これをもってシリーズ終結。
(時代は既にパニック映画からSF映画へ移行していました。そう、1979年は『スーパーマン』『エイリアン』などが公開された年でもあったのです!)

脱獄サスペンス映画の傑作『アルカトラズからの脱出』も、これが惜しくもクリント・イーストウッド&ドン・シーゲル監督の名コンビ、最後の作品となってしまいました。

邦画では、先ごろ惜しくも亡くなったばかりの千葉真一がアクション・スターとしての誇りをかけて挑戦した角川映画超大作『戦国自衛隊』が、従来の日本映画の枠を打ち破るスケールとアイデアの賜物として大ヒット。

東宝の山口百恵&三浦友和コンビ作品『天使を誘惑』で思い出すのは、公開直前の10月20日に両者が恋人宣言し、公開後の1980年3月7日に山口百恵は引退を発表、そして同年12月公開『古都』が彼女主演の最後の映画になったことです。

東映も10作目『故郷特急便』で『トラック野郎』シリーズは打ち止め(同時上映の郷ひろみ&森繁久彌主演のコメディ『夢一族』との組み合わせも悪かったのかもしれません。この時期の日本映画はまだ二本立興行が普通に成されていて、その組み合わせが興行成績に影響を及ぼすこともままありました)。

松竹はおなじみ寅さん映画の併映となった『神様のくれた赤ん坊』が評論家から多大な支持を得て、主演の渡瀬恒彦&桃井かおりは多くの俳優賞を受賞。

特に桃井かおりはATG映画『もう頬づえはつかない』も女性の自立を示唆する映画の先駆けとして大評判となり、その後の彼女のイメージまで決定づけることになりました。

社会的には12月12日、韓国で粛軍クーデターが勃発(現在、韓国ではこの時期の激動を描いた映画が定期的に作られています)。

また12月24日にはソ連のアフガニスタン侵攻が開始され(これにより1980年開催のモスクワ五輪に日本は不参加)、ここから今なお深刻な事態を招き続けるアフガン問題が本格的にスタートしていくことになります。

大晦日に発表された第21回日本レコード大賞はジュディ・オングの「魅せられて」、最優秀歌唱賞は小林幸子の「おもいで酒」、金賞には映画化もされたさだまさしの「関白宣言」や、アニメ映画『銀河鉄道999』主題歌も大ヒットしたゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」、1981年の高倉健主演映画『駅/Station』の中でも印象的に使われる八代亜紀「舟唄」などが入賞。

サザン・オールスターズ「いとしのエリー」、西城秀樹「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」、甲斐バンド「HERO」、山口百恵「いい日旅立ち」、松山千春「季節の中で」、アリス「チャンピオン」などもこの年のヒット曲でした。

–{1作目ほどヒットしなかった『カリオストロの城』}–

1作目ほどヒットしなかった『カリオストロの城』

こんな中で『ルパン三世カリオストロの城』は12月15日に公開されましたが、結果としては配収3億500万円(興収に換算するとおよそ6億1000万円)と、思ったほどの興行成績を上げることはできませんでした。
(この時期の映画料金は大人1300円。しかし翌1980年から1400円、超大作は1500円へと値上がりしていきます)

前年の12月に公開された劇場版『ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)』(ちなみにサブタイトルは、初公開時ではなくビデオ化の際に付けられたものです)が配収9億1500万円を計上したことと比べると、やはり不満は残る成績です。

これには、本作が地方では2本立ロードショーだったことも禍いしているのかもしれません。

当時の日本の映画興行は、東京などの都市部は1本立でも、地方は2本立というケースが常でした。

そして『カリオストロの城』の大半の地方併映作は香港ドタバタ・コメディ『Mr.BOO!ギャンブル大将』で、当時九州の高校1年生だった私は「組み合わせが良くないなあ」などと思いつつ映画館へ足を運び、案の定『ルパンVS複製人間』より客数が落ちているのを目の当たりにしたものです。

筆者が所有していた当時のチラシ

実は『ルパンVS複製人間』も地方では『ナイル殺人事件』と2本立で、大人のミステリと大人のアニメ『ルパン三世』の組み合わせは背伸びしがちな10代を大いに刺激し、場内は満席状態で熱気で暖房要らずの熱気に包まれていたものですが、『カリオストロの城』はそこまでではありませんでした。

また『カリオストロの城』が公開される前、学校のクラスメイトたちと何気に話していたのが、「今度のルパンは(未来少年)コナンみたいな顔をしているね」というものでした。

これはどちらも宮崎駿監督作品ということで、今となってはおかしくも何ともない事象ではありますが、この時期はまだ宮崎駿という存在そのものは一部のアニメ・マニア以外にさほど知られていなかったのです。

さらには当時TV放送されていた「ルパン三世」PART2は(PART1ほどではないにせよ)大人向けアニメという認識が強く、それゆえ宮崎駿の柔らかみのある元気印のキャラクター・デザインに違和感を覚えるファンがかなりいたことも事実です。

実は宮崎監督、高畑勲監督とともにPART1後期の演出を担っていて、それゆえに『カリオストロの城』でのルパンのジャケットの色はPART2の赤ではなくPART1の青緑に戻り、車もPART1後期に登場していたフィアット・500に乗っていたりもしています。

ただし、そうした繋がりやこだわりなどに多くのファンが気づかされるのも、公開後の感動と興奮が収まらぬマニアたちの伝聞の数々や同人活動などからでした。

何せSNSもケータイもない時代でしたので、当時の正月映画にしても冬休みが明けてから教室の中で「あれが面白かった」「これがつまらなかった」などと話題になるのが常で、自分の周囲で「『カリオストロの城』が面白い!」という話題になったのも3学期に入ってからと記憶しています。

そうやって作品のウンチクみたいなものも含めて、いかに『カリオストロの城』が面白い作品であるかという事象は、徐々にではあれ着実に全国へ流布されていったのです。

–{アニメーション監督に関するファンの認知度の高まり}–

アニメーション監督に関するファンの認知度の高まり

日本映画界は1977年の夏に公開された『宇宙戦艦ヤマト』のクリーンヒットでアニメーション・ブームの口火を切り、1978年夏の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の大ヒット以降は、邦画の興行にアニメ映画が不可欠なものとなっていきます。

現に、1979年の日本映画興行成績ベスト1は『銀河鉄道999』(配収16億5000万円)でした。

ただし、この時期の日本のアニメーション映画は実写畑の監督をスタッフィングする傾向があり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの舛田利雄監督を筆頭に『劇場版 科学忍者隊ガッチャマン』(78)の総指揮・岡本喜八、『銀河鉄道999』の監修・市川崑、『劇場版 未来少年コナン』(79)の監督クレジットも宮崎駿ではなく、実際に再編集を司った佐藤肇になっています。

これらの中には実写監督の知名度を利用した“名前貸し”的なものもありましたが(舛田利雄監督は「ヤマト・シリーズの中で自分が完全に監督したと言い切れるのは『さらば宇宙戦艦ヤマト』だけだ」と語っています)、一方ではそういった風潮とは別に『龍の子太郎』(79)の浦山桐郎、『地球(テラ)へ…』(80)の恩地日出夫といった鬼才たちは、あくまでも自身の最新映画として作画スタッフと相まみえながら演出に臨んでいきました。

こうした中、ファンの間でも徐々に「アニメーション監督」の存在が注目されていきます。

現に『銀河鉄道999』は結果的に監修・市川崑ではなく、監督りんたろうに大きくスポットが当たることになりました。

(彼の名前はひらがなだったこともあって、TV「キャプテン・ハーロック」チーフディレクターの頃から子どもたちに覚え親しみやすかったというのもあったような気がしています)

1979年秋に公開された劇場版『エースをねらえ!』出﨑統監督の存在も、それまでのTVアニメ「ガンバの冒険」(75)「家なき子」(77~78)などでの独自の演出がもたらす人気と相まって、俄然クローズアップされていきます。

また、1979年に開始されたTVアニメシリーズ「機動戦士ガンダム」が徐々に盛り上がりを示していくと同時に、監督の富野喜幸(現・由悠季)も台頭。

今振り返ると、1979年こそはアニメーション「監督」の存在に多くの映画ファンやアニメ・ファンが気づかされた年だったような気もしてなりません。

その伝で申すと、宮崎駿監督の名も1978年のTVアニメ「未来少年コナン」での人気と実績を経て、1979年12月公開の『カリオストロの城』で一気に認知されたことも間違いのない事実でしょう。

初公開時の映画マスコミの作品評価も、第34回毎日映画コンクール・大藤信郎賞を受賞していることで、ご想像のつく通り。

そして本作の公開からおよそ半年後、TV「ルパン三世(PART2)」で宮崎監督は7月28日放送の第145話「死の翼アルバトロス」と10月6日放送の最終回155話「さらば愛しきルパンよ」を演出します。

このときの監督名義が“照樹務”だったことで、オンエア直後は「宮崎監督と同一人物か?否か?」で盛り上がったこともありましたが、この頃になるとコナン顔のルパンもすっかり受け入れられるようになっていました。

同人誌などでのクラリス人気も既にハンパではなくなってきていて、ひいては1980年代美少女アニメ・ブームの引金にもなっていった感があります。

そして宮崎監督自身はいくつかの作品の制作に携わりつつ、1982年より「アニメージュ」誌で漫画「風の谷のナウシカ」連載開始。

やがてはこれを原作に長編アニメーション映画『風の谷のナウシカ』(84)の制作をスタートさせていくのでした。

–{P.S.さらなる告知}– 

P.S.さらなる告知

「ルパン三世」アニメ化50周年を記念しての投票企画「あなたが今一番見たいルパン三世」の結果、選ばれた上位4作品が10月15日の「金曜ロードショー」(日本テレビ系列)でオンエアされます。

第1位「さらば愛しきルパンよ」(PART2第155話=最終回)※宮崎駿監督作品(照樹務・名義)

第2位「ルパンは燃えているか」(PART1第1話)

第3位「ルパン三世は永遠に」(PART5第24回=最終回)

第4位「死の翼アルバトロス」(PART2第145話)※宮崎駿監督作品(照樹務・名義)

またTVスペシャル1位「ワルサーP38」も「金曜ロードショー」で10月22日にオンエアされます。

(その後も、これらを含むTVアニメのエピソード上位10作品とTVスペシャル上位5作品がHuluで配信されます)

(文:増當竜也)