『劇場版 アーヤと魔女』は厳しい評価にさらされている。Filmarksでは3.1点、映画.comでは2.9点と、ジブリ映画という枠組みでは低い。Google検索の他のキーワードには「つまらない」「ひどい」という言葉も並んでしまっている。
さらに、興行成績もとても厳しいものになっており、全国371館という最大規模の公開館数にも関わらず、初週の興行収入ランキングでは8位。昨年末にテレビ放送されており、その時点であまり評判が芳しくなかったとはいえ、関係者の期待を大きく裏切るものだった。
だが、個人的には『アーヤと魔女』はとても好きな作品だ。そして「多くの人が期待していたものと違う」ことが、評価と興行成績の低さに響いてしまったのではないか。一方で見方を変えてみれば、評価に値するポイントがいくつもある佳作だと思うのだ。ここでは、その理由をたっぷりと記していこう。
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1:予告編はミスマッチ?本編は「とても小さな話」である
いきなり本編とは関係のない話題で恐縮だが、端的に言って『アーヤと魔女』は予告編の内容がよくなかったのではないだろうか。4月末からの緊急事態宣言に伴う映画館の休業による公開延期もあり、いくどとなくこの予告を劇場で見させられ続けたことが、裏目に出てしまったように思うのだ。
この予告編では、今までのジブリ作品(のヒロインたちの姿)を次々に見せ、『アーヤと魔女』の映像に「スタジオジブリが贈る、新しいヒロインの物語」というナレーションが被さり、そして「映画館でジブリを楽しもう!」という呼びかけに「いいね!それ!」と答えるというもの。はっきりと「ジブリというブランド推し」な内容だ。
だが、『アーヤと魔女』は良い意味で「とても小さな」作品だ。83分というやや短めの上映時間であるし、舞台はほぼ孤児院と魔女の家のみ。他のジブリ作品、特に宮崎駿監督作品のスケールの大きい舞台立てや、様々な場所を冒険するような活劇とは対照的な内容なのである。
それらを一列に並べてしまうことで、不必要に『アーヤと魔女』のハードルをあげすぎているし、今までの手描きの2Dアニメとジブリ初の3DCGアニメ映画では、表現も含めて悪い意味で内容とのギャップがある、ミスマッチな予告編になってしまったのではないだろうか。
また、企画を担当した宮崎駿へのインタビュー動画では、「僕は劇場長編じゃないといけない宿命を背負わされているから、『アーヤと魔女』を俺がやることはできないだろうと思って、それで後は鈴木さん(鈴木敏夫プロデューサー)に任せたんです」と、宮崎駿自身が「(原作小説作は)短編だから自分はできない」と主張しているのだ。
さらに、宮崎吾朗監督は『アーヤと魔女』はテレビでの放送を考えて企画を進めており、子どもたちが観て楽しいと思える80分くらいの少し短めの映画にするにあたって、原作のストーリーの長さがぴったりだったと語っている。今回は劇場公開されているが、もともとは「テレビで子どもが見るのにちょうどいい」バランスの作品と言っていいだろう。
だからこそ、本作は(83分という十分に長編映画と言える上映時間ではあるが)「小さな短編作品」として観るべき映画なのではないか。ジブリや宮崎駿という看板に頼り切るのではなく、『アーヤと魔女』という作品そのもののの魅力を推したほうが良かったと思うのだ。
ちなみに、今までの2Dアニメではなく、3DCGアニメの作品となったのは、宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』の製作で手描きの優秀なアニメーターや美術スタッフがすでに動員されていたこと。それに加えて、3DCGではセット1つ作るのに膨大な製作費がかかるが、今回は限定的な空間で話が進む内容だからこそ、そこに注力すればクオリティーを上げられるから、という事情もあったそう。小さな作品であることが、3DCGアニメという作りとも合致していた、というわけだ。
それでいて、魔女の家はその「汚さ」も含めて細やかに作られており、主人公のアーヤの表情がコロコロと変わるなど、1つのアニメ作品としての魅力も存分にある。作品そのものは小さく、良い意味で作り手の肩が抜けた印象もあるが、3DCGという表現で可能なことをやり切った、スタッフのこだわりも存分に感じられるはずだ。
–{2:主人公のアーヤが成長しない? いや、「したたか」で「どこでも変わらない」魅力がある!}–
2:主人公のアーヤが成長しない? いや、「したたか」で「どこでも変わらない」魅力がある!
本作の最大の特徴かつ魅力になっている点は、主人公のアーヤのキャラクターだ。彼女の長所は、とても「したたか」であること。孤児院にいる時から「要領良く立ち回って」、園長先生や料理長といった大人たちを「操っている」ような女の子なのだ。
それは、そのまま作品に込められたテーマにもつながっている。具体的には、企画を担当した宮崎駿と、宮崎吾朗監督は公式サイトでそれぞれ次のようなコメントを送っているのだ。
監督:宮崎吾朗
子どもは、未来の可能性そのもの。
子どもたちが自尊心をもって、自分らしく生きていけるように。
柔軟に立ち回り、壁を飛び越えてゆけるような映画を作りたかった。
昔と比べて子どもの数はどんどん減ってきていて、当の子どもたちは一人で大人たちを相手にしないといけない。そんな中アーヤのように、頭を使い機転を利かせて大人を思い通りに〈操る〉ということが、今を生きる子どもたちに対するひとつのモデルになるのでは、と思ったのです。
(一部抜粋)
企画:宮崎駿
アーヤのしたたかさというのは、ずるいということじゃない。
昔はみんな持っていて、なぜか無くしてしまったもの。
こんな時代を生きるために、必要なことなのです。
(一部抜粋)
2人とも、アーヤのようにしたたかに、柔軟に立ち回って生きる子どもの姿を描くことで、今に生きる子どもたちにエールを送りたい、という気持ちがある。実際に劇中では、アーヤは今までの居心地のよかった孤児院から、自分勝手な魔女の家にもらわれて、手伝いとしてこき使われてしまう。そんな状況でも、彼女はたくましく、工夫をしてうまく立ち回ろうとする。その姿に勇気がもらえる内容でもあるのだ。
さらに、宮崎吾朗監督は、アーヤの声を演じた平澤宏々路の力が大きい点を踏まえつつ、以下のように彼女が「イヤな子ではない」理由および、その魅力を述べている。
「人に対して意地悪するとか、誰かの足を引っ張るということには、興味がない子なんです」
「人を操って自分はただ楽をしているだけの子でもない。魔法を教えてもらうためには手伝いもちゃんとやる。必要とあれば徹夜もする。何かを手に入れるためには、行動もするし努力もする」
「タフに立ち回るし、『私ってダメなんだわ』とネガティブな弱音も吐いたりしない。『次にどうすればよいか』ということを考え、自分から働きかけてほしいものを手に入れる」
物語を追ってみれば、この宮崎吾朗監督の言葉通りに、アーヤの言動が「一貫」していることがわかるだろう。終盤にアーヤがとある「いたずら」をする場面があるが、それも今の八方塞がりな現状を好転させるための(だが復讐心も込められた)行動だ。本作に対して「主人公が成長しない」という批判意見をいくつか見かけたが、むしろアーヤが「どこでも変わらない」ことが重要な作品だったのではないか。
そんなアーヤを「生意気だ」と思ってしまう大人もいるかもしれないが、宮崎吾朗監督は「そんなアーヤのような子どもに、大人も操られていいのでは?」という主張もしている。たとえば「(いい大人の)自分が主体的に何かをするより、若い人に『こうしてほしいなぁ』って言われて、『しょうがないなぁ』ってまんざらでもない顔をすることは、決して悪いことではないのでは?」といった考えによるものだそうだ。確かに大人の方が、アーヤの性格にかわいらさしさ、居心地の良さを感じて好きになれる、理想的な子どもと大人の関係性があるのかも、と思えるのではないだろうか。
また、魔女のベラ・ヤーガと、小説家であるマンドレークの関係性はとっても奇妙だ。どうも夫婦ではないような、「昔からの友人」というだけ、腐れ縁のような関係で一緒に暮らしているように見える。2人の間に割り込むしたたかなアーヤとの関係性をもってして、現代らしい「新しい家族の形」を提示されたような印象もあったのだ。
なお、先ほどは予告編の内容を批判的に記したが、以下の別バージョンの予告編での「雷鳴の後に不敵な笑みを浮かべる」アーヤは、今まのでのジブリのヒロイン像と対照的になってて良かったと思う。もちろん、こんな悪どい顔になっても、アーヤは決してイヤな子どもではない。
–{3:アーヤの名前が「日本語由来」になっている理由は?}–
3:アーヤの名前が「日本語由来」になっている理由は?
ごく細かいところかもしれないが、1990年代初めごろのイギリスが舞台なのに、主人公のアーヤの本当の名前が「アヤツル(操る)」という日本語由来であることに違和感を覚えた方も多いのではないだろう。実は、英語版ではアーヤのもともとの名前は「Earwig(ハサミムシ)」だったのだ。(英題も『Earwig and the Witch』になっている)
共同脚本を手がけた丹羽圭子によると、「Earwig(ハサミムシ)は眠っている人間の耳に潜り込んで入れ知恵をするという伝承がある」「アーヤはハサミムシのように、知らない間に人の心に入り込んで操り、自分も相手も幸せにする。アーヤの髪型がハサミムシの形になっているのは、そういう意図があるという話を聞いた」とのこと。つまり、Earwigが日本語訳で「アヤツル」になったのは、そのハサミムシの伝承と同じように、アーヤが後に「人を操る」たくましい子どもになることを、わかりやく示すためのものだったのだ。
なお、Earwigは映画においても、アーヤの母がかつてボーカルとして参加していたバンドの名前として登場する。劇中歌の「Don’t disturb me(私を煩わせるな)」 は、そのタイトルも歌詞も「誰の言いなりにもならない」アーヤの母の(そして娘に引き継がれた)性格を表しているようで面白い。その「私を煩わせるな」は、魔女の家に住む長身の男マンドレークが言うセリフでもある。
とはいえ、作中で「アヤツル」という日本語が、しかも「Earwig」という英単語も説明もなしに出てくることには説明不足な印象が否めない。宮崎吾朗監督作では、『コクリコ坂から』もヒロインの呼び名が「海」「メル」の2種類が存在するなど、必要十分な情報を統制できていない印象があった。ここはもう少し工夫しても良かったのかもしれない。
※以下からは『アーヤと魔女』のクライマックスとラストについて、明確に展開を記すことは避けつつも触れている。映画を未見の方はご注意を。
–{4:「○○○○○○○○○○○○」のは原作を尊重したから}–
4:「あっけなく終わってしまう」のは原作を尊重したから
筆者は劇場で『アーヤと魔女』を観た後に原作小説を読んだが、映画は驚くほど「原作に忠実」な内容だった。同じくダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説を映画化した『ハウルの動く城』が原作から長編で、映画で大胆なアレンジがされていたこととは対照的だ。
そして、『アーヤと魔女』の映画本編の結末を観て、「えっ?これで終わり?」と、悪い意味でのあっけなさを覚えた方は多いのではないか。実は、それも原作に忠実であることが理由だ。
原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズの遺作であり、後に推敲をする予定だったものの、亡くなる前に「手は入れていないけど、これなら出せるわね」と何とか出版されたものだったのか。そのこともあるのか、実際に読んでも「まだ続きがあるような」「完結していない」印象も受けるのだが、宮崎吾朗監督は「この原作を無理に膨らませようとすると、別な作品になってしまう」という意向の元、話の筋は極力原作に忠実にすることを決めたのだそう。
だが、映画オリジナルで付け加えられたところもある。それはアーヤの母にまつわるエピソードだ。これも、「お話を改変するのではなく、背景を深堀りする方向で膨らませるのはありだろうと考えて、アーヤという子の背景になるもの、アーヤの血の中にあるものを描こうと考えた」という宮崎吾朗監督の意向によるもの。これによって、「アーヤを孤児院に預けた母はどんな人だったか」を掘り下げつつ、アーヤを引き取る2人の大人を単に怪しい人物にせず、「アーヤの母とかつて関係があった」設定を盛り込むこともできたのだという。
また、エンドロールでは物語の「その後」がたくさんのイラストで描かれている。これは、宮崎吾朗監督の「原作もそうなんですが、物語が突然終わるので、後日談みたいなものをちょっと描いてあげたら楽しいかな」という考えから生まれたもの。もともとは絵コンテとして描いていたものだったが、その後にエンディングの内容をスタッフと話し合った時に、「これをそのまま使おうよ」という話になったのだとか。
そんなわけで、ラストがあっけない(それでも原作から少し付け加えられている)のは原作を尊重するという明確な理由があり、その上でアーヤの母親の背景の掘り下げが行われ、エンドロールで物語のその後を描くというサービスもあるというわけだ。ラストの少し前に、アーヤが持ち前の、「したたかさ」を持ってして、魔女の家で自分の望む環境を手に入れているので、物語の一応の区切りもついている。
だが、それにしたって結末に物足りなさを覚えてしまうのは事実、というのは苦しいところだ。特にアーヤの母は「仲間の12人の魔女に追われている」という事情があったとはいえ、まだ赤ん坊のアーヤを孤児院の扉の前に置いたまま何年も連絡をとっていないようだから、どうしたって無責任なひどい母に思えてしまう。物語はあくまでアーヤの「したたかさ」を描くものなのではあるのだろうが、母のエピソードを付け足したことで、決着がつかないままの「親の責任」というモヤモヤしてしまう要素が増えてしまったところがある点も否めない。
また、エンドロールのイラストがあまりにかわいらしくて魅力的なので、今まで観てきた、それはそれでしっかりと作り込まれた3DCGアニメと比較するように、「やっぱりいつもの手描きアニメのジブリ作品が観たかったなあ」と、ないものねだりをする原因になってしまっているのかもしれない。
–{5:『千と千尋の神隠し』と対照的なシーンがあった}–
5:『千と千尋の神隠し』と対照的なシーンがあった
『アーヤと魔女』は過去のジブリ作品とは全く性質の異なる小さな作品であると前述したが、存分に「ジブリらしさ」を感じるポイントもある。たとえば、「少女が魔女の元で暮らし始める」という点は『千と千尋の神隠し』と同じだ。そちらの主人公の千尋が初めこそ「周りに流されてしまう立場」だった点と対照的に、『アーヤと魔女』のアーヤは徹頭徹尾「物怖じしないしたたかな性格」になった。少女が新しい住まいで働き出す、しゃべる黒猫が相棒となることから、『魔女の宅急便』を思い出す方も多いだろう。
そして『千と千尋の神隠し』と対照的でありつつも通じている『アーヤと魔女』で大好きなシーンがある。それは、アーヤがついに「奴隷じゃないって言っているでしょ!」と不満を爆発させた後のこと。アーヤはベラ・ヤーガに頭を叩かれてしまった上に、魔法を教えてやるものかと改めて言われたため「あっそう。よくわかったわよ」と答えるのだが、その後の昼食で、アーヤはテーブルに出されていた、孤児院で出されていたシェパーズパイを、じっと見つめるのだ。
このシーンでのアーヤは、涙をグッと堪えているようにも見える。何でも自分の思い通りに大人たちを操れた孤児院とは違って、ここではぜんぜん大人が言うことを聞かないばかりか、一方的にこき使われて、しかも暴力までふるわれ、そして「魔法を教えてもらう」という希望も打ち砕かれてしまう。そんな絶望的な気持ちの中に、「いつものおいしいシェパーズパイ」を見つめる彼女の心境は、どれほどのものだったのだろうか。
ここで思い出すのが、『千と千尋の神隠し』で、千尋がハクにもらったおにぎりを美味しそうに食べて、泣き出してしまうシーンだ。ぜんぜん知らない場所で、大人たちに翻弄されてしまった幼い女の子が、「やっといつもの美味しいご飯」を食べただけでも泣いてしまうのは当然だろう。でも、アーヤは泣かなかった。そこから、彼女のたくましさ、そして健気さが伝わり、心から彼女を応援したいと思ったのだ。
ちなみに、『アーヤと魔女』の原作小説を読んでみたところ、このシェパーズパイを見つめるシーンでは、アーヤの心理が「うそでしょ!と思いながら、お皿の上のパイを、じいっと見つめた。怒りと、子どもの家(孤児院)に帰りたい気持ちで胸がいっぱいになって、ほとんど食べられなかった」と書かれている。映画では、言葉に頼らない、さらに辛いアーヤの心境が伝わってきたので、その意味でも映画化の意味があったと思うのだ。
–{まとめ:意義のある作品だったと思いたい}–
まとめ:意義のある作品だったと思いたい
これまで書いてきたように、『アーヤと魔女』は「小さな」作品ではあるが、3DCGの美術や表情の作りこみから「こだわり」も存分に感じることができるし、今の子どもに向けた真摯なメッセージを込めている。
ジブリ作品に多くの人が期待しているであろう「夢いっぱいのファンタジー」や「ワクワクする冒険活劇」とは全く異なるし、結末があっけない、物語にも中途半端な印象がある点は否定はできないが、これまで書いてきたように見方を変えてみれば、評価に値するポイントがいくつもある、少なくとも「したたかな女の子の奮闘の物語を今の世界に送り出す」作り手のねらいはしっかり結実した、意義のある作品だったと言えるのではないか。
また、もともとがテレビ放送向けに作られてはいるが、「暗がり」が映える画が多い点もあり、十分に映画館で観る価値もあった。音響も優れており、特に終盤の「マンドレークが激怒する」シーンでは、その迫力に本気の恐怖を覚えるほどだ。ただ、「劇場版での一部の新カットを追加」はストーリーの印象が大きく変わるものではなく、あくまで少しシーンが足された程度、テレビ放送版と見比べないと気づけないほどのものなので、過度の期待はしないほうがいいだろう。
何より、アーヤのしたたかな性格とその言動は、今の子どもたち、特にコロナ禍という未曾有の世界にいる今では、とても勇気づけられるものだ。前述した通り、彼女は成長しないのではなく、「どこでも変わらない」強さを持っている人物だ。それでいて向上心を持ち、現状を少しでも良くしようと努力をしたり工夫をしたりする。ある意味では、アーヤは理想的なヒーローにも思えるのだ。
そして、宮崎吾朗監督は長編初監督作の『ゲド戦記』で容赦のない酷評を受け、続く『コクリコ坂から』は多くの人に愛されたものの、今回の『アーヤと魔女』でまたも厳しい評価を受けることになった。偉大すぎる父・宮崎駿を持つ重責はとても重いものだろうが、その作品群からはしっかり作家としての矜持も感じられるし、今後とも応援したいと心から思うことができた。次回作も楽しみにしたい。
(文:ヒナタカ)
参考図書:
アーヤと魔女 (ロマンアルバム) 徳間書店
アーヤと魔女 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 徳間書店
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–{『アーヤと魔女』作品情報}–
『アーヤと魔女』作品情報
【あらすじ】
1990年代のイギリスを舞台に、自分が魔女の娘とは知らずに育った少女アーヤが、奇妙な家に引き取られ、意地悪な魔女と暮らすことになる姿を描く。孤児として育った10歳のアーヤは、なんでも思い通りになる子どもの家で何不自由なく暮らしていたが、ベラ・ヤーガと名乗るド派手な女とマンドレークという長身男の怪しげな2人組に引き取られることに。魔女だというベラ・ヤーガは手伝いがほしかったからアーヤを引き取ったと言い、魔法を教えてもらうことを条件にアーヤはベラ・ヤーガの助手として働きだすのだが。
【予告編】
【基本情報】
声優:平澤宏々路/三浦透子/寺島しのぶ/ 豊川悦司/濱田岳
監督:宮崎吾朗
原作;ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
脚本:丹羽圭子、郡司絵美
公開日:2021年8月27日(金)
製作国:日本