「酒は飲んでも飲まれるな」と昔から言われているが、酒を飲んでいて「飲まれていない」人を見る機会はほとんどない。筆者は複業、というか趣味でバーテンダーとして年間100日ほど店に立っており、実測値(コロナ禍以前の)としても間違いないと思う。
『アナザーラウンド』は、「血中アルコール濃度を常に0.05%に保つと饒舌になり、気が大きくなって、結果として仕事もプライベートも上手くいく」というノルウェー人哲学者の理論を、中年の危機に陥った高校教師たちが実践していく物語だ。
本作の大きなキーワードとなる「血中アルコール濃度」について少し補足しておこう。厚生労働省の「e-ヘルスネット」によると、血中アルコール濃度は以下のように分類されている。
0.02~0.04:爽快期
0.05~0.10:ほろ酔い期
0.11~0.15:酩酊初期
0.16~0.30:酩酊極期
0.31~0.40:泥酔期
0.41~:昏睡期
(単位は%)
血中アルコール濃度0.05%は爽快期〜ほろ酔い期にあたり、症状としては陽気になる・顔が赤くなる・良い気分になる、手の動きが活発になるなどが挙げられる。「ああ、酔っ払ってきた」と自覚できるのはこのあたりだろうか。
例えば文章を書いているときにこの状態になったならば、小咄や駄洒落のひとつでも書いてやろうと、サービス精神がむくむくっと起き上がるかもしれない。
これが酩酊初期〜酩酊極期になると、ふらつきが起きたり、同じ話を繰り返したり、千鳥足になったりする。「傍から見ても結構酔っ払っている」状態はこのあたりだろう。
文章を書いているときなら「マッツ・ミケルセンとレオス・カラックス」は言葉にすると歯切れが良くて気持ち良い。とか意味のないことを書き始めるかもしれない。
泥酔期に突入すると立つことができなくなったり、意識が混濁したりする。よく道端の花壇に突っ込んで寝ている酔っぱらいがいるが、あんな感じではないだろうか。いわゆる「迷惑な人」だ。
文章を書いているときなら、たとえヴァなぁらんかkdかっskdかっsfdかskfkだkふぁksdfksdっっっkksっかksdっかd」あskpfぱ@dっっっっっっっっp
と、まともにタイプできず訳のわからぬ文字列が並ぶような気がする。
そして、昏睡期になると文字通り昏睡し、死に至るケースもある。危ないので皆気をつけて欲しい。文章なんて書いてる場合じゃない。
ちなみに、俗に言う「酒乱」などは「異常酩酊や複雑酩酊」と呼ばれており、上記の「単純酩酊」には当てはまらない。
さて、主人公である高校教師、マーティン(マッツ・ミケルセン)は仕事も家庭もある。けれども、なんだか人生が上手くいっていないと感じている。ある日同僚と開いた飲み会で件の「血中濃度0.05%維持で人生サクセス」理論を知る。早速、授業の前にジンを飲んで実践してみると、思いの外授業が上手くいった。その顛末を同僚に報告したところ「論文にまとめるべきだ」となり、全員で「飲酒が心と言動に及ぼす影響」を検証し始める。
当初こそ決められた血中アルコール濃度を守っていた面々であったが、大方の予想通り「もう少し濃度を高くしたらどうなるのか」と実験したくなるのが酒飲みの性、というか完全無欠の酔っ払い思考である。4人の血中アルコール濃度は高まり、物語のテンションも酩酊の頂点に向けて上昇していく。
彼らは酒を「道具」として使う。しかし、酒を道具として扱う人間は酒に支配されてしまうのが世の常である。
–{「酒」を「道具」として扱うということ}–
「酒」を「道具」として扱うということ
酒を道具として扱ってしまうと、行き着く先はアルコール依存症、いわゆるアル中である。これは実感もあるし、多くの先達が指摘している。
中島らもは『今夜、すべてのバーで』のなかで、アル中になる人間、ならない人間を明確に区別している。それはアルコールが「必要か」「不必要か」であるとし「アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ」と語っている。
ちなみに『今夜、すべてのバーで』にも登場する邦山照彦の『アル中地獄』には、よりアル中の生態が刻明に記されている。名著中の名著なので機会があれば読んでみて欲しいが、著者本人もまた、ストレスや疲れを癒やすための道具として酒を用いた結果、字義通りのアル中地獄に突入していく。
両者は伝説の酒飲みなので共感しにくいかもしれないが、例えば「寝酒に一杯」とナイトキャップをキメる場合、アルコールは「眠るための薬」として使われることとなる。はじめは少しの量でも、耐性がつけばだんだんと眠りにくくなってくる。すると量が増えていき、しまいには「飲まないと眠れなく」なる。手段が目的にすりかわれば、立派な依存症の第一歩だ。
これはドラッグでも一緒だ。ウィリアム・バロウズは『ジャンキー』にて「ドラッグとは生き方だ」との名言を遺しているし、別に麻薬でなくとも「写真を撮るためのカメラを収集している」「映画の半券を集めるために映画を観る」など、手段と目的がすり替わった趣味を持っている人なんていくらでもいるだろう。
ただ、それが趣味であれば最悪のケースは破産くらいで済むものの、酒をはじめとしたドラッグになると、行き着く先は廃人か死人である。本作には決定的なアルコール依存症描写はほとんど登場しないが、酒を道具として使うリスクはキッチリと提示されているように感じた。酒には良い面もあれば悪い面もある。これを誠実に描いただけでも好感がもてる。
誠実といえば、『アナザーラウンド』はバカみたいに酒を飲で騒ぐような映画ではない。と書いたが、酒を飲んで騒ぐシーンはある。しかし、彼らが飲むはテキーラショットでもイエーガーマイスターショットでもなく、サゼラックである。このカクテルのチョイスは素晴らしかった。
サゼラックは「世界最古のカクテル」とも呼ばれていて、1800年代に「サゼラックコーヒーハウス」で供されていた。もともとはコニャックベースだったそうだが、現在はライウイスキーをベースに使うのが一般的だ。レシピは数多く存在するが、ライウイスキーにアブサン、アンゴスチュラ・ビターズ、角砂糖、レモンピールが主流だろう。アルコール度数も強いが、それ以上に「脳に来る」ものがある。
あれをバッカンバッカン飲むとどうなるか、知っている人は思い出とともに胃から込み上げてくるものがあるだろうし、知らない方は一度飲んでみて欲しい。
サゼラックの話はさておき、本作は中年男4人の仲が睦まじいのも良い。彼らは酔っ払った帰り道、サッカーボールを蹴って遊ぶ。おそらく、何十年前にもそうしたように。
退行のスイッチとして、思い出の再生装置として用いる酒は、なんだかディストピア小説に出てくるドラッグみたいだけれども、中年になった身からすると「その使い方、ダメだけど最高だよなぁ」としみじみしてしまう。昔からの仲間と酒を酌み交わして、童心に帰って遊ぶ。これほど酔っ払っている時は楽しくて、酔いから覚めたら切ないことがあるだろうか。
ときに、立川談志は「酒が人間を駄目にするんじゃない。人間はもともと駄目だということを教えてくれるものだ」と言ったが、本作の登場人物も「もともと駄目」である。道具として使われた酒が彼らを駄目にするのではなく、もともと駄目な人間が酒を道具として使うだけだ。けれども、その「駄目さ」の妙は、スプリングバンクをストレートで飲んだときの、鼻に抜けてくる潮の香りのように心地良い。
『アナザーラウンド』は「酒」をテーマにした映画として、しっかりと熟成された作品だ。鑑賞後には友達と、恋人と、家族と、あるいは1人で酒が飲みたくなってしまうことだろう。これは「良い映画」の証左であるし、コロナ禍の今、唯一の欠点でもある。
(文:加藤 広大)
–{『アナザーラウンド』作品情報}–
『アナザーラウンド』作品情報
【あらすじ】
冴えない高校教師マーティン(マッツ・ミケルセン)と同僚3人は、ノルウェー人哲学者の“血中アルコール濃度を一定に保つと、仕事の効率が良くなり、想像力がみなぎる”という理論を証明するため、実験を行うことに。朝から飲酒を続け、常に酔った状態を保つことで授業も楽しくなり、生き生きとしてくる。だが、すべての行動には結果が伴うのだった……。
【予告編】
【基本情報】
出演:マッツ・ミケルセン/トマス・ボー・ラーセン/マグナス・ミラン/ラース・ランゼ/マリア・ボネヴィー
監督:トマス・ヴィンターベア
脚本:トマス・ヴィンターベア/トビアス・リンホルム
映倫:PG12
製作国:デンマーク