千葉真一 追悼:世界のアクション映画を変えた名優に捧げる「決まってるね、千葉ちゃん!」

ニューシネマ・アナリティクス

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■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」

世代的に千葉真一という映画スターの存在を知ったのは、TVドラマ「キイハンター」(68~73)からでしょうか。

まだ小学校に上がるか上がらないかの頃、毎週土曜日の夜9時だけは、なぜか親もこの番組を見せてくれ(たまにHっぽいシーンとか出てくると「寝なさい!」と理不尽に怒られたものでしたが)、そこで毎回さっそうとしたアクションを魅せてくれていたのが千葉真一であり、その意味ではウルトラマンなどとは異なる最初の生身のヒーローとして、ごくごく自然に憧れたものでした。

まもなくして彼は番組を卒業しますが、代わってトヨタ・カリーナのCMで見かける機会が多くなり、そこでのキャッチフレーズ「決まってるね、千葉ちゃん!」は今も心地よく耳に残っています……。

あの頃から、およそ50年過ぎた今、改めて映画スター・千葉真一(1939年1月22日―2021年8月19日)のキャリアを振り返ってみたいと思います。

オリンピックの夢からノンスタントの映画スターへ

千葉真一は福岡県に生まれ、4歳で千葉県に引っ越し(これが芸名の由来のひとつ)、中学時代から器械体操を始め、オリンピックをめざして1957年に日本体育大学体育学部体育学科に入学しますが、跳馬の練習中に負傷して1年間の運動禁止を言い渡されたことから夢を断念せざるを得なくなります

その直後、東映第6期ニューフェイス募集のポスターを偶然見かけて応募してみたところ、26,000人の中からトップの成績で合格し、大学を中退して(もっとも時を経て長年の功績が認められ、2013年3月10日に同校から特別卒業認定証が授与されています。在学中も「優」の数はかなり多かったとのこと)、1959年に東映入り。

1960年のTVドラマ「新・七色仮面」で二代目・蘭光太郎として主演デビュー。

その後も彼はTV「アラーの使者」(60)や映画『宇宙快速船』(61)『黄金バット』(66)『海底大戦争』(66)『宇宙からのメッセージ』(78)などヒーロー系を含む特撮ものの出演が結構あり、「柔道一直線」(69~71)「刑事くん」(71~76)「ロボット刑事」(73)「宇宙刑事ギャバン」(82~83)「宇宙刑事シャリバン」(83~84)などにゲスト出演することもしばし。こういったキャリアも、当時の子どもたちに鮮やかで好ましい印象をもたらしてくれていたように思えます。

映画デビューは東映東京制作の名物シリーズ『警視庁物語』シリーズの『警視庁物語 不在証明(ありばい)』(61)中川刑事役で、その後『十五才の女』(61)『十二人の刑事』(61)とシリーズに出演。

そして1961年、深作欣二監督のデビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で彼も映画初主演を果たし、以後、深作監督を師とも恩人とも仰ぎながら映画的共闘を続けていくことにもなりました。

またこのときアクション・シーンをすべて自分でこなすという、それまでの映画業界の常識を打ち破る姿勢が、その後の彼のアクション・スターとしての姿勢を決定づけることにもなっていくのでした。
(その後、1964年のフランス映画『リオの男』でジャン=ポール・ベルモンドがスタントなしでアクションの数々を披露しているのを見たときも「我が意を得たり!」で大いに勇気づけられたとのこと)

実際、1960年代の日本映画界はアクションそのものに対する認識が薄かったこともあり、千葉真一もその個性をフルに発揮できる企画に出会える機会はなかなか少なかったのですが、そんな中での鉱脈がTV「キイ・ハンター」であり、そこで毎週彼が披露する危険なアクションの数々はお茶の間の目を大きく見開かせることになるとともに、一気に人気スターとして認知されることになっていきます。

こうした上り調子の中、中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69)で血盟団テロリスト小沼正を演じて京都市民映画祭主演男優賞を受賞したことも、俳優としての彼の自信に大きく繋がったようです。

深作監督同様、中島監督もまた千葉真一のキャリアを語るときに絶対欠かせない存在です。

–{アクション・シリーズ連投への忸怩たる想い}–

アクション・シリーズ連投への忸怩たる想い

1970年代に入ると、『やくざ刑事』(70~71)『狼やくざ』(72)『麻薬売春Gメン』(72)など千葉真一主演の現代アクション映画シリーズの製作が俄然増えていきます。

しかしこうしたシリーズものの連投は1パターンのルーティン・ワークに陥ることが多く、それを危惧する千葉真一は久々に深作欣二監督と組むことを望み、それが果たされたのが『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73)でした。

ここで彼が演じた欲望のままに行動する狂犬のような大友勝利は、その後のヤクザ映画キャラクターの大きな象徴として今なお語り草になっています。

この直後、ブルース・リー主演『燃えよドラゴン』(73)が日本でも公開(1973年12月22日)されて大きな話題となったことから、東映は千葉真一主演の格闘映画を量産。

もともと東映に入る前から極真空手を習い(1965年に初段、1984年に四段昇格)、ブルース・リーも生前に共演を望んでいたという千葉真一にとって、それは新たな路線として更なる人気を獲得していくことになりました。

しかし『殺人拳』(74~76)『地獄拳』(74)『けんか空手』(75~77/極真空手の始祖・大山倍達の半生を原作にしたもの)など、70年代初頭の現代アクション・シリーズのときと同じ轍を踏んでいくことに、再び彼は忸怩たる想いを抱き続けていくことになります。
(それもあって、毎回現場などでいろいろアイデアを出しては、作品ごとに少しでも趣向の異なるものとして映えるよう腐心もしていたとのこと)

むしろこの時期は佐藤純彌監督の『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』(74)や『新幹線大爆破』(75)など、当時の東映としては珍しいジャンルへの出演に興味を示していた向きもあり、またTVでもノンアクションのホームドラマ「七色とんがらし」(76)に主演。

またこうした模索が功を奏してか、1976年の中島貞夫監督作品『沖縄やくざ戦争』で再び京都市民映画祭主演男優賞を受賞し、1977年には深作監督の現代アクション映画『ドーベルマン刑事』に主演して心通わせつつ、この再会が後の千葉真一と時代劇との邂逅へと直結していくのでした。

–{時代劇への挑戦と千葉流チャンバラの確立}–

時代劇への挑戦と千葉流チャンバラの確立

もともと東映は日本映画黄金時代に数多くの時代劇を量産していましたが、1960年代に入ってそれが任侠映画に取って代わられ、さらには1970年代になると実録ヤクザ映画路線へ移行していったものの、70年代後半になるとそこにも陰りが見え始めていました。

そこで東映は久々に時代劇超大作『柳生一族の陰謀』(78)の製作を発表。

監督は深作欣二、主演は東映時代劇の大スター萬屋錦之介、そして千葉真一は萬屋が演じる柳生但馬守宗矩の長男・柳生十兵衛の役。

もともとこの作品、千葉真一が「裏柳生」なる企画を深作監督に持ち込んだことも、製作の大きな基軸となっています。

実はそれまで千葉真一の時代劇出演は『八州遊侠伝 男の盃』(63)しかなく、だからこそ時代劇の殺陣を未知のアクションへの挑戦と捉え、自ら時代劇の企画を考えつつ、千葉真一ならではのチャンバラ・アクションを構築していくべく動き出したのです。

完成した『柳生一族の陰謀』は興収30億円を越える大ヒットとなり、そのTVシリーズ版「柳生一族の陰謀」(78~79)でも千葉真一は柳生十兵衛を演じ、殺陣シーンも俄然増えていきます。

彼の殺陣はあたかも肉弾戦のごとき(蹴りもよく出てくる!)アクションとしてのチャンバラであり、従来の東映時代劇などが日本舞踊を基軸とする殺陣を基調としていたのを大きく打ち破るもので、それは多くの時代劇ファンを驚かせました。

この千葉流チャンバラは、またまた柳生十兵衛を演じた『魔界転生』(81)で魅力炸裂! 

魔界の衆と化した実父・柳生但馬守(若山富三郎)との燃え盛る江戸城内での死闘(本当に火をつけて火事と化している中で命がけのチャンバラやってる!)は、時代劇史上に残る名シーンとして讃えられ続けています。

この後も千葉真一はTV『柳生あばれ旅』シリーズ(80~83)で十兵衛を演じ、今でも「柳生十兵衛といえば千葉ちゃん!」と、多くの時代劇ファンのお墨付きをいただき続けています。

もう1本、TV「影の軍団」シリーズ(80~85)の服部半蔵(シリーズによって演じる代は異なります)も当たり役となり、後に映画&OV『新・影の軍団』シリーズ(2003~2005)を企画&主演しています。

–{JACを率いての1980年代の大躍進}–

JACを率いての1980年代の大躍進

千葉真一の大きな功績のひとつとして、1970年にジャパンアクションクラブ(通称JAC)を創設し、そこから志穂美悦子や真田広之など世界に通用するアクション・スターやスタッフを数多く育成し続けていったことも挙げられるでしょう。

JACの面々は1970年代以降数多くの映画やドラマのアクション・シーンやスタントを担うことになっていきますが、千葉真一自身がアクション監督を務めながらJACの面々ともども臨んだ超大作が、1979年の角川映画『戦国自衛隊』でした。

半村良の原作を基にした、現代の自衛隊隊員たちが戦国時代にタイムスリップするという前代未聞のアイデアは、当時のメジャー映画会社のお偉方からまったく理解してもらえず、製作の角川春樹は企画を通すのにかなり苦労したとのことですが、千葉真一はこれに大きく賛同。

戦車やヘリコプターなどから繰り出される現代兵器の爆炎の中を人馬が走り回り、戦国武者(真田広之!)がヘリから命綱なしで飛び降るなど、これまで外国映画でもお目にかかったことのないセンス・オブ・ワンダーな映像がこれでもかといわんばかりに繰り広げられていきます。

今、これらのシーンをCGなしで描出することはおそらく不可能であろうことの数々が、ここではCG抜きの(そもそもそんな技術はまだ映画に用いられていない時代)生身のスタントを駆使して全編にわたって展開されていったのです。

千葉真一本人に「撮影を終えた夜毎に飲む酒が、こんなに美味いと感じたことはない」と言わしめた充実した作品であり、後に俳優生活50周年記念パーティの際も、彼は本作のエンディングテーマ「ララバイ・オブ・ユー」をお祝いに駆け付けた人々の前で熱唱したとのこと。

そして、「また新たな『戦国自衛隊』を作りたい!」と企画を練っていたとも聞かされています。

『戦国自衛隊』以降の千葉真一はJACをベースに、さまざまなアクション&時代劇を映画、ドラマ、舞台を問わず繰り広げていきますが、映画の主演は『魔界転生』を最後にしばらく途絶えていくのは、彼自身が映画スターであること以上に、映画人として日本映画界にアクションの新風を吹き込むことに意欲を燃やしていたからでしょう。

演出・主演を務めたミュージカル「ゆかいな海賊大冒険」(82・83・84)は連日満員となり、「深夜へようこそ」(86)「夢に見た日々」(89)と山田太一脚本のTVドラマに主演、そして1990年には真田広之主演『リメインズ 美しき勇者たち』で映画監督デビューも果たしています。

一方では『里見八犬伝』(83)『必殺4 恨みはらします』(87)『いつかギラギラする日』(92)といった深作欣二監督作品に助演しているときの彼の活き活きとした姿!

かたや五社英雄監督『闇の狩人』(79)や岡本喜八監督のTV時代劇『太閤記』(87/何と千葉扮する明智光秀が、松方弘樹扮する織田信長と本能寺の変で一大チャンバラを展開!)では、ずっとリスペクトし続けてきた監督の作品に初出演するということで、現場では新人俳優のようにガチガチになっていたという、今となっては微笑ましいエピソードも伝え聞かされたりもしています。

こうした流れの中、千葉真一の時代劇アクションとしてのひとつの到達点が、1989年の降旗康男監督作品『将軍家光の乱心 激突』でしょう。

徳川三代将軍家光の乱心によって命を狙われることになった実子・竹千代を護ろうと奔走するする浪人衆の決死の活躍を描いた本作で、千葉真一は家光側の剣豪、即ち悪役を買って出ながらアクション監督も兼任し、それまで培ってきたアクション技術の数々を惜しむことなく注ぎ込みながら、その映画愛を露にしています。

劇中『ワイルドバンチ』(69)など彼が愛してやまない名作映画群へのリスペクトも大いにうかがわれ、また父と子の絆が隠れたモチーフになっていることから、音楽監督の佐藤勝には本作を「時代劇版『チャンプ』(79)にしたいんだ!」と口角泡を飛ばす勢いで訴えていたとのことでした。

また本作で千葉が演じた役の名前は伊庭庄左衛門、そして『戦国自衛隊』で彼が演じた主人公の名前は伊庭義明三等陸尉。

この両名、もしかしたら同じ血筋だったのかもしれませんね(少なくとも本人はそう思って演じていた?)

–{1990年代の海外進出と世界的リスペクトの浸透}–

1990年代の海外進出と世界的リスペクトの浸透

1990年代に入って、千葉真一は活動の拠点を海外に切り替えていきます。

それ以前にも海外合作映画への出演は多かった彼ですが、1991年にJACを売却し、1992年のアメリカ映画『エイセス/大空の誓い』に出演したことを機に、かねがね宿願でもあった海外進出を決意してロサンゼルスに移住し、グリーンカードも取得。

正直、この時期の彼の活動そのものはなかなかうまく実りを示しているように当時は思えず、改めて日本映画人の海外進出の難しさを露呈させた印象まで抱かせたものでした。

日本国内での出演作も激減していったことで、当時は「そういえば千葉真一って今どうしてるんだっけ?」みたいな会話を映画ファン同士で交わすこともあったほどです。

しかし、こうしたマイナス・イメージは香港映画界からのリスペクトを受けて彼が出演した1998年の『風雲ストームライダーズ』で第18回香港電影金像奨で優秀主演男優賞にノミネートされたり、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル Vol.1』(2003)の熱いラブコールを受けて出演したことで、一気に払拭されていきました。

かつて1970年代、千葉真一が忸怩たる想いで(しかしながら一度も手を抜くことなく真摯に)演じ続けた空手映画など多くの格闘系アクション映画群は、実は世界中の映画ファンの間で大人気となって久しく、特にアメリカでは“SONNY CHIBA”(サニー千葉)として彼のことは広く認知されていたのです。

この時期に彼の主演映画の数々を鑑賞してはその虜になっていたのがクエンティン・タランティーノであり、サミュエル・L・ジャクソンであり、キアヌ・リーヴスであったりしていたのです。

タランティーノが脚本を書いたトニー・スコット監督作品『トゥルー・ロマンス』(93)の主人公クラレンス(クリスチャン・スレイター)は、部屋に“SONNY CHIBA”主演映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(66)と『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(72)のポスターを貼り、映画館で『激突!殺人拳』(74)など彼の空手映画オールナイトを見たりしています。

そして『キル・ビル Vol.1』で千葉真一が演じる役柄は、何と100代目服部半蔵! さらにはTV版『柳生一族の陰謀』オープニング・ナレーションも劇中に導入されていました。

(本作で千葉真一は主演ユマ・サーマンたちスターへの剣術指導も担当し、またサターン賞助演男優賞にノミネート)。

サミュエル・L・ジャクソンは『アベンジャーズ』(12)などのマーベル・シネマティック・ユニバース・シリーズで自身が扮したニック・フューリーが隻眼なのは、千葉真一の柳生十兵衛に倣ったものと告白しています。

キアヌ・リーヴスは『激突!殺人拳』からアクションと演技を学んだと公言しており(韓国の映画監督兼俳優のリュ・スンワンも本作の大ファン)、2015年に来日して千葉真一と初めて対面した折はもう興奮しまくって、もはやスターというよりも「千葉ちゃん大好き!」な子どものようでもありました。

こうした海外からのリスペクトが10年ほど早く浸透していたら、千葉真一の海外進出もまた様相が変わっていたかもしれません。

(実際は1970年代後半から彼への世界的リスペクトは始まっていたわけですが、肝心要の日本人の多くがそのことに気づいていなかった)

実は10年ほど前、一度だけ取材させていただいたことがあります。

そのとき彼はハリウッド資本で日本人が映画制作を敢行しようとすることの困難と、自分が海外でリスペクトされるきっかけとなった70年代格闘系アクション映画などに関しても、その域に甘んじていてはいけないこと、そしてこれから自分はこういう映画を作っていくのだということを、まるで質問要らずのインタビューのように延々と熱く語りつくしてくれたものでした。

その熱さは思わずドン・キホーテを彷彿させるほどで、こちらのような凡人からすると「いや、さすがにそれを実現させるのは……」とうっかり声に漏らしてしまいかねないものまでありましたが、今振り返るとそういった直言実行猪突猛進の姿勢こそが、少なくとも1970年代以降の日本映画のアクションの歴史を大きく変えてくれたことは間違いのない事実だと思います。

『戦国自衛隊』公開時のキャッチフレーズ「歴史は俺たちに何をさせようとしているのか」に倣うと、「歴史は千葉真一にアクション映画を大きく変革させた」と返答してもいいのかもしれません。

いや『戦国自衛隊』の劇中には「歴史なんかに潰されてたまるか」という名セリフもあります。

やはり「千葉真一はアクション映画の歴史を大きく変えたのだ」と言い換えておくべきでしょう。

ちなみに千葉真一は、ハリウッドの撮影現場における本番の掛け声が“ACTION!”であることにも大きく着目し、「アクションとは演技そのものを指しているのだ」と、常々熱く訴えてもいました。

このスピリッツを理解することで、アクション映画が単なる1ジャンルではなく“映画”そのものであることまでご理解いただけるのではないでしょうか。

そして今、彼のスピリッツは現在海外に拠点を移し、アクションからシリアスなドラマまでこだわりなく活動し続けては注目を集め続ける真田広之はもとより、先に挙げたタランティーノやキアヌ・リーヴスらにもきっちり受け継がれていくことでしょう。

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(文:増當竜也)