「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」徹底解説!|予習・復習はこれで完璧!

国内ドラマ

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回より

NHKの大河ドラマの人気シリーズといえば戦国時代。中でも織田信長が明智光秀の謀反で命を落とす本能寺の変は名場面の一つです。

新型コロナウィルス感染症の影響で2020→2021年の越年放送となった「麒麟がくる」は、その明智光秀を描いた作品。当事者であるだけに、戦国時代を描いたこれまでの大河ドラマよりも濃厚に、本能寺で命を落とした織田信長を描いた「信長 KING OF ZIPANGU(1992年)」と同等の濃厚さで描かれることでしょう。

本能寺の変は実行者である明智光秀が程なくして羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れており、いわゆる「勝者の歴史」として語られていません。そのためか、なぜ変を起こしたかという理由すら諸説に溢れ、450年近く経った現代でも歴史の専門家や歴史ファンの話題にのぼっています。

この記事では「麒麟がくる」のクライマックスを前に、本能寺の変が起きた理由、過去の大河ドラマの本能寺の変の振り返り、本能寺の変や明智光秀にまつわる故事・成語をご紹介します。

謎に包まれた歴史上の政変だからこそ、ファンは自由に想いを馳せられるというもの。根拠の薄いもの、歴史家に否定されているものも含め、話題になったトピックをご紹介します。

明智光秀がなぜ大事件を起こしたのかという戦国時代最大の謎をお楽しみください。

なぜ本能寺の変は起こったのか


NHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回場面写真より

同じ武家の時代でも、家臣たるもの主君の言うことは絶対、という考え方は江戸時代のものです。戦国時代は主君が自分の働きに応えてくれなければ、家臣は堂々と主君を見限り、仕える相手を変えていました。

本能寺の変が起きたころも、織田信長は甲信地方から中国地方の一部までを掌握していましたが全国を統一していたわけではありません。日本を統一するという観点で考えるなら、最有力候補ではあったがまだ成し遂げていない、という状況でした。

こうした時代であれば、家臣が主君に向けて刃を向けることもむべなるかな、と言えるのです。

さて、光秀の謀反はとても多くの説が提唱されています。Wikipediaの本能寺の変には58の説が取り上げられているほどで、その全てをご紹介すると本が一冊書けてしまいそうです。

ここでは最新の研究で肯定・否定のどちらに傾いているかにかかわらず、興味深い・本当に理由っぽい・そうであったら面白い・過去の作品でよく取り上げられている、という観点でいくつかご紹介します。

歴史家が明快に否定しているものもあります。が、そうした説も映画やドラマ・小説で本能寺の変を鑑賞するファンにとっては重要です。

さて、まず大きな分類として、光秀が単独・主犯として動いた説、誰か黒幕がいてそそのかされた説の二つにわけていきましょう。

明智光秀の単独犯もしくは主犯説

まずは光秀が単独・主犯として起こした説からご紹介します。主に織田信長との関係が悪化したエピソードの紹介ということになりますが、これが全て事実としてあったのであれば、信長の光秀に対するパワーハラスメントは常軌を逸しています。

過去の大河ドラマでも、光秀は信長から散々な扱いを受けています。

丹波・近江の領地召し上げ

1582年、本能寺の変の少し前、光秀は丹波・近江(兵庫県東部から滋賀県西部のあたり)を領地としていました。

当時の織田家は重臣が攻略地域を分け持つ形式を取っており、光秀は近畿地方に目を配りながら西方をにらむ役割だったと考えられます。

あるとき、中国地方を攻める羽柴秀吉の協力をするよう、信長が光秀に命じました。

その際に信長から

出雲・石見の二か国を与える代わりに丹波と近江を召し上げる

と指示があった、とされています。このエピソードは過去の大河ドラマでも複数作品で描かれています。

この命令について光秀が不満に感じたかもしれないポイントには、以下の様な点が挙げられそうです。

・まだ獲得していない領地(出雲・石見は織田領ではありませんでした)を手形に、今の領地を召し上げられてしまう?という不安
・重臣としてのライバルだった秀吉が毛利攻めでポイントを稼ぎ、自分はそのサポートとして下に付く指示を受けたという出世競争の遅れ
・今まで京都や近畿という日本の中枢を管理してきていたのに中国地方に左遷されたのではないかとする不満

いずれにせよ、光秀が織田家の中枢としての評価を下げられたのかもしれないと考えても不思議ではありません。

波多野家攻略時に人質に差し出した実母を見捨てられた

織田家が近畿から西に侵攻するにあたり、丹波の波多野家は目の上の瘤でした。信長は1575年、エース・光秀に攻略を任せます。敵の猛将による頑強な抵抗あり、協力武将の裏切りありで苦労した丹波攻めは5年ほどかかっています。

その終盤、波多野家が籠城した八上城攻めも楽には終わりませんでした。光秀は実母を人質として差し出すことで波多野家の当主・秀治らの命を保証する約束をして投降を促したのですが、投降後に信長はその約束を守らず、磔にしてしまったのです。

この報復として、波多野家では光秀の母を磔にし返しました。このことで光秀は心を痛め、信長に恨みをもつ理由の一つとされています。

竹中直人さんが豊臣秀吉を演じた「秀吉」(1996年放送)では、野際陽子さん演じる光秀の母が磔にされるシーンが描かれています。

武田攻め後の仕打ち

1582年、武田信玄で有名な甲斐の武田家は織田家に滅ぼされています。その時に光秀は、戦いにはほとんど関係していないものの織田軍として甲斐に向かっていました。戦いをサボっていたわけではなく、主力でもなく大差のついた戦いだったため出番がありませんでした。

その戦勝の酒宴で光秀が

「我々も長年骨を折ってきた甲斐が・・・・・・」

と感慨深く語ったところ、信長が怒りだし

「おまえはどこで骨を折るような苦労をしたのだ」

などと責め、欄干に光秀の頭を押しつけたり叩いたりした、というのです。

この1点だけで本能寺の変を起こすのであればちょっと短慮に過ぎる気もしますが、光秀の怨恨によって本能寺の変が起こったとされる場合には、ほかのエピソードとあわせて登場することがあります。

恵林寺の焼き討ち

1582年、その武田攻めの際に、武田家の菩提寺である恵林寺を信長は焼き討ちにしています。恵林寺の和尚・快川紹喜(かいせん じょうき)は光秀と同じ美濃国の土岐氏の一族だったと言われています。また、同時に焼き殺した僧侶は150人以上だったとか。

光秀の前半生は謎に包まれたままですが、快川和尚とのやりとりを色濃く描けば、光秀に強い恨みを抱かせることは可能になります。

恵林寺の焼き討ちは、延暦寺の焼き討ちとあわせて信長の苛烈な性格を示すエピソードです。このシーンが光秀の信長に対する憎しみ・不満を増やしたものとして描かれるケースがあります。

天下争奪の野望

織田家は軍団制でした。重臣のうち、柴田勝家が北陸方面、羽柴秀吉が中国方面、滝川一益が関東方面、織田信孝が四国方面、などと担当エリアが分かれていたのです。

本能寺の変の直前は各軍団が戦の準備や後処理などで持ち場を離れられませんでした。中国攻めの前に小勢で本能寺に立ち寄った信長の近くにいる大軍団は光秀の軍しかいなかったのです。

そこで急きょ、光秀が天下を取るために動いたという説があります。

慎重な光秀の性格から、これだけで理由にするのは難しいかもしれません。もし天下争奪の野望があったのであれば、信長を倒したあとの体制作りを速やかに出来ただけの能力があったはずです。本能寺の変の後、細川家や筒井家を仲間にできなかったことををみても、整合性が付かないようにも感じられます。

ですが、ほかの理由と組み合わせて、現実的に自分が攻めれば信長を倒せる、という判断は働いたかもしれません。

なお、信長から天下を奪おうとした理由も様々な説が挙がっています。

・自らを神と呼び始めた信長を阻止するため
・朝廷の仕組みを壊そうとしていた信長を止めるため

などです。こうした説も、だれかが黒幕だった、という説との組み合わせになることもあります。

徳川家康饗応の接待失敗

武田家が滅亡した後、信長は安土城に徳川家康を招き、慰労会を開きました。その奉行(饗応役)に任じられたのが光秀でした。家康への接待のすべてを任されたのです。

その際、光秀が出した料理に不具合があり、奉行を解任された、という説があります。

鯛が腐っていた、京風の薄い味付けが家康に合わない、など複数の演出がありますが、ここでも信長が光秀を足蹴にしたり殴ったり、というシーンが出てきますし、丹波・近江の領地召し上げにつながるエピソードして描かれることもあります。

他者による陰謀・共謀説

ここからは、他の誰かが本能寺の変に関与していたという説をご紹介します。

信長は世の中を新しく変えようとしていた節があります。攻められる他者からすれば信長は侵略者。これまでの仕組みを大きく変えようとしていた信長は、領地を侵略される戦国武将以外にも、経済的・政治的な敵も多かったと考えるのは難しくありません。

そうした他者の働きかけで、実行者として光秀が担当した、という考え方も、まあ自然ではあります。

朝廷

信長は自分を神としてあがめさせようとしたり、朝廷からの征夷大将軍や関白といった位の授与を断ったりした様子が記録に残っています。

従来の仕組みを壊そうとしている信長に対し、朝廷側がコントロールしきれない信長を排除したいと考えており、その実行者として朝廷と連絡が取りやすかった光秀になったという説です。

朝廷内の黒幕は具体的に誰かも、それこそ多岐にわたります。「麒麟がくる」でも朝廷と光秀の関係は色濃く描かれています。

足利義昭

室町幕府15代将軍・足利義昭は、はじめは信長の力を借りて将軍になりました。しかし信長との関係が悪くなり、諸国の大名に通じて信長を倒そうと謀ります。

信長は1573年、義昭を京都から追放しました。義昭の将軍職は解かれておらず、備後(広島の東側・当時の毛利領)にいました。

本能寺の変のあと、光秀は義昭を京都へ迎え入れたいという手紙を出しているとされています(リンク)。義昭が黒幕かどうかはさておき、光秀が義昭、そして室町幕府を大切にしていたことは想像できます。

羽柴秀吉

羽柴秀吉やその配下の黒田官兵衛が黒幕、としている説もあります。

常識では考えにくい備中からの通称「大返し」や、その後の光秀との天下分け目の戦い「山崎の合戦」での快勝。その後の天下取りまで含めて、本能寺の変で最も得をしたのが誰かという観点で考えると、合点がいきます。

ただ、信長に大抜擢を受けた秀吉が、この時点で信長を倒したかったのかが不明確ではあります。

徳川家康

本能寺の変が起こる3年前、徳川家康の長男・松平信康は自害しています。信康とその母・築山殿は信長から自害を命じられました。

自害を命じられた理由も諸説あるのですが、代表的なものとしては、信長の娘で信康の妻であった徳姫と不和であったことと家臣や僧侶に対する乱暴が多かったことなどから、徳姫が信長に信康と築山殿に関する手紙を書き、それに怒った信長が自害を命じた、というもの。

家康にしてみれば妻と嫡男を同時に失うことになる痛恨の出来事で、こうした恨みを持っていても不思議ではありません。

「おんな城主直虎」(2017年)では、光秀に信長暗殺を持ち掛けられた家康が悩む、というシーンが描かれています。

理由は1つあるいは複数が組み合わさっているかもしれない

本当の理由は、これからも分からないのかもしれません。ここに取り上げた説も1つだけではなく、いくつが絡み合っての挙兵だったのかもしれません。

きっとこれからも、本能寺の変が登場する作品は数多く発表されることでしょう。

歴史ドラマや小説・漫画を楽しむ側としては、様々な説の概要を把握しておき、

・この作品はこの説を採っているんだ
・この作家はこの歴史家の説を重視しているんだ
・説の組み合わせがおもしろいな

といった楽しみ方をしてみるのはいかがでしょうか。

–{明智光秀に関することわざ・慣用句・有名な言い回し}–

本能寺の変と山崎の合戦・明智光秀に関することわざ・慣用句・有名な言い回しの紹介

スポーツのリーグ戦でわずか数日だけ首位になり、また陥落したときに、メディアで「三日天下」と語られることがあります。

じつはこの三日天下という言葉は、本能寺の変のあと、あっというまに秀吉に討たれた光秀のことを指した言葉なのをご存じでしょうか?

このように、本能寺の変とその前後には、私たちがふと使ってしまうような言葉がいくつも生まれ・使われています。

そうした言葉や慣用句、本能寺の変では欠かせない言い回しをご紹介します。

敵は本能寺にあり

本能寺の変を起こす光秀が描かれる際に、まず100%使われるセリフです。発せられた場所やタイミングは様々ですが、

「我々はこれから秀吉の救援に向かうのではない、信長を討ちに行くのだ」

という意味合いで使われることが多いようです。

本能寺の変の直前、明智光秀は本拠地から南下して、秀吉の救援に向かうことになっていました。兵士が何も知らなければ、どこかの分岐点で西に折れることで秀吉の救援に向かうのだと自然に理解できる行動だったはずです。

ところが明智軍は、西に折れるべきところで東に折れ、京都を目指すことになりました。
こうしたタイミングで使われたのでしょうか?

是非に及ばず

意味合いとしては「仕方ない」といったところでしょうか。本能寺で光秀の謀反と知った信長のセリフとして有名です。戦上手な光秀が起こした謀反であればじたばたしても仕方がない、と観念しているように取れるセリフです。

武田攻めの後の折檻や安土城での家康饗応でダメ出しをするなど、光秀に対して辛く当たっている信長ですが、本能寺で光秀が挙兵と知った瞬間に「是非に及ばず」では諦めが早いようにも思います。

謎の多い本能寺の変、有名な信長のこの言葉も、さらに深い意味が隠されているかもしれませんね。

人間50年

本能寺の変のクライマックスでは欠かせない、織田信長の好きな歌の一節です。

戦国時代に武士に愛された幸若舞という舞の中に、敦盛という演目がありました。織田信長が敦盛を好んでいたことは信長公記にも記されています。

敦盛の中でも

「人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

という部分が織田信長を扱った作品にはよく登場します。本能寺の変でも、自刃の直前に敦盛を歌い、または舞いながら死に向かう信長が描かれることは少なくありません。

その織田信長が本能寺の変でなくなったとき、49歳でした。まさに「人間50年」ですね。

心頭滅却すれば、火自ずから涼し

お風呂やサウナで熱さに耐えるとき、こんな言葉を使ったことはありませんか?

恵林寺で焼き討ちにあった快川和尚の辞世と言われています。元々は中国の詩だったと伝えられていますが、日本人に広く知られるきっかけになったのは、間違いなく快川和尚の逸話でしょう。

心の持ちようで苦痛はしのげる、という意味の言葉です。「心頭滅却」と短くすることもありますね。

私たちがなんとなく覚えているのは

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

ですが、快川和尚の言葉が変化して覚えられたものではないでしょうか。

天王山

勝負の分かれ目、頑張りどころ、といった意味で使われます。仕事を得るために大切なプレゼンテーションを行う当日などに「今日は天王山だぞ!」などと使います。

光秀と秀吉が戦った山崎の合戦。その合戦地は今のJR京都駅から南西10キロメートルほどのところにあります。勝つために押さえたいポイントが今も実在する天王山という山でした。

天王山の戦い、山崎の合戦は、同じ戦いを指しています。

三日天下

とても短い期間だけ権力を握っていたことを指す言葉です。リーグ戦などで一時的に首位を取ったチーム・人に対して使うのが一般的でしょうか。

本能寺の変で信長を破った光秀は、羽柴秀吉に敗れるまでは近畿地方の中心部をもっとも掌握している状態にありました。

旧暦6月2日に本能寺の変を起こし、秀吉に敗れた山崎の合戦は6月13日に行われました。つまり、実際には光秀の天下は11日あったのですが、とても短いものの例えとして三日という言葉が使われています。

現代で私たちが使う際も、三日という数字にこだわる必要は特にないでしょう。

洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む

形勢を窺い、有利な方にいつでも加担できるように待つ、小ずるい態度のことを言います。生き残りに懸命であれば、勝ち馬に乗るためにギリギリのタイミングまで情勢を見極めたいものです。そうした立場の人を揶揄する言葉としても使います。

山崎の合戦における筒井順慶の態度がこのようであった、という説から生まれた言葉です。

合戦で明智光秀に助力を依頼された筒井順慶は曖昧な対応を取ります。光秀は洞ヶ峠を訪れて参陣を促すものの、順慶結局どっちつかずで終わった、と言われています。筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった、反光秀を表明していた、などの説もあり、言葉だけが後世まで残っている可能性もあります。

で、あるか

織田信長の口癖として使われる言葉です。「そうか」を言い換えたものとして捉えれば良いでしょう。

元は信長公記(信長家臣の太田牛一が書いたもの)に書かれていました。大河ドラマ「利家とまつ」(2002年)で反町隆史さん演じた信長が多用したことから一般的になったとされています。

その後、信長の口癖的に使われることがあります。変わり種では漫画・アニメ作品「織田シナモン信長」で、輪廻転生により現代の犬になってしまった信長が「で、あるか」を連発していることで信長だと認知しやすい、というものもあります。

時は今

これから大一番を迎えるときに、その気持ちを伝えたり震え立たせたりする際に「時は今」ということがあります。

「ときは今 雨が下しる 五月かな」

という句の頭の言葉です。

これは、本能寺へ進軍する前、光秀が愛宕山(京都府京都市右京区)の愛宕神社で開催した連歌会での発句です。愛宕神社は戦いの神が祀られており、光秀がここで何度もおみくじを引いた、というシーンも複数の大河ドラマで取り上げられています。

この句の解釈も様々な歴史家によって試みられています。「とき」という言葉が、今こそ謀反の時、という「時」と、光秀の出自である「土岐氏」の「土岐」のかけことばではないか、と見られている説は有名です。

–{大河ドラマの本能寺の変のシーンを振り返る}–

大河ドラマの本能寺の変のシーンを振り返る

「麒麟がくる」は大河ドラマの59作目。

戦国時代は大河ドラマの人気テーマで、様々な俳優が演じる織田信長が、様々な俳優が演じる明智光秀に討たれています。二人の確執を色濃く描いているものもあり、見所が満載です。

過去の大河ドラマは、NHKの番組配信サービス「NHKオンデマンド」や歴史系・ドラマ系のCSチャンネルで不定期的に観られます。NHKオンデマンドでは期間を区切ったり、放送話数を限定するなどしながら、様々な作品が紹介されます。

手元の映像なども含め確認できた大河ドラマの本能寺の変を振り返ってみましょう。

総集編などから確認しているものもあり正確な話数がわからないものもございます。ご容赦を。

太閤記(1965年)第42回「本能寺」

織田信長:高橋幸治
明智光秀:佐藤慶

大河ドラマ第3作。吉川英治の同名小説を原作とする作品です。まだ白黒映像でした。筆者がNHKオンラインを確認した時点では、本能寺の変の回だけ視聴できました。

桂川を渡る光秀が「我が敵は本能寺にある。敵の名は、織田信長!」と力強く叫ぶ姿が印象的です。

明智軍は僧侶・女性・子供は本能寺から逃がし、攻めかかります。こうした演出は後の作品でも見られ、光秀がこの当時から無駄な殺生を嫌っていたと考えられていたことが窺えます。無駄な殺生を嫌う光秀と、皆殺しを選択する信長の対比として重要な演出です。

信長は森蘭丸に「灰になるまで敵に渡すな」と命じ、炎の中で切腹しました。

切腹し前向きに崩れる信長に森蘭丸が気付くのが切ないですね。蘭丸が先に死んでいたり、奥へむかう信長を守るために敵と切りあっているシーンで終わったりするケースもありますからね。

信長を演じた高橋幸治さん、すっと鼻が通っていて、すこし頬が角ばっていて、とても凜々しかったです。当時も盛り上がったのでしょうね。

また、セリフで「こいひめ」と呼んでいるシーンがありました。最初は何のことかと思いましたが、もしかしたら濃姫のことかもしれません。

国盗り物語(1973年) 総集編から

織田信長:高橋英樹
明智光秀:近藤正臣

司馬遼太郎の複数小説を編集して原作とし、大河ドラマにした作品です。タイトルとなっている「国盗り物語」は、信長の舅・斎藤道三を主役とした小説ですが、大河ドラマとしては道三・信長と主役がリレーする構成になっています。

今は大ベテランの高橋英樹さん・近藤正臣さんの、若くりりしい姿が見られます。

1582年の武田攻めが終わった後の宴で、光秀のセリフに怒った信長が、光秀を扇子で殴り、欄干に打ち付けました。その時に光秀が打ち付けられながら「殺してやる……」と心の中でつぶやきます。

石見・出雲への国替えを伝えられた光秀はさらに怒ります。信長は家族に

「光秀がその気になれば出雲・石見を瞬く間に奪い取るわ!」

と語るなど期待していましたが、光秀としては

「幸い出雲・石見を手に入れることができても、あの男はさらにその両国を取り上げ、北の果てか南の果ての切り取りを命じられるに違いない」

と気持ちがすれ違っています。

愛宕山で開催された連歌の会で『時はいま~~』の歌を詠んだ光秀、会に参加していた連歌師の里村紹巴に真意を見破られます。

本能寺の寝所で家臣から光秀の謀反と聞いた信長は怒りの表情を見せますが、それを沈め、静かに「是非に、及ばず」と覚悟を決めました。この一言で、光秀に対する信長の評価の高さがうかがい知れます。

煙が入る奥の部屋で、脇差と懐紙を床に置いてから襟を開く信長。脇差を懐紙で包み、作法に乗っ取った切腹をして果てます。

切腹の直前には敦盛の歌が流れました。

高橋英樹さんも近藤正臣さんも20代。高橋さんはこれが出世作だそうです。

黄金の日日(1978年)第27回「信長死す」

織田信長:高橋幸治
明智光秀:内藤武敏

城山三郎の小説作品のドラマ化で、戦国時代に貿易で富を得た豪商・呂宋助左衛門(六代目市川染五郎=二代目松本白鸚)が主役の作品です。
信長と秀吉は、太閤記と同じ高橋幸治さん・緒形拳さんのコンビが演じました。

本能寺の変の手紙が光秀から助左衛門に届きます。変の翌日ということです。そこには

光秀が信長に憤りをいだいたため、信長を誅した

と書かれていました。

笑う信長の回想・イメージ的な本能寺のシーンが描かれ、燃え盛る本能寺で明智の兵と戦う信長のシーンがありました。直接的に本能寺の変は描かれず、あっさりした表現です。

太閤記から13年。カラーになった高橋幸治さんは、色気はそのままに貫禄が出てきていました。

おんな太閤記(1981年)第21回「本能寺の変」

織田信長:藤岡弘(現:藤岡弘、)
明智光秀:石濱朗

筆者が大河ドラマを見るようになって初めての戦国武将ものでした。西田敏行さんが妻のねねを「おかか、おかか~!」と呼んでいたことが記憶に残っています。

本作では怨恨説を採用しているようです。

・家康饗応の折檻
・石見・出雲への国替え
・かつて重臣ですら追放した信長に対し『信長に討たれる前にわしが討つ』

と悲壮感があります。

本能寺での戦闘。

表が騒然とする音で様子を見に来た信長。即座に火矢が撃ち込まれ、塀の外には桔梗の紋の旗が見えます。

塀を乗り越えて侵入する明智軍に矢を数本放ち、槍を振るう信長は、胸に一本矢を受け奥の部屋に。

床の間にあった脇差を手にする信長。ここで回想シーンが入りました。「人間50年~」で始まる敦盛が流れます。目をカッと見開き、腹を刺して自刃しました。障子が燃えるシーンで終わります。

秀吉が主役のドラマでは、本能寺の変はその後に秀吉が天下を掌握するきっかけの出来事としては重要ですが、なぜ起きたかは重要ではないのかも。

信長の最後のシーンで敦盛が出てくる大河ドラマは本作が初めてではないでしょうか。

徳川家康(1983年)第24回「本能寺の変」

織田信長:役所広司
明智光秀:寺田農

山岡荘八の小説をドラマ化したものです。主人公の徳川家康は、光秀の怨恨説の1つと言われている安土城での饗応も受けていますし、本能寺の変の際には堺にいたことから、徳川からの視点でどう応じたのかが描かれています。

坂本城で光秀は家臣と会話していましたが、その中で

・丹波・近江の召し上げ
・家康の接待役を解任。森蘭丸に打擲を受けた
・当家は危急存亡。当方より兵を挙げる

という話がされています。家康の接待役で解任された際に、森蘭丸に打擲をうけたという逸話は、本作でしか描かれていない話です。これは原作にも書かれていた話で、ほかの作品では信長に打擲されています。

6月2日の未明、信長は何か異変を察知し目覚めます。小姓が、続いて弓をもった信長が館から出てきます。そこで聞いたのは「桔梗の紋。光秀が謀反でござる!」

小姓たちが畳を返すなどして防御の構えを取ります。

信長「惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)光秀が謀反!かくなる上は是非もなし!目に物見せて腹切ろうぞ!」

本能寺の変で有名な台詞の1つ「是非もなし」が登場。信長の声は勇ましいけれど、光秀の謀反と聞いて早くも死を覚悟しているかのようです。

信長の軍勢はは300、光秀の軍勢は10000を超えます。

信長「光秀め、まんまとやりくさったのう」

戦闘の中で奥に進み、自分で火をつける信長。炎の中で脇差を抜き、切腹。首も刺しました。明智兵が乱入してきますが、炎で阻まれます。

本能寺の戦いの中で鉄砲が出てきたことと、信長が自ら火をつけたのが新しい表現でした。

春日局(1989年)第1回・第2回

織田信長:藤岡弘
明智光秀:五木ひろし

江戸時代・三代将軍の徳川家光には春日局という乳母がいました。その春日局、実は明智光秀の重臣である斎藤利三の娘です。明智家の重臣と徳川家のこうしたつながりも戦国の不思議ですね。

こうした関係があり、第1話・2話では本能寺の変が描かれました。

斎藤利三が「われらの殿が天下さまにおなりになる。敵は本能寺にあり」と語るのは珍しいですね。このセリフは光秀が語っているものばかりですから。

そして本能寺の奥の間。自害の準備をする信長を利三が見つけますが「利三、こちらに控えておりまする」と信長の自害を許すシーンがあるのが、今見ても斬新です。

敦盛を歌う信長、利三がふすまを開けたときには隣の間は燃え盛っていました。家臣が「御首(みしるし)頂戴つかまつる!」と勇むのを、利三は「ならん!」と止め、その場から去ってしまいます。

後に「信長様の最後は利三、しかと見届けましてございます」と光秀に語る利三。

春日局につながる斎藤利三にフォーカスを当てるのはドラマとして自然ではありますが、その結果、本能寺の変としては不思議な状況になっています。

信長の首を明智勢が求めないはずはないとは思いましたが、これもドラマ上の演出なのでしょう。こうした違和感こそが、過去作品を見る楽しみの一つでもあります。

信長 KING OF ZIPANGU(1992年)

織田信長:緒形直人
明智光秀:マイケル富岡

織田信長が単独で主役となる大河ドラマは本作が初めて。それだけに、本能寺の変がそのままクライマックスになりました。描写も非常に細かくなされています。

放送の前年、男性会社員が上司のパワハラと過労で自殺した事件があり話題になりました。過労死問題を当てはめたかのような、メンタルが不安定な光秀をマイケル富岡さんが熱演しています。

48話「キング オブ ジパング」:最終回の1話前

1582年、武田家を滅ぼして居城の坂本城に帰った光秀は幻想が見えるほど疲れていました。疲れも癒えないその日に信長の使いが来て、徳川家康の饗応役を命じられました。

「何が骨休めじゃ。その日のうちに馳走役命じるとは。」
「一体、いつ休めるのじゃ。いつ眠るのじゃ。明日にも日本全国の平定の戦いを始めるというのに。死ぬまで戦わせるつもりか。人殺し、させる、つもりか…」

と一人語ったあと、気絶するかのように眠りに落ちる光秀でした。

その後、信長、家康の饗応役を外すと伝えられた光秀。接待に手落ちがあったという描写はありませんでしたが

・秀吉のサポート役を命じられる
・出雲・石見への国替えと現在の領地の没収

を信長から明示されました。光秀のプライドが切り裂かれていくかのようです。

現代は本作が放送された当時よりもメンタルヘルスが慎重に取り扱われています。光秀の悲壮感、光秀への同情、光秀の共感は、当時観たときよりもずしりと重く感じました。

49話「本能寺の変」:最終回

秀吉に加勢するための兵を集める光秀。

「上様が安土を立つ前に城を出なければ叱られる」

と、焦るポイントが信長への焦りになっています。

光秀は自分の運勢を調べるべく、おみくじを引きます。
何度引いても良い結果が出ません。

「なぜ大吉が出ないのじゃ」

大吉どころか凶ばかりです。そのうち

「わしはおみくじなど信じておらぬ!」
「上様は大凶じゃ!」

と錯乱気味になります。

ついに信長を討つ決意をした光秀、家臣との会議でついに

「これより都へ参り、織田信長をこの世から葬り去るのじゃ!」

と宣言します。

「わしは私利私欲、恨みごとあって上様を葬り去るのではない。世のため、人のために上様を滅ぼすのじゃ」

「上様はこの世にあってはならぬお方と結論したのじゃ。あのかたは日本国中焼き払われ、意に反する者ことごとく殺し、この日本を血の海にされるに違いない」

「あのかたに神仏敬う気持ちあろうか。ない!」

「日本国中駆け回り、これ以上人を殺してどうするのだ。あの者一人の望みだろう。そのために我らは何十年人殺しを続けるのじゃ」

「あの者を殺せば天下に静謐(せいひつ)が蘇る」

「今日が逃すことのできぬ好機!軍勢を率いずに本能寺にいる。都の周りにいるのは我が軍のみ。あの者を葬るのは赤子の手を捻るごとく簡単」

「あの者を葬れば、われらは朝廷の敵を倒した正義の軍勢となる」

こんなに信長を罵倒した光秀は、ほかでは見られません。

そして出陣、いよいよ本能寺です。

6月2日未明

光秀「信長を決して逃すな、必ず討ち取るのじゃ!」

このときの表情も悲壮感の漂うものでした。

鉄砲で足を撃たれる信長は本能寺の奥に入りました。火をかけるよう蘭丸に指示します。

「ようやった。これまでじゃな。火をかけよ。明智などに世の姿見せてはならぬ。急げ」

信長の両の腕は撃たれていいます。

「余が最後にできる新しきこととは、死ぬことかもしれぬ。」

脇差を抜く信長。だーっっっ!と掛け声のもと脇腹を強く刺します。障子が焼け落ちる映像。画面いっぱいの炎……。

信長が倒れたことを知らない光秀は「信長を探せ!」と焦りの頂点です。すべてのセリフが、力強さではなく焦燥を見せるマイケル富岡さん、引き込まれます。

ドラマ中、光秀の最後の台詞は

「これで、眠れる……」

でした。最後まで、心の病を煩っているかのようで心をざわつかせる演技でした。

秀吉(1996年)

織田信長:渡哲也
明智光秀:村上弘明

竹中直人さん演じる豊臣秀吉と赤井英和さん演じる石川五右衛門の好演が話題になった作品。竹中さんはこの好演から、後の大河作品「軍司官兵衛」(2014年)でも秀吉を演じています。

明智光秀の母役に野際陽子さん。波多野家に人質に出すシーン、波多野家に磔にされた母のシーンも描かれています。

重臣・柴田勝家の前で「余は神である」と語る信長。
武田家を滅ぼしたあとの祝賀会で光秀を足蹴にする信長。
家康の饗応の席では、光秀の家臣と家康の家臣が言い争いをした挙句、信長に料理ほかのことをなじられもします。

ここまでよく我慢したな、というほど光秀の心は今にも雨が降りそうなどんよりとした曇り空。

本能寺の変で信長は刀を持って戦います。明智軍がたじろぐシーンも。

光秀は気合をこめて叫びます。

「狙うは鬼神・織田信長の首一つ!」

本能寺の変が起きた日は、奇しくも数年前、光秀の母が磔にされたのと同じ日でした。

燃えさかる炎の中、刀を首の後ろに回し、右首筋を切る信長。血しぶきが飛ぶ壮絶な自害のシーンは、渡哲也さん演じる信長の名シーンと言えるでしょう。

利家とまつ(2002年)第26回「本能寺の変」

織田信長:反町隆史
明智光秀:萩原健一

加賀百万石の前田利家は、本能寺の変の際には柴田勝家に従軍して上杉家の魚津城(富山県魚津市)を攻めていました。本能寺の変の当事者ではあらず、自分を愛してくれた主君・織田信長が志半ばで命を落とすことを遠くから予感する、という構成です。

明智光秀は愛宕山で、里村紹巴らと連歌の会を催し、発句を詠みました。
愛宕百韻のシーン。大河ドラマで初めてでしょうか。

「ときは今 雨が下しる 五月かな」

雷がドーンと落ちる効果音。

いよいよ本能寺の変の当日。6月2日の未明となりました。
13000の兵に対して光秀、

「直ちに13000の兵に伝令いたせ。これより京に向かう!」

家臣はどよめきます。

「よいか!みなのものに伝える。いまこそ、この光秀、天下を変える!天下布武を唱えたみ草を安寧の道に導くための戦といいながらかず限りなく人々を殺し、武田が滅びると自らを神と称し、帝を自らの下におかんとする所業、許しがたし!」

光秀は力強く演説します。時に声が裏返るほどの力強さです。マイケル富岡さんの光秀とはまったく違う姿を見られます。

「天と神々に変わり、このこれ等日向神光秀が成敗致す。みなのもの。敵は本能寺にあり!」

さて、本能寺です。

森蘭丸「夜討ちです。明智勢と見受けられます!」

信長「で…あるか」

信長は矢を射、鉄砲も撃ちます。槍も使います。鉄砲を撃つシーンは珍しいですね。

馬で駆けつける光秀。光秀が信長に叫び話しかけます。本能寺の変で両者が直接対話するシーンがあったのにはビックリしました。

光秀「御大将に物申す!武田攻めでのご折檻、徳川様接待首尾でのお叱り、近江坂本・丹波領地を召し上げ出雲・石見を切りとれとの冷たきご沙汰・丹波で足の不自由な母を見殺しにされた仕打ちなど、語り尽くされぬ恨みあれと、此度のいくさ、決して私心(わたくしごころ)にあらず!天下国家のために織田信長の首をとることこそ、天の道!」

これまでの恨みを一気にまくしたてます。怨恨と天下のため、という理由が見えます。

戦闘再開、信長は

「ぜひに!およばず!」

と叫び、本能寺の奥に入ります。

ここまで直接的に戦闘に参加している光秀も珍しいです。

戦闘における光秀のセリフは多く、テンションの高さと焦りを同時に感じさせる萩原健一さんの演技に感心です。

本能寺の奥。信長は
「犬」(主人公の前田利家のこと)
「人間!50年!」と叫んだあと、刀を手に敦盛を舞います。

炎の中でくるくる回り舞う信長。呼吸が乱れます。
「滅せるものなら! あるべきか…」と語るように口にしました。

本能寺の変における積極的な光秀が独特でした。光秀が本能寺にはいかなかったという説もあり、こうした演出が将来、希少なものになる可能性もあります。

心が病んでいる様は他作品と同様なのですが、それが攻撃的に表現されているように思います。

功名が辻(2006年)第22回・23回

織田信長:舘ひろし
明智光秀:坂東三津五郎

主人公の山内一豊は秀吉配下の武将で、備中での毛利攻めからの視点になります。もう一人の主人公は山内一豊の妻・千代で、女性目線もふんだんに入ったドラマになっています。
本作では信長の正室・濃姫と光秀にそこはかとない恋愛感情があり、これが本能寺の変の伏線にもなっているようです。

第22回「光秀転落」

まずは武田攻めの際の恵林寺焼き討ちの件で信長と光秀が会話します。

信長「そちは先ほど『世の今日(こんにち)あるは、そちらが勇を奮い、骨を折ったから』と申したな、おのれがいつどこで骨を折ったか言うてみよ。骨を折ったるはこのワシじゃ!」

ここでは信長が光秀を足蹴にし、扇子で光秀の額を殴ります。

後日、安土城。光秀は信長に呼ばれます。このときは機嫌の良かった信長。

信長「そちが思うところを聞かせよ。朝廷より使いが参った。関白太政大臣・征夷大将軍、好きなものを選べと言われた。そちならいかがいたす」

光秀「恐れながら、上様は平氏を名乗られておりますゆえ、征夷大将軍ではなく太政大臣におつきあそばすのが常道かと存じます。さりながら……」

信長「話が長い。余は、いずれもいらぬわ。もはやこの国に、朝廷もいらぬ。朝廷がくれるものをありがたがる世は終わった。余がこの国の王である」

朝廷を、古くから続くものを大切にしている光秀には理解できない信長の言葉でした。

シーン変わって、家康の饗応。

饗応中、鯛が腐っていると信長から指摘を受けます。その場で解任と秀吉への加勢を命ずる信長に対し、光秀はショックの色を隠せませんでした。

廊下を呆然とあるく光秀。顔に力がありません。一方、舘ひろしさん演ずる信長の目力が強すぎます。

5月28日、光秀は備中出陣の途中に愛宕山へ。

光秀は一人で

「ときは今 雨が下しる 五月かな」

と詠みます。

第23回「本能寺」

冒頭のナレーションで、信長の光秀の価値観の違いについての解説がありました。

「揺るぎない信念を貫くため常軌を逸した行いをする信長に対し、光秀はひたすらたえつづけた。しかし時を追うごとに、二人の価値観は埋めがたいものになっていく」

本能寺の変の直前の光秀の演説が入ります。

「敵は西国にあらず!神仏に手をかけ僧を斬り、朝廷にとってかわらんとする天魔信長であーる!こたびの戦、天のため、民のための戦ぞ!天に変わって、不義を討つ戦である!みなのもの、我が身をすてよ!良いか!敵は 本能寺にあり!」

寝ている信長、家臣から光秀謀反と聞いて高笑いします。

「是非に及ばず!よかろう、光秀め、しばし相手してつかわすわ!お濃、女どもを逃がせ!急げ!お濃、あの世とやらで、またまみえようぞ!」

信長は寝巻きの上に甲冑を装備します。

信長「お蘭(森蘭丸)、この信長が首、断じて渡すではないぞ!」

火が放たれるシーン。どちらが放ったか不明ですが、直前のセリフから信長側が放ったものかもしれません。信長自身も鉄砲を使い応戦します。

光秀の部下から報告「寺の奥より火の手が上がりました!」

光秀「なに、急げ、信長の骸を焼かせるな!かならず首をとれ!」

腕をうたれる信長。家臣が引きずり上げ、信長は奥に連れて行かれます。この場面で自力で立てない信長は珍しいです。

炎の中の信長。左手を怪我しているため脇差の鞘を口に咥え、右手で刀を抜きます。

首すじに刀をあて、呼吸を整えてから

「ゆめ、まぼろしの、ごとくなり」

と語って首筋を斬り、自害。

光秀家臣「妻女の骸はみとどけましたが、火の回りがはやく、信長がみつかりませぬ。」

光秀「探せ!火の中からでも探せ!首をあげねば、天下に示しもつかぬ!探せ!」

舘ひろしさん演ずる信長の光秀いじめは壮絶で、見ていてかわいそうになります。

また、内面の描写が多く、本能寺の変としてはあっさり描かれているように感じました。

天地人(2009年)第19回「本能寺の変」

織田信長:吉川晃司
明智光秀:鶴見辰吾

上杉家の宰相・直江兼続を主人公としたドラマです。「利家とまつ」同様、魚津城合戦の最中に本能寺の変が起こっています。上杉家としては劣勢な中発生した本能寺の変で、上杉家の存続の視点で見れば、とても有難い事件でした。

上杉家のドラマであるため、大河ドラマにおける本能寺の変の扱いとしては軽めです。

敵方・織田家の明智光秀から魚津城に密使を送ったところから事情が明らかになりつつあります。「馳走せよ」とはなんだ…。もしや、謀反を起こすのか!と直江兼続は気づきます。

満天の星。夜の明け切らない京の都。

光秀「ときは今なり!敵は本能寺にあり!」

采配を振るいます。有名セリフの「敵は本能寺にあり」と連歌の発句の「ときは今」をうまく繋げた演出でした。

本能寺では、静かな奥の間で光秀謀反の報を聞く信長。静かに

「是非に及ばず」

と語ります。

矢を右肩に受けた信長は火をつけさせ、奥の間に。

火が回っている部屋の床の間を背に信長は座ります。

信長のイメージシーン。上杉謙信との架空の対話をしたのちに胡坐で座る信長の映像があり、その直後に本能寺が爆発・炎上。

信長が自害するようなシーンはありませんでした。

次回の第18話では、光秀に備中行きを命じている信長のシーンがありました。

光秀「私がでございますか……」

不満げに語ります。

信長「不服か」

光秀「いえ」

ナレーション「光秀にとって秀吉の配下に置かれることは大きな屈辱だった」

毛利攻めにおいて秀吉の支配下に置かれることが不服であった、ということを描いていました。

ストーリーの軸にはならない立場の信長ですが、それでも上杉謙信を意識し殺気と狂気を内包した信長を、吉川晃司さんがうまく演じていました。

江~姫たちの戦国~(2011年)第3回~第5回

織田信長:豊川悦司
明智光秀:市村正親

主人公の江は江戸幕府の二代将軍・秀忠の妻であり、本能寺の変は江の少女期に起こった出来事です。また、江の叔父が織田信長という血縁関係もあり、本能寺の変は序盤早々のクライマックスとなっています。

江に対しては優しい叔父の信長は、光秀にはとても厳しい態度を取ります。

第3回「信長の秘密」

宣教師ルイス・フロイス謁見の場に同席していた光秀を、フロイス謁見の後に信長が殴打します。

なぜそのようなことをしたのか、後から江に聞かれた信長は

「あやつは一度もフロイスの顔を見ようとしなかった。この城にバテレンがいるのが不満なのよ」
「ならばなぜそれをわしにいわん?」
「それは己を持たぬということじゃ。そのような者に良き働きは出来ん」

と評しました。

第4回「本能寺へ」

本能寺の変の前年・1581年に信長が開催した馬揃え(軍事パレード)の奉行役を、信長は光秀に命じました。

帝を軽く見る信長にストレスを感じる光秀。
一方、信長は自分を神だと思うようになっていました。

1582年、武田家を滅ぼしたあとの祝賀会でも、信長は光秀を折檻します。徳川家康にとりなされるものの、光秀は右手の震えが止まらなくなってしまいます。

また、安土城で信長は、四国の長曾我部家への対策で大将だった光秀を罷免し、三男に任せることを告げました。異を唱える光秀に対し、仕事がほしいなら羽柴の配下につけ、と信長は命じます。

四国征伐に関する信長と光秀の軋轢は大河ドラマでもあまり語られていません。

ここでも手が震える明智は

「(秀吉の配下は)我慢なりません」

しかし信長は

「我慢せよ。ただちに兵馬・武具兵糧を整えて出陣すべし」

と強制します。光秀の右手、震えっぱなしです。

第5回「本能寺の変」

本能寺の変のおよそ2週間前・5月20日。信長と光秀が打合せをしています。備中への出立についてです。

近畿地方を守る光秀が中国地方へ兵を出すということは、都周辺に大勢力がいなくなってしまします。

光秀が

「京の周りは空白となっております。この隙をついて、親方様を狙うものあらば」

と語ると信長は、信長と嫡男の信忠を同時に攻め落とせるほどの力を持つものは畿内にはいない、とした上で、光秀に領地召し上げを伝えます。石見・出雲への国替えです。

ブルブルと打ち震える光秀、右手も震え、持っていた扇子を握れずに落とします。

思い出したかのように信長が語ります。

「そうじゃ、ワシを襲うことのできる者が、一人だけおったわ」

光秀「それは……」

信長「誰よりも都の近くにおる者。光秀、お主じゃ」

かっと光秀を睨み付ける眼光鋭い信長のアップ。豊川悦治さんの織田信長も、眼光鋭いですね。

どうじゃ、謀反でも起こしてみるか

さらに信長は煽ってきます。豊川悦治さん演じる信長のこの挑発、鬼気迫っていて怖い……。

光秀を高く評価した上で、もう一皮むけてほしいと厳しい注文を出していた信長ですが、その評価は光秀には伝わりません。光秀が去ったあと、森蘭丸との会話で

「わしに万が一のことがあれば後を託せるのは、明智光秀、ただ一人なのだからな」

とまで語っています。

一方、光秀は「どうじゃ、謀反でも起こしてみぬか」という信長の言葉が頭から離れず、思い詰めています。

中国攻めの準備中にも右手の震えが止まらない光秀、家臣との会話で、信長の嫡男・信忠が京都に残ることを知りました。信長との会話を思い出した光秀はついに決意します。その瞬間、右手の震えがぴたりと止みました。

本能寺の変の当日。

光秀の謀反を知った信長は

「是非に及ばず。今更騒いだところで、どうにもならん」

とニヤリ。

「そうか光秀、お主も天下が欲しかったか」

と語ります。光秀が天下を望んでいた、という説を採ったのでしょうか?

奥に入る信長、見送る森蘭丸。明智勢が入ってくるが蘭丸がしばし食い止めます。

炎の中、さらに奥の部屋へ進む信長は江の幻を見ます。自害のシーンはなく

「人間50年。潮時かもしれんな」

と語って終わります。

他の作品ですと、本能寺の変のシーンでは髪の毛を結っている信長が多いのですが、本作ではざんばら髪の信長を見られます。

軍師官兵衛(2014年)第28回「本能寺の変」

織田信長:江口洋介
明智光秀:春風亭小朝

竹中直人さんは主演作が好評だった「秀吉」(1996年)に続いて羽柴秀吉役を演じました。お笑いの名人である小朝師匠が、どのように悲壮感たっぷりの光秀を演じたのでしょうか。

武田攻めの後、恵林寺の快川和尚を焼き討ちにするシーンがありました。それを諫めようとした光秀ですが叶わず、焼け落ちた恵林寺を前に膝をつき

「なぜだ……なぜここまで」

と泣き崩れます。

シーンが変わり「信長様はこのまま捨て置いては、ならんなあ」「どない、しますか」と語る九条兼孝・吉田兼和(ともに朝廷勢)会話が。朝廷が信長を憎んでいたも匂わせています。

安土城での家康饗応では、京風の味付けの料理を提供した光秀に対し、信長は

「光秀、なんだこれは。味が薄い」

と、料理の入った椀を光秀に投げつけます。

信長「徳川どのの好みに合わすのだ。それがお主の役目であろう!」

それがし、京の味、気に入りました。とフォローした家康でしたが、次のシーンでは畳にこぼれた信長の料理を手で拾う光秀が。思い詰めた表情をしていました。

なお、本作で徳川家康を演じた寺尾聡さん、1973年放送の「国盗り物語」でも徳川家康を演じています。実に41年ぶりの再演。大河ドラマならではですね。

愛宕山でお参りする光秀のシーン。

信長と二人で話した内容を思い出します。

「天下布武が成った暁には、わしはこの国を作り替える。」
「日の本に王は二人もいらん」

という言葉が重くのしかかります。

そしてお参りのシーンで

「ときは今 雨が下しる 五月かな」

と、歌が入りました。

光秀は坂本から京都方面に向かっています。軍を止めた光秀

「我らはこれより、京へ向かう。敵は、本能寺にあり!」

本能寺攻めで奥の部屋に入った信長は敦盛を語ります。抑揚をつけて歌うように、ではなく、文章を読み上げるように。

「ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか。生きるも死ぬも一度限り。存分に生きたぞ!」

首筋に刀を当て、すっと引くように切り、倒れるシーンで終わりました。

大河ドラマで信長を演じる俳優は頬の辺りが骨ばった感じの方が多いかもしれません。高橋幸治さん、役所広司さん、そしてこの江口洋介さん。狂気がよく現れています。

一方、普段は人を笑わせる立場の春風亭小朝師匠が、思い詰めて心を乱す光秀をしっかり演じられていたのが、さすが一人で何役もこなす落語家だなあと思わせられたものでした。

おんな城主 直虎(2017年)第48回「信長、浜松来たいってよ」第49回「本能寺が変」

織田信長:市川海老蔵
明智光秀:光石研

主人公の井伊直虎は、本能寺の変から3か月ほど後に亡くなったとされている人物。また、井伊家は本能寺の変に関係していないため、変に関する直接の表現はありません。物語の作りも若干コミカルでした。

光秀による家康饗応の前から、光秀は信長を殺そうとしていました。徳川家もいつか取り潰される、という観点から、光秀は家康に共犯の相談を持ちかけます。誠意を見せるために光秀は自分の息子を人質に出します。

饗応の途中で秀吉から加勢を依頼する手紙を受け取った信長。光秀に饗応役をやめ秀吉の手助けに行くよう指示します。暗殺計画が狂うことから光秀は断りますが、足蹴にされてしまいます。

光秀は、毛利攻めの準備で忙しくなってしまいます。その合間に訪れた愛宕神社で「凶」を3度も引く光秀。何の占いをしていたのでしょうか。

本能寺に向かう直前に、ついに光秀は「大吉日」のおみくじを引けました。
「敵は本能寺にあり」
とつぶやき、「我に続け!」と軍勢を動かしたところで終了しました。

市川海老蔵さんの織田信長は本当に目力が強い信長でした。また、普段の絞ったような声と怒ったときの声のメリハリが強く、コミカルな描写も少なくない本作の中で信長の凄みは際立っていました。海老蔵さんが燃え盛る本能寺の中でどのような信長の最後を演じるか、見られなかったのが残念です。

真田丸(2016年)

織田信長:吉田鋼太郎
明智光秀:岩下尚史

主役の真田幸村がおよそ15歳のころ、本能寺の変が起きています。父の真田昌幸は武田家の家臣でしたが、武田家滅亡の折に織田家に臣従していました。その矢先の大事件です。

信長と光秀のやりとりは、武田攻めの祝賀会の中で「誰が骨を折ったのじゃ!」と信長が欄干に光秀の頭を打ち付けるシーンのみ登場しました。

本能寺の変としては、崩れ落ちる甲冑・燃え盛る本能寺の映像と、ナレーションの語りだけ。1分弱で終わってしまった大河ドラマ最短の本能寺の変で、ドラマファンの間ではその割り切り方が話題になりました。

本作ではストーリーに関係ない有名武将の死がナレーションだけで紹介されることが多く「ナレ死」という言葉が話題になりました。その先駆けといえるのが本能寺の変かもしれません。

本能寺の変を歴史ファンとして楽しもう

本能寺の変は、日本史上屈指のクーデターでもあり、戦国時代最大のミステリーでもあります。確からしいという説や証拠が今も新たに提示されることもありますが、真実は明らかになっていません。

映画・ドラマ好きが本能寺の変を見るときには、その時代にどのような説が有力であったかによって、信長や光秀の気持ちを推し量り、楽しめます。現代では棄却されるような説でも知識として持っている方が、映像作品をより楽しめることは間違いありません。

歴史ファンなら、より真実味のある原因説がどれかを考えてみましょう。
ドラマファンなら、過去のドラマを見てみて説の適用や二人の気持ちの移り変わりを感じ取ってみましょう。

戦国時代最大最高のミステリーは、発生から400年以上経ってもなお、ファンの心をくすぐり続けています。

「麒麟がくる」は歴史ドラマでも珍しい、明智光秀を主人公としたドラマです。戦国時代の王道である信長→秀吉→家康のラインから外れた光秀視点での本能寺の変、どのように解釈されているのかが興味深いですね。

※参考文献
本稿の執筆にあたり、以下の書籍等を参考にしました。
明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫):小和田 哲男
現代語訳 信長公記 (新人物文庫):太田 牛一  (著), 中川 太古 (翻訳)
図説 明智光秀(戎光祥出版):柴裕之 編著
信長はなぜ葬られたのか(幻冬舎新書):安部龍太郎
本能寺の変について語る様々なWebサイト