人間誰しも富や栄光、名声といったものを欲しがる生き物ではあるかと思われますが(少なくとも私はお金が欲しい!)、「そこに愛はあるのか?」などと、どこぞのCMみたいなツッコミを入れたくなる向きもあることでしょう。
たとえば、もしあなたが無学の労働者で、恋愛を機に作家をめざすようになったとしたら?
その恋愛の相手が、身分違いの富裕層であったとしたら?
夢を目指すも、なかなか芽が出なかったとしたら?
またその相手と、思想的な食い違いが生じたとしたら?
かくして、ついに富と名声を得られたとして、そのときに愛が不在であったとしたら?
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街504》
イタリア映画『マーティン・エデン』が描いているのは、まさにそこなのでした。
富裕層女性との恋から作家を目指す貧しい青年
ピエトロ・マルチェッロ監督が手掛けた映画『マーティン・エデン』は、今年の春公開された『野生の呼び声』の原作者でもあるアメリカ人作家ジャック・ロンドンの自伝的要素を携えた小説「マーティン・イーデン」の映画化です。
原作は20世紀初頭のアメリカ、西海岸オークランドを舞台にしていますが、映画化にあたってはイタリアのナポリに変更。
いわゆるアメリカの小説を原作にしたイタリア映画といった、翻案映画化のスタイルではあります。
ユニークなのは時代設定を一応20世紀としながらも、1910年代から1970年代あたりまでの歴史の流れとしての時系列をさりげなく(いや、大胆不敵とでもいうべきか!)とっぱらって、自由な錯綜のもと、主人公マーティン・エデン(ルカ・マリネッリ)の数奇な運命が大河ドラマ的に描かれていくのです。
貧しい労働者階級の子として生まれ育ち、学びも知らぬままに船乗りとしてその日暮らしを続ける青年マーティン・エデンは、ある日チンピラたちに絡まれていた良家の子息を助けたことから、その美しい姉エレナ(ジェシカ・クレッシー)と出会うとともに、ブルジョアの文化と教養の世界に魅せられていきます。
エレナの影響で読書を始めるようになったマーティンは、みるみるうちに文学への関心が高まっていきますが、いかんせん彼には学がなく、また学校で学ぶお金もありません。
折しも船のトラブルで仕事を解雇された彼は、鋳物工場で働きながら独学で勉強するようになるも、こちらも横暴な雇用主に憤って仕事を辞め、作家になることを決意します。
エレナの心配をよそに、小説を書いては出版社に送る作業を繰り返していくマーティンですが、それらの原稿は間借りしていた姉の家に送り返されていくのみ。
ついに家を追い出されてしまったマーティンは、女手ひとつで子どもたちを育てているマリアの家に間借りできることになり、そこを拠点に再び執筆活動を始めます。
既に愛し合う仲にまで発展していたエレナには、自分が成功するまでの2年の猶予を求めつつ、そのさなか芸術家の集うパーティで謎の老紳士ブリッセンデン(カルロ・チェッキ)と出会い、これが彼に更なる影響を及ぼしていくことになります。
投稿した作品はまったく相手にされず、エレナとのすれ違いも増していく中、生活は困窮を極め、ついに病に倒れてしまうマーティン。
そのとき奇跡が起こります。
しかし、その奇跡はマーティンにとって新たな試練と苦悩の始まりを促すものでもありました……。
–{イタリアン・ドリームを手に入れた男の代償とは?}–
イタリアン・ドリームを手に入れた男の代償とは?
本作は原作で描かれているアメリカン・ドリームをイタリアン・ドリームに置き替えながら展開されていきますが、実際のところ、イタリアはアメリカン・ドリームみたいなことはなかなか起こり得ないお国柄でもあったとのことで、だからこそジャック・ロンドンの原作小説は今も憧れをもって読まれ続けているのだそうです。
そうした背景からアメリカの小説「マーティン・イーデン」がイタリア映画『マーテイン・エデン』へと転化されていったのも、むべなるかな。
しかし夢を抱いてアメリカに渡ったイタリア人たちの中には血と銃弾の嵐でおなじみイタリアン・マフィアとして君臨していく者もいた事を証左に、立身出世には何某かの代償はつきものなのか、結果として本作の主人公マーティン・エデンも小説家として大成し、名声と富を手に入れます。
しかし、そこに愛だけは不在であり、その虚無感はどれだけお金があっても埋められるものではない。
そんな人生の理不尽を描いているのが『マーティン・エデン』なのです。
主演のルカ・マリネッリが体現するマーティン・エデンは、その若き日は精悍で好もしい存在感を醸し出しつつ、次第にインテリジェンスを身に着けていくとともに何某かの精神的苦渋にも苛まれていく過程を見事に演じています。
そして大成した後の彼は……(どうぞ、映画館でじかに彼を目撃してみてください)。
対するジェシカ・クレッシー扮するヒロイン、エリカは清楚で純粋、またそれゆえに無垢なマーティンに惹かれていくわけですが、上流階級ゆえの保守的な思考から逃れきることができません。
また彼女はイタリア人でありながら、時折フランス語を母国語のように使うことがありますが、このこともマーティンとはそもそも住む世界が違うといった断線を示唆しているかのようです。
そこに舞台となるナポリの古びた魅惑的な町並みであったり、その撮影にスーパー16フィルム(かつてドキュメンタリー映画を撮るときに重宝されていました。日本では低予算映画やVシネマの撮影でも好んで使用)を使用することでのドキュメンタリーとドラマの狭間にあるかのような世界観、さらには先にも記した描かれる時代の時間軸の錯綜がもたらす不可思議さによって、ひとりの男の数奇な運命がよりファンタジックに際立っていきます。
まるで人生のリアルこそが究極のファンタジーであるかを訴えているかのようなイタリア映画『マーティン・エデン』は、その実世界中どの国の人々にも切なく哀しいまでの共感をもって迎え入れられることでしょう。
ようやくハリウッド大作や国産アニメ映画の話題作が軒並み揃い始めた日本の映画館事情の中、こうした珠玉の作品にもぜひ目を向けていただきたいものです。
(文:増當竜也)