昨年大きな話題を集めたクエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が現在デジタル配信&DVD&ブルーレイ化、またWOWOWなどの有料衛星放送でも5月に放送されています。
2時間40分もの長尺を飽きさせることなく1969年当時のハリウッド及びそこにまつわる映画&TV業界に従事る人々のナマの姿(そして、やがては映画だからこそ許されると言わんばかりの、正義の鉄槌をふりかざしたかのような悪夢的ファンタジー。タランティーノは深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』78が本当にお好きなようです)を描出して好評を得たこの作品ですが、個人的にはいくつか疑問があります。
そのうちのひとつが……あんなブルース・リーの描き方はないだろう!
(とても傲慢不遜な男として登場します)
実際に、ブルース・リーの遺族は作品を見て批判。
それに対してタランティーノ監督は「彼は実際に少し横柄なところのある男だったと聞いている」などと反論しています。
ただし、こちらもハリウッド時代のブルース・リーが生意気だったという噂を聞いたことはありますが、同じアジア人の立場から察するに、彼は昔も今も白人社会の中でまかり通るアジア人差別に屈しないように、精一杯見栄を張りつつ孤軍奮闘していたのではないかと思えてなりませんし、そのあたりの心情を汲んでくれるような描き方をしてもよかったのではないか?
(現に今も新型コロナ禍の影響で、世界中に散在するアジア人種が迫害を受ける事件が頻発してますよね)
そもそもブルース・リーのファンからすると、タランティーノは過去に『キル・ビルvol.1』(03)でヒロインのユマ・サーマンにブルース・リー最後の主演映画(?)『死亡遊戯』(78)でおなじみのイエロー・スーツを着せていたことで、この監督はブルース・リー愛があると思い込んでいただけに、あの仕打ちと顛末はあんまりではないかと……(作劇として、あのクライマックスの伏線にしたかったのは理解できますけどね)。
タランティーノ監督自身は古今東西、A級からZ級までありとあらゆる映画に精通しているようですが、創作の際はそれらのウンチクをサンプリング的に扱う傾向があり、今回のブルース・リーの描写に関してはその面が悪い形で出てしまったのではないかと思っています。
だから一方ではブルース・リーがシャロン・テートに殺陣を教えるといった、ちょっと嬉しくなるようなショットもさりげなくも当たり前のように挿入されているので、余計にファンは困ってしまうのです。
まあ、ただしこの作品でブルース・リーのことをあまり知らない今の若い映画ファンなどにもその存在を知ってもらえたのであれば、いっそこの機に彼がいかに素晴らしい映画スターであったかを改めて伝えておきたい!
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正直、こちらは世界中に点在するブルース・リー・マニアの方々が持つ豊富な知識などは、哀しいかな持ち合わせておりませんが……
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街464》
しかしながら、彼の作品群を見てもらえるような努力くらいはしてみたいと思うのです!
子役から武術の修行を経て渡米しての苦労
まずブルース・リーの生い立ちなどをざっと紹介していきますと、1940年11月27日に俳優の父親が家族を連れて長期アメリカ巡業中のサンフランシスコ中華街の病院で生まれました。
(実は生後3か月で現地製作の中国映画『金門女』に出演しています)
まもなくして家族は香港に帰国。戦後、子役として数多くの映画に出演しつつ、武術にも興味を覚えて北派少林拳や節拳などを学び、1953年からは葉問(イェー・ウェン/彼の人生を映画的に脚色しながら描いたドニー・イェン主演の“イップ・マン”シリーズなど映画化作品多数。最新作『イップ・マン 完結』も近日日本公開予定)のもとで5年間修行しています。
18歳で渡米し、アルバイトしながら職業訓練校からワシントン大学哲学科に進学する傍ら、中国武術の指導をはじめ(この時期にリンダ・エメリーと結婚)、やがて大学を中退して截拳道(ジークンドー)を創始。
1966年に詠春拳の演武をしたフィルムを見たプロデューサーの推薦で、TVドラマ『グリーン・ホーネット』(66~67/日本では67年にTV放送され、また70年代のブルース・リー・ブームの際、劇場用映画として再編集したものも2本公開されました)でマスクをつけた日系アメリカ人カトーを演じ、そのアクションが好評を博してその後もTV出演するようになり、同時にその勢いに乗って数々のハリウッド・スターや映画人たちに武術を教えるようになっていきました。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に登場するブルース・リーはこの時期のあたりで、1969年にはジェームズ・ガーナー主演の映画『かわいい女』中国人の殺し屋役で出演しています。
アメリカ時代のブルース・リーの苦悩は、TVドラマ・シリーズ『燃えよ!カンフー』を彼自身が企画し、自らの主演を申し出たものの、東洋人であることを理由に断念せざるを得なくなったというエピソードだけでも察することは大いに可能でしょう。
(ちなみに『燃えよ!カンフー』は、後にデヴィッド・キャラダイン主演で72年から75年までドラマ化。またブルース・リーと武術の教え子でもあった映画スター、ジェームズ・コバーンが共同で脚本を手掛けた映画『サイレント・フルート』もリーの死で企画が頓挫し、キャラダイン主演で77年に映画化されました)
このように、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリッド』で傲慢にふるまっていたブルース・リーは、実はアメリカ社会の人種差別と対峙し続けながらも、いつしかハリウッドに失望しかけていたのかもしれません。
そんな彼に大きな転機が訪れます。それは香港の新興映画会社ゴールデン・ハーベスト社からの映画出演の依頼でした……。
–{武闘家として映画スターとして}–
武闘家として映画スターとして
ゴールデンハーベスト社は香港の大手映画会社ショウブラザーズから独立したレイモンド・チョウが1970年にレナード・ホーや映画スターのジミー・ウォングらとともに設立した映画会社ですが、チョウは当時のハリウッドにおけるブルース・リーの活躍に着目し、2本の映画出演契約を取り付けました。
ブルース・リーも心機一転、香港に帰国し、まずは1971年に初主演映画『ドラゴン危機一発』を発表。
(C)Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
今までの香港武闘映画の域をはるかに超えたすさまじいアクションの数々に、香港の映画観客は大いに興奮するとともに歴代興行記録を塗りかえる大ヒットとなり、ブルース・リーは一躍スターダムにのしあがります。
続けて1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』に主演し、ここで初めてヌンチャクと、おなじみの怪鳥音を発します。
(ちなみにこの怪鳥音、「アチョー!」とモノマネされることが多々ありますが、ブルース・リーをこよなく愛する俳優&監督&歌手&コメディアン&その他もろもろの才人・竹中直人は「アタッ!」が正解だと指摘しています。よくよく聞き直すと、本当にその通りです)。
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3作目の『ドラゴンへの道』(72)では自ら映画制作会社コンコルド・プロダクションを設立し、自らの製作・監督・脚本・主演、そしてイタリアのローマ・ロケでアメリカの武術家チャック・ノリスを招いての、武闘映画史上に残るクライマックスのコロシアムでの死闘を繰り広げていきます。
(この作品でチャック・ノリスも大いに注目され、後にシルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーなどと並ぶ1980年代ハリウッド・アクション・スターとして君臨)
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ところで『ドラゴン危機一発』はタイ、『ドラゴン怒りの鉄拳』は日本占領下時代の上海、そして『ドラゴンへの道』のイタリア・ローマと、見る者に海外を意識させる舞台設定がなされていることに、偶然か必然かはともかく、当時のブルース・リーの国際感覚および海外に負けたくないという意地みたいなものも、どことなく感じられてなりません。
そんなブルース・リーは映画スターとして、そして武術家としてのさらなる飛躍の融合を試みるべく、『死亡遊戯』の監督・主演に臨み、クライマックス・シーンを先に撮り始めていきます。
しかし、同時期にゴールデンハーベストとハリウッドのワーナーブラザースの共同製作による香米合作映画『燃えよドラゴン』の企画が立ち上がり、リーは『死亡遊戯』の撮影を中断し、1973年1月より同作の撮影に臨みます。
ようやくアメリカ映画界に主演スターとして乗り込むことに成功した彼は、脚本はもちろん現場でも様々なアイデアを出し、エキストラの武術指導にも怠りはありませんでした。
なお、このとき参加していたのが、若き日のサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェンなどです。
ところが『燃えよドラゴン』の撮影が終わってまもなく、1973年7月20日、ブルース・リーは32歳にして脳浮腫で突然の死を迎えてしまいます。
そして主演スター死去から数日後の7月26日に香港で、8月17日にアメリカで、そして12月22日に日本で、それぞれ『燃えよドラゴン』は公開され、世界中に衝撃をもたらしました。
–{日本におけるブルース・リー映画の流れ}–
日本におけるブルース・リー映画の流れ
それまで日本にも柔道や空手などの武道映画はありましたが、己の肉体を極限まで鍛え上げての壮絶な武闘アクション映画『燃えよドラゴン』は日本でも前代未聞のブームを巻き起こしました。
そしてその主演スター、ブルース・リーがもうこの世にいないということで、さらにブームは盛り上がり、彼の過去作品群が続々と日本上陸していきます。
まずは『ドラゴン危機一発』(日本公開は1974年4月13日)。
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もっともこの作品は『燃えよドラゴン』で革命的なまでに印象深く用いられた武器ヌンチャクや、あの怪鳥音もまだ発していない作品ということもあって(現在は怪鳥音を後から入れ直した広東語版が普及)、当時は『燃えよドラゴン』に比べるとどうしても見劣りするといった感想も見受けられました(今ではかなり再評価されていますが)。
『ドラゴン怒りの鉄拳』(日本公開は1974年7月20日/ちょうどリーの命日の一周忌にあたります)は戦時下の日本人が悪役ということで、初公開時はそこをぼかした翻訳がなされましたが(今はもうきちんとしています)、そんなのは見れば一目瞭然で、しかしながら当の日本人ですら興奮せざるを得ない壮絶アクションの数々により、これをブルース・リー映画の筆頭とするファンが多いのも事実です。
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『ドラゴンへの道』(日本公開は1975年1月25日)は、それまでどちらかといえば寡黙でストイックなブルース・リーのイメージを一転させ、明るい笑顔を基調としたコミカルなテイストに女性ファンも急増(リンダ夫人曰く、この作品の彼が一番実像に近いとのこと)。
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この時期、ブルース・リー人気は世界中で神話的な域にまで高まっていき、こうなると未完の『死亡遊戯』を完成させられないものかという気運が香港映画界の中で高まっていき、ついにリーが生前撮り残していたシーンをクライマックスに据え、そこまでのドラマをユン・ピョウやユン・ワーなどを代役に据え、過去出演作フィルムも流用しながら構築した『ブルース・リー 死亡遊戯』が『燃えよドラゴンのロバート・クローズ監督のメガホンで完成し、全世界で公開されました(日本公開は1978年4月15日)。
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1980年代に入ると、さらなる未発表フィルムを用いて(といっても、ほんの数分くらいですけど)、ブルース・リー扮する兄の仇を弟(タン・ロン)がとるといった設定の『ブルース・リー 死亡の塔』(日本公開は1981年6月20日)も作られています。ほとんどマガイモノの作りではありますが、見るとそれなりに楽しい作品です。
また時を経て2000年に製作された香港と日本の合作映画『BRUCE LEE in G.O.D. 死亡的遊戯』(日本公開は2001年1月13日)は、ブルース・リーのファンを驚愕させました。
“死亡的遊戯”とはもともと『死亡遊戯』の原題で、この作品は前半をリーが作ろうとしていた“死亡的遊戯”制作時の再現ドラマと当時を知る関係者の談話で構成され、後半はリーが残した“死亡的遊戯”撮影分およそ40分をとくと見せるという趣向なのですが、これを見ると78年に公開された『死亡遊戯』と、ブルース・リーが本来意図していた“死亡的遊戯”がまったく別ものであったことが発覚し、多くのファンを驚愕させるとともに、断片ではありながらも、ようやくブルース・リーの武術家&映画スターとして作品に込めようとした真の想いに近づくことができたのでした。
–{ほぼほぼ日本初公開英語版が4Kリマスターで蘇る復活祭!}–
ほぼほぼ日本初公開英語版が4Kリマスターで蘇る復活祭!
またまた時が経ち、2020年。
現在“猛龍生誕80周年”としてブルース・リー4Kリマスター復活祭2020が怪さ予定となっております(コロナ禍のため本来の上映予定が変更され、現在は7月3日の東京アップリンク渋谷&吉祥寺などを皮切りに、全国順次公開予定)。
ラインナップは『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』『死亡遊戯』といったゴールデンハーベスト製作の4作品ですが、今回の大きな見どころは、全作品とも日本初公開時の英語発声版に限りなく近づけたスタイルでの上映ということです!
実は日本の場合、1970年代までの香港映画の大半は英語吹替で上映されるのが常で、さらに『危機一発』『怒りの鉄拳』『道』の3作品には日本独自にマイク・レメディオスが熱唱する主題歌が入っていました。
オリジナル版の定義をどこに置くかは当時の香港映画の場合かなり難しいものがありますが、少なくともリアルタイムでブルース・リー映画の日本初公開に接したファンとしては、やはりそのとき鑑賞したものの印象がどうしても強いもので、時にはそのヴァージョンも銀幕で見直したくなるのが人情。
今回はそんな日本独自の主題歌入り英語版を極力再現した版を、4Kリマスターの映像にてDCP上映。
リアルタイム世代は当時の思い出に浸り、若い世代は初めて公開当時の雰囲気などに触れる楽しみを抱きつつ、永遠に語り継がれるであろうブルース・リーの勇姿に接していただけたら幸いです。
(文:増當竜也)