『Fukushima 50』と『太陽の蓋』を続けて鑑賞することで見えてくるものとは?

映画コラム

(C)2020「Fukushima 50」製作委員会 

現在公開中(といっても、ほとんどの映画館は閉業中ですけど)の『Fukushima 50』が、4月17日より期間限定でデジタル配信されています。

本作を配給(松竹と共同)しているKADOKAWAでは、3月より『ロマンスドール』も劇場公開と同時にデジタル配信を敢行していますが、『Fukushima 50』のような全国公開規模のメジャー大作を配信するとはかなり異例といえる事象ではあります。もっとも見方を変えると、それは異例といえる今の社会状況の表れであるともいえるでしょう。
(ちなみにこれ以外にも、現在『白い暴動』や『ホドロフスキーのサイコマジック』がオンライン上映中。5月2日からは想田和弘監督の『精神0』の“仮設の映画館”デジタル配信も始まります。この傾向は今後も続いていくのではないかと予想されます)

そういえば1982年の角川映画『汚れた英雄』『伊賀忍法帖』2本立ての劇場公開初日にビデオソフトも同時販売されて、当時は問題になったものでしたが(値段が2万円弱の高価格だったので、買えた人は限られてはいましたけど……)、新しいメディアをいち早く採り入れる映像戦略は、角川グループの遺伝子なのかもしれません……

《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街460》

さて、そんな『Fukushima 50』ですが、3月に劇場公開されるや、賛否両論真っ二つに激しく割れました。

ちょっとした象徴となっているのが、映画雑誌「キネマ旬報」の新作レビューでは評論家3名が全員星1個というかつてない低評価で、一方Yahoo!映画レビューでは平均4.26点、Filmarksでは4.0点の高評価。

これを「評論家が酷評して、観客が絶賛した」という捉え方をする人もいますが、実際はSNSなどを眺めていると観客同士の間でも「感動で泣きっぱなし」という賛辞の声もあれば「不愉快極まりない」などの批判も多く見受けられ、激しく二分しているのがわかります。

一方では、やはり東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故という非常にデリケートな題材を扱っているがゆえに、賛否の意見どちらも感情的なものが多数を占めているように思われます。

私自身の結論から先に申しておきますと、『Fukushima 50』は長所も短所もある映画であり(もちろんすべての映画には大なり小なり長短があるわけですが……)、全面的な肯定も否定もしたくはないものの、その描出の長短を冷静に見極めた上で、福島原発事故という今なお解決されない未曽有の大事件に目を向けていただければ、この映画の存在価値も見出せるのではないかと思っています。

またそのためにも、もう1本福島原発事故を題材にした2016年の映画『太陽の蓋』との比較も必須ではあるでしょう。
(“評論家が酷評”といった理由の中には、公開年の関係もあって『Fukushima 50』より先に『太陽の蓋』を見ていた映画マスコミの数が多い、というのも挙げられる気がしています)

現場を描いた『Fukushima 50』官邸を描いた『太陽の蓋』

改めて『Fukushima 50』とは、2011年3月11日に勃発した東日本大震災に伴う福島第一原発事故に際して、東日本壊滅という最悪の事態を命がけで阻止した原発職員らの決死の行動を描いた超大作です。

この作品、単にパニック映画として見るとなかなかスリリングな展開で、津波などの特撮も秀逸な出来ばえ(三池敏夫特撮監督の功績は大いに讃えたいものです)、原発内のセットもリアリティあふれる仕上がり。またオールスター・キャストということもあって実に華やかに映画映えしています。

これがどこかよその星の架空の世界のお話であれば、何も考えずに心底楽しめたことでしょう。

しかしこれは実際に起きた、しかも現在も複雑怪奇な問題を山積させた状況下にある事件を基にした映画であり、そうなると作り手はどのような視線で、どういったテクニックでこれを映画化したのかというところも見逃すわけにはいきません。

福島原発事故そのものを描いた映画に関しては、今のところは事故現場と東京電力本店、官邸、さらに民間のドラマを組み合わせながら構成されていくことが常のようです。

『Fukushima 50』では現場を中心に本店や官邸との確執やら、現場の人間の家族ら民間のドラマが繰り広げられていきます。

『太陽の蓋』では官邸とマスコミの関係性をメインにしながら、それに伴う民間のドラマが構成されています(本店と現場そのものの描写は皆無ではありませんが、併せて5分もあるかどうか)。

 (C)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi

役名に関しては共に虚実双方用いられていますが、『Fukushima 50』の官邸側は“内閣総理大臣”“官房長官”といった役職のみが明記され、名前そのものは一切出てきません。

対して『太陽の蓋』の官邸側は事故当時の総理大臣・菅直人をはじめとする民主党政権の面々が実名で登場します。

東京電力の表記に関しては、『Fukushima 50』は東都電力、『太陽の蓋』は東日電力と変えられていますが(このあたりが今の日本映画界の限界か……)、劇中ではどちらも略して“東電”と呼ばれることが往々にしてあります。

–{『Fukushima 50』が描いていないいくつかの事実}–

『Fukushima 50』が描いていないいくつかの事実

事件当時のおおまかな全貌は、やはり現場から事故そのものを見据えた『Fukushima 50』がわかりやすいものがあるでしょう。

ただし『Fukushima 50』が事件の全貌を実話通りに描き得ているかと問われると、答えはノーです。

もちろん映画とはクリエイティヴなものであり、必ずしも事実通りに描かれなくても構わないわけですが、逆に事実のどこをどのように改変していったかで作る側の製作意図もおのずと見えてきます。

『Fukushima 50』で問題になっているのは、総理大臣が直接現地に視察に行ったことで、“ベント”(格納容器内の水蒸気を外に逃がして容器内の圧力を下げる)なる事態の収束を図るための重要な作業が遅れてしまったかのような描写がなされていることです。

実は私自身、最初に劇場で拝見したときは、佐野史郎扮する総理大臣のエキセントリックな演技(菅直人は周囲から“イラカン”のあだ名がつけられるほど怒りっぽい人とのこと)なども含めて、これはかなり民主党政権を揶揄しているなと思わされたのですが、今回の原稿を書くために配信にて2度目の鑑賞を試みたところ、佐野史郎自身は一見エキエントリックな中にも人間味を感じさせようと腐心していることに気づかされました。

たとえば渡辺謙演じる吉田昌郎所長の口から「決死隊」という言葉が出たときの驚きの表情であるとか、またところどころ事態の悪化に苦悩するショットなど(単なる悪役にしたければ、こういった画を挿む必要もないでしょう)、よくよく見るとかなり勇み足で時にお邪魔虫ではあるものの、国難に真摯に対峙しようとしていたことは理解できるキャラクターには成り得ています。

また劇中の吉田所長も「ベントが遅れるから総理には来てほしくない」とは言っておらず、ただし「このくそ忙しいときに面倒くさい!」とでもいった風情で対処し、むしろ本店に「現場のマスクが足りないので、せめて総理にはマスクを持たせてくれ」と懇願するも本店に拒絶され、そちらのほうに激昂します。

実はこの作品、総理も怒りまくっていますが、吉田所長も負けず劣らず周りに怒鳴り散らしていて、意外にどっこいどっこいなのでした。

実際、吉田所長は菅直人に対してあまり良い感情を持ってなかったことが後々の発言で明らかになっていますが、「総理の訪問でベントが遅れたという事実はなかった」とも明言しています。

一方で菅直人は直接吉田所長と面会できたことで彼の人間性にほれ込み、信頼することができたと認識していて、それは『太陽の蓋』でも他者を通じて語られています(ただし吉田所長は出てきません)。

そもそもなぜ菅直人が現場に赴いたか、それは本店が現場の状況を何ひとつ官邸に報告してくれないことに対する憤りが昂じての行動であり、それも『太陽の蓋』では描かれていて、そのことに対する批判(総理が官邸を離れてよいのか? といった)がかなりあったことも隠していません。

 (C)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi

何せ1号機が水蒸気爆発したことを官邸は1時間後のテレビのニュースで国民とともに初めて知らされるというありさま。

また菅直人が本店に乗り込んだところ、そこで初めて本店が現場とTVモニターで直接交信していて全ての情報を把握していたことを知り、愕然となるのでした。

正直こういった事実の数々が『Fukushima 50』では省略されていることもあって、一度見ただけだと本作が官邸を、ひいては時の民主党政権を揶揄しているかのように映えてしまっているのです。

また『Fukushima 50』では官邸から海水注入中止の指示がなされたように描かれていますが、実際は本店がでっちあげたもので、官邸は何も知らされていませんでした(それゆえに『太陽の蓋』ではこの事象に関する描出はありません)。

もっとも、それが本当か嘘かを見分ける術など当時の現場にはなかったわけで、そうなると「官邸のバカヤロー」的態度が露になるのも当然ではあるわけですが、それに対する事実のエクスキューズもどこかに入れるべきであったのではないでしょうか。

–{原発事故をもたらした本当の理由とは?}–

原発事故をもたらした本当の理由とは?

個人的には上記以上に、『Fukushima 50』には素通りできない部分がありました。

それは後に海外から“フクシマフィフティ”と称される作業員らの決死の行動が、まるで戦時中の特攻隊を彷彿させるような描き方がなされていることです。

その証左として、主人公の福島原発1・2号機当直長・伊崎利夫(佐藤浩市)が少年時代、父親とともに福島第1原発を展望する回想シーンが出てきますが、その場所は陸軍航空部隊磐城飛行場跡です。

ここは戦時中の1945年2月から7月まで、学徒動員の学生を対象に特攻の訓練を施す特別攻撃教育隊の跡地でもあるのでした。

この時点で、作り手が“フクシマフィフティ”と特攻隊をだぶらせようとしているのは明確ではないでしょうか。

自己犠牲のヒロイックな描出はもともと日本映画が得意とするもので、また日本人観客に涙とともに受け入れられやすいものがあるのも確かです。

もとよりここでの“フクシマフィフティ”の面々の勇気を讃えることに異論などあるはずもないのですが、そんな彼らを特攻隊の悲劇と同一化するというのは、果たしていかがなものなのか……。

また『Fukushima 50』では、なぜこのようなことが起きてしまったのか? の結論として、“大自然の猛威”のみを挙げています。

確かにそれもあるでしょう。

しかし、大自然以上に見逃してはならない重大な要素が、実はあるのではないか?

残念ながら『Fukushima 50』は、その問いに答えてはくれません。

確かに本作は、ハリウッドのパニック映画超大作のように派手で仕掛けも満載、思わず涙腺を緩ませてしまう感動作品には成り得ています。

オールスター・キャストというのもやはり映画にとっては重要なもので(そういえば震災直後に作られた福島の悲劇を描いた映画の数々は、多くの芸能事務所が出演を渋ってきたことでキャスティングには苦労させられたと方々から聞かされたものですが、一転して本作の豪華さはなにゆえもたらされたものなのか?)、個人的にも好きな俳優が多数良い味を醸し出してくれているのは嬉しいところ(特に火野正平の、さりげなくもそこにいるだけで存在感十分!といった、ベテランならではの味わいには唸らされました)。

しかし、それ以上に見る側の意識を啓蒙させてくれる真のエンタテインメントに成り得る資格を大いに持ちながら、自ら放棄してしまっているかのようなのが、正直残念なのです。

『Fukushima 50』と『太陽の蓋』お互いが補完し合うもの

と、ここまでは『Fukushima 50』をくさして『太陽の蓋』を持ち上げているかのような論説になってはいますが、逆に『太陽の蓋』には『Fukushima 50』が持つ映画としての華が決定的に欠けているという短所があります。

それはやはり肝心要の“現場”が描かれていないということに端を発しているのは明らかで、もちろんこちらは低予算作品ゆえに『Fukushima 50』みたいな超大作の構えを望むべくもないのですが、さすがに現場の状況などが台詞でしか語られないのはつらく、またそれを補うために時間軸を交錯させた構成がなされていますが、それも成功しているとは言い切れません。

要するに『太陽の蓋』は『Fukushima 50』より事実を描いてはいるものの、総体的に地味でもっさりした出来栄えなのです。
(あまり上手くいってない『新聞記者』とでもいえば、映画ファンにはわかりやすいでしょうか? 三田村邦彦の菅総理も、ちょっとカッコよすぎるかな? もっとも本人に雰囲気を似せるよう、かなり腐心しているのは見て取れます。また菅原大吉扮するエダノンこと枝野幸男はかなりそっくりさん演技をやってました。出色は福山哲郎役の神尾佑で、実にスマートで渋い好演!)

 (C)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi

ただし『Fukushima 50』の後に『太陽の蓋』を見ると、前者に欠けているものを補うという意味で、かなり見やすくなるのも確かです。

出来ればこの2作、続けてご覧になってもらえば、いろいろな視点が浮かび上がっていくことでしょう。
(余談ですが、中村ゆりや阿南健治など双方に出演している俳優もいますので、役柄の違いなどを愉しむ見方もあります)

『Fukushima 50』が良くも悪くも血気盛んな“若者”的な作りであるとしたら、『太陽の蓋』はそれよりもやや“大人”的な映画であるようにも思えます。

そしてこの2作を見る私たちは、前日『月刊日本』に掲載された内田樹インタビュー『コロナ後の世界』に倣えば、“紳士”として対峙していくべきなのかもしれません。

また同時に、『希望の国』(12)『あいときぼうのまち』(13)『朝日のあたる家』(13)『物置のピアノ』(14)『ソ満国境 15歳の夏』(15)、『ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(ラプソディ)』(19)など原発事故後の福島を描いた映画をご覧になることも強くお勧めしておきます。

『Fukushima 50』『太陽の蓋』のみで福島第1原発事故は語れるものではなく、また語ってもいけない。

事故の後、福島で一体どういうことが起きたのか? そして今も起きているのか?

またそれは新型コロナ・ウイルスが世界中にもたらしている数々の悲劇ともどこか呼応しているような気もしてなりません。

単に批判するだけでなく、単に擁護するだけでなく、冷静に物事を見極めていきたい。

それは自分自身への戒めも含めた、『Fukushima 50』や『太陽の蓋』をはじめとする福島を描いた映画から教えられた貴重な教訓にしていきたいと思っています。

(文:増當竜也)