(C)2019 ZOETROPE CORP. ALL RIGHTS RESERVED.
このところ新作は映画館で、旧作はTVやブルーレイなどのソフト、もしくはネット配信で、といった映画鑑賞の基本的区分けを自分の中でしています。
理由は単純で、この仕事をしている以上はあくまでも“今”の映画をメインに見据えていたいという想いからです。
人間どうしても10~20代の青春期にかけて見た映画が一番印象深く、そこを基準に古今東西の作品を比較しながら見てしまいがちで、そのこと自体を否定する気は毛頭ありませんが、それが高じて「昔の映画は良かった。それに比べて今の映画は……」などと口にすることだけは、個人的に絶対に避けたい。
(正直、過去の名作を映画館の大画面で接すると、心は一気に“懐かしいあの頃”にタイムスリップしてのめりこみ、なかなか現実世界に戻れなくなってしまうことへの不安もあるのです)
しかし、それでもやはり、新作だ旧作だの域を越えて、これは映画館で見ておくべき! と絶対的にお勧めしたい作品もままあります。
ヴェトナム戦争を題材にしたフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(79)もその中の1本です。
さまざまなトラブルを経て完成した問題作であり、第32回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した名作であり、さまざまなヴァージョンが存在する超大作でもありますが……
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街444》
ここに至ってコッポラ監督直々に編集した最終版ともいえる『地獄の黙示録 ファイナル・カット』が、何とIMAXにて日本上陸!
自身の王国を築いた大佐暗殺の命を受けた大尉の地獄の旅
『地獄の黙示録』はウィリアム・コンラッドの『闇の奥』を原案に大きくアレンジしたもので、その大筋はヴェトナム戦争が激化していく1960年代末、アメリカ陸軍のウィラード大尉(マーティン・シーン)は軍上層部から、軍規を無視して自らの王国をカンボジアの奥地に構えたカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺せよとの命を受け、4人の部下とともに哨戒艇でヌン川を遡っていく……というもの。
その旅の中で、戦争がもたらすさまざまな狂気を、我々観客はウィラードの目を通して体感していきます。
ヘリコプターにサーフボードを積んで、さらにワーグナーの《ワルキューレの騎行》を流しながら敵の村を襲撃するキルゴア中佐(ロバート・デュヴァル)……。
(戦闘後にキルゴアが感慨深く漏らす「ナパームの朝は格別だ」の一言は、映画史に残る名台詞として讃え続けられています)
慰問のプレイメイトに興奮するあまり、飢えた狼のように彼女らに群がる兵士たち……。
指揮官が誰かもわからないまま戦い続ける最前線……。
一方で任務を知らされない苛立ちも手伝って対立を深めていく部下との葛藤などを経て、ついにウィラードはカーツの王国へ到達し、そこで彼と対峙します……。
冒頭でヴェトナム戦争のアイコンともいえるヘリコプターとジャングル、そしてウィラードをオーヴァーラップさせた画にドアーズの名曲《THE END》をかぶせていく、いわば《終わり》から始まる“現代の黙示録(APOCALYPSE NOW/原題)”は、一貫して幻惑的で美しい映像と幽玄な音楽などを駆使して、戦争がもたらす魅惑を描いていきます。
「戦争ほど美しいものはない。そうでなければ、これほど人が戦争を繰り返すはずはない」
これは初公開時のコッポラ監督の発言です。
一方、彼がこよなくリスペクトする黒澤明監督も本作に関して当時「戦場では時に地獄が天国に見えるから怖いのだ。」といったコメントを寄せていました。
(ちなみに本作の中でカーツ大佐が最後につぶやく“HORROR…HORROR”の台詞は、字幕では「地獄だ 地獄の恐怖だ」と訳されていますが、確か「キネマ旬報」誌だったと記憶してますが、黒澤監督は「あそこは『怖い』と訳してほしかった」といった批評も書かれていて、子ども心に「すごい!」と唸らされたものでした)
–{未曽有のトラブル続きの果てにようやく完成した超大作}–
未曽有のトラブル続きの果てにようやく完成した超大作
実はこの作品、当初ジョージ・ルーカスとジョン・ミリアスが企画するも実現は叶わず、盟友のフランシス・フォード・コッポラが受け継いで製作を敢行したものですが、それ以降もトラブルといった次元を大きく越えるほど災難の数々に見舞われ、それこそ「完成しないのではないか」「コッポラはこれで終わりだ」などともささやかれていたものでした。
(C)2019 ZOETROPE CORP. ALL RIGHTS RESERVED.
当初ウィラード役にキャスティングされていたハーヴェイ・カイテルをクランクイン早々に降板させたり、代わりに大抜擢されたマーティン・シーンは撮影中に心臓麻痺を起こして生命の危機にさらされたり、カメラマン役のデニス・ホッパーは麻薬浸りで台詞を全く覚えられなかったり、肝心要の大スター、マーロン・ブランドは何と100キロに激太りして現場に現れたり……。
また、そもそもは17週間の撮影を予定していたものの、フィリピンに建てたロケ・セットが台風で全壊するなどで、結局61週間の長期にわたるものとなり、1200万ドル(当時のレートで約35億円)の予算も使い果たして最終的には3100万ドル(当時のレートで約90億円)まで膨れ上がり、借金まみれになったコッポラは何度か自殺を考えたほどノイローゼに陥って、ついには倒れてしまうなど、ある意味映画以上にドラマティックな出来事が次々と起こりまくっていたのでした。
(このあたりの詳しい事情は、撮影に付き添っていたコッポラ夫人エレノア・コッポラが記したメイキング書『ノーツ―コッポラの黙示録』及び当時のメイキング・フィルムなどを彼女が1991年にまとめた記録映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』で詳しく紹介されています。手っ取り早く知りたい方はウィキペディアなどをググってみてください)
「製作中は我を忘れていた」などと後に回顧するほどのコッポラは、撮影中は「私が倒れたらミリアスが、ミリアスが倒れたらルーカスが、この映画を完成させるのだ!」と、まるで全滅直前の騎兵隊隊長のように叫んでいたとも聞きます。
(もっとも、ミリアスが記した脚本をコッポラは撮影中連日のように書き直してしまいました。ミリアスは本作のクライマックスをヴェトナム版『アラモ』のごとく、カーツやウィラードらが砦に立て籠って壮絶な戦闘を繰り広げるスペクタクル・シーンにしたかったようですが……)
–{初公開版と特別完全版の良いとこ取りの『ファイナル・カット』}–
初公開版と特別完全版の良いとこ取りの『ファイナル・カット』
まあ、なんだかんだあってようやく1979年に完成し、日本では80年の2月にお目見えとなった『地獄の黙示録』ですが、初公開時はスタッフ&キャストのクレジットもタイトルも一切入ってないオリジナル70ミリ版(147分)と、70ミリ版のその後のラストを見せながらクレジットを入れこんだ35ミリ版(153分)が作られました。
(日本では都市部で双方が、地方は主に35ミリ版が公開されています)
(C)2019 ZOETROPE CORP. ALL RIGHTS RESERVED.
その後、初公開版に50分ほどの未公開シーンを足して再編集した『地獄の黙示録 特別完全版』(202分)が2001年に公開。
こちらはジャングルの奥地で植民農園を営むフランス人家族とウィラードが出会うといったエピソードなどを通して、より観念的かつアメリカのヴェトナム参戦を批判した内容になっています。
そして今回の『地獄の黙示録 ファイナル・カット』は182分。つまり初公開版よりも約30分ほど長く、『特別完全版』より20分ほど短いヴァージョンとなっております。
私自身の鑑賞体験から申すと、初公開版(35ミリ版を先に、数年後に70ミリ版を見ました)に衝撃を受けつつ、実はカットされたエピソードが多数あることを後で知り、それらを見たいとずっとやきもきしていたものですが、いざ『特別完全版』を目の当たりにして、見たいものをようやく見せてもらえたカタルシスこそあったものの、やはり長くなった分ちょっと冗長な感も正直受けたので、その分『ファイナル・カット』は双方の良いとこどりといった印象で、『地獄の黙示録』の決定版にはなったのかなとは思っています。
もっとも個人的に一番好きなのは、今も70ミリ版です。やはりクレジットが一切ない唐突さが見る側にもたらす困惑は、そのままカーツとウィラードの“HORROR”な心情とも最もシンクロしているように思えてなりません。
ただし、これもまた見る方々の映画体験や人生経験、またどのヴァージョンをいつ見たかといったタイミングなどでも印象は大きく変わってくることでしょう。
初公開から40年経っても映画ファンの心を掻きむしってやまない作品、それが『地獄の黙示録』です。
(文:増當竜也)