(C)2019「カツベン!」製作委員会
12月13日から周防正行監督の最新作『カツベン!』が公開されます。
今からおよそ100年前、映画にまだ音がなかった時代、日本では活動弁士が映画の進行に伴い、画面の横から解説していくという独自の文化がありましたが、本作はその活動弁士に憧れつつもニセ弁士として泥棒の片棒を担がされていた青年・染谷俊太郎(成田凌)が、ひょんなことから本物の弁士として活躍していく様子を面白可笑しく描いていく作品です。
大正時代の映画館を含む活気ある町並みを再現した豪華セットやオールスター・キャスト、周防監督ならではのユーモアとヒューマニズムあふれる語り口、当時の無声(サイレント)映画の数々も流用ではなく、ほとんど新たに35ミリ・フィルムで撮影して披露するなどの試みもなされており、総じてノスタルジックで楽しい雰囲気は正月映画にふさわしいものともいえるでしょう。
今回はそんな『カツベン!』の中で描かれる無声映画の愉しさを倍増させるためのポイントおよび作品群を、歴史を振り返りつつチェックしていきたいと思います。
1:19世紀末の映画黎明期仏米の映画技術ウォーズ!
映画がいつから始まったのかは捉え方によってまちまちではありますが、19世紀後半から映画技術の研究が本格的になされており、1888年にフランスのルイ・ル・プランスが庭園を歩き回る人々を撮影した2.11秒(1秒12フレーム)の『ラウンドヘイの庭の場面』が現存する最古の映画フィルムとしてギネス世界記録に認定されています。
この後、1893年にアメリカのトーマス・アルヴァ・エジソンが自動映像販売機=キネトスコープを開発して、シカゴ万国博覧会に出展。これは箱の中を覗いて映像を見るというもので(当時はピープショーとも呼ばれていました)、1894年4月14日にはニューヨークのブロードウェイ1155番地に世界初の映画館“キネトスコープ・パーラー”が設立されました。
(キネトスコープの発明そのものは彼の部下ウィリアム・K・L・ディクソンによるもので、彼は1894年に音声付の22秒の作品『ディクソン・エクスペリメンタル・サウンド・フィルム』も製作しており、これが世界最古のサウンド・フィルムとされています。20世紀の映画撮影フィルムの基盤となった35ミリ・フィルムの開発にも携わりました)
映像をスクリーンに投射して、多くの人々が同じ場所で一度に多くの人々が見ることのできるシネマトグラフ・リュミエールを開発したのはフランスのオーギュスト&ルイ・リュミエール兄弟で、彼らが撮影した50秒ほど(1秒16フレーム)の『工場の出口』が1895年12月28日にパリで有料上映されています。
まもなくしてキネトスコープとシネマトグラフの熾烈なバトル(?)は大勢の人が一度に見られる後者に軍配が上がり、結局エジソンもキネトスコープをシネマトグラフ方式に改良したヴァイタスコープを開発することになります。
現在、映画は映画館で見るというシネマトグラフの流れが一般化していますが、最近はスマホなどで動画を楽しむキネトスコープ的抒情を携えたツールも日常的なものになってきており、その意味では映画の原点ともいえる双方のシステムが120年以上も継承され続けているともいえるでしょう。
なおリュミエール(フランス語で「光」という意味もあります)兄弟は1895年からおよそ10年にわたって1422本の作品を制作していますが(日本にも来て、当時の風景を撮影しています)、現在、その中から108本を選んで構成して4Kリマスター化&映画史的ナレーションを加えた90分の映画『リュミエール!』(2017)がデジタル配信などで容易に見られます。
–{20世紀初頭の無声映画期に確立された映画技術}–
2:20世紀初頭の無声映画期に確立された映画技術
開発されて間もない創成期の映画は1シーン1カットで情景を収めた短編記録映画的なものでしたが、やがてシーンを繋ぎ合わせたり、カットを割って構成する現在の映画の作り方が始まっていきます。
1902年にフランスのジョルジュ・メリエスが監督した『月世界旅行』(1秒16フレーム撮影の14分)は30のシーンで構成された劇映画であるとともに、アニメーションも含むトリック撮影を駆使した世界初のSF映画とされ、さらにはモノクロ・フィルムの1コマ1コマに直接色を塗った着色版も存在しています。
1903年にアメリカ・エジソン社のエドウィン・S・ポーターが監督した『大列車強盗』は1シーン1ショットの14シーンでドラマが構成されており、西部劇の元祖とも謳われています。
1906年にはジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督によるアニメーション映画『愉快な百面相』が発表。これは黒板に絵を描いてそれをコマ撮りしていく手法のものでした。
1910年代に入るとアメリカのD・W・グリフィス監督が『國民の創生』(1915)でクローズアップやフラッシュバックなどの映像技法を用いて映像表現の発展に貢献(もっともこの作品、黒人虐待を実践したKKKを英雄視した作品として批難も受けています)。38万ドルという当時としては巨額の製作費を投じた『イントレランス』(1916)では4つの時代の不寛容(イントレランス)なエピソードを並列して描く手法も採り入れました。
一方、1925年にはソ連のセルゲイ・エイゼンシュタイン監督が『戦艦ポチョムキン』を発表し、独自の映像編集=モンタージュ理論を展開。特に体制が市民を虐殺するオデッサの階段シーンは世界映画史上に残るものとして今なお映画ファンの語り草とされています。
簡略に記すと、グリフィス・モンタージュは往々にして複数のキャメラで同時撮影したものを時間軸に沿って編集していくことで、基本的に1シーン内で描かれるドラマの時間の流れと時間尺は同一となりますが、エイゼンシュタイン・モンタージュは脚本の意図に沿った編集がリズミカルになされることで、たとえば1分の時間の流れを描いたシーンが30秒だったり3分だったりといった変幻自在の時間尺で描出されたりもする。そういった違いもあります。
かくして無声映画の時代、グリフィスとエイゼンシュタイン双方のモンタージュ理論によって、現在に至る映画文法が確立されました。
またドイツでは1920年代に客観的ではなく主観的に内面の表現を試みようとするドイツ表現主義と呼ばれる芸術運動が盛んになり、それに即してロベルト・ヴォーネ監督の『カリガリ博士』(1920)やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(1927年)などが製作されました。
現在これらの作品のいくつかは映画芸術保護の観点から修復作業やリマスター化、ソフト販売、イベント上映などがなされている一方、著作権が切れてパブリックドメインとなっているものも多いので、インターネットでサイト鑑賞することも比較的容易です。ぜひ検索してみてください。
–{無声映画時代を象徴するチャップリンらの喜劇}–
3:無声映画時代を象徴するチャップリンらの喜劇
無声映画ということでもっともポピュラーに挙げられるのは、チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドらによるドタバタ喜劇ではないでしょうか。
ご承知の通り、無声映画には音がないことから、あくまでも映像そのものでドラマを目で見せて(魅せて)いく必要があったわけですが、チャップリンらによる文字通り身体を張ってのドタバタ・アクションは言葉による説明を抜きにした映画そのものの面白さと直結し、世紀を超えて今の観客が見ても大いに楽しめるものとして屹立しています。
(現在もジャッキー・チェンやトム・クルーズなどが、こうした無声映画時代のスピリッツを真摯に継承しているように思えます)
「映画の基本はアクションである」ということの実践は、無声映画だからこそ発展していったわけですが、次第にそれがエスカレートして数々の危険なアクションを伴うものへ導かれていきます。今ではCGで処理できることも当時はすべてリアルに行わなければいけなかったので、その危険度も相当なものがあったことでしょう。
また最近チャップリン映画のメイキング風景を収めたフィルムが発見され、それらを見ますとスマートでコミカルかつリズミカルな映像の動きの数々が、実は幾度もNGテイクを繰り返しながらタイミングを合わせて成し得ていたという事実に衝撃を受けます。
(ジャッキー・チェン映画のエンドタイトルNG集を思い起こしてもらえれば、きっとご理解いただけるのではないかと!)
チャップリン、キートン、ロイド主演の無声映画は割かしソフト化されており、特にチャップリン作品はBlu-ray化やTV放送、配信もされています(日本のベテラン声優陣が無声映画に声を吹き込んだヴァージョンも先ごろ製作されましたね)。
まだ彼らの奮闘を見たことのない若い世代も楽しめること受け合いですので、機会があればぜひ接していただければと思います。
(C)2019「カツベン!」製作委員会
映画『カツベン!』でも、クライマックスで彼らの映画にオマージュを捧げたと思しきドタバタ追っかけシーンが「これぞ無声映画の醍醐味だ!」と言わんばかりに登場します。
–{日本映画界独自の活動弁士の誕生}–
4:日本映画界独自の活動弁士の誕生
さて、いよいよ日本の無声映画事情に入りますが、まずエジソンが開発した覗きからくり方式のキネトスコープが1896年に輸入され、同年11月25日から12月1日まで神戸の神港倶楽部で興行が催されました。
このとき機械の説明などをして場を持たせた上田布袋軒が「日本初の活動写真弁士」とされています。
この直後、リュミエール兄弟が開発したスクリーン投射式のシネマトグラフが輸入され、1897年2月15日より大阪・戎橋の南地演舞場(弁士:高橋仙吉&坂田千駒)にて、3月9日には横浜港座(弁士:中川慶二)にて上映。
一方、エジソンがキネトスコープをシネマトグラフ方式に改良したヴァイタスコープも、同年2月22日に大阪・新町演舞場(弁士:上田布袋軒)で、翌3月6日に東京・神田錦館(弁士:十文字大元)でそれぞれ上映されています(それらよりも先に1896年12月、大阪で上映されたとの新説もあり)。
このとき大阪と東京のヴァイタスコープ公開の宣伝を請け負った広告代理店の店員・駒田好洋(当時19歳)がヴァイタスコープを譲り受け、同年5月より自ら弁士となって《日本率先活動大写真会》と称して各地を巡回するようになりました。
(ちなみに当時シネマトグラフは「自動写真」「自動幻画」、ヴァイタスコープは「蓄動射影」と言った訳語で呼ばれたこともありましたが、最終的にはどちらも合わせて「活動写真」「活動大写真」という呼称で一般化していきます。1898年には高橋弥吉による国産映写機第1号も完成しました)
一方で1897年にイギリスからシネマトグラフの撮影機を輸入した小西写真機店(後のコニカミノルタ)の店員・浅野四郎(当時20歳)が同年12月に『日本橋の鉄道馬車』を撮影・完成させたのが「日本初の映画」とされています。
その後、駒田好洋は浅野に撮影を依頼して完成させた『浅草顔見世』『道成寺』などを1899年6月20日に東京・歌舞伎座にて上映。これが「初の日本映画興行」であり、その中の1本『祇園芸妓の手踊り』が「初の商業公開用日本映画」とされています。
これらは街の風景や舞台を記録したものでしたが、同年9月には日本初の拳銃強盗逮捕をモチーフに駒田好洋&柴田常吉が監督・撮影した劇映画『ピストル強盗清水定吉(別題『稲妻強盗』)』が公開。清水を取り押さえて殉職した警官を演じた横山運平は、「日本初の映画俳優」となりました。
20世紀に入ると1903年に初の映画常設館浅草電気館が誕生し、徐々に映画興行および映画製作が日本全土に広がっていき、1920年代には無声映画の全盛期を迎えます。
映画『カツベン!』はその時期の映画館と弁士の事情を背景にしているのでした。
–{カツベンを嫌っていた!?小津安二郎監督}–
5:カツベンを嫌っていた!?小津安二郎監督
西洋に比べて日本の映画界は昔も今も映画を保存しようという意識が薄く、特に無声映画時代のフィルムは可燃性であったことも災いして、現在多くの作品は紛失もしくは断片しか見ることが叶わないというのが現状です。
(そういった事情もあって、映画『カツベン!』では現存しないものも含めた当時の無声映画の数々を新たに撮り直して再現させ、劇中に登場させています)
そんな中、1927年に『懺悔の刃』でデビューした小津安二郎監督の無声映画作品群も17作品が未だに紛失したままですが、1929年以降の17作品の現存が確認され、全てソフト化。またその多くがデジタル配信で鑑賞可能となっています。
無声映画時代の小津監督作品は、戦後の「小津調」と呼ばれる独自のしっとりした美意識の構図とカッティングによってなされるスタイルではなく、アメリカ映画のソフィスティケーションに倣ったハイカラでモダン、ドタバタギャグも多々見受けられるエネルギッシュなものでした。撮影も俯瞰や移動などがふんだんに用いられています。
手掛けるジャンルにしても、コメディひとつとっても『突貫小僧』(1929/全長38分版は紛失したままだが、家庭向けに短縮再編集された14分のパテ・フィルムが見つかりソフト化。2016年には18分版も発見)のようなキッズ・コメディから、昭和初期の大不況を背景にした『大学は出たけれど』(1929/全長70分のうち11分が現存)『落第はしたけれど』(1930)『東京の合唱』(1931)『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)など喜劇と悲劇をないまぜにした小市民映画もあります。
『突貫小僧』(C)1929松竹株式会社
青春映画でも、スキー旅行に出かけた学生たちの群像劇『学生ロマンス 若き日』(全長109分のうち103分が現存)からチンピラ・ヤクザ系『朗らかに歩め』(1930)など実に多彩なのでした。
さらには『その夜の妻』(1930)『非常線の女』(1933)のような犯罪映画を発表したかと思えば、『出来ごころ』(1933)をはじめとする人情劇「喜八もの」を撮ったりしています。
実はこの時期、1927年のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』が発表されて以降、世の中は無声映画から発声(トーキー)映画の時代に移行している頃でもありましたが、小津監督はチャールズ・チャップリンなどと同様に映画のトーキー化には慎重で、サウンドトラックに音楽などを入れた音響版は発表することはあっても、そこに台詞を入れることはなく、1936年のドキュメンタリー映画『鏡獅子』および劇映画『一人息子』でようやくトーキー映画を手掛けています。
これは「映画は画で魅せるもの」という信念によるもので、その伝に沿うと小津監督は自作の上映で弁士にドラマを説明されるのが本当は嫌だったという説もあります。それは音がないからこそ画ですべて観客に伝える努力を厭わなかった小津監督ならではの、カツドウヤとしての自負心でもあったのでしょう。
そして映画『カツベン!』の周防正行監督が最も敬愛する映画人が小津監督なのですが、そんな彼が活動弁士の生きざまにエールを送る映画を撮ることになったというのも何やら不思議な縁ではありますね。
(ちなみに周防監督作品の常連俳優でもある竹中直人がこれまで演じてきた役名はすべて青木富夫なのですが、これは小津映画『突貫小僧』に主演した子役の名前でもあり、このことからも周防監督の小津作品へのリスペクトが大いにうかがえます)
–{無声映画時代の映画業界の内幕映画}–
6:無声映画時代の映画業界の内幕映画
映画『カツベン!』では無声映画時代の初期、女性を男優が演じていたことや(これには歌舞伎など日本の伝統芸能の影響も色濃く反映されています)、カットを割ることなく1シーン1ショット撮影が常だったこと(技術的問題もさながら、これまた演技の流れを重視する舞台感覚の延長線で映画製作を捉えていたからと思われます)などの事実を最初に描きつつ、やがて女性を女優が演じ(黒島結菜扮するヒロインもそのひとり)、モンタージュ理論に応じた若き世代の映画監督が次々と登場していく新しい時代の到来を描いています。
ここで池松壮亮が演じた二川文太郎監督は1925年に20分以上に及ぶクライマックスの大立ち回りが話題騒然となった無声時代劇映画の最高峰とも謳われる『雄呂血』を発表。
また本作には登場しませんが、その前後から伊藤大輔や稲垣浩、マキノ正博など、後の日本映画界を背負う若き才人が続々台頭していくのでした。
そんな無声映画時代の映画制作現場を背景にした映画も多数あります。
海の向こうでは、イタリアからアメリカに渡った兄弟がハリウッドでD・W・グリフィス監督の『イントレランス』撮影現場の美術スタッフとして参加していくタヴィアーニ兄弟監督作品『グッドモーニング・バビロン!』(87)や、チャールズ・チャップリンの生涯をロバート・ダウニーJrが完璧に演じきったリチャード・アッテンボロー監督の『チャーリー』(92/余談ですが、アッテンボロー監督が1969年に撮ったデビュー作で第1次世界大戦の悲劇を描いた『素晴らしき戦争』の中、最前線の兵士たちがチャップリン映画の面白さを語り合うシーンが出てきます)などはその代表格でしょう。
トーキー長編映画第1号『ジャズ・シンガー』の主演男優アル・ジョルスンの半生を描いたアルフレッド・E・グリーン監督の『ジョルスン物語』(46/主演はラリー・パークスだが歌はジョルスン本人が吹き替えている)や、ジーン・ケリーが監督(スタンリー・ドーネンと共同)・主演したミュージカル映画の代名詞『雨に唄えば』(52)では、映画がサイレントからトーキーへ移行していく際の現場の状況も描かれています。特に後者ではトーキーになって俳優の声質の問題がクローズアップされていました。
日本では山田洋次監督の『キネマの天地』(86)があります。
無声映画とトーキー映画が混在していた1930年初頭の松竹蒲田撮影所を舞台に、新人の小春(有森成実/モデルは田中絹代)が父・喜八(渥美清)などの励ましを得ながら女優として大成していく姿を中心に描いたもので、実名ではありませんが、当時の映画人をモデルにしたキャラクターも多数登場。
小津安二郎をモデルにした緒方監督は岸部一徳が演じており、彼の大作『浮草』(小津監督の『浮草物語』がモデル)主演に抜擢された小春は現場で厳しい指導を受けるくだりが一つの見せ場にもなっています。
では、無声映画からトーキー映画へ移る時代の流れは活動弁士たちの運命をどのように変えていったかを伝える一例として、市川崑監督の『悪魔の手毬唄』(77)を推したいと思います。
ご存じ名探偵・金田一耕助を石坂浩二が演じた人気シリーズの第2作ですが、ミステリものなので深いことは書けないものの、ここではトーキーの到来がもたらした時代の悲劇が巧みに描かれています。
映画『カツベン!』はまだトーキーの時代が到来する前を描いているので実に清々しいものがありますが(周防監督も「無声映画が一番輝いていた時代を描くことで、観客にもハッピーな気分を味わってほしい」といった趣旨の発言をしています)、主人公の俊太郎は本編ラストの後どのような運命をたどっていったのか、どうか幸せになっていてほしいと今は祈るのみです。
–{トーキー時代以後のサウンド版無声映画}–
7:トーキー時代以後のサウンド版無声映画
映画に音が入るのが当たり前になって久しい中、時折あえて台詞を配した無声映画スタイルの作品を作ろうと挑戦に乗り出す映画人も多数います(ただし音楽や音響を入れたサウンド版無声映画としてのスタイルが圧倒的多数ではあります)。
たとえばフランスのジャック・タチ監督による“ユロおじさん”シリーズ第1作『ぼくの伯父さんの休暇』(53)はほとんど台詞のないモノクロのパントマイム・スタイルでしたが、全体的にジャック・タチ監督作品は台詞少な目で、ポップな映像センスを駆使してほのぼのユーモアを提示していく傾向があります。調べるとやはり彼は無声映画の大ファンで、シリーズ第2作『ぼくのおじさん』(58)でアカデミー賞外国語映画賞を受賞して来米した際も、マック・セネットやバスター・キートン、ハロルド・ロイド、スタン・ローレルといった無声映画時代からのスターとの歓談を望み、それを楽しく実現させたとのこと。
アニメーション映画『イリュージョニスト』(10)は、そんなジャック・タチが遺した脚本の映画化でしたが、やはり台詞は非常に少なかったです。
全編台詞なしのアニメーション映画ということでは、スタジオジブリが製作に関与し、高畑勲がアーティスティック・プロデューサーとして参加したマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の日仏ベルギー合作『レッドタートル ある島の物語』(16)があります。無人島に漂着した男と島からの脱出を阻む赤いウミガメが織り成す数奇な運命を描いたエコロジカル・サバイバル映画でした。
日本映画では現在1000本以上の無声映画フィルム・アーカイヴを所有するマツダ映画社が1979年に新東宝映画の俊才・山田達雄監督を招き、1938年に作られた稲垣浩監督による同名時代劇トーキー映画をカラーのサウンド版無声映画スタイルでリメイクした時代劇『地獄の蟲』があります。主演はオリジナル版で主演を務めた阪東妻三郎の実子・田村高廣でした。
1986年に林海象監督が自費製作で発表したデビュー作『夢みるように眠りたい』はモノクロのサウンド版無声映画で、昭和初期を舞台に誘拐された娘の消息を追うよう依頼された私立探偵(佐野史郎)が、やがてラストシーンを撮れないまま未完となった幻の無声映画の存在にぶちあたるという、ノスタルジック幻想譚です。
邦洋合わせて個人的に最も愛してやまないサウンド版無声映画は、パロディ喜劇の名手メル・ブルックス監督の『メル・ブルックスのサイレント・ムービー』(76)です。
舞台は現代の映画撮影所で、オールスター・キャストの無声映画を作ろうとする往年の名監督(メル・ブルックス)及びその仲間たちが織り成す映画業界内幕ドタバタ奮闘コメディ。
企画のユニークさに賛同したバート・レイノルズやライザ・ミネリ、ポール・ニューマンなど時の大スターが実名でゲスト出演していますが、もちろん彼らにも台詞は一言もありません。
ただしこの映画、フランスのパントマイム・アーテイスト、マルセル・マルソーにだけ一瞬の台詞らしき発声をさせています。“沈黙の詩人”とも謳われた彼にたった一言とはいえ声を出させるとは、さすがはメル・ブルックス監督ならではの遊び心でした。
最近ではアカデミー賞作品賞および主演男優賞(ジャン・デュジャルダン)、衣装デザイン賞の3部門を受賞したフランスのミシェル・アザナヴィシウス監督作品『アーティスト』(11)が有名なところでしょう。
こちらも『雨に唄えば』同様、サイレントからトーキーへ移行する1927年のハリウッドを舞台に、時代に取り残されていくスター男優と、時代の波に乗っていく新進女優の恋と確執が、台詞を排したモノクロ映画としてロマンティックに綴られていきます。
この作品が話題になったことで、一躍サイレント映画そのものも脚光を浴び再評価されるようになり、日本でも現在各地で弁士による無声映画の上映イベントが定例化されてきています。
その気運を今度の新作映画『カツベン!』がさらに高める結果となり、無声映画の数々の更なる発掘や再発見、ソフト化などが促進される未来が訪れるよう、いち映画ファンとしては祈らずにはいられません。
(文:増當竜也)