『風立ちぬ』を深く読み解く「10」のこと!

映画コラム

宮崎駿監督による平成最後の長編作品『風立ちぬ』は120億円を超える大ヒットを記録しましたが、はっきり言って“万人向け”とはほど遠い内容です。「よくわからない」「モヤモヤする」「主人公に感情移入できない」などと“理解できなかった”ことを主体とした感想を抱いたという方は決して少なくはなく、宮崎駿監督作品の中では『ハウルの動く城』に並んで賛否両論を呼んでいました。

しかし、その“理解できない”という感想は全く間違っていません。そう感じることも当然の内容であり、もっと言えば“大衆には理解されない”ことさえも本作の意義と言っても過言ではないと、筆者は考えます。それこそ、主題歌の「ひこうき雲」の歌詞にある、「他の人にはわからない」という言葉通りの……。

本作で宮崎駿が目指したかったことは、公式サイトに掲載されている“企画書”にも表れています(以下に一部抜粋)。

「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある」

では、本作がどのように“自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物”を描いていながら、同時に“狂気”や“人生の罠”を描いていたのか、そして宮崎駿が具体的にどのような意図でこの映画を世に送り出したのか、じっくりと探っていきます。

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※以下からは『風立ちぬ』のラストを含む本編のネタバレに触れています。ご注意ください。

–{本編ネタバレ含む『風立ちぬ』の考察}–

1:原作や原案と呼べる作品やモチーフが複数存在していた?

本作には、原作または原案と呼べる作品やモチーフが複数存在しています。

(1)主人公のモデルおよび名前は実在の航空技術者の堀越二郎から

(2)タイトルおよび後半の展開は堀辰雄の小説「風立ちぬ」から

(3)ヒロインの名前およびエピソードの一部は同じく堀辰雄の小説「菜穂子」から

(4)宮崎駿の父親の存在も意識されている

(5)それらを踏まえた原作となるマンガが模型雑誌に連載されていた

(4)の宮崎駿の父親は9歳の時に関東大震災を経験しており、まさに激動の時代を生きていながら、大義名分とか国家の運命には全く関心がなく、家族のことばかりを考える人だったそうで、どのようにしてああいう人になったのか、父親が生きた時代はどういった時代だったのかを知りたいとも、宮崎駿は考えていたのだそうです。

そして、(5)のマンガ版「風立ちぬ」の執筆にあたって、宮崎駿は堀越二郎の書いた著書を「零戦」を読んで「すっきりしなかった。本当のことは書いていない気がする」と考え、また「昭和大恐慌の時代に裕福であった人物のことを考えていたら、堀辰雄の世界になるんです」などと語っていました。

いわば、『風立ちぬ』は(その著書を読んでもはっきりとは見えてこなかった)堀越二郎の内面および人物像を、堀辰雄の小説の物語を借りて、その他の要素もいろいろとごちゃまぜに描いていくというフィクションなのです。下世話な感じに表現すれば、宮崎駿監督による“俺の理想の堀越二郎”を作り上げていると言っても良いでしょう。

ちなみに、マンガ版「風立ちぬ」は宮崎駿が“趣味の範疇”で描いていたと自覚していたため、鈴木敏夫プロデューサーからアニメ映画化を提案された時は「鈴木さんはどうかしている」などと反発したのだとか。そこには「アニメ映画は子供のために作るべきであって、大人のものなんてとんでもない」という考えもあったようです。つまりは、『風立ちぬ』は“元々は趣味として好き勝手に描いたもの”であり、しかも“今までのように観客である子供のためには作っていない”のです。そのために、宮崎駿作品の中でも(後にも詳しく書きますが)その作家性が強く表れている一方で、大衆には迎合しない異質な作品になったとも言えるのです。

–{2:宮崎駿が抱えた“矛盾”が表現されていた?}–

2:宮崎駿が抱えた“矛盾”が表現されていた?

宮崎駿は「兵器が大好きだけど戦争のことは大嫌い」という大きな矛盾を抱えた作家でもあります。鈴木プロデューサーによると、宮崎駿は昔から趣味として戦闘機や戦車を描いていて、自宅の本棚には戦争にまつわる本や資料が並んでいて知識は専門家顔負け、その一方で完全に平和主義者であり、戦争反対のデモに参加していたこともあったのだそうです。

その宮崎駿が抱えた矛盾が(過去の作品と比較しても)最も表れているのが、この『風立ちぬ』です。劇中の時代は大正から昭和に向かっており、不景気や大震災により社会には不安が蔓延し、太平洋戦争の足音も聞こえてきています。主人公となる堀越二郎は確かに「美しい飛行機を作りたい」と純粋に願う青年ではあったのでしょう。しかし、その激動の時代に航空技術者になれば、必然的に人を殺す道具になり得る軍用機を作ることになります。ある意味では、宮崎駿は「兵器が大好きだけど戦争のことは大嫌い」という自身が抱えていた矛盾を、劇中の二郎の「美しい飛行機を作るが(時代のせいで)それは必然的に人殺しの道具になってしまう」という足跡を通して表現しているとも言えるのです。

劇中の二郎はその矛盾や葛藤についてほとんど口にしませんが、(原作マンガにはわずかにしか登場しなかった)本庄という二郎の親友ははっきりと矛盾について語っています。「貧乏な国が飛行機を作りたがる。それで俺たちは飛行機が作れる。矛盾だ」「本腰を据えて仕事をするために所帯を持つ。これも矛盾だ」と。後にも詳しく書きますが、『風立ちぬ』は全篇において、戦争の時代にあったありとあらゆる矛盾を描き、それによる残酷な事実をも露わにしていると言っても過言ではないのです。

なお、この「兵器が大好きだけど戦争のことは大嫌い」という矛盾は特殊な考えのようにも聞こえますが、鈴木プロデューサーは「宮崎駿だけに限ったことではないのでは?」と疑問を投げかけています。その証拠に、戦後当時の子供雑誌には太平洋戦争の架空戦記物がたくさん載っていて、その後に民主化が進んで多くの人が戦争反対を唱えている一方で、社会の中には根強く戦争の関心が続いていたではないか、と。現在でも戦争にまつわる映画、もっと言えば戦車や銃器による戦いや死が描かれた作品が作られ続けている(大衆がそれを望んでいる)というのも、宮崎駿が抱えている矛盾と大きな差はないのかもしれません。

余談ですが、二郎が宮崎駿そのものとも言えると同時に、軍用機作り(の現場)はアニメーション制作(の場所)のメタファーであるとも捉えることができます。その証拠に、原作マンガの「風立ちぬ」において、二郎が就職し設計技師となってすぐは「もちろんヒコーキの形なんか描かせてもらえない。部品の製図ばかりをしている。まあアニメーターの新人と同じだな」と注釈がつけられていたり、後で七式艦上戦闘機を作るという大役を任された二郎が文字通りに重いプレッシャーをかけられた時にも「まあ(アニメの)新人監督と一緒だな」と書かれていたりもするのです。技術者が意見を口々に言い合ったりするのも、アニメ制作の現場そのままのようでしたね。

さらに余談ですが、劇中の飛行機のプロペラ音、車のエンジン音、関東大震災の地響きまで、劇中の効果音が“人の声”で録られているというのも本作の大きな特徴で、これは三鷹の森ジブリ美術館で上映されている「やどさがし」がアイデアの元になってます。うがった見かたではあると思いますが、この人間の声を使うというアナログな手法も、コンピュータを使わなかった当時の軍用機作りに通じているようにも思えます。

–{3:庵野秀明が主人公の声を担当した理由とは?}–

3:庵野秀明が主人公の声を担当した理由とは?

本作で賛否両論を呼んでいる要素には、主人公である二郎の声を『新世紀エヴァンゲリオン』の監督などで知られる庵野秀明が担当していることにもあります。はっきり言って違和感のある演技および声質になっているので、否定的な意見があるのも無理はありません。

オーディションにおいて宮崎駿監督が初めに出していた条件は「滑舌がよく、高い声で、早く喋る人」ということだったのですが、そのイメージ通りの人選は難航します。しかし、打ち合わせ最中にふと鈴木プロデューサーが庵野秀明の名前を口にしてから、実際にアフレコをしてもらったところ宮崎駿からは一発でオーケーが出たのだとか。宮崎駿は起用理由について「二郎は頭が良すぎて余計なことを言わないから、素人がやった方がまだ“感じ”が出そう」「庵野は変な声だけどものすごく誠実な男です。アフレコではものすごい違和感があるけれど、喋っていくうちに慣れていく。あいつがやるとリアリティありますよ」などと語っており、後にも「庵野が現代で一番傷つきながら生きている感じを持っていて、それが声に出ていると思ったから」ともコメントしていました。

つまりは、宮崎駿は二郎の声に“演技で作られた”ものではない、“頭が良くあまり喋らない”というキャラクターとしてのリアリティを求めていたのでしょう。前述した通り二郎および軍用機作りは宮崎駿本人やアニメ制作のメタファーとも言えますし、アニメに人生を捧げている庵野秀明こそ二郎にふさわしいと、宮崎駿は考えていたのかもしれません。全くヒロイックに聞こえないその声は、他のことを差し置いてもただただ美しい飛行機を作りたいということを求める(オタク気質とも言える)二郎の“らしさ”、それこそ世の中の技術者や芸術家らしさを表現しているとも取れます。

とは言え、その庵野秀明の声による違和感が意図的なものであったとしても、個人的には二郎の少年期の声(子役の鏑木海智)や、他キャラクターとのギャップがありすぎて、心地良く観ることができない……というのが正直なところです。そんな風にどうしても主人公の声を受け入れられないと考えている方は、英語音声(と日本語字幕)で本編を観てみるのもいいでしょう。そちらでは二郎の声を『(500)日のサマー』や『ザ・ウォーク』などのジョセフ・ゴードン=レヴィットが担当しており、その淡々とした喋りでありながら情熱をも感じさせる声は見事にハマっていて、違和感を感じさせることもありませんよ。

–{4:カプローニ伯爵の正体は悪魔だった?}–

4:カプローニ伯爵の正体は悪魔だった?

二郎の夢に出てくるカプローニ伯爵は、実在のイタリアの航空技術者です。彼は少年期の二郎に「飛行機は戦争の道具でも、商売の手立てもないのだ。飛行機は美しい夢だ!設計家は夢に形を与えるのだ!」などと鼓舞している、ある意味では心の師匠とも呼べる存在でしたが……“それだけではない”とも言えます。

実は、宮崎駿はカプローニの声を担当した野村萬斎に、演技指導として「カプローニは堀越二郎にとってのメフィストフェレスだ」と言っています。メフィストフェレスとはドイツの文豪ゲーテによる戯曲「ファウスト」に登場する悪魔であり、「人生の全てを体験させる」ことと引き換えに「死後に魂をもらう」という条件を出しています。その条件を呑んだ主人公は自分の欲求を満たすためにいろいろな酷いことをして、周りの人々を傷つけていってしまうのです。(野村萬斎本人も、初めはカプローニを聖人のような人物であるとイメージしていたのですが、メフィストフェレスであると宮崎駿に告げられてからは「この映画で描かれる夢とは、良いのか悪いのかわからないけれども、“悪かもしれない”という危険を意味するものなのだと感じました」とコメントしています)

そのカプローニは「創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。君の10年を、力を尽くしていきなさい」ともアドバイスしています。つまり、カプローニは自身の“夢”を見せていることと同時に、二郎が設計家として活躍できる期間は10年しかないとも告げているのです。それこそ、悪魔であるメフィストフェレスが提示した契約のように……。後にも詳しく書きますが、物語の最後に二郎とカプローニが“煉獄”のような場所にいるのも、その悪魔との契約の代償のようにも思えるのです。

–{5:“ピラミッドのある世界”が意味しているものとは?}–

5:“ピラミッドのある世界”が意味しているものとは?

カプローニは、主人公にこうも告げています。「ピラミッドのある世界とない世界、どちらが好きだね?」「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある。飛行機は破壊と殺戮の道具になる宿命を背負っているのだ。それでも私はピラミッドのある世界を選んだ。君はどちらを選ぶかね?」と……。これに二郎は「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」と答えています。

ピラミッドとは王様のお墓でもあり、その権力を示すもの。その造形および規模が見事で後世にも残ろうとも、はっきり言って何の役にも立ちません。しかも、ピラミッドとは往々にして、多数の者たちの上にごく一部の優れた者がいるという世界の構造のことも指しています。劇中で線路を歩いてまで仕事を探している人々や、夜遅くまで親の帰りを待つ子供たち(二郎はその子供たちにシベリヤをあげようとするが受け取ってもらえなかった)はピラミッドの“下”にいる存在であり、そのように日本が貧しい状況にも関わらず軍用機を作り続けている二郎はピラミッドの“上”にいる存在なのでしょう。

そのように、多くの人の苦しみながら生きているピラミッドのある世界で、才能にも環境にも恵まれた二郎は“上”で生きている、そのために美しい飛行機を作るという夢を叶えることができる(その飛行機=軍用機はカプローニがどう言おうとも時代のせいで必然的に人殺しの道具になってしまっている)……これは確かに“呪われた夢”です。その残酷な事実をもって(あるいは全く意識することなく)「美しい飛行機を作りたい」と願う二郎は、ある意味でとんでもなくエゴイスティックな存在とも言えるのです。

なお、カプローニはメフィストフェレスという悪魔かもしれないと前述しましたが、その夢の中で彼は軍用機にはなり得ない、たくさんのお客を乗せる旅客機も作っていました(結局は墜落してその証拠を残さなかった)。劇中で二郎が作った軍用機は人殺しの道具になってしまっても、いつの日にかただお客を乗せて飛ぶ、“正しい姿の飛行機”も作ることができるかもしれない、という希望もカプローニは示していたのかもしれません。

–{6:クレソンを食べている怪しいドイツ人の正体は?}–

6:クレソンを食べている怪しいドイツ人の正体は?

二郎が休暇で出向いた軽井沢にいた、クレソンを食べているドイツ人の“カルストプ”は最後まで正体がわかりません。結論から言えば、彼は日本に潜入していたスパイであったのでしょう。映画評論家の町山智浩氏はカルストプを実在のスパイであるリヒャルト・ゾルゲであると分析しており、軽井沢から会社に帰ってきた二郎がすぐに特高(特別高等警察)に追われる身になってしまうというのも、ゾルゲと接触を持った者たちが逮捕されたゾルゲ事件を反映したもののように思えるのです。

ここで思い出すのが、ドイツで二郎と本庄が夜に散歩をしていた時、何者かが追われてしまう様を目撃していたということです。本庄がこの時に「今の(追っていたの)は格納庫に居たやつだ」と言っていたのは、「あまりウロウロするな」などと二郎に文句を言っていた守衛のことだったのでしょう。また、実在のドイツの技術者であるユンカース博士は、この時に二郎たちに爆撃機の中を見る許可を与えていました。

そして、カルストプは軽井沢で二郎に「ユンカース博士も追われる」と告げています。つまり、ドイツの夜の街で見かけた守衛が追うことになるのは、ただ怪しい者たちだけはなく、飛行機を作るユンカース博士、そして二郎も対象になっていく……ということが示唆されていたのではないでしょうか。

そんなカルストプは、「日本もドイツも“ハレツ”する」などとこの先を予言するような物言いをしていました。それも、彼が正確な情報を集め分析してきたスパイであるがゆえんでしょう。

–{7:“魔の山”とは何か?}–

7:“魔の山”とは何か?

カルストプは、軽井沢のその場所を“魔の山”であると表現していました。これはトーマス・マンの小説の「魔の山」から取られており、“俗世とは切り離され時の止まった場所”の象徴としても使われているようです。この物語の終わりでは、主人公(名前がまさにカルストプ)は魔の山から低地へと降りていくも、そこで戦争が起こってしまう……という、まさに『風立ちぬ』の劇中の二郎のようにもなっていました。

つまり、魔の山である軽井沢に二郎が来たのは「美しい飛行機を作るが(時代のせいで)それは必然的に人殺しの道具になってしまう」という因果から、一旦は離れることができたということも示しているのでしょう。もっとも、二郎がすっかり飛行機のことを忘れたわけではなく、墜落する軍用機の光景が脳裏に蘇ったり、残骸となった軍用機をただ見ているという光景も映し出されていたりもしましたが……。言うまでもなく、その魔の山から降りれば、再び二郎はまた軍用機を作らざるを得なくなるのです。(ちなみに、原作マンガの「風立ちぬ」において、「二郎は典型的な燃え尽き症候群だったのだ。戻るのに最低6ヶ月はかかる」とも書かれていました)

さらに、原作マンガの「風立ちぬ」において、宮崎駿は「ヨーロッパでは純度の高い空気と日光を求めてアルプスに高級療養所が作られた。もちろん貧乏人は入れない。これこそのトーマス・マンの「魔の山」舞台である。日本でも信州の高原に結核の療養所が作られ、小説や映画の舞台になった。堀辰雄の名作「風立ちぬ」もそれだ」とも注釈をつけています。つまり、終盤にヒロインである菜穂子が結核の治療のために“そこに居ざるを得なかった”療養所も、軽井沢と同じく“時の止まった場所”である魔の山としているのです。

菜穂子もまた、時の止まった場所である魔の山、それこそ(当時は死の病であった)結核が治ってまた二郎と一緒にいられるという希望のある未来へと向かうことはないであろう“死が蔓延している”療養所に行かざるを得なくなる……そんな残酷な事実も、この“魔の山”という言葉は示唆していたのかもしれません。

–{8:“他の人にはわからない”ラブストーリーだった?}–

8:“他の人にはわからない”ラブストーリーだった?

本作の後半は、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の展開をなぞらえたラブストーリーになっていきます。ここにおける二郎と菜穂子の関係および愛情こそ、「他の人にはわからない」が表れていると思うのです。

例えば、二人のやりとりではこんなシーンがあります。軽井沢の地で、二郎はクリスティーナ・ロセッティの詩「風」を読み上げてから紙ひこうきを飛ばしますが、屋根の上で止まってしまいます。二郎は登って取ろうとしますが、あわや落ちかけてしまいます。その紙ひこうき下にいるカルストプのすぐそばを通って、たまたま菜穂子のいるところに届きます。菜穂子はその紙ひこうきを投げ返しますが、受け取ったのはカストルプで、彼は紙ひこうきを握りつぶしてしまいました。

さらに、二郎は今度はゴムで飛ぶ紙ひこうきを作り飛ばしますが、一度は失敗して後ろに倒れます。もう一度飛ばすと今度は菜穂子があわや落ちかけてしまい、菜穂子の帽子を二郎は木に突入しながらも必死に取りにいきます。その時には、カストルプは飛行機を取ったりはせず、微笑んでいました。(このやりとりは、序盤で二郎が風で飛ばしてしまった帽子を菜穂子が受け取ったことと対になっています)

この紙ひこうきを使ったやりとりでわかるのは、二郎が“飛行機そのものを愛する者へのコミュニケーションにしてしまっている”ということです。事実、その前の二郎は夜に明かりが灯っている菜穂子の部屋を見ているだけで何もしできませんでした。スパイでもあるカルストプが二人の邪魔をしなくなったというのも、そのやりとりが他人には不可侵な者であることを象徴しているのでしょう。二郎と菜穂子がそれぞれベランダから落ちかけてしまうというのは、ふたりの関係性が文字通りに“死んでしまうかもしれないほどに危うい”ことを示しているのではないでしょうか。

さらに、二人の関係を端的に表しているのは、結婚した後でのことです。二郎は菜穂子が寝ている横で仕事を始めてしまい、菜穂子が「お仕事をしている時の顔を見るのが好き」と言います。それだけではなく、二郎はなんと「タバコを吸いたい、ちょっと離してもいい?」と聞き、菜穂子は「だめ。ここで吸って」と答えるのです。

言うまでもなく、結核にかかっている愛する者の側でタバコを吸うなんてことは言語道断、客観的に見ればどうあっても“正しくない”ことです。しかし、菜穂子は紙ひこうきを使った二郎のコミュニケーションを受け入れ、そしてタバコを吸いながら側で軍用機の仕事をすることをも肯定するのです。(そういえば関東大震災の時に、本庄は積まれた本の前で「タバコあるか?」と二郎に要求していたこともありました。その本にタバコの火が燃え移るかもしれないのに!タバコそのものがやはり“正しくなさ”の象徴かもしれません)

そして、菜穂子は最終的に二郎と共に最期の時を過ごすという選択肢を諦めます。それこそ「美しいところだけ好きな人に見てもらったのね」という言葉通りの……これは「ただ美しい飛行機を作りたい(それが人殺しの道具になることや犠牲となることのような“醜いもの”は見ていない)」二郎の願いともシンクロしているのです。

本作は“宮崎駿による理想の堀越二郎”を描いていると前述しましたが、はっきり言って劇中の二郎は決して良い人間ではありません。美しい飛行機を作るという夢には一生懸命ではあったとしても、上司の黒川が言ったようにエゴイズムに満ち満ちていたかもしれないのです。その二郎を受け入れる菜穂子の行動は、ある意味では狂気的で、他の人の理解など得られそうもない……だからこそ、その愛情は究極的であるとも言えるのです。

また、少年期の二郎は河原で下級生をいじめている者たちに喧嘩を仕掛けたり、東京大震災が起こった時も菜穂子とお絹を助けるというヒロイックな面も見せていました。二郎はそのように本質的には“良い男”なのかもしれませんが……時代や状況がそのままの二郎にはさせず、エゴイスティックな人物へと変えてしまった、とも考えることができます。

その東京大震災が起こった時も……二郎は一瞬だけ、上空に飛行機の幻影を見てしまっています。地震は軍用機の爆撃など関係のないことのはずなのに、それを火が立ち昇る災害の地で“想像してしまっている”のです。その状況においても飛行機を作りたいという夢を持ち続けている二郎……やはり、彼は矛盾と狂気の中で生きていたのでしょう。

–{9:ラストの草原が示しているものとは?}–

9:ラストの草原が示しているものとは?

最後に二郎はカプローニと草原で再会を果たします。二郎は「最初にお会いした場所ですね」「地獄かと思いました」と言うと、カプローニは「ちょっと違うが、似たようなものだがな」と答えていました。

ここがどのような場所かと言えば……はっきり“死後の世界”でしょう。地獄でもないのであれば、それは天国と地獄の間にある“煉獄”、罪の償いをまだ終っていない死者の霊が、残された償いを果すためにおかれる場所です。

しかも絵コンテの段階では、そこにやってきた菜穂子のセリフは「来て」でした。これは、菜穂子が二郎を天国に誘っているということでしょう。しかし、実際にその「来て」バージョンを作ってみたら、表面的に観て何が何だか分からないシーンになってしまったため、最終的に1文字だけ足して「生きて」という台詞に変えたのだそうです。

二郎は飛行機をカプローニの告げた期限通りに10年間作り続けていたものの、一機も戻ってくることはなかった、本人が言うように「終わりはズタズタだった」、つまりは二郎はその罪を背負ったということです。ラストの菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」へ変えることで、二郎は死んで罪を償うこともできない、キャッチコピー通りに「生きねば。」となるのでしょう。

–{10:『紅の豚』のあのシーンにも似たラストだった?}–

10:『紅の豚』のあのシーンにも似たラストだった?

ラストで上空にたくさんの飛行機がのぼっていくと言う光景は、『紅の豚』における、死んだはずの親友が向かって行った“ずっと高いところにある一筋の不思議な雲”にも似ています。こちらでは主人公のポルコが「お前はずっとそうして一人で飛んでいろって言われた気がしたがね。それに、あそこは地獄かもしれねえ」と、“死んだ者がいる場所に行くことができずに生きるしかない”という物言いをしていました。

そして、『風立ちぬ』で「生きて」と言った菜穂子は、姿が透けていき、大空に溶け込むかのように去っていきました。それこそ、カプローニの言う「美しい風のような人だ」と言うように……。これは、菜穂子が願った(しかし実際に二郎が最期まで付き添えなかった)「美しいところだけを見てもらいたい」という願いそのもの。そして、『紅の豚』のポルコが言った「天国などには行けずにまだ生きるしかない」と同様に、二郎に生きることを選択させる言葉なのです。

宮崎駿は『紅の豚』において自分をモデルとしていたと語っていましたが、『風立ちぬ』では主人公を豚ではなくリアルな人間の姿にしたことで、徹底的に自己の「兵器が大好きだけど戦争のことは大嫌い」という矛盾を問い直した作品であるとも言えるでしょう。最後に二郎が告げた「ありがとう、ありがとう」も、作品を作り上げることができたこと、それを包括した宮崎駿からの感謝の言葉でもあるのかもしれません。

※『紅の豚』についてはこちらの記事も参考にしてみてください↓
□『紅の豚』ポルコはなぜ豚になったのか?その疑問を解き明かす5つの事実

参考図書
風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック(大日本絵画)
ジブリの教科書18 風立ちぬ(文春ジブリ文庫)

(文:ヒナタカ)

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