大森立嗣監督『光』の魅力はこれだ!タイトルの意味や原作小説からの改変を徹底解説!

映画コラム

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

現在公開中の『光』(大森立嗣監督版)は、あらゆる意味で“一筋縄ではいかない”凄まじい映画でした。決して万人におすすめできる内容ではないですが、観た人に強いインパクトを残すことだけは間違いありません。本作の特徴がどこにあるのか、以下にネタバレのない範囲でまとめてみます。

1:“暴力の表出”の恐ろしさを描いた作品だった

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

『光』のキャッチコピーには「僕たちは人間のふりをして生きている」とあります。本作のテーマおよび内容を表したものとして、これ以上のものはないでしょう。

なぜ“人間のふり”とあるのか? と言えば、主人公の男がまだ少年だったころ、襲われていた(と思った)少女を助けようとし、殺人を犯してしまったことに起因しています。その男は40歳近くになり、結婚し子どももいて、一見すると普通の人間のようですが、実は“殺人者である”ことが、作中では静かに、時には激烈なまでの演出をもって語られているのです。

殺人を犯してしまった人間は、誰かを愛する“ふり”をしたり、まっとうな人間を“演じ”なければいけない。そんな人間は、果たして人間と言えるのか? という問いかけがされている、と言ってもいいでしょう。

それだけですと、殺人者の勝手な弁解や自己批判にも思えるところですが、本作が巧妙なのは“誰しもがそうなる可能性がある”ことが示されていることです。

殺人者になってしまうことや、殺人者となって“それからは人間のふり”をしなければいけないことだけでなく、殺意を堪えずに暴力に対して暴力で返してしまうかもしれないという“性(サガ)”も恐ろしい。そもそも、殺人者でなかったとしても、人間は誰しも大切な人の前で“(暴力的な)本性を隠して”生きているのでは……? 本作では、そんな普遍的に存在する“暴力の表出”の恐怖が描かれているのです。

本作を観ると、いままで問題を暴力で解決してこなかった方は「自分はそうでなくてよかった」とホッとする一方で、「何かの歯車が狂えば(殺人者の)主人公のようになってもおかしくなかった」というゾッとする体験ができることでしょう。良い意味で、誰もが“安心できない”“他人事ではない”というメッセージが掲げられているのが、この『光』という作品なのです。

2:井浦新の“演じている人間を演じる”ヤバい役を見逃すな!

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

本作で主演を務めるのは、もはや若手と言うよりも、もはやベテランの粋にまで達しているキャリアと実力を持つ井浦新と瑛太。その強烈なキャラクターは、2人のベストアクトと呼んでも過言ではないレベルでした。

井浦新が演じる主人公は前述した通り、普通の家庭を持つ普通の人間を“演じている”という人物です。つまり、井浦新には“演じている人間を演じる”という二重構造の役回りが求められているのですが、彼が元々持っている端正な顔立ちやイメージもプラスに働いており、どのシーンを切り取っても“一見普通だが、何かを隠している”という不穏さを漂わせているという、見事としか言いようのない存在感を放っていました。

三浦しをんの原作小説によると、主人公の妻は彼のことを「優しく穏やかで誠実(だからこそむなしいと感じる)」「声も感情も吸い込む穴と暮らしているような気がする」と表現しています。この文言をそのまま映像化したような“空虚さ”でさえも、井浦新は表現しているのですから、賞賛するしかありません。

3:瑛太の“嗤い声”が神経を逆撫でする!

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

瑛太は、人懐っこくて、どこか憎めないところもありながらも、井浦新演じる主人公の妻と不倫するばかりか、過去の殺人の証拠を見せつけて脅迫するという醜悪な男を演じています。彼は主人公とはまったく逆の、表裏がほとんどない、ある意味では“演じていない”素直な人間と言ってもいいのかもしれません。

その瑛太の演技の中で白眉と言えるのが“笑い声”です。

笑いと言うよりは“嗤い”と言ったほうが正しいその声は、吐き気がするほどの嫌悪感でいっぱいになりました(もちろん良い意味で)。その一方で、彼には同情すべき境遇も、人間らしいまともな価値観を持っていることも示されているので、とことんアンビバレント(2つの異なるものが共存している)な気持ちに観客を追い込んでくれるのです。

さらなる大きな見どころと言えるのは、橋本マナミ演じる人妻と、彼女と不倫をする瑛太との濡れ場でしょう。R15+指定でもギリギリの過激さもさることながら、粗末なアパートの一室のうだるような熱気を感じられることも相まって、頭がクラクラするような衝撃がありました。

4:強烈な印象を残すテクノミュージックの意図とは?

本作で何より強烈な印象を残すのが、アメリカのテクノミュージシャン、ジェフ・ミルズによる音楽です。

その響きは“耳をつんざくような”という表現がぴったりで、良い意味で唐突にも思えるのですが、これこそが本作の“表に出さない(出す寸前の)暴力”そのものをも示しているかのようで、なんともゾクゾクさせてくれます。“ミスマッチなのに合っている”という矛盾しているかのような音楽は、音響の整った劇場でこそ堪能する価値があるでしょう。

ちなみに大森監督はジェフ・ミルズの音楽を採用したことについて、「『さよなら渓谷』の自己模倣になるのはいやだと思っていた」「勇気のある決断でした」などと語っています。以下のインタビューにある、劇中のキャラクターの思い入れなども実に興味深いので、ぜひ読んでみてください。

「光」大森立嗣監督インタビュー「俳優には勝手に解釈してもらって自由に演じてほしい」

※原作との違いは次のページで解説しています!

–{原作との違いや、タイトルの意味は?}–

5:原作との違いはこれだ!

光 サブ6

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

映画『光』は、基本的には三浦しをんの原作小説に忠実な内容になっていますが、かなり大きな違いもあります。

その違いの筆頭が、小説にあった“巨大な災害に見舞われた後の島の描写”が映画では完全になくなっていること。それを映画で描かなかったのは、予算や技術の関係で映像化が難しかった、という事情もあるのでしょうが、結果的に良い改変になっていると感じました。

なぜなら、『光』における暴力の表出という恐怖は、何も災害に遭った人たちだけに限らないから。しかも、避けようがない災害に遭ったことそのものは、その人間の暴力の表出、または不幸とも関係がないとも、そこはかとなく示されてもいるのです。

つまり、映画において、災害という理不尽な出来事を映像で描かなかったことこそが、人間という暴力が極めて空虚で無価値なものである、という印象を強めている、とも取れるのです。言い換えれば、理不尽な不幸に見舞われたからと言って、それに暴力で返しても、何の意味もないということ……本作には、そんなメッセージも込められているのではないでしょうか。

また、当然と言えば当然のことですが、映画には小説にあった哲学的な思索(説明)の大部分がなくなっています。それにも関わらず、役者の演技で“語っている”ため、原作にあったスピリットはほぼ余すことなく伝えられている、ということも賞賛すべきでしょう。

ぜひ、映画を観終わった後に、小説も読んでみることもおすすめします。映画で省略されていた描写に「そうだったのか!」と驚くことができるでしょうし、決して一元化して語ることができない“人間の業”や“人間そのものの恐ろしさ”について、さらに深く掘り下げて考えられるでしょうから。

6:タイトルの“光”の意味とは?

光 サブ4

(C)三浦しをん/集英社・(C)2017『光』製作委員会

本作を観て、タイトルの“光”がどのような意味を持っているのかピンとこない、またはモヤモヤしてしまった、という方も多いのではないでしょうか。その光が何を指しているのかは、明確に説明されるシーンはないのですから。

1つだけ言えるのは、その光が決して“良いもの”ではないということです。一般的に、光には“希望”や“未来”といったポジティブなイメージもありますが、本作では光こそが恐怖の対象としても語られているとも取れるのです。

筆者個人の見解ではありますが、“光”というタイトルには、人間が持っている“闇”や、“暗い部分”にも目を向けたほうが良いのではないか、それにこそ“人間として正しく生きる”ためのヒントがあるのではないかと、逆説的なメッセージも込められているようにも思えます。

なお、映画のラスト(および直前のワンシーン)は、小説とはまったく違うオリジナルのものになっています。そこでの“光”の表現は……ネタバレになるので一切言えませんが、ここにこそタイトルの意味が集約されていると言っても過言ではないでしょう。

おまけその1:河瀨直美監督の『光』も観て欲しい!

2017年には、河瀨直美監督による同名の映画『光』も公開されていました。

こちらは、視覚障がい者のための“映画の音声ガイド”に従事している女性と、弱視のカメラマンとのラブストーリーが紡がれています。水崎綾女は仕事に悩む繊細でかわいらしい女性を好演しており、“社会復帰できなくなるほど”に自分を追い込んで役作りしたという永瀬正敏の演技は細かい動作に至るまで“ずっと視覚障がい者であった中年男性”にしか見えません。役者の魅力をこれ以上なく堪能できる逸品と言えるでしょう。

完全な偶然ではありますが、大森立嗣監督と河瀬直美監督のそれぞれの『光』は映像における“逆光”の使い方も似ています。映像表現がほぼ同じなのに、“光”そのものが意味しているものはまったく異なる、という意味でも、両者を見比べてみると面白いでしょう。

河瀨直美監督の『光』では「視覚障がい者はどのように映画を楽しんでいるのか?」ということはもちろん、「映画にどのような感動や面白さを望んでいるのか?」という、普遍的な映画という芸術の根本に迫るような問いかけもなされています。そこには、目から鱗が落ちるかのような、新たな気付きがありました。映画を愛する全ての人に観て欲しいです。

河瀨直美監督『光』は、12月6日にBlu-rayとDVDが発売されます。

おまけその2:大森立嗣監督の入門には『セトウツミ』がおすすめだ!

初めに掲げた通り、大森立嗣監督の『光』は一筋縄ではいかない、万人向きではあるとはお世辞にも言えない内容です。大森立嗣監督は秋葉原無差別殺傷事件をモチーフとした『ぼっちゃん』という極めてショッキングな内容の映画も手がけていましたし、わかりやすいエンタメよりも、もともと“尖った”作風こそで真価を発揮する作家なのでしょう。

そんな大森監督の“入門”としておすすめしたいのが、同名の人気マンガを原作とした『セトウツミ』です。“ずっと2人の男子高校生がしゃべるだけ”というながら、その掛け合いはゲラゲラと笑うことができ、不思議と映画としても豊かな作品に仕上がっていました。池松壮亮のボケのおかしさと、菅田将暉のツッコミスキルがプロの芸人顔負けであることは、以下の動画でもわかるでしょう。

しかも、『セトウツミ』の上映時間はたったの75分! 大森監督は役者の演技を長回しで撮ることが多く、それこそが魅力である一方、間延びしてしまうことも少なくないと思っていたのですが、こちらではまったく気にならない、それどころか「もっとこいつらの掛け合いを見せてくれ!」と願いたくなりました。この“短い時間で存分に楽しめる”ということも大きな魅力ですね。

現在、『セトウツミ』は高杉真宙と葉山奨之主演のドラマ版も放送されています。映画とドラマそれぞれで、監督や役者の個性をしっかりと感じてみる、というのもまた一興ですよ。

■このライターの記事をもっと読みたい方は、こちら

(文:ヒナタカ)