『ナラタージュ』徹底解説!劇中の映画の意味は?小説からの改変で強まったテーマとは?

映画コラム
ナラタージュ メイン

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

現在、有村架純と松本潤がW主演を務めた話題作『ナラタージュ』が公開中です。『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『パレード』などの行定勲監督ならではの美しい映像と、役者たちの魅力を2時間20分というたっぷりの上映時間で堪能できる、映画ならではの面白さに満ちた素晴らしい作品でした。

ここでは、本作の特徴がどういったどこにあるのか、また原作小説からどのように変わったのか、劇中に登場した映画作品にどういった意味があるのか、などについて、詳しく解説してみます。

※以下は大きなネタバレはありませんが、小説版との違いについては記述しています。後半の展開に関わる伏線についても軽く触れているので、予備知識なく観たい方はお気をつけください。

1:「暗く苦しいラブストーリーが苦手」という人にこそ観て欲しい

予告編やポスターで、皆さんはどういったイメージを持つでしょうか。暗く苦しい恋が描かれており、そこには楽しい雰囲気はまるでないのではないか、と思う方もいるでしょう。

予告編

その印象は間違っていません。ヒロインは教師への叶わない恋心を募らせていますし、教師のほうも辛い現実の問題を抱えています。しかも、その悩みの根源は“過去”の出来事であるのに、彼らはそれを捨て去って気軽に生きることができていません。全編において、恋愛や人間関係における“どうしようもなさ”を「これでもか!」と見せつけていると言っても過言ではないでしょう。

ただ、個人的にこの『ナラタージュ』は、そうしたドロドロとした恋愛劇を理解できない、または苦手だ、と思っている方にこそ観て欲しいです。

その理由の1つは、序盤において、演劇部の部員の中に楽しそうなカップルが登場していること。彼女のほうが彼氏に「1年の時に好きだって言っていたのは、この子のことでしょ!」と詰め寄るシーンは、ほとんどコメディでした。

これは物語上、特に必要のないやり取りですが、過去を忘れられずにいる主人公とヒロインとの対比になっています。全編において“あの時のことを自分だけで悩んでいて、現状を変えることができない”という関係を描いているからこそ、この“恋愛相手の過去を冗談めかして言ってしまえる”カップルのやり取りが、「こんな気軽な感じで良いのにな」という提言、または観客の心情を代弁しているようにも見えるのです。

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

そして、本作では映画ならではの技法も用いながら、“どうしようもなかった”恋愛の問題を、これ以上ないほどの説得力で描いていきます。「他に好きな人がいたり、自分のことを絶対に好きにならない人のことを、諦められない理由がわからないな」と思っている人ほど、その価値観が揺らいでしまうほどの強烈な問題や、想いが、そこにはありました。

ちなみに、行定勲監督は「少女マンガの映画化作品が増えすぎていて(それらの作品を否定するわけではないが)飽和状態になっている。だからでこそ、新しい恋愛映画を作りたい」という志をもって、本作の企画を売り込んだのだそうです。

悩みに悩む主人公とヒロインの想いを丹念に描いている、という内容は大人向けの恋愛映画では決して珍しくはありません。しかし、主演に松本潤と有本架純というスターを招き、若い観客にもアピールした日本映画において、ここまでの辛い恋愛を、登場人物の心情を深く鋭く描いた作品は、なかなか類を見ないのではないでしょうか。

実際に映画を観てみると、少女マンガのようにキラキラしているのだけが恋愛映画ではない、こうした“辛い内容に観客それぞれの気持ちを溶け込ませる”作品の良さも知ってほしい、というスタッフや役者たちの熱意を大いに感じました。だからでこそ、“暗く苦しいラブストーリー”を今まで避けてきた、という人こそ、本作を観て欲しいのです。

ナラタージュ 有村架純 ネタバレなし

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

2:“靴”の意味、坂口健太郎の“一方通行”の行動にも注目!

映画と原作小説の違いは多々ありますが、もっとも上手いアレンジが加えられているのは、“靴”というアイテムではないでしょうか。

坂口健太郎演じる青年は、小説では理系の学生で、将来は生物の教師になりそうなことが示されていました。一方、映画では靴職人を目指しているという設定に変えられています。

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

有村架純演じるヒロインが、彼の作った靴をいつ履いて、また脱ぐのか……そのタイミングと、その行動に込められた意味を想像すると、彼女の複雑な感情が読み取れるはずです。

この靴は“恋愛”そのものを象徴していると言っていいでしょう。行定勲監督も、「気に入った靴を履き続けるということが、“結婚”にあたるんです」と、その意味するところを語っていました。(小説でも、映画とは違う形でこの靴というアイテムが登場しています)

さらに、映画ならではの技法で、坂口健太郎演じる青年の“一方通行の行動”が、より際立つようになっています。たとえば、買い物の帰りに“ビニール袋を一緒に持つ”という行動は、後半でどのように変わったのか?また、彼の部屋での“食事”はどうなったのか?そこに注目すると、彼がどのような人間であるかが、よりわかるでしょう。

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

この良く言えば素直で人間らしい、悪く言えば直情的で独善的な性格の青年を、坂口健太郎は普段の優しそうなイメージを覆す……いや、それを逆手に取ったかのようなギャップのある役を見事に演じています。詳しくはネタバレになるので書けないのですが、小説からあった“あの電話口でのセリフ”には背筋が凍りました。原作小説の作者である島本理生が「ほぼ100点満点!」と、その演技を絶賛したのも大納得です。

憂いを帯びていて良い意味で感情が読みづらい松本潤、ただただ哀しい現実に振り回されてしまう有本架純を期待する方はもちろん、“ちょっと怖い坂口健太郎”が観たい人にも、本作をおすすめします。

3:“天気”でわかる感情の変化とは?

作中の“天気”に注目してみると、さらに作品を奥深く読み込めるでしょう。

たとえば、映画において“雨”は登場人物の涙や、哀しい感情を表していることが良くあり、本作においてもそれは同様。時には雨ではなく“シャワー(水)”という形でも表れていました。

ナラタージュ 有村架純 傘

(C)2017「ナラタージュ」製作委員会

また、“曇天”がはっきりと映されているシーンもあり、それは登場人物の“はっきりしない”気持ちが表れているのではないでしょうか。

原作小説でも、坂口健太郎が演じていた青年が、“ある出来事が起こった時、天気によってどのような気分になるか”ということを語っていました。映画でもその天気に沿った感情の変化を示していた、と言っていいでしょう。

そういえば、劇中ではほぼ快晴と言える、青空が広がっていたシーンもあったかも……そこでのヒロインの心情は“吹っ切れた”ものだったのかもしれません。

4:小説から省略されたからでこそ、浮き彫りになったこととは?

映画では教師(松本潤)、ヒロイン(有村架純)、彼らの関係に割って入るかのような青年(坂口健太郎)、という3者の関係に焦点を絞っており、小説にあった演劇部の部員たちの描写が最小限に抑えられています。

[ナラタージュ原作

これは原作ファンには賛否がありそうですが、個人的には、結果的に良い改変になっていると思いました。その理由の1つは、部員たちの描写が少なくなったことで、むしろ“自分の問題ばかりに気を取られてしまっている”、“大切な人が抱えている問題に気づけなかった”ということが、より浮き彫りになっている、と感じたからです。

小説では演劇部の部員の、ある行動への伏線がたっぷりと書かれているのですが、映画では下手をすれば「忘れてしまう」ほどに“気づきにくい”ものになっています。この映画での描写の省略は、むしろ登場人物それぞれの“後悔”や“これからの行動の理由”に説得力を増しているのではないでしょうか。

もちろん、2時間弱でまとめなければならない映画の脚本において、小説のそれらの描写が収まらなかった、という事情もあったのでしょう。そうして省略したことが、むしろ“過去ばかりに囚われていて、今の問題に気づけなかった”という作品の根幹に関わる問題とテーマを強調している部分もあるので、無闇に否定しなくてもよい、と思うのです。

また、映画だけでは納得できなかった、もっと詳細に知りたかった、という方は、ぜひ小説版を読んでみることをおすすめします。小説ではとある“手紙”の内容が克明に記されており、より鮮烈な印象を残すでしょう。映画にはなかった哲学的な思想もたっぷりと込められているので、さらに作品を深く理解できるはずです。

–{劇中の映画の意味を解説!}–

5:劇中の映画の意味はこれだ!

タイトルである『ナラタージュ』は語りや回想で過去を再現する手法”という意味の映画用語です。これは“ヒロインが過去を回想する”という本作の構成そのものを意味しており、同時に映画という芸術そのものにリスペクトを捧げているからでこそ、付けられたタイトルなのでしょう。

ここからは、劇中に登場した映画について、それらがどのような内容であったか、また本作とどのようの関連があったかを解説します。

1:『エル・スール』

少女と父親との関係を叙情的に描いた作品で、『ミツバチのささやき』で知られるビクトル・エリセの数少ない監督作品の1つです。

『ナラタージュ』と共通しているのは、まさにナラタージュ(回想形式)で描かれていることと、過去の秘密を主人公が“共有してしまう”ことでしょう。『エル・スール』のヒロインは父の過去を知ったことで「共犯者になってしまった」と、罪悪感を持ってしまいます。その過去とどう向き合うか、これからどうするか、という葛藤や行動に焦点が当たっており、それも『ナラタージュ』と一致していました。

『ナラタージュ』の原作小説においては、「あの監督の静けさに触れたときだけは、日常の雑事や悩みが遠ざかって違う場所へ運ばれていく」と、教師が『エル・スール』が好きな理由を語っていた記述もありました。ヒロインのナレーションや、ごく限られた時にだけ響く音楽などにも、両者は似た雰囲気を感じられるでしょう。

また、『エル・スール』は絵画のように美しい“夜明け”から物語が始まります。『ナラタージュ』においても、この作品を意識したのではないか、と思しき夜明けのシーンがありました。そのシーンがどこか、ということは秘密にしておきます。

ちなみに、『エル・スール』は、主演の女の子がものすごくカワイイ!美少女をただただ眺めたい、という方にもおすすめします。

2:『浮雲』

成瀬巳喜男監督の代表作として知られている作品で、身も蓋もない言い方をすれば、“口ではなんだかんだと文句を言いつつ、くっついたり離れたりする男女の恋愛”を描いた作品です。

男はハッキリ言ってダメダメな人間なのに、そんな男からどうしても離れられない……この恋愛は“共依存”と呼ばれる状態です。時中・後の混乱期であったことも、この共依存に陥ってしまう大きな理由でしょうが、現代でも十分に起こり得る関係と言っていいでしょう。

その共依存の関係と、ナラタージュ(回想形式)、ある価値観を絶対に正しいとはせず、恋愛模様に色々な感情を見つけ出す面白さがあることなどが、『ナラタージュ』と『浮雲』は共通していました。『ナラタージュ』の劇中、『浮雲』の映像とともに登場する「私たちって、行くところがないみたいね」のほか、「昔のことが、あなたと私にとって重要なのよ」というセリフも、『ナラタージュ』の登場人物たちの心情と一致しています。

なお、行定勲監督は『浮雲』を「男女間の情緒みたいなものをきっちり捉えていて、そういうものに憧れる」などと、お気に入りの作品として語っている一方で、「若いころは傑作と呼ばれる理由がわからなかったが、大人になるとより分かるようになった」とも口にしていました。わかりやすい娯楽ではないからでこそ、年齢を重ね、人生経験を経て、真にその面白さがわかる、というのも『浮雲』の魅力と言えるかもしれません。

3:『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

我が子を思う母親がどんどん視力を失っていってしまうという物語で、“観た後に落ち込む映画”や“賛否両論の映画”の代表格として知られています。

『ナラタージュ』の劇中において、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、“松本潤演じる教師は好きじゃないと言っていたが、妻がソフトを持っていた”という形で登場します。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で描かれるのは救いのない物語ではありますが、だからでこそ、筆者は“暗い気持ちを映画の中に溶け込ませることができる”稀有な作品であると考えています。おそらく、教師は妻があのような状態になってしまったからでこそ、その気持ちを知りたいと思ったからでこそ、ソフトを捨てずに置いたままにしていたのではないでしょうか。

この他、『ナラタージュ』の劇中では、フランソワ・トリュフォー監督の『隣の女』などが登場する他、小説版では『真夜中のカーボーイ』や『アンダーグラウンド』も引用されています。それらの映画を観ておくと、さらにさらに、物語に奥行きを感じられるでしょう。

おまけ:主題歌を歌ったアーティスト“adieu”とは?

本作の主題歌を歌っているのは“adieu”。都内高校に通う17歳の女子高生であること、今回の映画の企画を10年間温めてきた行定勲監督が製作陣とともに“時を止める歌声”をコンセプトに探し求め辿り着いたこと、今回の作詞・作曲を野田洋次郎が手掛けていること以外は、ほとんど情報が公開されていません。

気になるのは、そのアーティスト名。フランス語でadieuは“さようなら”を意味しており、特にそれは“長いお別れ”や“最期のお別れ”の時に使われるそうです。

なぜ、日常的に使われる軽い意味の“au revoir”ではなく、adieuなのか……それは、『ナラタージュ』の本編の物語において、ヒロインと教師が“二度と会うことがない”ことを示唆しているのではないでしょうか。(しかも、“ナラタージュ”も元々はフランス語です)

その歌詞も、希望がありつつも、少し寂しさも感じさせる、まさに“別れ”の曲にふさわしいものになっていました。ぜひ、映画を観終わった後に、深く聴き入ってほしいです。

(文:ヒナタカ)