『メアリと魔女の花』はなぜ賛否両論なのか?監督の歩みから、その面白さを読み解く

映画コラム

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

現在公開中の長編アニメーション映画『メアリと魔女の花』は、『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』の米林宏昌監督最新作。スタジオジブリの制作部門の解体後、新しく設立されたスタジオポノックの第1回の作品として、大きな期待を寄せられていた作品なのですが……公開から1週間が経過した現在、その評価はやや賛否両論となっています。

「直球のファンタジーだった」「昔のジブリらしい作風が戻ってきて嬉しかった」というアニメとしての楽しさを推す好意的な意見がある一方で、「今までのジブリ作品のつぎはぎ」「鑑賞後に何の感情も湧かなかった」など、オリジナリティーのなさや、物語としての高揚感がない、という手厳しい意見も耳にします。

なぜ賛否両論となっているのか、本作が目指しているものとは何だったのか……その制作の経緯を振り返りながら、以下にまとめてみます。

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1:“静”の『思い出のマーニー』から“動”の『メアリと魔女の花』へ

米林監督は、前作『思い出のマーニー』が登場人物の心情の変化を細やかに描いた“文学的”な作品であったことから、次回作は喜怒哀楽が表情に存分に表れた、躍動的に走り回るような“たくさん動かす”作品にしたかったと語っていました。(米林監督には『思い出のマーニー』が小さい子にはちょっと難しかったかもしれない、という反省もあったのだとか)

『思い出のマーニー』(C)2014 GNDHDDTK

つまり、『メアリと魔女の花』が一昔前のジブリを思わせる“子どもにもわかりやすい直球のファンタジー”になったのは、米林監督の「前作とは真逆の作品を作りたい」という想いの表れであることが、理由の1つなのです。

2:米林監督が“ジブリらしさ”に回帰したのは“不安”のためだった?

前作『思い出のマーニー』は宮崎駿と高畑勲というスタジオジブリの重要人物が関わっていない作品でした。『借りぐらしのアリエッティ』の時は脚本に宮崎駿が参加していたため、米林監督は「宮崎さんならどうするだろう」とその存在をかなり意識していたそうなのですが、『思い出のマーニー』では“ジブリらしさ”はあえて考えず、純粋に観てくれる人が面白いと思ってくれるものを作ろうと心がけていたそうです。

そのため、『思い出のマーニー』はジブリらしさに囚われない、米林監督というクリエイターの“作家性”が存分に表れた作品になったと言って良いでしょう。その仕事を堂々と進めることができたのは、信頼するスタジオジブリの優秀なスタッフがいたおかげでもあるはずです。

『思い出のマーニー』(C)2014 GNDHDDTK

しかし、『思い出のマーニー』の完成後、スタジオジブリの制作部門は解体してしまいます。米林監督も「ジブリという恵まれた環境でしか作ったことのない自分が、まったくのゼロに戻り、そこから1本の映画を完成させることができるのだろうか」と、正直な不安を吐露していました。

そんな米林監督が、新しいスタジオで挑戦する第1回目の作品として、『メアリと魔女の花』というジブリ作品らしい直球のファンタジーに回帰したのは、スタジオジブリで20年間に渡って培った技術を“支え”にして、不安を解消したい、と考えたことも理由なのではないでしょうか。もちろん、米林監督はただ不安というだけでなく、スタジオジブリという制作現場はもちろん、師である宮崎駿と高畑勲、いままで作品をプロデュースしてくれた鈴木敏夫への感謝と敬意も、存分にあったようです。(本作のエンドロールで「感謝」を捧げている人物を見れば、それは一目瞭然でしょう)

ちなみに、“魔女”がテーマになったのは、西村義明プロデューサーの発案によるもので、米林監督は「『魔女の宅急便』と比べられちゃうから嫌だ」と初めは思っていたのだとか。しかし、結局は原作小説の面白さに魅了され、「いまの僕たちが新しく作品を作るなら、エンターテインメントとしての映画の原点に立ち返ろう」と決めたそうです。

つまり、『メアリと魔女の花』は、米林監督が“一からやり直した”作品でありながらも、スタジオジブリで培った技術を生かし、偉大な先人たちにもリスペクトを捧げたという、“経験”が存分に生かされている作品と言えるでしょう。

メアリと魔女の花 場面写真

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

3:良い意味で“主義や主張がない”クリエイターだからこそ、既存のジブリ作品に似ているという印象が強くなった?

実は、鈴木敏夫プロデューサーから「『借りぐらしのアリエッティ』の監督をやってみないか」と提案された米林監督は、その申し出を一度は断ったそうです。その理由は「そもそも監督というのは、人に伝えたい何かを持っていなければダメだと思っていました。そういう主義や主張は僕にはないので、できません」というものだったのだとか。

しかしながら、宮崎駿と鈴木敏夫は『借りぐらしのアリエッティ』の原作小説を米林監督に渡し、声を揃えて「そういうものはこの本の中にあるから大丈夫だ」と告げたのだとか。それを読み終わった米林監督は、あまり気負いはせず、“とりあえず”という感じで監督を引き受けることにしたそうです。

『借りぐらしのアリエッティ』(C)2010 Studio Ghibli GNDHDDTW

このエピソードからわかるのは、米林監督が良く言えば謙虚で、悪く言えば冒険心のない性格である、ということです。その性格は実際の作品作りにも表れていて、普通の新人監督であれば宮崎駿とは違うキャラクターを造形しようとして試行錯誤に陥ったり、気負って美術までも自分で決めたりするところを、米林監督は割り切って“宮崎駿らしい”キャラクターの絵を描いたり、宮崎駿が描いた家の設計図を受け取って参考にしたりと、現実主義的な一面を覗かせていたのだとか。

思えば、米林監督作品の『借りぐらしのアリエッティ』、『思い出のマーニー』、『メアリと魔女の花』は全てオリジナルではなく、イギリスの児童向け文学を原作としています。まとめると、米林監督は自分に作家としての主義や主張がない(なかった)ことを認めたうえで、名作と謳われているファンタジー小説を下敷きにして、師となる宮崎駿が作り上げたものを(誤解を恐れずに言うのであれば)自身の作品に取り入れることも厭わない、というクリエイターなのです。

『メアリと魔女の花』で既存のジブリ作品や宮崎駿監督作によく似たところが見受けられるのは、この米林監督のクリエイターとしての作品作りの姿勢も、理由にあるのではないでしょうか。

メアリと魔女の花 場面写真

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

もちろん、この米林監督の個性が悪いというわけではありません。監督としての“我”が強くないぶん、原作となる小説のエッセンスを十分に取り出しているように見受けられますし、何より今まで培ったアニメーターとしての技術や、先人たちへのリスペクトを疎かにはしていないのですから。この米林監督の資質は“誠実”であると考えたいのです。

※以降は『メアリと魔女の花』のごく軽めのネタバレに触れています。予備知識なく鑑賞したい方はご注意ください。

–{“魔法大学”はスタジオジブリのメタファーだった?}–

4:“強大な魔法”と“魔法大学”はスタジオジブリのメタファーだった?

西村義明プロデューサーは、『メアリと魔女の花』の原作小説の以下のセリフに魅了されたのだそうです。

「この扉を開けるのに魔法なんか使っちゃいけない。どんなに時間がかかっても、自分の力でいつもどおりに開けなきゃ」

映画での主人公のメアリも、この原作小説のセリフと同様に(初めは手に入れた強大な魔法の力でチヤホヤされて調子に乗るものの)終盤では魔法に頼らずに、自分の意思で歩もうとしています。

映画を観終わってみると、この“強大な魔法の力”、もしくは劇中の舞台となる“魔法大学”が、解体してしまったスタジオジブリそのものを指しているかのようにも思えてきます。自信がなくても新しいことにチャレンジし、やがて自分と仲間の力で前に進もうとするメアリの姿は、この『メアリと魔女の花』を作り上げた米林監督にも重なってくるようでした。

メアリと魔女の花 サブ5

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

『メアリと魔女の花』は、今までに挙げたような米林監督の略歴や個性を踏まえ、作品そのものを“米林監督のアニメーション作家としての挑戦”に重ねて観てみると、さらに面白くなると断言します。制作時の事情や、監督の人生が作品に反映することはままありますが、本作はそれがアニメ映画の中でも随一と言えるほどに表れている作品なのですから。

また、劇中のキャラクターを、ジブリに関わってきた有名人たちに置き換えて観てみるのも面白いかもしれません。具体的には、主人公のメアリを監督の米林宏昌、太った女性の校長を鈴木敏夫、奇妙な博士を宮崎駿、男の子のピーターをスタジオジブリのスタッフ(たち)、というように。

メアリと魔女の花 サブ6

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

『メアリと魔女の花』を制作したスタジオポノックには、ジブリ作品を支えてきた精鋭のスタッフたちも集まってくれたのだそうです。メアリがピーターを助けに行き、共に“元の場所に帰ろうとする”という展開には、米林監督が同じスタッフとまた作品作りができたという嬉しさが、そのまま表れたかのようでした。

まとめ

正直に申し上げて、『メアリと魔女の花』は物語における難点が多い作品ではあるとは思います。魔法大学へ行ったり来たりを繰り返している構成はやや単調ですし、あれだけたくさんいたはずの魔法大学の生徒たちが“いなかった”かのように扱われてしまう終盤には違和感を覚えますし、敵となる存在の恐ろしさも十分に描けているとは言い難いです。

(ただし、原作小説にないオープニングのスペクタクルで一気に観客を引きつける構成や、原作小説では終盤にしか登場しなかったピーターを序盤からメアリと衝突させたりなど、作劇上の工夫も存分にされてはいます)

メアリと魔女の花 場面写真

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

ただ、『メアリと魔女の花』は今まで語ってきたように、米林監督がジブリから離れ、信頼を置いていたスタッフも散り散りになり、これ以上のない不安の中で、やっとの思いでスタジオを設立して作り上げたという“労作”であり、そのことが劇中の物語とシンクロしているという独特の面白さもあるのです。ほうきで空を飛ぶときの疾走感、美しい背景の画など、アニメーションとしての楽しさももちろん健在ですので、映画館で観る価値も存分にあるはずです。

筆者は、米林監督およびスタジオポノックの次回作が、『メアリと魔女の花』のように今までのアニメーションの技術や先人たちへのリスペクトがありつつも、さらに監督の個性が発揮された、新しい魅力に満ちた作品が生まれることを期待しています。

メアリと魔女の花 サブ7

(C)2017「メアリと魔女の花」製作委員会

おまけ:テレビアニメ「リトルウィッチアカデミア」を観てみよう!

2017年、『メアリと魔女の花』と同様に“魔法学校で少女が成長していく”テレビアニメ「リトルウィッチアカデミア」が放送されていたことをご存知でしょうか。

2013年に若手アニメーター育成プロジェクトの“アニメミライ”の1作として劇場公開がされた後、クラウドファンディングによりその続編も劇場公開、テレビアニメ版もその人気を経て制作されたという、ファンの多い作品なのです。

「リトルウィッチアカデミア」は、キャラクターはかわいらしく、アニメとしてもよく動き、終盤に向けての盛り上がりを計算した伏線も盛りだくさんと、難しいことを考えなくても老若男女が分け隔てなく楽しめる、ハイクオリティーの作品に仕上がっていました。特筆すべきは、一連の作品群の物語が、アニメーションそのもののメタファーになっていることです。

例えば「リトルウィッチアカデミア」の劇場版第1作の物語は“アニメの新人育成を目的としたプロジェクト”というコンセプトに沿ったものになっていますし、劇場版2作目の主人公の性格は「クリエイターのワガママに周りが振り回されるという妄想が反映されている」と明言されていたりもします。テレビアニメ版の4話に至っては、アニメだけでなく全ての創作物を愛する人たちへの、エールが詰まっているような内容になっていました。

さらには、主人公の名前はアニメ「ひみつのアッコちゃん」の“加賀美あつ子”をもじったものですし、ウォルト・ディズニー・スタジオの伝説的なアニメーター“ナイン・オールドメン”がモデルと思しき用語が出てきたりもします。『メアリと魔女の花』以上に、魔法そのものがアニメのメタファーとして扱われていると言って良いでしょう。

「リトルウィッチアカデミア」は、NETFILIXで劇場版2作を含む、全ての回を観ることができます。ぜひ、『メアリと魔女の花』と合わせて観て、“アニメーションという魔法”に浸ってみてください。

(文:ヒナタカ)

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※参考文献