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細田守監督のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』。
本作は興行収入42.2億円の大ヒットを記録し、シッチェス・カタロニア映画祭にてアニメーション部門で最優秀長編作品賞に輝くなど、国内外からの評価も非常に高いものになっています。
しかし、その一方で本作は激烈なまでの否定的意見も多くなっています。なぜ本作が賛否両論を呼ぶのか、作品のテーマや作中のショッキングな描写も合わせてその理由を探り、またどのような解釈をすれば良いのかを解説してみます。
※なお、以下からは『おおかみこどもの雨と雪』の本編のネタバレが多分に含まれていますので、これからご覧になる方はご注意ください!
1:“彼”が狼の姿でベッドインした理由とは?
多くの人が拒否反応を覚えたであろうことは、“彼(おおかみおとこ)”が人間の姿ではなく、狼の姿になってから、裸になった主人公の花と抱き合うことでしょう。獣の姿の男と、人間の姿の女性がまぐわうというのは、絵面としてかなりショッキングです。
この描写に対して、ラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の2012年8月4日の放送にて、細田守監督は「“子育てもの”の根拠としてこれ(SEX)がある以上、彼らはそこまで踏み込んだ」、「それを言葉で表現してしまうといけない、言葉は信用ならないものであるから、行動でそれを示さなければならない」と回答していました。
本作は言うまでもなく、“子育てもの”であることが物語の主題です。子どもが生まれるにはSEXという行為がなければならない。そこを言葉で語るのではなく、明確な描写として提示し、省略すべきではない、と監督は主張しているのです。
重要なことは、この後に花がおおかみこどもの2人を育てるうえで、“(この言葉は語弊がありますが)普通”の子育てよりも、はるかに沢山の困難に直面していくことです。監督の言うように、狼の姿でSEXをしたことには、「子育ての苦労を2人で乗り越えたい」、「生まれてくるのがおおかみこどもで、普通よりも苦労するとしても、やっぱり2人の子どもが欲しい」という明確な意思を感じるのです。
また監督は同ラジオにて、「SEXの意味は好き同士が行うというだけではない」、「その前には“付き合う”などの段階がある。人を受け入れるとか、心を開くとか、そういうものがないと、関係が進まない」とも語っていました。
事実、SEXをする前の“彼”は、花に対して「(大学の講義に出るのが)目障りだったら、もう来ない」と言っていたり、花を店の前でずっと待たせてしまうなど、積極的にコミュニケーションを取ろうとはしていませんでした。そもそも、「付き合う」といった恋人として当たり前の宣言さえも2人はしていません。2人がもっと親密になるために、初めに“乗り越えた”のがSEXという行為なのです。
つまりは、2人にとってSEXそのものは、“2人が関係性を築くための大きな一歩”であり、それを狼の姿でしたのは“(人間と狼の両方を受け継いだ)おおかみこどもの子育てをする覚悟”ができた、ということを示しているのでしょう。
–{細田監督の“理想の姿”が表れていた}–
2:細田監督の“理想の姿”が表れていた
実は本作のアニメの製作現場では、前述のSEXの描写を省略したほうがいいのではないか、という声も挙がっていたのだそうです。それでも細田守監督が意思を曲げなかったのは、自身が作家として譲れない“こだわり”があったことが理由にほかなりません。
例えば、書籍「アニメスタイル001」にて細田監督は「いつも着想の根本にあるのは、その時に自分自身が抱えている人生の問題であったり、誰かに相談したりできないプライベートな問題なわけです。だから余計に、普遍的なものにしたいと思うのかもしれないけどね。自分個人の問題意識をそのまま映画にするんじゃなくて、自分がつまずいているところから飛び越えた地点にある理想みたいなものを見てみたい」と語っています。
そのほか、「アニメージュ オリジナルvol.4」では、「映画とは人生を描いた作品のことだと思うんです。人生をある角度から切り取って、ある種の価値観を表現することが、映画の命題だと考えています」とも話しています。
つまり、細田監督は自身の作品について“自分の人生経験を踏まえた理想を描きたい”、“何かの価値観を提示したい”と考えており、それでいて自分の問題意識をそのまま映画にはしない、と言っているのです。
本作『おおかみこどもの雨と雪』の主人公の花の“母親”としての姿も、細田監督のある種の理想とも言えるでしょう。しかし、この母親像こそが“あまりに身勝手である”や“母親を天使のような存在として描きすぎている”など批判を生む原因にもなっていました。
しかし、個人的には、この主人公が監督の“理想”であったとしても、冷静な視点からの“愚かさ”も描かれていたので、決してそれは作り手の価値観を押し付けるものではない、一概に否定するものではない、と感じました。次の項では、作中で提示された、その根拠を紹介してみます。
–{作中で描かれた主人公の“愚かさ”、そしてそれに対する“批判”とは}–
3:作中で描かれた主人公の“愚かさ”、そしてそれに対する“批判”とは
“彼”をなくした後の花は、はっきり言って周囲に対して“排他的”でいます。出産は病院に行かずに自分自身で行い、公園では母親たちの会話に加わらない、子育てに関する勉強は独学、あまつさえ定期検診や予防接種を受けようともせず、田舎へと移り住んでしまいます。
おおかみこどもであることを公にしたくないからといって、これは子どもを社会から断絶する行為に他なりません。それでいて花は自分がこどもを守らないといけないという使命感からか、それを“正しいこと”のように続けている……これに拒否反応を覚える方がいるのも無理からぬことでしょう。
その後の田舎暮らしでも、花は“あいさつされてもすぐに立ち去ってしまう”ほどに周囲の人たちコミュニケーションが取れていませんでした。さらに、いくら独学で勉強しても作物を枯れさせてしまい、雪を「私たち、これからどうなるの?」と心配させてしまっていました。
しかし、強面のおじいちゃんの韮崎(にらさき)さんから畑の耕し方を教えられてからは、その生活は一変します。畑を多めに耕したことにより物々交換ができるようになり、(韮崎さんからの働きかけもあり)花は多くの人と“助け合う”という関係が築かれるようになりました。
また、花が「林の中の枯葉を拾ってもいいですか?」と聞くと「そんなことを聞くやつはいないよ!」と、「種イモは土に植えるものですか?」と聞くと「それ以外にどんな使い道があるっていうんだい?」と返されるシーンもありました。花は独学ではわかりようがない“常識”を身につけていっているのです。
それでいて、作中では“誰かの意見が絶対に正しいということはない”ということまで提示されています。
たとえば、花に一緒に植える野菜や水のやり方について「これはこうだ!」「いいや違う!お前には任せておけん!」などと言い合いながら教えていた2人のおじさんがいましたね。あれだけ花の助けになってくれた韮崎さんでさえも、雨が学校に行かないことに「小学校から学校に行かないやつは見込みがある。わしやエジソンのようにな」と言って、その娘に「また適当なことを言って」と返されています。
こうして様々な意見や、それに対する批判があることで“何か1つだけの価値観を持っていることの危険性”がわかるようになっているんですね。
花はそうした田舎暮らしを振り返り、「人目を避けるために田舎に来たけど、今では里のみんなにお世話になっている」としみじみと口にしました。言うまでもなく人は1人では生きていけないですし、母親も周囲の助けを借りなければ子育てをすることなどできないでしょう。
こうしてみると、花がしていた“排他的”な子育てが間違っているものであると、しっかり作中で批判がされていた、と感じるのです。
–{花の“本当の笑顔”とは}–
4:花の“本当の笑顔”とは
もう1つ、作中で明確に批判されていることがありました。それは花が亡くなった父から“辛いときにでも、無理やりにでも笑顔でいろ”と教えられたことです。
花はその父の葬式の時にまで笑顔になっていたので、親戚から「不謹慎だ」と批判を浴びていましたが、“彼”からは「不謹慎じゃない」と肯定をされていました。この“辛い時でも笑顔でいること”そのもの、それを肯定してしまうことにも、拒否反応を覚えた方が多いでしょう。
ところが、田舎暮らしを始めて「ここは自然がいっぱいでいいところですね」などと笑顔であいさつをしていた花は、韮崎さんに「何が自然だ、木を植えて育つわけじゃない。なぜ笑うんだ、笑っていたら何もできんぞ」と、その態度を一刀両断されていました。そして花は「お母さんが何も知らないのがいけないの。お父さんにいろいろ聞いておけばよかった」と反省をしているのです。
この後に花は必死で畑を耕し、周囲の人と交流をするようになって……“辛い時の愛想笑い”ではなく、心から笑えるようになっていきます。たとえば、再び出会った韮崎さんの前で笑ったのは、こっそり花の面倒を見てやるように声をかけていたという韮崎さんのツンデレっぷりのためですものね。
さらに、雪と雨がおおかみの姿で雪山をかけまわった後、花は2人を抱き、大きく口を開けて笑いました。高く積もった雪は、田舎の人が“大変”と言っていたことの1つであったのに、それでさえも3人は楽しいこととして、心から笑うことができた。これまで辛い時でも無理やり笑顔でいた花が、2人の子どもと一緒に笑顔になるこのシーンの、なんと感動的なことでしょうか!
また、田舎の人たちは「すぐにコンビニがない、カラオケがないって言うぞ」、「すぐに根をあげて出て行くさ」などと、花のことを軽んじたもの言いをしていましたが、彼女はその場所での暮らしを諦めることはありませんでした。
花は確かに排他的なところがあった、なんでも1人で背負い込んでいた愚かしいところもあった。だけど、そんな彼女はこどものために決して諦めないという強い心を初めから持っていて、周りと交流することで“自身の間違った価値観”をも正していった……これこそが、細田監督の描きたかった“理想”なのではないでしょうか。
–{ “言葉にせずに訴えていること”とは}–
5:言葉にせずに訴えていることとは?
本作では“描写や説明が不足している”という批判の声も耳にします。ただ、あえて言葉での説明ではなく、映画としての演出や、ちらっと映る“物”で重要なことを訴えているところがあり、決してそうではないとも思うのです。
例えば花が、子どものころの自分と父との写真の横に、“彼”の生まれ故郷の雪景色の写真を置いてあげるというシーンがあります。これは花自身と彼を同列に見立てて、「あなたは1人じゃない」という訴えのようでした。
この花と“彼”の関係は、娘の雪と草平くん(雪が傷つけてしまった男の子)とも似ています。草平くんは母親の結婚と妊娠のために、“自分はいらない”という疎外感を感じている、だけど彼は辛くても無理やりに笑っている。そんな彼に対して雪は自分の正体を打ち明けて「本当のことを言っても笑っていられるようになりたい」と口にする……。草平くんは“彼”と同じ“一匹狼”でありたい(でもそうはならない)、雪は花と同じ“笑っていたい”という意思を引き継いでいるのです。
また、本作は非常に“引き”の画が多くなっており、これが“都会の片隅にポツンといる”という登場人物の“実在感”を高めているとも取れます。その引きの画で、都会に“引っ越してきた騒がしい家族”がいたことや、“彼”が“転んだこどもを立たせてあげた”ことなどで、主人公2人の心理を描くことにも成功しています。
そのほかにも、主人公2人の心理を表している物があります。それは、“ビンにささった花”が、以下のようにどんどん変化していっていることです。
・花が妊娠した時:3つのビンに花がささっている(“彼”は仕事中にタンポポをつんでいた)
・出産の直前:花のささったビンが4つに増えている
・“彼”がいなくなった時:4つのビンから花がなくなる
・“彼”の死を確認した後:1つのビンにだけ白い花がささっている
・草平くんが田舎の家にやってきたとき:1つのビンにだけ紫陽花がささっている
このビンにささった花は、主人公の花の“希望”とも取れます。妊娠や出産のときには花が増えて希望が溢れている。“彼”の死を認識する前にはその希望はなくなってしまう。“彼”の死を確認した後は“なんとかこども2人を育てよう”というか細い希望が“1つのビンにささった花”で表現されている、と考えられるのです。
さらに、雨は絵本の中で狼が悪者として描かれていたことを悲しんでいましたが、ラストでは「友達は海のにおい」「友達は緑のにおい」という、どちらも“生き物どうしの友情”が描かれた、実在する児童書(工藤直子著、理論社)が登場していました。この本の内容を知っていると、雨は自然の中で狼だからと嫌われるなんてことはなく、周囲の動物たちと友情を育める希望を持てるようになっています。
–{雨は“自然を味方に”していた}–
6:雨は“自然を味方に”していた
赤ちゃんの時からおてんばだった雪は、小学校でヘビを素手で捕まえて驚かれたりしたことをきっかけに“周囲の子どもと合わせる”必要性がわかり、そして“人間”として生きることを選択していきます。母親の花と同じように……。
一方で、雨は自然の中で狼として暮らすことを決断しました。秀逸なのは、母親である花が、雨に“追いつけない”という描写があることです。雨が川に落ちて溺れそうになった時、花は(さっきまで雪の上で笑っていたのに)積もった雪に足をとられてなかなか辿りつけませんでした。終盤に、花は嵐の中で雨を追いかけても道から外れて落下して、気絶をしてしまいました。
花は、狼の姿のまま去ろうとしている雨に「私、まだなにもしてあげていない」と言いますが、すぐに「元気で、しっかり生きて」と旅立ちを肯定できるようになっていました。
この“突然の旅立ちの肯定”も、いきなり育児を放棄しているようだ、と否定的な意見を呼ぶ理由でもありました。ただ、筆者は「なにもしてあげていない」というほどに花が母親としての責任感を感じていたということ、花がここで“自身の汚れた手”を見つめていたこと、そしてナレーションの「一夜にして世界が生まれ変わったようだった」という言葉で、存分に納得することができました。
花は“人間の母親でならなければならない”という価値観にも囚われていたのでしょう。最終的に雨が自然の中に旅立っていったのは、花がその前に雨に言っていた「お母さんは狼が好きよ。世界中が狼を嫌っても、お母さんだけは狼の味方」という言葉を覆すものだったのではないでしょうか。
なぜなら、雨は自然の中で“先生”と呼ぶキツネを見つけ、雄大な自然の先で湖を見つける喜びを知り、花がどれだけ追いかけて“汚れた手”になろうとも、追いつけない存在になった……つまり、花の言う「世界中が狼を嫌っても、お母さんだけは狼の味方」なんてことはなく、世界(自然)は狼(息子の雨)の味方であってくれたのです。それがわかったからこそ、花は「元気で、しっかり生きて」と言うことができたのでしょう。
–{冒頭とラストで提示される“おとぎ話”の意味とは?}–
7:冒頭とラストで提示される“おとぎ話”の意味とは?
この物語は、雪の「おとぎ話だって笑われるかもしれません」というナレーションから始まりました。
そして、「母は私たちの12年間は、おとぎ話のように一瞬だったと笑いました。満足げに、遥か遠くの峰をみるように」というナレーション、“雨の(ものと思しき)遠吠え”を聞いた花の心からの笑顔で終わりを迎えました。
物語と初めと終わりで、“おとぎ話”という言葉が一致しているのは、これが“寓話(たとえにより教訓を与える物語)”の側面が強い物語だからなのではないでしょうか。
この物語の主人公の花は、前述したように排他的な子育てをしていたが、その間違いを正していった。初めから何にも諦めない強い心持っていた。自分の思ったのとは違う道を生きる息子のことも肯定できた。
本作は“おとぎ話”でありますが、こうして考えてみると、実は普遍的な、我々の世界にある子育てにも当てはまることも描いています。
本作にある、そうした寓話的な“理想”や“価値観”に迎合できないと、どうしても批判的になってしまうのでしょう。
しかし、そのように否定したいという気持ちを持った場合であっても、その価値観は大切にしてほしいです。
なぜなら、細田守監督は前述したように、ある種の価値観を表現することが映画の命題だと思っている一方で、自分個人の問題意識をそのまま映画にするのではない、という信条で作品を作っているからです。
本作は、監督の理想の母親像を提示しているものの、問題意識や価値観を“押し付ける”ことは目的としていません。この映画で「それは違う」、「こうするべきだ」と観客それぞれが子育てや母親像の是非を考えられること、それも『おおかみこどもの雨と雪』という作品が持つ魅力であり、監督が掲げた映画の命題を果たしているとも取れるのですから。
–{『バケモノの子』で細田守監督の意識は変化した?}–
おまけその1:『バケモノの子』で細田守監督の意識は変化した?
細田守監督は、続く2015年のアニメ映画『バケモノの子』を生まれたきっかけについて「僕に息子が生まれたこと」であると語っています。『おおかみこどもの雨と雪』の着想も「身近な夫婦の母親がカッコよく見えたから、その憧れを映画にしたいという感じ」と語っているので、やはり監督の自身の経験からくる“憧れ(理想)”が、作品にとりかかる大きな原動力になっていることがわかります。
そして、『バケモノの子』について、監督は「子どもというのは親が育てているようでいて、実はあまりそうではなく、もっと沢山の人に育てられているのではないかなという気がするのです」と語っています。作中では、確かにこどもの接し方がダメダメな親の熊徹だけでなく、彼らの悪友が子育てに関わっっていたので、“こどもは沢山の人に育てられている”という実感を持つことができるようになっていましたね。
こうして細田守監督の周囲の変化が、作品に投影されているというのも面白いところです。『おおかみこどもの雨と雪』が“理想の母親”を描いた作品であれば、『バケモノの子』は“こどもが沢山の人に育てられている理想の世界”を提示しているとも取れます。そんな監督の作品作りの姿勢が、筆者は大好きなんです。
–{おまけその2:『ラ・ラ・ランド』と似ている?}–
おまけその2:『ラ・ラ・ランド』と似ている?
余談中の余談ですがもう1つ、本作『おおかみこどもの雨と雪』の賛否両論ぶりは、ある意味では現在公開中の『ラ・ラ・ランド』にも似ているのではないでしょうか。
『ラ・ラ・ランド』の2人は夢に対して確固たる信念を持っているものの、明らかに勤務態度が悪かったり、自分が好きではないものを露骨に態度に出して嫌っていたりと、“排他的”なところがありました。しかも、“主人公2人だけの価値観”が(少なくとも序盤は)クローズアップしていることも、『おおかみこどもの雨と雪』とも似ています。
どちらも、“自分の価値観を知って欲しい!”という気概に溢れており、かつ“作家性がにじみ出ている”作品です。それもまた、賛否両論を呼ぶ理由なのでしょう。
しかし、そうした作家性が強い作品には、決まり切ったテンプレートで作られたような娯楽作にはない、“独自性”を感じます。そうした作品こそ歴史に残る名作となり、そして作品と価値観が一致した人にとっての“大切な映画”になるのでしょう。
(文:ヒナタカ)
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–{『おおかみこどもの雨と雪』作品情報}–
ストーリー
花(宮﨑あおい)は、両親を亡くし、アルバイトをしながら大学に通っている大学生。ある日、大学に授業を受けに来ていた青年(大沢たかお)と運命的に恋に落ちるが、彼はニホンオオカミの末裔の“おおかみおとこ”だった。秘密を含めて彼のことを受け止めた花はやがて恋に落ちる。2人の生活が始まって程なくして長女の雪(大野百花/黒木華)が誕生。つつましくも幸せな生活が続くかと思われたが、弟の雨(加部亜門/西井幸人)が生まれた直後、彼が命を落としてしまう。
感情が高ぶるとおおかみになってしまう“おおかみこども”の育児に一生懸命に挑む花。しかし、都会での子育てに限界を感じ、人里離れた山奥への引っ越しを決意する。 ボロボロの古民家を自力で修繕した花は、節約のために家の前の畑で野菜を作ろうとするが、野菜は思うように育たない。途方に暮れていた花に手を差し伸べたのは、近所に住む老人・韮崎(菅原文太)。厳しいながらも、農業の基本を根気強く教えてくれた韮崎のお陰で、花の畑にも豊かな実りが。花の周囲にも次第に近所の人たちが集まり始め…
キャスト/スタッフ
キャスト
<花> 宮﨑あおい
<彼(おおかみおとこ)> 大沢たかお
<雪> 黒木華(少女期) 大野百花(幼年期)
<雨> 西井幸人(少年期) 加部亜門(幼年期)
<韮崎> 菅原文太
<草平> 平岡拓真
<草平の母> 林原めぐみ
<田辺先生> 染谷将太
<土肥の奥さん> 谷村美月
<堀田の奥さん> 麻生久美子
<韮崎のおばさん> 片岡富枝
<細川> 中村正
<山岡> 大木民夫
<ラジオ・アナウンサー> 桝 太一
スタッフ
<監督・脚本・原作> 細田守
<脚本> 奥寺佐渡子
<キャラクターデザイン> 貞本義行
<作画監督> 山下高明
<美術監督> 大野広司
<CGディレクター> 堀部亮
<衣装> 伊賀大介
<色彩設計> 三笠修
<美術設定> 上條安里
<劇中画> 森本千絵