相模原の殺傷事件に衝撃を受けた方、観て欲しい映画があります

映画コラム

神奈川県相模原市で凄惨な事件が起こりました。障がいのある人たち19人の命を奪ったこの犯人を、決して許してはなりません。

私もかつて、病院の実習で重度の障がいのある人と、その家族と接したことがあります。そこでは、家族の方々が、いかにお子さんを愛しているかを知りました。その家族の愛情、努力を一瞬にして無に帰したこの犯人を、私は絶対に許せません。

ここでは、このような事件が起きた今こそ、この事件をどう捉え、どう考えるべきか……その見識を与えてくれる映画を紹介します。作品の名は『葛城事件』です。

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(C)2016「葛城事件」製作委員会

1.『葛城事件』で学べるのは、犯罪を起こすまでの“何か”に気づけること

現在公開中の『葛城事件』の劇中では、8人もの人間を殺傷する無差別殺人事件が起こります。そして映画は、一家の次男の青年が、なぜこのような事件を起こしたのかをじっくりと描いていきます。

そこでわかるのは、(家族という場所での)人間関係に“悪循環”があったということ。青年が連続殺人犯になってしまったのは、ただひとつのきっかけではなく、積もりに積もった“何か”があるのです。

本作から学ぶことができるのは、その“何か”に気づけば事件を防げた可能性があったこと、残虐な犯罪をしてしまう人間が“(事件の犯人のような)自分がいる世界とは関係のない狂人”と断定することはできない、ということです。

監督・脚本を手がけた赤堀雅秋さんは「こういった現実がわれわれの地続きにあるという想像力を喚起したかった」と語っています。
その通りで、こうした事件を起こしてしまう人間は残念ながらこの世界に存在しており、“対岸の火事”と思うべきではないでしょう。

凄惨な事件が起きたとき、セキュリティなどの“その場”での事件の抑制が議論される場合がありますが、突如起こった犯罪は防ぎようがないことも少なからずあります。
そうしたとき、事件が起こるまでの人間の“足取り”にこそ、このような事件が二度と起きないようにするためのヒントがあるのではないか、そして、事件発生を止められるのは何よりも親しい者(家族)ではないかと、『葛城事件』は考えさせてくれるのです。

なお、『葛城事件』と相模原の障がい者施設殺傷事件は、動機や環境といった点では類似点は少ないのですが、ひとつかなり似ている点があります。
それは、犯人はひとりで誰もいなくなった一軒家に住んでおり、部屋はめちゃくちゃに荒れていて、生活の管理能力がなくなっていたことです。
状況は異なりますが、これと似たような描写が『葛城事件』にもあるのです。

2.理解してはいけない人間もいる

相模原の障がい者施設殺傷事件の犯人は、衆院議長宛てに犯行予告とも言える手紙を残していたり、大麻の陽性反応が出たために病院に措置入院されていたり、施設の利用者に尊厳を欠いた言葉を浴びせたり、友人や刺青の彫り師に「障がい者を皆殺しにしたい」と話していたりと、常軌を逸した行動や言動が多く、事件を起こす予兆がいくつもありました。

その犯行動機は、歪んだ正当性を持って、勝手な思い込みで知的障がい者のみを狙って刺殺するという、理解できないものです。
専門家でもない自分が断定することはできませんが、犯人は他人の共感能力に乏しいサイコパス(精神病質)にも思えます。

そうしたサイコパスによる凄惨な殺人事件を描いた映画のひとつに、『悪の教典』があります。主人公の男子教諭は、自分にとって邪魔だからという動機だけで殺人をつぎつぎに犯していきます。

今回の事件の犯人の動機も、同じように“理解してはいけない”ものです。やったことを許してはいけない、改心を希望するべきではない人間がいることも、私たちは認識しなければいけないのではないでしょうか。

なお、『葛城事件』には犯人の改心を信じるばかりか、獄中結婚を希望する女性が登場します。彼女がどのような顛末をたどるかは映画の内容に触れるため書けませんが、これは“理解してはいけない人間もいる”ことへの皮肉になっています。

『葛城事件』と『悪の教典』はどちらもフィクションであり、道徳的な教訓を直接与えるような内容でもないため、実際の事件と結びつけて考えるべきではないのかもしれません。
(注:『葛城事件』は附属池田小事件、秋葉原通り魔事件など、複数の事件を参考にして製作されています)

しかし、こうした作品が持つ“毒”は、現実の出来事に立ち向かう覚悟を与えてくれるのではないか、とも思うのです。少なくとも、世にある殺人事件を扱った映画を、すべて悪趣味だと排除するべきではないでしょう。
(注:『悪の教典』は直接的な残虐描写があるばかりか、かなりインモラルな内容と言ってよいので、すべての人におすすめできる映画ではないことも明記しておきます)

また、犯人像を一元化して論じることは、さまざまな偏見を生み出してしまう危険があります。映画で描かれたことがすべてではないので、あくまでも見識を広める一助として、こうした作品に触れてほしいと、切に願います。
(注:COMHBO地域精神保健福祉機構が、精神障がいを持っていた犯人であったからといって、「精神障がい者は皆が危険」という画一的な偏見を持った報道をしないでほしいと、マスコミに緊急要望書を提出しています)

–{「障がいのある人は生きていても意味がない」なんておかしい}–

3.決して犯人に同調せずに、『くちびるに歌を』を見てほしい

心の底から嫌悪感を覚えたのが、犯人が「障がい者は生きていても意味がない」「安楽死させた方がいい」と発言していたことでした。
もし、ほんの少しでも、そのようなことを考えてしまうのであれば、『くちびるに歌を』を観てみてください。

『くちびるに歌を』では、自閉症の兄を持つ中学生の男の子が登場するのですが、彼は兄のことをとても大切に思っている一方で、「ほんの少しだけ、兄をうとましく思うときがあります」と、“未来の自分に宛てる手紙”に書き記しています。

しかし、それでも彼は兄がいたことを深く感謝し、とある尊いことも、この手紙に残しているのです。

障がいのある人が身内にいるというのは、とても大変なことです。綺麗事を並べたり、精神論を口にするだけではどうにもできない悩みも、たくさんあります。障がいが重度であればあるほど、その悩みが強くなってしまうことも、否定はできません。

『くちびるに歌を』は、そんな障がいのある人を家族に持つ人の“後ろめたさ” “弱さ”を描き、それでも家族でよかったと肯定する希望にあふれる、やさしい作品なのです。

そのほかにも、さまざまな障がいを欠点ととらえず、個性として尊重した映画には『アイ・アム・サム』『ふたりにクギづけ』『ファインディング・ドリー』などがあります。
こうした作品で訴えられていることのひとつは、障がいのある人者でも健常者の人たちと同じく、当たり前の幸福が与えられるべきであるという価値観です。
犯人が勝手な主観で、(いかに障がいが重度でも)そのすべての可能性を否定することが、いかに幼稚で、身勝手なことであるかが、作品を観ることでよりわかるのではないでしょうか。

4. “全国手をつなぐ育成会連合会”の言葉に寄せて

知的障がい者と家族で作る“全国手をつなぐ育成会連合会”の会長である久保厚子さんは、事件を受け、障がいのある人に向けて以下の緊急声明を出しています(一部抜粋)。

「みなさんの中には、そのこと(犯人の「障がい者はいなくなればいい」という発言)で不安に感じる人もたくさんいると思います。そんなときは、身近な人に不安な気持ちを話しましょう。みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと話を聞いてくれます。そして、いつもと同じように毎日を過ごしましょう。不安だからといって、生活の仕方を変える必要はありません。

障がいのある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障がいがあるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが「障がい者はいなくなればいい」なんて言っても、私たち家族は全力でみなさんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください。」

この“身近な人に不安な気持ちを話しましょう”、“家族が全力でみなさんのことを守ります”という言葉は、とてつもない助けになるのではないでしょうか。それは、このような事件の再発の予防にもつながるはずです。
(注:『葛城事件』は障がいのある人を扱った映画ではありませんが、劇中では面と向かって、家族で本音をぶつけ合う会話がなかったからこそ、悲劇が起きたことが示されています)

この事件は、実際に亡くなった方だけでなく、世界中にいる障がいのある皆さん、障がいのある人を支える人たちをも、深く苦しめたことでしょう。

被害者、ご遺族の方の悲しみに寄り添うと共に、少しでもこのような残虐な事件が減ることを願っております。

(文:ヒナタカ)