日本映画の企画・製作について語り合う—後篇−
 塩田明彦×斉藤守彦対談


コラム
映画を知るための教科書1912~1979

新作書籍「映画を知るための教科書 1912−1979」著者斉藤守彦と「黄泉がえり」「どろろ」「抱きしめたい」の塩田明彦監督の対談、今回は後篇をお届けする。

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日本映画の企画・製作について語り合う—前篇−
 塩田明彦×斉藤守彦対談

作家主義という言葉が、曲解されている。

昨今の「共感絶対主義」的な映画評価は、観客だけでなく映画を企画する立場にも蔓延していると知り、いささかショックを受けた。が、塩田監督によれば「作家主義」という言葉自体が、曲解されているのだと言う。

塩田 やっぱり映画を作ったり批評したりを目指すのなら、作品の美学的評価だけじゃなく、その作品の製作背景も多少は知ったほうがいい。映画史っていつも複数じゃないですか。視点は色々ある。映画がどういう風に作られてきたか。どういう風に公開されて、どういう風受け入れられたか。それは重要な局面だと思うんですよ。それは要するに、時代時代で映画がこう、単に作家が自由に作っているわけではなくて、色んな条件の中で対話したり闘争しながら作っていることが分かっていないと、色んなことが見えなくなる気がするんですよ。例えば、僕ぐらいの世代までは、幼少期の映画館体験が濃密にあり、それに支えられた皮膚感覚があるんですが、僕の3歳ぐらい下になると、もうそれが希薄になっていたりする。そういう印象がすごくありますよね。

斉藤 何年生まれでしたっけ?

塩田 1961年9月です。例えば作家主義という言葉があるじゃないですか。作家主義って、今では商業主義と離れたところで、例えばミニシアターとかで、自分の個性を発揮する。それが受けなくてもいいというスタンスで撮っている人という認識が若い人にあるけれど、本当の作家主義というのは違う。アート作品とか前衛とか、一部の人にしか受けない作品は、映画史上昔からある。そういうポエティックなものを撮っている人たちが作家で、アメリカ映画や大衆向けの娯楽映画を撮っているヤツなんてしょせんコマーシャリズムにまみれた職人監督と思われていた中で、実は商売まみれの職人監督としか思われていない、アメリカの監督たちにこそ本当に優れた人がいるんだという。フリッツ・ラングもニコラス・レイもそうだし。本当に凄い人たちは、むしろそこにいるんだというのが本来の作家主義だった。職人としか見られていない人が、ゴッホとかルノアールに匹敵した仕事をしている。それが本当の意味での作家主義だったんです。それがいつしか転倒して、真逆の意味になっちゃったんです、今の作家主義って。といって娯楽映画を撮れば映画作家、ということでもないし、妥協することが素晴らしいってことでも全くないんで、この辺の説明がいつも難しいんですけど。ただ闘って勝ち取ったわけでもない「自分」なんて大概ちっぽけなもんなんじゃないかっていう疑いぐらいは、持っていてほしい。

斉藤 この人は自分の好きなものを撮り続けたから作家だと言われるのは、誤解だと思います。

塩田 誤解なんです。凄く色んな条件がある中で人は映画を作っていて、そこには様々に制約がある。でもその制約にぶつかった時こそ本当の自分がでてしまう、ということがあるんですね。アーティストを気取っている自分とは違う、本当の自分が出てきて、その感覚というのは小中学生でも分かる。例えばゴジラや怪獣映画を見ていても、出来の良い怪獣映画と悪い怪獣映画がある。

斉藤 それは分かります。

塩田 分かりますよねえ。ちょうど僕らが生まれた時からアニメ映画が劇場で上映されるようになり、「長靴をはいた猫」や「空飛ぶゆうれい船」とかあって、それとか「パンダコパンダ」シリーズとかは格別だと分かる。小学生でも分かる。でも普通に劇場にかかっている映画に、もの凄いものがあるという感覚は、自分で経験していないと、知識でしかなくなってしまうんです。

斉藤 経験しないとダメなんですよね。

塩田 だからそういう映画館での体験の蓄積がないと、いくらカイエ・デュ・シネマを学んでも、作家主義の見え方が全然違う。

斉藤 「とにかく今やってる映画を見ろ」って言いたいですよ。

塩田 そうなんですよね。

–{「全国公開作品になった途端に、企画の幅が狭まってしまう」}–

「全国公開作品になった途端に、企画の幅が狭まってしまう」

どうしても、映画を作る大元である「企画」についての話になってしまう。それは監督である塩田さんだけでなく、現在大手映画会社が最も頭を抱えている問題だからだ。マーケットの拡大こそ実現したが、ではどんな映画を作ったら良いのかが分からないという、このジレンマについて。
 
斉藤 この本を書いていて、他の映画書にはないこととして「経営」ということを意識して書きました。僕は、所謂ワンマン経営というのは正しいと思っています。

塩田 実は僕も密かにそうじゃないかと思っています。

斉藤 映画会社の経営って、ワンマンでなければやっていけませんよ。皆でつながって経営しましょうなんて、まったくダメですよ。「オレについてこい!!」でないとうまく行かない。

塩田 そうなんですよ。企画ってどこか「極論」がないと魂が宿らない。地ならしすると、企画が死んじゃうんです。年間2本立て興行で、52本×2週間代わりだと、色んなことが出来るんですけど。

斉藤 そうですね。プログラム・ピクチャーとまでは行かなくても、もうちょっとでも予算を削って、作り手の主体性を作品にこめることは出来ないかと思います。

塩田 その試みのひとつは、今回の日活ロマンポルノです。

斉藤 やっぱり撮影所を持っているのは強いですよね。

塩田 相当強いです。だいぶ小さくなりましたけど。

斉藤 監督として映画会社の人と話をしていて、企画という点については、問題意識を感じるわけですね。

塩田 全国公開作品になった途端に、企画の幅が狭まってくるというのは、監督だけじゃなくて、テレビ局のプロデューサーや、大手映画会社の人も、みんな感じていることなんですよ。皆感じてるいんだけど、なかなか突破することが出来ない。一方、かつて単館系と言われた、「月光の囁き」とか「害虫」とか撮っていた90年代は8000万円から1億円かけてペイする枠があったんです。でも今はありません。(製作費が)一時期5000万円まで下がって、今、2000万円、3000万円まで下がっています。これだともう、生活していけません、スタッフも監督もキャストも。

斉藤 予算によって、作品の出来に影響しますか?

塩田 します。するけれど、これがまた難しいのは、予算って絶対的な基準がないんです。多ければ良いというわけでもないし、少なければダメとも言い切れない。一時期三池崇史監督が言っていましたが、かつてVシネマという、復活したプログラム・ピクチュアの土壌があったじゃないですか。

斉藤 はい。

塩田 Vシネマというのは、だいたい3000万円から5000万円の枠内で、ある程度自由に出来る。そこで本来は8000万円かかるアクションを4000万円で撮る。三池さんはそういうのがうまかった。「ここまでやれるんだ!?」というのを作っちゃう。8000万円かかるものを4000万円で作る時には、現場の体力努力智恵とすべてを振り絞って埋めるのは可能だった。でも8億円かかるものを4億円でやれって時に、この4億円の差額はハマらない。低予算の現場だから予算がなくて、予算があるから自由だというのは大嘘で、予算が上がるほどキツくなっていくことが、映画の世界では起こるんです。
斉藤 前は3000万円で1本撮れたんだから、今度は予算2000万円ってことはありますか?

塩田 あります。その連鎖はあります。たまに予算が上がるけれど、また下がる。

斉藤 負のスパイラルですね。

塩田 負のスパイラルだけど、結局監督は撮りたいからどんな予算でも撮りますが、僕なんてまだだいぶ恵まれているほう。一方で全国公開の映画を何年かに一度撮れて。「抱きしめたい・真実の物語」とか、監督としてかなりの自由を与えられて撮っていますし。その一方で低予算ながらオリジナルの作品を、ここんとこ3,4本撮れているから、そういう意味ではすごく恵まれています。このまえ撮った日活ロマンポルノも予算は決して潤沢ではありませんけど、すごく気に入った作品が作れて喜んでいます。斉藤さんにも早く観てほしい(笑)。

–{「動画配信は、一切収入になっていません」}–

「動画配信は、一切収入になっていません」

斉藤 ここ数年、パッケージ・メディアの売上がダウンしているから、監督が手にする二次使用の報酬もダウンしていますか?

塩田 極端にダウンしています。急勾配ですよ。

斉藤 今、色々と動画配信とか出てきていますが・・。

塩田 配信は一切収入にはなってないです。

斉藤 追加報酬とかは?

塩田 グレーゾーンなんじゃないですか、それは。あのね、基本的には「黄泉がえり」の頃だと契約書に項目がないですね。その辺の権利闘争も、していかなくちゃいけないのかも知れない。ただ配信そのものって、あまり儲けている人がいないですよね、製作者側では。

斉藤 聞いた話ですが、配信業者に放映権を売る金額が、今、ダンピングされていて、ひと山いくらみたいになっているそうです。

塩田 そこからまた歩合でとるってのは難しい。それでこっちに還元されないってことでしょう。

「お互いに、ちょっと恥ずかしいことしてるよね(笑)」

「映画を知るための教科書 1912−1979」という書籍について語り合う対談、というよりも本書をたたき台にして、現在の我が国に於ける映画産業について語り合う対談になってしまったが、それはそれで、得がたい意見交換が出来たと思う。最後に、本書の想定読者層でもある、映画を学ぶ人たちについて話を進めたのだが・・。

塩田 黒沢清監督が前に言っていたんですが「映画の何が良かったかと言えば、学校で教えてくれなかった」と。

斉藤 それは良い言葉ですねえ。

塩田 学力に関係なく、自分は映画の世界に行けば何か出来ると思い込む。でもそういう時代のことを、僕らがいま教科書として書いている(笑)。

斉藤 だから僕は「教科書」というタイトルには対抗したんですよ(笑)。

塩田 僕も「映画の授業」とか出していますから。映画美学校で講座をやって。

斉藤 お互いに、ちょっと恥ずかしいことしていますよね(笑)。

塩田 (笑)恥ずかしい。映画は学校で学ぶものじゃないと言って、学校で教えている(笑)。

 発言にあったように、塩田明彦監督の新作は日活ロマンポルノ45周年を記念した「ロマンポルノリブートプロジェクト」の1本で、この企画には塩田監督の他、白石和彌、園子温、中田秀夫、行定勲ら注目の監督たちが参加している。塩田監督作品のテーマは「バトル」で、神代辰巳をリスペクトしながら、奔放な女と翻弄される男の躍動感あふれる駆け引きを軽妙に描くとのこと。今冬、新宿武蔵野館にて公開が決定している。

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(採録・構成・文:斉藤守彦)

塩田明彦監督プロフィール

1961年9月11日、京都府生まれ。

立教大学在学中より黒沢清、万田邦敏らと共に自主映画を製作。82年「優しい娘」が「ぴあフィルムフェスティバル」に準入選、翌年「ファララ」が入選し、広く注目を集める。大学卒業後、黒沢清作品を中心に助監督として参加。
その後は企業用VP等を数多く演出する一方、監督/脚本家の故・大和屋竺のもとで脚本を学び、91年脚本家として独立。

96年、オリジナルビデオ「露出狂の女」を監督。劇場公開作品としてのデビュー作『月光の囁き』は、98年度「新人監督の製作活動に対する助成」(財団法人東京国際映像文化振興会運営)対象作品に選出され、ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭では、審査員特別賞と南俊子賞をダブル受賞。99年公開された『どこまでもいこう』ではナント三大陸映画祭審査員特別賞を受賞。00年、デジタルビデオ作品「ラブシネマ」シリーズ第5弾『ギプス』を監督。ドラマ「あした吹く風」(01/BS-i)では、小学生の女の子を主人公に昭和の家族をあたたかく描写してみせた。

つづく『害虫』(02)は、01年第58回ヴェネチア国際映画祭「現代映画部門」正式出品、ナント三大陸映画祭「コンペティション部門」で審査員特別賞、主演女優賞(宮崎あおい)をダブル受賞する。
そして『黄泉がえり』(03)は、当初3週間限定公開の予定だったが、興収30.7億円をあげる大ヒットとなり、3ヶ月を超えるロングラン興行となった。引き続き2005年にはインディペンデント映画「カナリア」と、「黄泉がえり」と同じ梶尾真治原作の「この胸いっぱいの愛を」を監督。

2007年に公開された、製作費20億円を投じた大作「どろろ」は、国内だけで興収34.5億円と「黄泉がえり」を上回る大ヒットを記録。その後2014年には「抱きしめたいー真実の物語−」を監督。2016年冬に公開が決定している「日活ロマンポルノ・リブートプロジェクト」では4人の監督と共に日活ロマンポルノに挑戦した。
また映画監督の傍ら、映画美学校で講師を行っている。著書に「映画術・その演出はなぜ心をつかむのか」、「映画の生体解剖×映画術:何かがそこに降りてくる(稲生平太郎、高橋洋との共著/電子書籍)がある。