『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が賛否両論である理由と、それでも観て欲しい理由をいま一度考える。

映画コラム

2000年に制作されたデンマーク映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を紹介・解説します。本作はカンヌ映画祭の最高賞であるパルムドールを受賞しました。

ダンサー・イン・ザ・ダーク(字幕版)



※追記:2021年12月10日〜4Kデジタルリマスター版の新宿ピカデリーでの上映を記念して、本記事の2ページ目からネタバレありの解説を追記しました。 なお、2022年6月に国内上映権が終了するため、最後の劇場ロードショーとなります。

本作は公開時に大変な話題になりました。というのも、その評価があまりにも“賛否両論”であるからです。生涯ベストの映画に挙げる方もいれば、一方で「もう二度と観たくない」、「最悪の映画」と思われる方も多いのです。

ここでは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がどのような作品であるかを紹介し、なぜ賛否が分かれているのか、この映画を観る意義について考えてみます。

※2ページ目以降の解説はラストシーンを含む本編のネタバレに触れています。2ページ目以降はぜひ観賞後にご覧ください。

1.救いなどない物語である

本作のあらすじは、このようなものです。

アメリカのある街に住む移民のセルマは、工場で働きながら息子のジーンとふたりで暮らしていた。
セルマは先天性の目の病気のため、失明する運命にあった。
ジーンもまた、13歳までに手術をしなければ、いずれ失明してしまうという。
セルマはジーンのために必死で手術費用を貯めていたが、視力の悪化により仕事上のミスが重なり、ついに工場をクビになってしまう。

つまり、主人公は
(1)視力がだんだんなくなっていく
(2)視力の低下により工場をクビになってしまう
(3)お金がないために、いずれ自分のように視力がなくなってしまう息子を救えない
という、どん詰まりの状況に追い込まれるのです。

一般的な“いい話”のヒューマンドラマでは、ここから主人公が逆境を乗り越えたり、どこかで救いを求める手が現れたり……ということもありますが、本作はそんなことはありません。さらに主人公を“最悪”の状況に追い込んでいくのです。

この時点で観るのが辛い、と思う方の気持ちは正しいです。
物語を客観的にみれば、とことん不幸な物語なのですから。

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2.“妄想の中”のミュージカルシーンがある

劇中には、工場の中でみんながモップを片手に踊りだし、歌い出すというシーンがあります。
ところが、ディズニーのアニメ映画のように、それが“現実”に影響を与えることはありません。これは、主人公の“妄想”なのです。

ともすれば、主人公は「辛い現実から逃れるために、歌と踊りのある妄想に逃げ込んでいる」ようにも思えます。
さらに彼女は現実で最悪の事件を起こしてしまうのですが……その後にも“(現実逃避のような)妄想のミュージカル”があったりするのです。
この主人公をみて、「なんて弱々しいんだ」「なんて身勝手なんだ」と思う方がいるのも当然です。

それでも、現実の世界からミュージカル場面になだれ込んで行く過程があまりに自然なため、「いつの間にか主人公の頭の中を見ている」という不思議な感覚を得られるはずです。

鉄橋に響くハンマーなどの生活音でリズムを取り、その深い精神性を訴えた歌詞が融合する様は、とても“不愉快”と一掃することなんてできない、例えようもない感動がありました。

ぜひ、妄想の中で歌われていること、とくに主人公の息子の言葉を、よく聞いてみてほしいです。

3.他人にはわからない価値観を描いている

“盲目的(Blindly)”という言葉があります。主人公は文字通り盲目になりつつあり、息子の手術の成功を「ほかのことはどうだっていい」ほどに願っていました。
個人的には、主人公は“愚か”というよりも“純粋”であると感じました。
そんな彼女の“盲目的な愛”は、自分にはとても否定できるものではありません。

先ほどは「客観的に見れば主人公は不幸だ」と書きましたが、主人公の主観で考えるとどうでしょうか。
彼女は客観的に間違った行いをして、あの結果に導かれたとえはいえ、「愛する息子のために奔走できた」という意味では、(彼女の主観では)幸せではあったのではないかとも思うのです。

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4.暗く重い映画であることが重要である

人には「身の毛のよだつようなホラー」や「この世のものとは思えないような残酷な話」を知りたいという欲求もあります。
その物語で引き起こされる恐怖などの感情は“負”であり、どうせなら経験しないほうがいいもののはずなのに……なぜ、そのような映画を観たいと思うのでしょうか。

それは、 “現実”に立ち向かうことへの力が得られるからなのではないでしょうか。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はこのうえなく暗く、重い気分にさせてくれる映画です。そうであるからこそ、観客は相対的に自分の幸せを感じられ、また誤った行動をしないようにと考えを改めることができる、はたまた単純な幸不幸だけでは推し量れない人の生き様を知ることが“糧”になると思うのです。

映画が「人の心を動かすためにある」とすれば、このように“負”の感情を呼び起こしてくれる映画もあってほしい、と思います。
もし、世の中の映画が夢いっぱいのハッピーエンドの物語ばかりであるなら、引き起こされる感情は一辺倒なものになってしまうのですから。

何より、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、映画全体を貫く音楽と、独特の映像表現も相まって、「自分の暗い気持ちを映画の中に溶け込ませることができる」稀有な作品。その映画体験は、きっと貴重なものになるはずです。

さて、ここからは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の物語が本質的に何を描こうとしていたのか。解説していきます。

※以降の解説はラストシーンを含む本編のネタバレを含みます。鑑賞後にご覧ください。

–{「最後から2番目の歌」が示しているものとは何か}–

セルマの希望は、映画(物語)が終わらないことだった

セルマは、序盤に警察官のビルに自身と息子のジーンが盲目になっていく秘密を打ち明け、そしてミュージカル映画の話をする中で、こう語っていました。

「最後の曲は聴きたくない。グランド・フィナーレが始まって、カメラが上へと登る。それはラストの合図よ。そうなるともうガッカリ。チェコで暮らしていた子どもの頃、名案を思いついたの。最後から2曲目が終わったら、映画館を出てしまうの。そしたら映画は永遠に続くでしょう?」

ラストでセルマはこう歌います。

「愛するジーン、あなたがそばにいる。だからもう、何も怖くない。忘れていたわ。私はひとりぼっちじゃない。これは最後の歌ではないわ。バイオリンの音もしなければ、コーラスもない、ダンサーもいない。これは『最後から2番目の歌』。それだけのこと。ママの言いつけを守るのよ。忘れないで、パンを包むこと」

そして、セルマの絞首刑が実行された後に、幕が閉じて、このようにテロップで表示されました(そしてカメラは上へと登っていく)。

「これは最後の歌じゃない。わかるでしょう。私たちがそうさせない限り、最後の歌にはならないの」

このテロップはセルマからの、この映画を観ている我々「観客」に向けてのメッセージ。この内容を言い換えれば「これを最後と思わなければ、映画(物語)はまだまだ続く」ということでもあるのでしょう。

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ラストを表面上だけ捉えれば、セルマ自身が生き延びる選択肢を諦め、しかも絞首刑の瞬間を、首の骨が折れる音までを聞きながら見届けるしかない、という最悪のバッドエンドです。しかし、前述したように、セルマは「愛する息子のために奔走できた」人物であり、自身の弁護費用を返却して息子のジーンの目の手術費用も残すことができました。

では、この映画(物語)の「続き」を具体的に考えてみるとどうなるでしょうか。「息子のジーンは目の手術に成功して幸せな人生を送った」のかもしれませんし、もしくは「手術が失敗してジーンもまた盲目になり絶望する」というさらなるバッドエンドが待ち受けているのかもしれません。

序盤に「最後から2曲目が終わったら、映画館を出てしまうの。そしたら映画は永遠に続くでしょう?」とセルマが語っているその意味とは、映画(物語)が終わらなければ、まだ息子のジーンの「可能性」が残されているからなのではないでしょうか。

セルマは鉄橋のミュージカルシーンで「過去の自分も、未来の自分もわかっている。もうこれ見るものは何もない」などと歌っており、面会に来た親切なジェフに「悲しいことは何もないのよ」とも話していました。セルマは何度も現実から逃げるように妄想のミュージカルに浸っていましたが、自分のたどる結末は「わかっている」し、彼女自身は「それでいい」と思っているのです。

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だけど、自分の死後も映画(物語)が続けば、ジーンの物語の結末も、自分と同じような道をたどってしまうのかもしれない。それこそが、セルマが何よりも恐れることだったのでしょう。序盤でセルマがジーンに「なぜ学校をサボるの?マジメに勉強しなさい。学校に行くのは何よりも大切なことよ」と怒っていたのも、息子に真っ当な人生を歩ませるためであったのに違いありません。

この映画を観ている我々観客にとっては、この映画はここで終わりを迎えています。しかし、セルマにとっては終わっていないのです。さっきまで歌っていたのは「最後から2番目の曲」であり、まだ続きはあるし、その歌詞の内容通りにバイオリンの音もしなければ、コーラスもない、ダンサーもいないのでミュージカルのグランド・フィナーレでもない。そうセルマは信じていた。それが、死ぬ間際のセルマの希望だったのです。

また、セルマは妄想のミュージカルに浸っている時、そして(おそらくここでは妄想の中のミュージカルに入り込んでいませんが)最期の瞬間までも、幸せだったと言えるのかもしれません。客観的にみればたとえ現実逃避であっても、彼女が盲目であればこそ、最後に「愛するジーン、あなたがそばにいる。だからもう、何も怖くない」と歌うように、(キャシーが最後にメガネを渡しながら告げた)「心の声を聞く」ようにすることで、「ひとりぼっちじゃない」と思えたのかもしれません。少なくとも、ただただ死の恐怖に支配されていただけだけはないでしょう。

だからこそ、その歌を遮るように、絞首刑の瞬間が訪れることが、残酷で無情でもあるのですが……。最後のテロップで「これは最後の歌じゃない。わかるでしょう」と問われたとしても、事実として、この映画でセルマが死の間際に歌っていたのは最後の曲、「最後から2番目の曲」ではないのですから(エンドロールの曲も含めれば「最後から2番目の曲」なのかもしれませんが)。

しかし、もしもこの映画のラストを観ずに、セルマの名案に従って「最後から2番目の曲(絞首刑に向かうまでの歌にあたる)」時に映画館から出てしまったとしたら……残酷な絞首刑の瞬間を見ずにはいられます。でも、我々観客が映画のセルマの最後を「見届けた」ことからは、単純に言語化ができない、何かを受け取ることができます。それこそ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の大きな意義であり、同時にもっとも「見たくない」ものを見せるラストであるため、賛否両論を呼ぶ最大の理由でもあるでしょう。

–{この映画を観ている観客だけがわかることがある}–

セルマは、善良な人たちと共に幸せになることを望んでいたか?

面会に来たジェフはセルマの絞首刑を見届けることについて「僕は来たい」と言い、セルマは「もし耐えられるなら、見届けて」と返しました。セルマの命を救おうとしていたキャシーも、また絞首刑を見に来ていました。

思い返せば、ジェフもキャシーもセルマのことを気にかけていた善良な人です。でも、セルマはジェフに「夫にするとしたらあなただけど、結婚する気はない」と言っていたり、キャシーにクヴァルダ(チェコ語で「幸せ」)という名前をつけて「体が大きくて幸せそう」とイメージを語っていたりもしました。どうも、セルマは自分に親身にしてくれる人に対してよそよしい、「自分と共に幸せになる」気がなさそうにも見えるのです。

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セルマは「自分よりも他の人の幸せ」を願う人だったのでしょう。だからこそ、自殺願望のあったビルに銃で殺してくれと頼まれれば、そうしてしまった。言い換えれば、「他の誰かが幸せだったら自分のことはどうだっていい」と思っていたことが、その悲劇とあのラストにつながったわけですが……。いや、最後に絞首刑に向かうまでも妄想の中で囚人たちと触れ合っていたことを思えば、本心ではセルマは、誰かと共に幸せになることを望んでいたのに、不幸な自分と同じような目には合わせたくないと思いこんで、そうすることができなかったのかもしれません。

また、中盤の稽古のシーンでセルマの出番になった時、うまく歩数を掴めずに、側にいたキャシーの方が先に出てしまう、というシーンがありました。キャシーはセルマが生きることをただただ望んでいましたが、結局は「寄り添うことができない」人物として、残酷にも描かれていたとも言えるでしょう。最後にキャシーにできることは、メガネを渡して「心の声を聞いて」ということだけだったのです。

実際に最後まで歩数を数えながらもセルマに付き添ったのは、自身にも息子がいるという女性の刑務官でした。彼女もまた母親だからこそ「自分の命よりも息子の未来を優先する」セルマの気持ちがよくわかった、だから、映画の中で「最後まで一緒に共に歩く」という役割が与えられたのでしょう。

最後にジーンが、年齢制限により母の死の瞬間を見なかったことも、セルマにとっては希望であったのかもしれません。セルマに残ったのは、「赤ちゃんを抱きたかった」という理由でジーンを産んだという過去、そしてジーンの未来でした。

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余談ですが、前述した最後のテロップの原語は「They say it’s the last song. They don’t know us, you see. It’s only the last song If we let it be」となっており、直訳すれば「彼らは最後の曲だと言うけれど、彼らは私たちのことを知らないの。あなたたちはわかっていると思うけど、私たちが最後の曲だと思えば、そうなるということだけなの」となります。「彼ら」が誰を指しているのか……それは「この映画の製作者」というメタフィクション的な視点もあるのかもしれませんし、絞首刑を見届けたジェフやキャシーや女性刑務官なのかもしれません。

いずれにせよ、この言葉で「あなたたち」が指しているのは、前述した通りこの映画を観ている私たち観客で間違いないでしょう。なぜなら、劇中の登場人物は(最後に歌われた歌以外の)セルマの妄想の中のミュージカルを聴いても、観てもいません。

だけど、観客はセルマの心情を体現したミュージカルでの「心の声」を知っているし、その中ではセルマが憧れのミュージカル俳優に受け止めれらたり、ジーンに「母さんは仕方なくやった(ビルを殺した)だけ」と肯定されたりと、ひとりぼっちではなかった、もっと言えば幸せであった(かもしれない)ことを知っているのですから。

もちろん、現実はその真逆ですし、セルマが妄想の中で、完全に自分が幸せだと信じきっていたかと言えば、そうではないでしょう。彼女自身は、自分が死ぬという現実を確かに見据えているのですから。それがセルマにとっての最善であるはずがありません。それでもなお、ミュージカルや音楽は、過酷な現実に立ち向かうため、受け入れるための手段にもなる……その過酷な現実への抵抗を、本作はただただ描こうとしていたとも解釈できるでしょう。

先ほど告げた通り、本作のラストは表面上はこの上のないバッドエンドです。だけど、セルマがその現実を受け入れ、映画(物語)がさらに続くと考えたら……セルマにとっては、「十分に」ハッピーエンドと言えるのかもしれません。その判断も、あなた(観客)たちに委ねられています。たとえ、「最後の歌」が歌われた、セルマの絞首刑の残酷な瞬間までもを見届けたとしても、そう思うことはできますか、と。

(文:ヒナタカ

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」| 2000年 | デンマーク | 140分 | (C) ZENTROPA ENTERTAINMENTS4, TRUST FILM SVENSKA, LIBERATOR PRODUCTIONS, PAIN UNLIMITED, FRANCE 3 CINÉMA & ARTE FRANCE CINÉM | 監督:ラース・フォン・トリアー | ビョーク/カトリーヌ・ドヌーブ/デビット・モース/ピーター・ストーメア |

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