写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.5
現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。
「すこーし愛して、ながーく愛して」あげたい大原麗子
1980年代、「すこし愛して、ながーく愛して」と、ちょっとかすれた独特の甘い声で大原麗子がささやくサントリーレッド・ウィスキーのCMに魅せられた方は多いと思われますが、そんな彼女が後に孤独死を遂げるとは、当時は誰も思いもよりませんでした。
では実際、彼女は女優としてどのように歩んでいったのでしょうか?
勝気なおてんば娘からしっとりした和風美女への成長
大原麗子は1946年11月13日、東京市小石川区に生まれ、62年に中尾ミエ主演の『夢であいましょ』に端役で映画初出演。64年の高校卒業後、NHK新人オーディションに受かって同年のNHKドラマ『幸福試験』でドラマデビューしました。
翌65年、東映に入社し、同年の『孤独の賭け』で本格的に映画デビューし、以後『夜の悪女』(65)『夜の牝犬』(66)『赤い夜光虫』(66)といった夜の歓楽街ものに出演し続ける一方、66年秋からTBS朝の若者向けワイドショー『ヤング720』の司会の一人を務めて、お茶の間でも親しまれるようになり、その年の製作者協会新人賞を受賞しています。
東映時代の彼女は、当時の男性的プログラムピクチュア路線の中で突出するほどではありませんでしたが、愛くるしくも勝気なキャラクターは高倉健主演の『網走番外地 北海篇』(66)『荒野の対決』(66)など“網走番外地”シリーズや『柳ケ瀬ブルース』(67)『不良番長』(67)などで活かされていたように思われます。
70年には『三匹の牝蜂』で主演の一人に抜擢され、同時に大映『座頭市あばれ火祭り』で勝新太郎と、日活『大幹部ケリをつけろ』で渡哲也と、他社の看板シリーズにも出演しました。
71年に渡辺企画に移籍してからはテレビドラマ出演が増えていき、72年度テレビ大賞優秀タレント賞を受賞。やがて勝気な娘役からしっとりとした和風美人といったイメージで多くのファンを獲得し、テレビ局が選ぶ好感度タレント1位の座を何と14回も獲得するほどの圧倒的人気を得るようになりました。
『雑居時代』(73~74)や『忍ぶ橋』(75)『気まぐれ天使』(76)『あにき』(77/高倉健初のドラマ出演)など、この時期の彼女の出演ドラマは70年代世代にとって伝説といっても過言ではないでしょう。『東芝日曜劇場』の出演に至っては、80年代に入るとレギュラーのように本数も激増します。
77年、久々の映画『獄門島』に出演。ここで市川崑監督と出会ったことが、その後の彼女の女優人生を大きく変えていきます。
78年には深作欣二監督の時代劇大作『柳生一族の陰謀』、市川監督との二度目の邂逅『火の鳥』、『男はつらいよ 噂の寅次郎』では22代目マドンナを務めるなど順調に映画のキャリアを進めていきました。
そして80年から、先にも述べたサントリーレッドのCMがおよそ10年にわたって始まりますが、演出は市川崑監督であり、その和風情緒から醸し出される大原麗子のおきゃんな魅力は男性女性を問わず虜にしていきました。
–{映画女優として栄光の80年代}–
映画女優として栄光の80年代
83年には主演映画『セカンド・ラブ』や、久々に高倉健と共演を果たした『居酒屋兆治』を経て、84年、市川崑監督の『おはん』では甲斐性なしの男を世話する勝気な芸者役で、主演の吉永小百合と堂々渡り合い、映画女優としての凄みと貫録を披露し、従来のファンの度肝を抜かせ、その直後には『男はつらいよ 寅次郎真実一路』で二度目のマドンナを務めています。
こうした勢いは86年の木下惠介監督による松竹大船撮影所50周年記念作品『新・喜びも悲しみも幾歳月』へと連なり、日本各地を転々とする灯台守の夫や子供たちを支える妻を好演し、山路ふみ子賞女優賞を受賞しました。
もっとも、その後はアニメーション映画『源氏物語』(87)でその独特の声を披露した以外、またテレビや舞台のほうへと活動の拠点を移し、89年にはNHK大河ドラマ『春日局』で堂々主演。92年には『チロルの挽歌』で高倉健と久々に共演します。
そして94年には三國連太郎らベテラン男優陣勢揃いのゲートボール映画『勝利者たち』で久々に映画出演を果たしますが、これが彼女の映画の遺作となってしまいました。
もともと体が強いほうではなかった彼女は、75年に神経疾患のギランバレー症候群を発症し、93年には乳がんの手術を受け、99年にはギランバレー症候群が再発して芸能活動を休止(もっとも、この病は滅多に再発しないとのことで、もしかしたら彼女の思い込みだったのではないかという説もあります)。
2004年にはかつての夫・渡瀬恒彦とTV『十津川警部シリーズ/東北新幹線「はやて」殺人事件』で共演しますが、これが彼女の最後の作品となり、2009年8月3日、不整脈による脳内出血で自宅で死去。発見されたのは8月6日でした。
今となってはどこか暗い影を背負ったかのようなイメージで彼女を捉えたマスコミの記事やワイドショーの特集などをよく見かけますが、一ファンの立場から言わせてもらうと、映画やドラマといった虚構の世界の中で、勝気な子猫のように可愛く振舞いつつ、やがてはきゃしゃでしっとりとした和の存在感を世に示し続けた“女優”としての大原麗子こそを、「すこーし愛して、ながーく愛して」あげたいという気持ちでいっぱいです。
(文:増當竜也)