写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.4
現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。
二枚目からアンチヒーロー、ガンコ親父とさまざまな顔を持つ菅原文太
高倉健が亡くなった2014年11月、同じく往年の東映映画を代表する大スター菅原文太もこの世を去りました。
『仁義なき戦い』シリーズなどの実録ヤクザ路線や『トラック野郎』シリーズの印象が強い彼ですが、実際はどのようなキャリアを歩んできたのか、ちょっと振り返ってみましょう。
イケメンモデルの先駆け的存在から映画俳優への転身
菅原文太は1933年8月16日、宮城県仙台市生まれ。53年に早稲田大学第二法学部に入学するも、親からの仕送りはなく、アルバイトに明け暮れていくうちに授業料滞納で大学を2年で除籍。
56年、いとこの紹介でファッション・モデルとなり、雑誌『男の服飾』(のちの『メンズクラブ』)を中心に活躍。
そう、彼はもともとイケメンモデルの先駆けだったのです。
56年10月、東宝映画『哀愁の街に霧が降る』の学生役で映画初体験。そして58年、新東宝の宣伝マンにスカウトされ、同年9月、石井輝男監督の『白線秘密地帯』に端役で出演し、俳優として正式にデビューしました。
59年、新東宝と正式に契約しますが、収入はモデル時代の8分の1までダウンしたとのことで、逆にモデル時代はそれだけの人気があったことをうかがわせます。
この時期、彼は吉田輝雄、寺島達夫、高宮敬二と併せて“ハンサムタワー”として売り出されます。やはり二の線だったのです。
もっともこの時期の彼は若手美男スターとしての存在以上のものを求められることはなく、作品も『海女の化物屋敷』(59)『九十九本目の生娘』(59)といった今でいうカルト・ホラーや、『美男買います』(60)の買われる美男子など硬軟さまざまな役を演じてはいました。
61年に新東宝が倒産し、“ハンサムタワー”の面々は松竹に移籍し、菅原文太は篠田正浩監督の『三味線とオートバイ』(61)で再スタートを切りますが、やはりこれといった目立った活躍はなく、ただし木下恵介監督の異色バイオレンス映画『死闘の伝説』(63)で村長の冷酷な息子を非情に演じ、後の片鱗をうかがわせています。
また65年に出演した『血と掟』の主演スター安藤昇に気に入られ、彼の許で居候をはじめたところ、東映の俊藤浩滋プロデューサーの目に留まり、67年に東映に移籍しました。
–{アンチヒーローとしての覚醒と不条理な社会との対峙}–
アンチヒーローとしての覚醒と不条理な社会との対峙
東映での第1作は石井輝男監督・高倉健主演の『網走番外地/吹雪の闘争』(67)。以後、東映の任侠やくざ路線に乗せてさまざまな役をこなしていくうちに注目を集めていき、69年の『現代やくざ・与太者の掟』と『関東テキヤ一家』では堂々主演を務め、どちらもシリーズ化されていきました。
70年代に入ると従来の任侠映画に対するアンチテーゼとしての『懲役太郎・まむしの兄弟』(71)が人気を博してシリーズ化。こうした流れの中、菅原文太のアンチヒーローとしての凄みは徐々に際立っていき、深作欣二監督の『現代やくざ・人斬り与太』(72)『人斬り与太・狂犬三兄弟』(72)でそれは決定的なものとなり、勢いに乗せて翌73年『仁義なき戦い』が世に生まれることになりました。
同年度キネマ旬報ベストテンで菅原文太は主演男優賞を受賞。
この時期になると東映の路線は任侠映画から実録ヤクザ映画へと大きくシフトしており、それをギラギラと象徴する大スターとして彼は君臨するようになります。
もっとも彼自身は75年の『トラック野郎・ご意見無用』に始まるドタバタ人情アクション喜劇『トラック野郎』シリーズに主演し、この年『県警対組織暴力』ともどもブルーリボン賞主演男優賞を受賞し、以後は実録路線のみならず徐々に幅広い役柄へ挑戦するようになっていきます。
79年、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』では原爆を作った教師を追い詰めていく刑事を熱演し、80年にはNHK大河ドラマ『獅子の時代』に主演。
81年には加藤泰監督の幕末時代劇『炎のごとく』に主演。
また80年代は『ビルマの竪琴』で市川崑監督と出会って以降、市川作品の常連となり『映画女優』(87)では溝口健二をモデルにした映画監督を演じました。阪本順治監督のシュールなボクシング映画『鉄拳』(90)の凄みも忘れられないものがあります。
また80年代からTVドラマ『中卒・東大一直線/もう高校はいらない!』(84)でタイトル通り我が子を中卒で東大入学させた父親を好演したあたりから教育問題に熱心に取り組むようになり、90年代以降は農業政策などにも深い関心を抱くようになっていき、講演活動も顕著になっていきます。
98年には岐阜県の飛騨に移住。2009年には山梨県で農業を始めるようにもなります。
2001年、実子の俳優・菅原加織を踏切事故で亡くし、その悲しみを乗り越えて石原さとみのデビュー作『わたしのグランパ』(03)で映画復帰を果たしますが、結果としてこれが最後の主演映画となりました。
2012年、山田洋次監督の『東京家族』に出演予定でしたが、クランクイン直前に東日本大震災が起きたことで、「今は映画を撮っているときではない」と出演を固辞(もっとも山田監督自身も同じ考えであり、結果『東京家族』はキャストを総入れ替えし、脚本も手直して13年に完成させました)。
2012年にはアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』に声優として参加。これが彼の遺作となりました。
同年、56年に及ぶ俳優生活にピリオドを打ったことを公言し、12月には有志とともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、活動。
沖縄県知事・翁長雄志を応援しながら基地問題を見据え、安保法制も含めた政治の右傾化に真っ向から反対の声をあげ(晩年、彼は石原慎太郎のことを「ボケ老人」と一蹴しています)、徹底的に反戦平和の主張を訴えるなど、反骨の姿勢を最後の最後まで貫きました。
2014年11月28日、永眠。満81歳でした。
若き日の二枚目からアンチヒーロー、そして社会に対して物おじすることなく対峙し続けたガンコ親父の勇姿は、いわば“仁義ある戦い”を続けてきた男の人生として、大いにリスペクトすべきものがあるかと思われます。
(文:増當竜也)