写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.3
現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。
李香蘭、シャーリー山口そして山口淑子
李香蘭、シャーリー山口と、いくつかの名を持ちながら戦中戦後の世界を駆け抜けた映画女優がいました。山口淑子。後に参議院議員にもなった彼女の波乱の人生を、少しばかり振り返ってみましょう。
中国人映画スターに祭り上げられた満州出身の日本人少女
山口淑子は1920年2月12日、中国の満州・遼寧省(リャンニン)撫順(フーシェン)に生まれました。父は満鉄社員で、中国人との交流も多く、彼女も幼い頃から日本語と中国語のバイリンガルだったようです。
33年、奉天に移り住みますが、中国では家族同士、親類のように親しくなると、お互いの子供を名目上の養子にして親密の情をあらわす慣習があり、父が銀行の頭取を務めていた李際春(リー・チーシュン)将軍と親しかったことから、彼の養女となり、李香蘭(リー・シャンラン)と名付けられました(もっとも、李家に引き取られたわけではなく、ちゃんと山口家で生活していました)
当時、声楽を学んだ彼女は、34年にマダム・ポドレソフのリサイタルの前座で4曲歌い、たまたま中国人歌手を探していた奉天放送局が彼女に白羽の矢を立て、李香蘭としてさまざまな歌を歌うようになっていきますが、やがて日中関係が悪化し、全面戦争に突入する37年の頃には高級官吏・藩家の養女にもなっており、日本人とばれないように生活するようになっていきました。
またこの時期、“東洋のマタハリ”とも呼ばれたスパイ川島芳子と親しくなり、義姉妹となっています。
38年、音楽映画『蜜月快車』の歌の吹き替えを探していた満州映画協会(満映)が彼女を見初め、主演デビューすることになりましたが、中国人向けの中国語映画であったことから、芸名・李香蘭と、生粋の満州娘として売り出され、日本人・山口淑子であることは秘密とされました。
かくして満映の中国人スターとして活動を始めた彼女ですが、日満親善のために初めて日本の土を踏んだとき、中国服を着ていたことで日本人入国係官から差別を受けたりもしましたが、39年の『東風記』では原節子や高峰秀子と共演するなど、映画女優として順風満帆の歩みを示していきます。
そして長谷川一夫と共演した『白蘭の歌』(39)がヒットし、続いて『支那の夜』(40)『熱砂の誓ひ』(40)なども記録的大当たりとなり、さらには『支那の夜』主題歌『蘇州夜曲』も大ヒットし、女優として歌手として確固たる地位を築きます。
いつしか彼女は満州を代表し、日本との友好を象徴する存在となっていきますが、45年、太平洋戦争における日本軍の敗北によって、全てが一変します。
中国人として祖国を裏切った罪で、一時は処刑を求める声まで高まり、軍事裁判にもかけられた彼女でしたが、日本人であったことが証明され、ようやく日本への帰国が許され、46年4月に博多港に上陸しました。
–{国際的な歌手&映画女優からジャーナリスト、政治家への転身}–
国際的な歌手&映画女優からジャーナリスト、政治家への転身
かくして日本人・山口淑子に戻ることができた彼女は、日本で歌手として、女優としての活動を再開しますが、さすがに最初の頃は好調とは言えませんでしたが、『わが生涯の輝ける日』(48)、『暁の脱走』(50)などの映画出演で当時としては大胆なラブシーンを披露するなど、再び注目されるようになっていきました。
51年からはハリウッドへ赴き、『東は東』にシャーリー山口の名前で主演し、以降は日本とアメリカを往復する日々となり、53年からは香港映画に、何と李香蘭の名で出演するようにもなります。
55年にはサミュエル・フラー監督による『東京暗黒街・竹の家』ヒロインを務めます。公開当時はキテレツな日本描写が国内では不評でしたが、海外での評価は高く、今ではカルト映画として再評価されています。
56年には日本と香港合作の『白夫人の妖恋』に主演。しますが、58年の日本映画『東京の休日』を最後に映画界から離れて、外交官の夫とともに海外を転々とし、帰国後の60年代末からテレビのワイドショーの司会や、中東に赴いてアラブゲリラの取材をしたり、日本赤軍の重信房子との会見を敢行するなどジャーナリストとしての活動が多くなり、73年には参議院議員選挙に当選し、92年まで政治家として活動しました。
以降は人権問題や中国との文化交流に勤しみ、2006年には日本チャップリン協会の名誉顧問にも就任しましたが、14年9月7日、心不全で死去。満94歳でした。
彼女の死は中国でも大きく取り上げられましたが、戦争における罪を問う声よりも、エンタテイナー(特に歌手としての評価)として人々の心を癒し励ましてくれたことへの賛辞のほうが多かったのは、やはり戦後の彼女のアジアに対する真摯な姿勢も大きく影響していたのかもしれません。
なお、彼女の激動の半生は89年のテレビドラマ『さよなら李香蘭』や劇団四季の舞台『ミュージカル李香蘭』(91年初演)などさまざまな形で描かれてきていますが、本来なら映画でもきちんと描いておくべきでしょう。今からでも映画『李香蘭』の企画を望みたいものです。
(文:増當竜也)