小津映画を象徴する 伝説的大スター原節子

俳優・映画人コラム

■「キネマニア共和国」

写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.1

現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。

日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

小津映画を象徴する伝説的大スター原節子

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原節子は1920年6月17日、神奈川県横浜市保土ヶ谷区に生まれました。

小さい頃から目が大きく、“5センチ眼(がん)”といったあだ名もつけられていたそうです。

34年8月、日活大将軍で女優をやっていた次姉・光代の夫で映画監督の熊谷久虎から女優になるよう勧められ、家計の事情もあって、彼女もこれを承諾。35年4月に日活多摩川撮影所に正式入社しました。

日本人離れした美貌で活躍した戦前の少女スター時代

デビュー作は同年8月に公開された田口哲監督の思春期映画『ためらふ勿れ若人よ』。

このときお節っちゃん(節子)という女学生に扮した彼女は、滝口新太郎扮する高校生を遠くから見かけて呼び掛けるという設定の撮影に際し、「その前に何度くらいふたりは会っているのでしょう?」と質問して、田口監督を驚かせたという逸話が残されています。

ちなみに、原節子の芸名は、このときの役名からつけられたものです。

その後『深夜の太陽』(35)『緑の地球』(35)『白衣の佳人』(36)などで準主役として活躍し始めた彼女は、山中貞雄監督の傑作『河内山宗俊』(36)でさらに注目を集め、さらにはその撮影中、日独合作映画『新しき土』(37)製作のために来日していたアーノルト・ファンク監督(日本側監督は伊丹万作)に見初められ、ヒロインに大抜擢。

作品はドイツでも上映され、その折に渡欧し、晴れ着姿での舞台挨拶では現地の観客の喝采を浴びるとともに、彼女自身もそのままパリやハリウッドを回り、多くの映画人と交流したことが自身の貴重な体験となったようです。

帰国後の37年9月、J・Oに入社した原節子は、同社がすぐに東宝映画に吸収合併されたことで東宝スターとして活躍。

アメリカ映画『ステラ・ダラス』の影響が濃い『母の曲』(37)、『レ・ミゼラブル』の翻案映画化『巨人伝』(38)、アンドレ・ジッドの小説を原作とする『田園交響楽』(38)ではそれぞれヒロインを務め、西欧女性に匹敵する彫の深さや目の大きさなどから醸し出される、日本人離れした美貌をも強く印象付けることにもなりました。

しかし日中戦争や太平洋戦争の影響で、女優が活躍できる映画の製作が少なくなっていく中、彼女も『上海陸戦隊』(39)『ハワイ・マレー沖海戦』(42)『望楼の決死隊』(43)など戦争映画への出演も多くなります。

一方で松竹から東宝に移籍した島津保次郎監督に気に入られて『光と影』(40)『兄の花嫁』(41)『緑の大地』(42)など島津映画の常連となり、彼の熱心な演技指導によって着実に演技を磨き上げていくのでした。

戦後のさまざまな役柄への挑戦と巷の評価の変化

戦後に入り、原節子は時の新進監督・黒澤明の『わが青春に悔なし』(46)で戦争によって運命を翻弄されてくヒロインを見事に演じあげますが、46年第2次東宝争議に伴う組合の政治闘争化に反対する“十人の旗の会”に参加して東宝を退社。

47年に設立された新東宝の『かけ出し時代』(47)に出演したのちは、フリーとなります。

フリー第1作は、吉村公三郎監督の松竹映画『安城家の舞踏会』(47)。これがキネマ旬報ベスト・テン第1位になったことも重なって、彼女の人気は急上昇。

育ちの良いお嬢様風で、聡明かつ気品高く、それでいて嫌味なくハイカラに映える彼女は、戦後民主主義の到来を象徴するかのような存在となっていきました。

木下恵介監督の『お嬢さん乾杯』(49)や今井正監督『青い山脈』(49)もその1本でしょう。

さらには同時期、上司に犯されて破滅の道を歩む女工を演じた『時の貞操』(48)や、ギャングの凄みある情婦に扮した『颱風圏の女』(48)といった異色作にも出演。

おそらくはフリーとなり、女優として何でも挑戦してみたいといった意欲が如実に表れていた時期でもあったのでしょう。

事実、この頃から「日本人離れした美貌に、血が通うようになった」といった好意的批評も出始めるようになってきました。

なお、オフでの彼女はおっとりと清潔感を携えつつ、意外にざっくばらんな面もあり、基本的にはさばさばした性格で、口を大きく開けて笑う人であったとも伝えられています。
–{小津安二郎監督との出会いそして謎の引退}–

小津安二郎監督との出会いそして謎の引退

原節子が映画スターとして不動の地位を決定づけたのは、やはり父を残して嫁いでいく娘を好演した『晩春』(49)でしょう。
ここで彼女は初めて小津安二郎監督作品に出演しますが、小津監督自身、ここで小津調と呼ばれる独自のスタイルを確立させるとともに、以後『麦秋』(51)『東京物語』(53)『東京暮色』(57)『秋日和』(60)『小早川家の秋』(61)といった作品群に原節子を起用し、小津映画の象徴となっていきます。

なお49年度の毎日映画コンクールで、彼女は『青い山脈』『晩春』『お嬢さん乾杯』を対象作に女優演技賞を受賞。

51年度も黒澤明監督『白痴』(51)、成瀬巳喜男監督『めし』(51)、そして『麦秋』の演技で毎日映画コンクール女優演技賞、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞しています。

ちなみに『麦秋』の撮影中、原節子と小津監督が結婚するといった噂が取り沙汰されるようになり(もちろん根も葉もないデマ……のはず⁉)、これが彼女にとって初の、そして唯一のゴシップとなりましたが、こういったところから“永遠の処女”と映画ファンの間で謳われるようになっていったようです。

51年9月より再び東宝専属となって以降は(そう、意外にも彼女は松竹専属だったことが一度もないのです!)、『めし』『山の音』(54)『驟雨』(56)『娘・妻・母』(60)といった成瀬巳喜男監督作品や千葉泰樹監督の『大番』シリーズ(57~58)、稲垣浩監督による東宝映画1000本製作記念超大作『日本誕生』(59)では天照大神を演じました。

こうした活躍の中、原節子は稲垣監督の『忠臣蔵/花の巻・雪の巻』(63)を最後に、42歳で芸能界を引退。

以後、表舞台に出ることは一切なく、マスコミともファンとも一切交流を図ることはなく、現在に至っています。

引退の理由も明らかにされていません。

しかし、そういった神秘性が彼女を永遠のスターとして強く印象付け、伝説として語られ続けているのも事実でしょう。

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(文:増當竜也)