デジタルの普及により、もはや映像におけるプロとアマの差はなくなったとは、よく言われることです。むしろ、製作委員会方式によるしがらみが災いし、ときに無個性に陥りがちな商業映画よりも、インディペンデント映画のほうがより自由に、自分の描きたい映像世界を純粋に訴えられるようになってきているようにも思えてなりません。
というわけで、
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.7》
安川有果監督のインディーズ作品『Dressing UP』を採り上げてみたいと思います。
多感な少女の心の闇=モンスターの存在
『Dressing UP』のストーリーは、中学1年生の少女・育美が、自分が生まれてまもなくして逝った母親の過去を追い求めていくうちに彼女の闇に触れ、いつしか己の内包する心のモンスターの存在におののいていくというもの。
こう書くと難解な映画かと勘違いされそうですが、実際は非常にシンプルで淡々とした日常的描写の積み重ねから、思春期の入り口に達したか達していないかも定かではない、少女の不安定な心理を巧みに描出しています。
また、モンスターということで特殊メイクによるホラー的描写もいくつか用意されており、およそ68分の上映時間、見ていて飽きさせるところがありません。
日常の孤独や、あたりを見渡すとどこにでも転がっているイジメや暴力、そんな残酷な世界と常に対峙しつつ、未熟であるがゆえに繊細かつ多感な少女を侵食しようとする心の闇=モンスターとの葛藤は実にスリリングであるとともに、こういった心の闇は、実は男女を問わず誰しも持ちえるものでもあり、特に10代前半の多感な時期、現実と虚構の狭間に立たされることの不安定さは、中二病ではありませんが、どこか居心地がよかったことを思い起こさせてくれます。
「人間でなくなる前に」という不安と叫び
オープニング、新たな街に引っ越してくる育美と父を乗せた車から捉えた風景が、不穏な幻想世界の入り口を示唆しているところからして既に秀逸ですが、時折聞き取りづらい声などが彼女の心にささやきかけながら、侵食しようとするかのような音響演出も効果的です。
さらに劇中、育美と親しくなるもうひとりの少女が登場しますが、一見優等生的な彼女はおそらく自分の心の闇と対峙しきれないことに苦しんでいるかのようにも思えます。それはまた育美との対比にもなり、人それぞれの心の闇を改めて納得させられるものがありました。
男性キャラとしては、プレゼントを与えることでしか娘への愛情を吐露できない不器用な父、いじめられていることに慣れて久しいいじめられっ子が登場しますが、彼らとの断絶を通して少女の心の闘争がより鮮明になると、ひいては女と男の永遠にわかりあえない意識までもが描かれているようにも思えました
「人間でなくなる前に」
「一度ばらばらにしなければいけない」
「すべてをまっさらに」
こういった母のメッセージは、やがて逃れられない絆のように娘へ受け継がれていき、彼女はそれを実行しようとします。それはあたかも思春期テロともいえるもので、危険で醜いものではあれ、人は誰しも生きていく上で、この闇を通過せねばならないといった、あたかも青春の儀式のような説得力がさりげなくもみなぎっています。
–{インディーズから生まれた新たな才能たち}–
インディーズから生まれた新たな才能たち
監督の安川有果は撮影当時25歳。自主映画活動の中、大阪市が立ち上げたCO2(シネアスト オーガニゼーション・大坂エキシビジョン)の企画募集において、黒沢清や山下篤弘に選出されて、今回初の長編映画を監督することになりましたが、その豊かな映画的感性によって第14回TAMA NEW WAVEコンペティション部門グランプリを受賞。
ヒロイン育美を務めた主演の祷キララは撮影当時は小学校6年生でしたが、触れたら壊れそうなか細さと、逆にこちらが壊されそうなオーラの強さをもって、CO2新人俳優賞、田辺・弁慶映画祭・映検女優賞、TAMA NEW WAVEベスト女優賞を受賞しています。
こういった才能は、商業映画からはなかなか輩出できない、インディーズという自由な映画作りの中からこそ育まれてきたものでしょう。また本作の助監督だった清水艶は今年『灰色の鳥』を監督、制作の草野なつかが監督した『螺旋銀河』もまもなく公開されます。一つの作品から広がっていく映画的次世代のネットワークは、これからも注目し続けておいて損はありません。
誰もが持ちえる心の中のモンスターと、人はどうつきあっていくべきか、永遠に答えは出ないであろうが、それでも提示せずにはいられない作り手側の衝動が、痛いほど見る者に伝わってくる作品です。新人若手ゆえのつたなさも今だけの初々しい魅力として、強く一見をお勧めします。
(文:増當竜也)