映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』唯一の大きな不満と「自己犠牲」にまつわる物語を解説

映画コラム
©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

『傷物語 -こよみヴァンプ-』が2024年1月12日より劇場公開中だ。本作の魅力を、まずはネタバレなしで語ろう。

とっつきづらさはあるものの、関連作品を知らなくても楽しめる内容に

最初に申し上げておきたいのは、本作は西尾維新による原作小説およびテレビアニメ版「物語シリーズ」の他、関連作品をまったく知らなくても楽しめるということだ。

メインプロットは「吸血鬼になった少年が人間に戻るために3人の吸血鬼狩りと戦う」わかりやすいものであるし、シリーズの「エピソードゼロ」でもあるし、登場人物も4人(+敵の3人)だけというミニマムな内容なのだから。

さらに、映画館で観てこそ真価を発揮する内容だと断言できる。異空間に閉じ込められたような暗くおどろおどろしい雰囲気と、PG12指定止まりで大丈夫かと心配してしまう血飛沫飛びまくりのスピーディーな残酷アクション、そして後述する「自己犠牲」にまつわる物語を、「間」も含めてぜいたくに演出したハイクオリティーのアニメ映画として、2時間24分のボリュームの上映時間でたっぷりと味わえる凄まじい映画館体験ができるのは間違いない。

そして、アニメ制作会社「シャフト」らしいクセの強い演出が多い上に、テレビアニメ版「物語シリーズ」では膨大だった主人公のモノローグがほぼ皆無で説明が最小限になっていることもあり、(残酷描写も含め)とっつきづらさや観る人を選ぶ要素があることも否定はできない。だが、「他のアニメとはまったく違う」魅力に満ち満ちているのは間違いないので、「物語シリーズ」をまったく知らない人にこそ観てほしいとも願えるのだ。

最低限知っておけばいいのは、「吸血鬼は陽の光に弱い」という共通認識くらい。「吸血鬼もの」へのパロディまたはオマージュ的な側面もあるので、それらが好きな人にもおすすめだ。

以前に公開された3部作との違いとは?

『傷物語 -こよみヴァンプ-』は、2016年から2017年にかけて公開された『傷物語〈I 鉄血篇〉』『傷物語〈Ⅱ 熱血篇〉』『傷物語〈Ⅲ 冷血篇〉』の3部作を1本へと再編集した作品であり、今回の劇場パンフレットでは「単に編集をし直しただけではない」ことも語られている。

例えば、音楽を担当した神前暁(こうさきさとる)にとっては「半分ほどは新作」だったそうだし、編集をした場面の多くで声優の神谷浩史や坂本真綾のセリフを録り直してもいるし、尾石達也監督によると全体のカラーグレーディング(色調整)もカットごとにやり直しているという。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

3部作ではエンドロールを除いても合計で3時間以上の尺があったが、今回の映画では2時間24分と短くはなっており、特にヒロインの1人である「羽川翼」とのコミカルなやり取りがカットされている。ここは元の3部作が好きだった人にとっては否定的な声があがるかもしれないが、個人的には英断だったと思う。

コメディ要素がかなり少なくなったことで、主人公の「地獄の春休み」の物語に注力し、より没入させることに成功しているからだ。また、3部作では羽川翼のエロティックなサービスシーンもあったのだが、拒否反応を覚える方も一定数いると思われるので、それもなくなった今回のほうが人に勧めやすくなっているとも思う。

唯一の大きな不満、それは……

そんな風に、3部作を1本の映画にするために、これ以上のない工夫と取捨選択ができているし、素晴らしい作品であることに異論はないのだが……筆者個人としては「初めからこの1本の映画として観たかった」という気持ちが強い、というのも正直なところだ。

何しろ、前の3部作での大きな不満は「3作品ぶんのお金を払って」「ほぼ1年もかけて『ぶつ切り』で見せられた」ことだった。そのおかげで、今回の『こよみヴァンプ』では、「物語の最初から終わりまで集中して一気見できる」という、映画という媒体および、映画館という場所の意義を相対的により感じることもできたとも言えるのだが、やはり先に3部作を観ていたことで、少し損をした気分にもなってしまったのだ。

そのため、やはり筆者はこの『こよみヴァンプ』で初めて「物語シリーズ」や、『傷物語』に触れる人こそうらやましいと心から思う。シンプルながら、予想外の方向からの絶望も訪れる物語と、ミニマルながらハイクオリティのアニメを1本の映画として堪能できる機会を、逃さないでほしい。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

余談だが、原作の人気エピソードを長い尺をかけて描いたアニメ映画には、2010年公開の『涼宮ハルヒの消失』(上映時間2時間44分)もある。こちらも一気に観てこその満足感がある素晴らしい作品だったからこそ、今回の『こよみヴァンプ』も同様に一本の映画としてやっと公開されることを、素直に喜びたい気持ちもまた強いのだ。

「ROUGE」と「NOIR」の意味は?

アニメ制作会社「シャフト」らしいクセの演出が多いと前述したが、中でも目立つのは「文字だけを表示する」ことだろう。

今回の『こよみヴァンプ』では(元の3部作でもそうだが)「ROUGE」と「NOIR」という文字が表示されることが多い。「ROUGE」はフランス語で「赤」で、転じて劇中で飛び散る「血」を示しているのだろう。「NOIR」はフランス語で「黒」で、犯罪を描くジャンル「ノワール」や、劇中でも多い「闇」を示しているのかもしれない。

また、「ROUGE」と「NOIR」は貧しい青年の野望と恋を描いたフランスの小説「赤と黒(Le Rouge et le Noir)」を意識しているのかもしれない。他にも地下鉄の電光掲示板で表示されるモールス信号が「SOS」を表していたりもするし、文字情報がいろいろな含みを持たせているのも本作の魅力だろう。

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とはいえ、この「文字だけを表示する」のは、あくまで「間」を埋める技法であり、それ以上の大きな意味はないとも言える。あくまで独特のリズムを作るための演出だと、割り切って観てみるのもいいだろう。

さて、以下からはネタバレありで、本作がいかに「自己犠牲」へと向き合った物語であったかを解説しよう。

※これより映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』の結末を含むネタバレに触れています。

–{自己犠牲かつ、◯◯◯◯の物語}–

自己犠牲かつ、自己満足の物語

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

中盤で、羽川翼は「自己犠牲なんかじゃない。自己満足」「私くらい自分のことしか考えていない人間はいないと思う」などと阿良々木暦に告げる。これは、まさに暦によるラストの決断と同じ心情だ。

吸血鬼のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(以下、キスショット)は、吸血鬼狩りのギロチンカッターを殺し、自身が「人間を喰らわなければ生きていけない」ことを暦に見せつける。だが、それは最終的には暦に自身を殺させ、人間へと戻すための手段であったとも、暦は知る。

そのキスショットは、400年ほど前に「太陽の下に身を投げて、これみよがしに見せつけながら自殺した眷属」のことを話していた。そのキスショットは、序盤に同じように(誤って)太陽の下に出て焼かれる暦を助けていた。暦に自身を殺させて人間に戻そうとしていたのは、その過去の眷属の自殺と、彼を人間に戻してあげられなかったことを悔いていたからでもあるのだろう。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

だが、暦はそんなキスショットの望みを叶えない。キスショットは「吸血鬼の残りかす」のような存在として、暦も完全に人間には戻らない「人間もどきの吸血鬼のごとき存在」として生きることを選択する。まさに忍野メメの言う「みんなが不幸になる方法」を選んだのだ。

それが羽川の言う「自己犠牲なんかじゃない。自己満足」であることは、最後の暦の「好きでやっていることなんだから」という言葉で証明される。忍野の言う「言わばペットとして吸血鬼を飼うことを選んだ」「さして美談でもないね」も、その通りだ。

だが、暦の選択は、みんなが不幸になったとしても、これ以上誰も死なさせないという、とても尊いものでもあったと思う。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

羽川もまた「自殺は罪だよ」に加えて、「(阿良々木君は)自分が死ぬのはいいけれど、人が死ぬのは気分が悪い」とも言っていた。キスショットが人間を喰らう様を見せつけ、暦に殺させようとするのは、それこそ自殺と変わらないだろう。そして、「自殺および誰かを死ぬを阻止する」ことだけが暦の望みであったのだ。

とはいえ、「キスショットおよび暦が、これから吸血鬼に戻って人を食べるかもしれない」のも事実。真にこれ以上の犠牲者を出さないためには、それは間違った選択でもあり、やはり自己満足そのものだ。

だが、「目の前の大切な人を死なせない」というたったひとつの大きな望みは、何よりも優先されるものでもあるだろう。しかも、暦は完全に人間へと戻らないという方向で自分を犠牲にはしたものの、自殺という意味での自己犠牲を払うことはしていないし、キスショットにもそうさせなかった。この『傷物語』は「自己犠牲」と「自己満足」の両方を有する選択をすることの危うさと尊さを描いた作品とも言えるだろう。

この物語を追えば、暦の選択を完全に否定することはできないだろう。ここまで極端な出来事ではなくても、人生において「自己犠牲」と「自己満足」の両方を有する、そのバランスを考えての選択をすることは、誰にでもあるはずだ。そして、暦がこの選択をしたことに対して、単純には言語化できない人間の「業」、はたまたそれ以上の何かを受け取れることに、意義のある物語だったと思うのだ。

そして、今回の映画で前述したようにカットがされつつも、一気に観られる映画となったことで、その『傷物語』の意義を今一度確認できたことを感謝したい。そして、原作小説では(モノローグをなくした今回の映画でも伝わってはいるものの)、より詳細な繊細かつ大胆な暦の心情が綴られているので、ぜひ合わせて読んでみてほしい。

(文:ヒナタカ)