『カールじいさんの空飛ぶ家』が賛否両論を呼ぶ、だけど肯定したい「3つ」の理由

映画コラム

『カールじいさんの空飛ぶ家』は、日本では「良い作品だけど、気になるところもあるなあ」といった塩梅の意見が多く、やや賛否両論を呼んでいたと言える。その具体的な理由は後述していくが、本国アメリカでは対照的にほぼほぼ絶賛に染まっていることも興味深い。IMDbでは8.3点、Rottern Tomatoesでは批評家支持率98%など、ピクサー作品でもトップクラスのスコアなのだ。

筆者個人としては、なるほど『カールじいさんの空飛ぶ家』の好き嫌いが分かれる、不満が出てくる理由は大いに納得できる。しかし、それ以上にチャレンジングな作品の特徴そのものに感心できるし、キャラクターの背景に注目してほしいポイントもたくさんある、大切な価値観を教えてくれる優れた作品だと思えた。その理由を記していこう。以下からは本編のネタバレ全開となるので、鑑賞後にお読みになってほしい。

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※以下、『カールじいさんの空飛ぶ家』の結末を含む本編のネタバレに触れています

1:冒頭から涙腺崩壊の“人生”が描かれる

本作を観た人の涙腺を刺激する、いや崩壊させるのはカールじいさんと、その妻エリーの人生を“サイレント”手法で語った冒頭のシーンだ。

共に冒険好きだったカールとエリーは、南アメリカの秘境“パラダイスの滝”へ行くことを夢見て貯金をしていたが、車の故障やカールの骨折や台風で崩れた家の修繕といったトラブルのたびに、その貯金を切り崩していた。そして、カールとエリーは共に空に浮かぶ雲を赤ちゃんに見立てて、子どもがほしいと心から願ってもいたが、それが叶わないことを病院で残酷にも告げられる。それでもカールは飛行機のチケットを手に入れるのだが、その矢先にエリーは病に倒れ亡くなってしまう。

「自身の子どもを持つ」という幸福な出来事からは外れ、約束の地まで共に行く夢をあと一歩で叶えられなかったカールとエリー。それでも、2人はずっと同じ木の下までピクニックへ繰り返し行ったりと、誰よりも幸福な夫婦の時間が確かにあったこともわかる。これらのことが、冒険に旅立つカールの強い動機になっているのは言うまでもないだろう。

ここで思い出したのは、名作中の名作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』の“ひろしの回想”だった。人生というよりも、その人の生きてきた“証”を、言葉に頼らずに映像と音楽のみで綴ってこそ、短い時間でも最大限にその尊さを語ることができるのかもしれない。

ただ、この冒頭部から劇中でもっとも泣ける、ほとんど「最初からクライマックス」とも言えるカールとエリーの人生を描いたことそのものが、かなり大胆な構成と言える。それこそ『オトナ帝国』のように中盤で回想形式で語ったほうが、作品全体のバランスとしては良さそうにも思えるのだが、そうしなかったのだ。これが「初めはすごく良かったけど、後は別の映画みたい」「冒頭で感動したけど、後は泣けなかったなあ」など、否定的な声があがる理由にもなっている。

ただ、個人的にはこの構成は理にかなっているとも思う。何しろ表向きのカールは街の開発計画があっても、断固として家を立ち退かせず、ピクサー作品では珍しい”流血”表現まである暴行事件を起こしてしまう。ともすれば、この冒頭部でカールの人生を示さなければ、表向きには「乱暴までもする頑固なじいさん」である彼に感情移入がしにくい時間が長くなりすぎてしまってもいただろう。

また、「この冒頭部だけの短編だったら良かったのに」などと、その後が全て蛇足のように語る意見もあるが、筆者はそれには異を唱えたい。なぜなら、カールとエリーは確かに幸福な夫婦としての時間も過ごしていたが、その約束は叶えられていないからだ。ここで物語が終わるのはあまりに切ない。そして、(トーンがガラリと変わる冒険物語になることは否定しないが)その後はこの冒頭部があってこその「約束の地を目指す」物語にもなっているし、長編映画にする必要性が確かにあると思えたのだから。

余談だが、本作は劇場公開時に同時上映されていた短編『晴れ ときどき くもり』も合わせて観ることをおすすめする。ディズニー&ピクサーの短編映画は同時上映の長編の内容と“リンク”することがよくあるのだが、こちらは「赤ちゃんをコウノトリが運ぶ」ことが、『カールじいさんの空飛ぶ家』でカールとエリーが子どもを持てなかったことと“対”になっているのだ。いわゆる「隣の芝生は青い」描写も、後述する“執着”の問題ととてもよく似ていた。『晴れ ときどき くもり』はディズニープラス(Disney+)で配信中だ。

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–{おしゃべりなカールのキャラクターも賛否両論?}–

2:おしゃべりなカールを筆頭とした3人のウザキャラが仲間になる

さらに賛否両論を呼んでいるのは、少年ラッセルのキャラクター性だ。彼はおしゃべりで黙っていられない、下世話な言い方をすれば“ウザキャラ”でもある。しかも、巨大な怪鳥のケヴィンと、しゃべる装置をつけた犬のダグも勝手にカールについてくる。カールにとって、うっとおしい存在が3人(1人と1羽と1匹)も仲間というか“お供”になるという、こちらもかなり大胆なパーティ構成だ。もちろん意図的なものだが、人によっては彼らに必要以上のイライラも感じてしまいかねないだろう。

ただ、筆者はこのウザキャラが3人もいることにも、確かな意味があると思う。なぜなら、それぞれの境遇はかなり切なくて、明るく振る舞っているのも、それぞれの“虚勢”のようにも思えるからだ。

例えば、ラッセルはおしゃべりで自分勝手にも見えるが、その実ちゃんと大人に“許可”を取ってから行動する分別もある。例えば、空飛ぶ家の外で空高くから落ちてしまいかねないような事態でも、カールに「しょうがないな」と言われるまで勝手にドアの中には入らなかった。そんな彼でも「僕の秘密の話をしてもいい?」と聞いて即座にカールに「ダメだ」と断られても、結局は彼は「今までキャンプをしたことがない!」としゃべっていた。そして、その後のラッセルの言葉からは複雑な家庭事情、はっきりと「親が離婚している」ことがわかるのだ。

ラッセルは「フィリス(おそらくパパの再婚相手)はママの邪魔をするなって」「お年寄りのバッジをつけた時は、パパは来てくる」と、明らかに両親が離婚したことに寂しさを募らせている。カールに「どっちが長く黙っていられるかゲーム」を提案され、ラッセルが「僕のママもそのゲーム好きなんだ!」と答えるのは、ママが我が子さえもうとましく思ってしまった瞬間があったからなのかもしれない。

これらは、前述した冒頭のカールとエリーの人生をサイレント手法で語ったこととは対照的であり、「子どもの言葉の端々から彼の気持ちが伝わってくる」演出としても秀逸だったと思う。そんなカールが「自分の秘密の話」を許可されずとも話したかったのは、それほどまでに「自分の寂しい気持ちを誰かにわかってほしい」からだろう。

さらに、ベンも仲間の犬のアルファたちから、ものすごくぞんざいに扱われ、からかわれてきたことがわかる。「特別任務のつもりで(怪鳥を見つけに)行っている」「なんの当てもなく探しに出て、今頃無駄足を踏んでいるだろうな」などと言われているのに、「(怪鳥のケヴィンを)連れて帰ったら僕のことを好きになってくれる?」と聞いたりするベンも不憫で仕方がないのだ。

さらに男性名がつけられたケヴィンは実はメスで、我が子の元に帰りたいと願っていた。両親からの愛情に飢えていたようにも思えるカールが、母親であるケヴィンが巣に帰るまで「見届けてあげなきゃ」と願うというのも、あまりにいじらしい。

このように、初めこそウザキャラにも思えた3人には、“そうなる”だけの理由がある。個人的には、振り返ってみれば、ウザくなんてない、みんななんてかわいいんだと思えるようになってきた。その気持ちは、初めこそ3人を遠ざけようとしたとしても、彼らのために勇気のある行動をするようになるカールと一致していた。

また、子どもの頃のカールは、おしゃべりなエリーに「あなたって無口なのね。気に入った!」と言われていて、その後に結婚をする。もともと、カールはおしゃべりな誰かとも相性がいい、受け入れることができる性格だったからこそラッセルはもちろん、ダグやケヴィンとも友だちになれたと言えるだろう。

ちなみに、共同監督および脚本を務めたボブ・ピーターソンによると、ダグの「あなたに会ったばかりだけど、もうあなたのことが好きです!」というセリフは、キャンプカウンセラーだった頃に出会った小さな子どもの言葉からインスピレーションを得たそう。なんてかわいいんだ!

–{悪役の顛末に、納得がいかない人へ}–

3:冷酷無比とも言える悪役の顛末

『カールじいさんの空飛ぶ家』がもっとも賛否両論を呼ぶ理由、それは悪役のチャールズ・F・マンツの顛末なのではないか。数個の風船が足に引っかかっていたとはいえ、あの落ちるスピードの速さを踏まえれば、彼は最後に死んだのだろう。

マンツはかつて冒険家であり、怪鳥の骨が偽物と判定されたことで、冒険家協会から資格を剥奪され、名誉挽回のために「怪物を生け捕りにするまで帰らない」ことを宣言した。それ自体は憐れむべきことに思えるし、疑心暗鬼になりずっと南アメリカにいた彼の境遇は、確かに切ない。人によっては、マンツにいっさいの救いを用意しなかったこと、またカールとエリーにとって憧れの存在を悪役にしたこと自体にも、後味の悪さを感じてしまうのも無理からぬことだ。

ただ、そのマンツは明らかに人殺しでもある。彼は「傑作なウソ」などと言いつつ、「地図作りをしていた測量士」と「草木の標本集めをしていた植物学者」のヘルメットを次々に床に落としていった。マンツは一方的に彼らの目的をウソだと決めつけたあげく、命を奪ったのだとわかるのだ。

たったひとつの目的に執着し、疑心暗鬼が行きすぎた挙句に、手前勝手な理由で殺人を犯した者に、救いをいっさい与えない冷酷無比な結末は、なるほど王道のハリウッド映画的な勧善懲悪的な物語としては十分納得はできるようにも思えるのだ。(だからこそ日本の観客との評価の差異もあるのかもしれない)(そもそもマンツは潔白を主張していたが、怪鳥の骨は本当に偽物だったのかもしれない)

ちなみに、このマンツの顛末はスタッフの間でも意見が分かれたようで、いくつかのアイデアが出されていたのだという、それらは以下のようなものだ。


・飛行船での戦いの後、マンツとカールの違いを明らかにし、マンツを故郷まで送り返す案もあった(しかし、両者がただ長時間立って話すことになり冗長なため却下)

・マンツが恐ろしい迷宮に迷い込み、そこで道に迷って死ぬ(クライマックスの舞台を空にしておきたかったので却下)

・マンツがケヴィンによってカールの家に誘い込まれ、その家の中にいたたま落ちて死ぬ(エリーを象徴する家を非業の死と結びつけたくなかったので却下)

・マンツが風船に絡まるが、落下するのではなく浮かび上がっていく(顛末としては曖昧すぎるため却下)


これらの案のほうが良かった!という方ももちろんいるだろうが、筆者個人は現状のままで納得している。なぜなら、マンツは「カールがそうなっていたかもしれない」人物でもあるからだ。

例えば、カールもまた妻の死後に「ずっとその場所(家)に固執し続けて」「自分に近づいてくる者に危害を加えて(工事関係者を傷つけて)」しまっていた。だが、終盤でカールは家の中から家具を次々に投げ出してまで、ケヴィンたちを助けに向かった。

カールは、たったひとつのこと(妻のエリーに見立てた家と共に滝へと行く)だけに執着せず、(エリーとの思い出を胸にしつつ)すぐそばにいる大切な人のために行動ができた。彼が「マンツとは違う選択をした」ことが物語では重要であったし、その真逆のことをしたマンツに冷酷無比とも言える結末を用意することは、必然性があると思ったのだ。

さらに、マンツは1928年にウォルト・ディズニーの大ヒット漫画「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」の制作権を奪った、ユニバーサル・ピクチャーズの重役であるチャールズ・ミンツと名前が似ている。その後にウォルト・ディズニーはミッキーマウスを生み出して世界的な成功をしたが……そんな恨みがマンツというキャラには込められていたのかもしれない。

そして、ラッセルはおじいさんを助けた証明として、エリーのバッジ(グレープソーダのジュースの王冠)をカールから受け継ぐことができた。子どもができなかったカールとエリーにとって、その想いを受け継ぐ子どもであると共に友だちになったラッセルが、(バッジの授与式にパパはいなくてママだけがいたとしても)かつてパパとしていた「車の色を言う」遊びをすることができるということ。双方にとって、確かなハッピーエンドだ。それと同時に、誰かのために正しい生き方を選択して行動し続けてきた人たちによる、素晴らしい人間賛歌だったと思う。

おまけ:「リス!?」はいったいどういう意味?

最後にもうひとつ余談だが、犬のダグやアルファたちが、「リス!?」と驚いて振り向くというシーンがある。これは、おそらく“害獣”でもあるリスを過剰に嫌ってしまうことへのギャグなのだろう。

それでも、このギャグに「なんだかなあ」と思った方には、ぜひDisney+で配信中のスピンオフ短編アニメシリーズ『ダグの日常』をご覧いただきたい。

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こちらではダグと、まさに害獣そのものもなリスとの過酷(?)なバトルが描かれる場面があるのだから。「なるほど、犬がリスが嫌いな理由がよくわかる」と、納得ができるはずである。

参考:Up(2009) – Trivia – IMDb

(文:ヒナタカ)