映画『コーダ あいのうた』の「伝えること」の尊さと、ラストの意味を解説

映画コラム

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『コーダ あいのうた』は第94回アカデミー賞で作品賞、脚色賞、助演男優賞の3部門でノミネートされ、そのすべてで受賞を果たす快挙を成し遂げた。

同作はフランス映画『エール!』のリメイクであり、大筋の物語や一部のやり取り、家族で観ると良くも悪くも気まずくなってしまうかもしれない下ネタの多さ(地上波ではカットされるかも)は踏襲されている。だが、主人公一家の職業が酪農家から漁業従事者になっていたり、主人公の弟が兄になっていたりと、種々の変更点もある。

どちらかといえばライトなコメディだった『エール!』に比べると、『コーダ』では主人公の「切実さ」が増している印象がある。それもあって、『コーダ』は「ヤングケアラー」の問題へ真摯に向き合っていると共に、それ以外の多くの人にも開かれた「伝える」ことへの学びもある、現代で観られる意義がとても大きい作品になったと思うのだ。その理由を、初めの少しだけネタバレなしで、後半はネタバレ全開で解説していこう。

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ヤングケアラーの悩みを「自分のことのように思える」理由

タイトルのコーダ(CODA)とは「Children of Deaf Adults」の略で、「耳の聴こえない両親に育てられた子ども」という意味。主人公のルビーももちろんコーダだ。彼女は幼い頃から家族の手話通訳をしており、家業である漁業も毎日手伝っている。ある日、ルビーは合唱クラブの顧問の先生から才能を見出され、名門音楽大学の受験を勧められるのだが、結局はトラブル続きの家族を優先せざるを得なくなり、レッスンに遅刻し続けてしまう。

厚生労働省のサイトによると、ヤングケアラーとは「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものこと」を指しており、「責任や負担の重さにより、学業や友人関係などに影響が出てしまうことがある」と問題点が指摘されている。その点でルビーはコーダであると同時にまさにヤングケアラー。さらにルビーは責任感が人一倍強く、漁業の今後に関わる問題にも強く踏み込むからこそ、さらに苦しんでしまうのだ。

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この映画『コーダ』の最大の価値は、現実にもいるヤングケアラーが遭遇するその悩みに、当事者の立場で共感できることにある。加えて、「10代後半からの進路」そのものは多くの若者が遭遇する迷いであるし、そこに経済的な理由が絡んでしまうこともよくあることだろう。そのため、ヤングケアラーに限らない「若者のこれからの物語」として読み取ることもできるのだ。

また、主人公ルビーを演じたエミリア・ジョーンズは9か月をかけてアメリカ手話、歌のレッスン、トロール漁船の操縦方法まで入念に学んでいた。そのルビー以外の家族に、実際に耳が聴こえない俳優をキャスティングした意義も大きい。家族それぞれが「本当にこうして生きてきたんだ」と思えるほどの説得力があるからこそ、この『コーダ』は「自分のことのように思える」映画になったのだろう。

※これより『コーダ あいのうた』の結末を含むネタバレに触れています。観賞後にお読みください

–{「正しくない」家族が示したもの、そしてラストシーンの意味}–

「正しくない」家族それぞれの、ある種のスガスガしさ

この映画『コーダ』のさらなる特徴は、耳が聴こえない家族を、まったくもって聖人君子のような「正しい」人物としては描いてはいないこと。

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それぞれ下ネタや悪い冗談をあけすけに言ったりするし、特に父は違法のマリファナも堂々と吸ったりもしていて、むしろ間違っていることばかりだ。何より、歌が好きなルビーの気持ちをなかなか理解しようとせず、手話通訳の役割をずっと担わせようとする両親に、必要以上のイライラを抱いてしまう方もいるかもしれない。

でも、だからこそ、家族の成長の物語としても本作は感動的だ。そこには(悪い冗談は言っても)「本音で話し合える」という、ある種のスガスガしさがあるし、それぞれの悪く思えた部分が、後に“反転”していく面白さもある。

例えば、母は生まれてきたばかりのルビーに「耳が聴こえませんようにと願った」「分かり合えないと思ったから」と打ち明けるのだが、その「正直さ」があってこそ、むしろルビーと分かり合えることができた。

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そして、兄は映画の冒頭で「ボケナス兄貴」「プッツン娘」とルビーと手話で罵り合う仲だった。だが、そんな兄でも「卑屈になるな。俺たちは無力じゃない」などとはっきりとルビーに“頼らない”ことを宣言する。その直後に「お前が生まれるまで家族は平和だった。失せろ」とひどい言い分をしているように見えても、それは普段から罵り合うやり取りをしていた、兄の愛情ゆえの言葉に思えた。

父は娘の前でおならをしても悪びれないわ、性病になっても妻とのセックスが我慢できないわ、娘が連れてきた高校の同級生のマイルスの前でも性的な話をするわで、もっともとんでもない人物にも思えた。だが、だからこそ、先生が動画で覚えてきた性的な方向へ盛大に間違った手話でさえも、「分かるから大丈夫」と笑顔で許容できる、良い意味での豪放磊落さもあることが分かるのだ。

「伝えることは難しくない」という寓話なのかもしれない

このように振り返ってみると、家族それぞれは別に人が変わったわけではないし、ある意味では「そのまま」だったと言える。家族はルビーに気持ちを伝え、ルビーもまた家族に気持ちを伝え、そしてルビーは自分自身が選んだ音楽の道に進むことができる。それを大きな成長として示しているのだ。

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そう考えると、『コーダ』は聴者とろう者との関係だけに限らない、「伝えること」そのものの尊さを訴えた寓話(教訓を含む物語)を紡いでいると言える。

前述してきた通り、ルビーの家族はデリカシーのかけらもないが、裏を返せばそれは本音でなんでも言い合える仲。マイルスが自分の家族の関係を憂い、ルビーの家族をうらやむ言葉も、心からのものだったのだろう。「伝えられる」ことそのものが、嬉しいことなのだ。

くだけた感じで言えば、「伝えることは難しいと思っているかもしれないけど、実は簡単かもしれないよ」と、本作は高らかに宣言している。本作は手話でのコミュニケーションも多く描かれているが、それもまた伝えるための“手段”にすぎない、という言い方もできるだろう。

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そして、両親がルビーが歌う様を“無音”で見ていた演出、父がルビーの喉を触って歌を感じたシーンを経ての……歌が聴こえない両親へ、ルビーが手話をもって歌を伝えるクライマックスが感動的だ。「耳が聴こえない人には音楽を伝えられない」という固定観念を覆す、人によっては今まで想像し得なかった「伝え方」を目の当たりにできるのだから。

ラストのハンドサインは「愛している」だけじゃない

そして、映画の最後にルビーが示したのは「愛しています」のハンドサイン。実は、ここで人差し指を交差させていることで「“本当に”愛しています」という意味にもなっているのだ(中盤でルビーが両親へ「大嫌い!」と手話と共に言っていたことも伏線になっている)。

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やはり、ルビーとその家族は本音で言い合うことができているし、その愛情にはまったくのウソがない。それを含めて、はっきりと伝えることは、なんと美しく尊いものなのだろうか。この映画を観た後は、身近な人へ大切な何かを伝えてみたい、そう思うことができるだろう。

さらに、タイトルのコーダは、前述した「Children of Deaf Adults」だけでなく、音楽用語のコーダとのダブルミーニングでもあるのだろう。それは楽曲や楽章の終わりを示すと共に、新たな楽章の始まりにつながることもある。「これから」のルビーの人生をも鼓舞したタイトルとも読み取れるのだ。

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(文:ヒナタカ)

–{『コーダ あいのうた』作品情報}–

『コーダ あいのうた』作品情報

【あらすじ】
豊かな自然に恵まれた海の町で、両親と兄と暮らす高校生ルビー(エミリア・ジョーンズ)は、家族の中で一人だけ耳が聞こえる。ルビーは幼いころから、陽気で優しい家族のために通訳となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、ルビーは秘かに憧れるクラスメイトのマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)と同じ合唱クラブに入部する。顧問の先生から歌の才能を見出されたルビーは、都会の名門音楽大学の受験を強く勧められる。しかし、ルビーの歌声を聴くことができず、娘の才能を信じられない両親は、家業の方が大事だと大反対する。ルビーは悩んだ末、夢よりも家族の助けを続けることを選ぶが、父は思いがけない方法で娘の才能に気づき、意外な決断をする……。

【予告編】

【基本情報】
出演:エミリア・ジョーンズ/フェルディア・ウォルシュ=ピーロ/マーリー・マトリン/トロイ・コッツァー/ダニエル・デュラン/ダニエル・デュラント/ジョン・フィオーレ ほか

監督:シアン・ヘダー

上映時間:112分

配給:ギャガ

映倫:PG12

ジャンル:ドラマ/音楽

製作国:アメリカ/フランス/カナダ