2021年12月11日(土)より渋谷・ユーロスペースで公開されているブリュノ・デュモン監督作『ジャンヌ』。本作はジャンヌ・ダルクが異端者として裁判にかけられ火刑となるまでを描いている。前作にあたる『ジャネット』では、音楽をブレイクコア・ミュージシャンであるIgorrrが担当する異色ミュージカルであった。しかし、本作では荘厳な会話劇となっている。フランスの映画誌カイエ・デュ・シネマ2019年9月号における監督インタビューによると、以下のように語っている。
「彼女はとてもナイーブな少女で、すべてが可能であると信じていましたが、やがて脇に追いやられ、疑問を抱くようになります。彼女が戦争という男らしい世界に入っていき、男性や組織から見られ、判断される世界が彼女を破壊することになるのです。(中略)ジャンヌが心も体もジャネットでなくなることが必要でした。(CAHIERS DU CINEMA N.758より引用)」
『ジャネット』のようなミュージカル形式とは別のアプローチで『ジャンヌ』を制作したとのこと。つまり『ジャンヌ』は『ジャネット』ではなくなったのである。一方で、神話化されたジャンヌ・ダルクの物語を20世紀以降の音楽を使うことで民話として落とし込み、普遍的な怒れる若者とそれを抑圧する大人や社会の関係性を浮き彫りにさせた。この要素を『ジャンヌ』は引き継いでいる。
今回は、4つのポイントから『ジャンヌ』を読み解いていくとする。
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ポイント1:都合が悪い時だけ関心持たれるジャンヌ・ダルク像
神の「声」を聞いたジャネット(リーズ・ルプラ・プリュドム)は、長い葛藤の末ジャンヌと名乗り、王太子へ会いに行き、1428年のオルレアン包囲戦で勝利を収める。人々から注目される一方で、目の上のたんこぶに感じる者も少なくなかった。『ジャンヌ』では、物語の中心にいながらも外側に排除されてしまう彼女の姿へ眼差しを向けている。
甲冑を纏い、大人たちの議論に参加するジャンヌ。戦士であるジル・ド・レ(ジュリアン ・マニエ)が「半年で楽しい戦争が終わってしまう。」と語っていたことに不信感を抱く。ラウル・ド・ゴークール(アラン・デジャック)は「声は何を命じたのか」とジャンヌ本人ではなく「声」にしか興味を持っておらず幻滅する。彼女は戦争の中心にいながらも、外側へと追いやられてしまっているのだ。
合戦のシーンで、このテーマは強調される。馬に乗ったジャンヌを挟んで、フランス軍とイングランド軍が戦う。しかし、彼女を避けるように円陣を組み始め、ジャンヌはポツンと中央部分に取り残されてしまうのだ。
疎外されていたジャンヌは、敗北をきっかけに「あなたに責任がある。」と都合よく「声」ではなくジャンヌ本人に罪を押しつけ異端審問へと発展していく。イングランド側の男をも巻き込んで、ジャンヌを屈服させようとあらゆる話術を使用し彼女を追い詰めていく。密かに家を出たせいで家族の体調がおかしくなった件の罪を指摘し、君は敵を殺せと言ったよねと発言を誇張して表現する。
また難解な理論を振りかざしジャンヌが「わからない」と言うと「上手くは説明できないけれども。」とぼかす。全く恐怖を植え付けることができず苛立つ者は「お前は火刑だ。」と怒りをあらわにする。英雄と祭り上げるが、アイコンとなったジャンヌ・ダルクに目線を向けて、本人の存在を軽視する一方で、都合が悪くなったら本人に目線を向ける社会の醜悪さが露呈するのだ。
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–{ポイント2:2020年代におけるジャンヌ・ダルク像とは?}–
ポイント2:2020年代におけるジャンヌ・ダルク像とは?
すっかりSNS社会となった2020年代。大衆のアイコンとなり、一方で集団という心理的安全圏を隠れミノに揚げ足を取ったり罵声を浴びせる動きが可視化されてきた。たとえば、プロテニス選手の大坂なおみや環境活動家のグレタ・トゥーンベリが社会によって偶像化され、同時にプレーや活動に対する批判が激しくSNSで行われている。映画でもこのテーマが注目され始めている。
『ディア・エヴァン・ハンセン』 (C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.
『ディア・エヴァン・ハンセン』(21)では、ある嘘をきっかけに学校中から持ち上げられる主人公であるエヴァン・ハンセン(ベン・プラット)が破滅するまでを描いている。ここでは、SNSをきっかけに「私はあなたに救われました」と言われ、昔から友達だったように学校中の生徒がエヴァンに声をかけるが、破滅した途端にスッと人々が離れていくグロテスクさを強調したミュージカルとなっている。
第71回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したルーマニア映画『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』(21)では、学校の先生であるエミ(カティア・パスカリウ)のポルノ動画が流出したことで裁判が行われる内容。前半では、コロナ禍においてマスクをだらしなくつけている人々の光景が映し出される。一方で、後半の学校裁判のシーンでは関係者がお洒落なマスクと服で着飾って、一方的に持論をエミに投げつける。マスクをSNS上でのアイデンティティに見立てて、センセーショナルなアイコンとなった先生を餌に集団の影から暴言を吐く2020年代を風刺して見せた。
『ジャネット』でIgorrrの音楽を起用し、無視され続けてきたジャンヌ・ダルクの幼年期に着目することで神話から民話に落とし込んだブリュノ・デュモン。『ジャンヌ』では、ひたすら揚げ足を取られるジャンヌに眼差しを向ける。他の作品では群衆が見守る中、火刑にされるジャンヌ・ダルクを感傷的に描く一方で、群衆による火刑を中止し、遠くの丘の上で孤独に焼かれていく彼女の姿を捉え映画は終わる。
往年のジャンヌ・ダルク映画を批判し、さらに偶像化された者に対して、他者が都合よく本人と存在を利用してしまう様子に斬り込んだ。それは昨今のSNSで持ち上げられてしまう存在に対する風刺にも繋がっているといえよう。これは決して15世紀の物語ではなく2020年代と地続きな物語なのだ。
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–{ポイント3:世界遺産アミアン大聖堂から観る『ジャンヌ』}–
ポイント3:世界遺産アミアン大聖堂から観る『ジャンヌ』
ジャンヌ・ダルクの異端審問が行われたのはルーアンである。しかしながら、本作ではアミアン大聖堂で撮影が行われている。アミアンの情報サイトAmiens Métropoleでの監督インタビューによれば、マルセル・プルーストから影響を受けているとのこと。彼はジョン・ラスキンの「アミアンの聖書」に「大聖堂は、文字を読めない人のためにある陽光の中の聖書である。」と序文を寄せており、 その言葉に魅了された監督はアミアン大聖堂にて撮影することを決めた。
世界遺産であるアミアン大聖堂は13世紀にロベール・リュザルシュによって建てられたゴシック様式建築の最高傑作だ。入り口には上部のタンパンには最後の審判を受けるキリストの姿が彫られている。またタンパンをよく見ると、魂の重さを計る大天使ミカエルに対して、悪魔が地獄側に天秤を傾けようとしている様子が確認できる。『ジャンヌ』においてタンパンは映し出されないが、まさしくこの物語を象徴するロケーションであろう。垂直に高い聖堂内を見下ろすように撮る。重厚な側廊が画面に窮屈さを与え、遠くに小さく映るジャンヌの姿を通じて孤独を物語る。
『ジャネット』 (C)3B Productions
『ジャネット』では、神の「声」の存在を強調するため、見上げたショットが多かったのに対して、本作では大聖堂上部から見下ろすショットでもって、神の「声」の不在を表している。長く、激しい異端審問の末にフードを被ったエヴラール司教(クリストフ)の歌声が聖堂に響き渡る。捻り出すような声で「彼女は呪われた死者と一緒に地獄に行くだろう。」と歌う美しい音色は、男たちの視線を天に向かわせる。窓から差込む陽が、聖堂の豊かな空間を照らし、そこに何かがいるような気配を抱かせる。
前作においてジャンヌが見た聖人を他者は見ることができない。しかし、神のような存在を見ることはできる。「大聖堂は、文字を読めない人のためにある陽光の中の聖書である。」とはまさしくこのことだとブリュノ・デュモン監督は教えてくれた。
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–{ポイント4:他のジャンヌ・ダルク映画との比較}–
ポイント4:他のジャンヌ・ダルク映画との比較
ジャンヌ・ダルク映画は1898年ジョルジュ・アトー監督が制作して以降、セシル・B・デミル、ロベルト・ロッセリーニ、オットー・プレミンジャーなど様々な監督が挑み、現在までに30本以上もの作品が作られているという。
アプローチは実に様々である。
例えば、『月世界旅行』で知られるジョルジュ・メリエスの『ジャンヌ・ダルク』(1900)はジャンヌ・ダルクが神の「声」を聞いてから火刑に処されるまでの過程を10分程度でまとめている。本作では、強調したい人物やモノに対して彩色する演出が施されている。神がジャンヌ・ダルクの前に降り立つ場面では、神に緑と金の彩色を施しており、どこかイコンのような神秘さを感じる。この神秘的な神の造形は、『ジャネット』における森でジャンヌ・ダルクが神に出会う場面に影響を与えている。
『ジャンヌ・ダルク』配給:ソニー・ピクチャーズエンタテイメント
このオーソドックスな、ストーリーテリングを膨らませ冒険活劇としたのがヴィクター・フレミング『ジャンヌ・ダーク』(1948)とリュック・ベッソン『ジャンヌ・ダルク』(1999)であろう。前者は、『オズの魔法使』(1939)、『風と共に去りぬ』(1939)で培ったテクニカラーによる技法が映画を盛り上げている。王室の豪華絢爛な衣装はもちろん、夕陽を背に無数のやつれた兵士を配置することで、戦況が悪化していることを強調している。後者はVFXを効果的に活用するため、ジャンヌ・ダルクが聞いた神の「声」や他者が想像する彼女の見た世界の表現に力を入れている。この演出により、ジャンヌ・ダルクは望む真実を事実として捉えていたのではという視点が生まれているのが興味深い。
一方で、ジャンヌ・ダルクの物語をブリュノ・デュモンのように民話へ落としこんだ作品もある。ジャック・リヴェットが制作した『ジャンヌ・ダルク/I 戦闘 II 牢獄』(1994)では、ジャンヌ・ダルクが世話係、兵士をはじめとする周囲の人間からひたすら悪口を言われ、追い込まれていく様子が描かれており、5時間半に及ぶ上映時間の大半が会話劇となっている。男装をした彼女がひたすら耐え忍ぶ様子を通じて、戦争という男性社会において男装という鎧で自分を守り続ける必要があったことを示唆しているといえる。
『裁かるゝジャンヌ』(C)1928 Gaumont
また、ジャンヌ・ダルクの裁判に特化した作品もある。カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』(1928)、ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962)がその代表であろう。前者は、裁判で詰問されるジャンヌ・ダルクの悲痛な顔を並べることで彼女の痛みに寄り添う作品となっている。本作はブリュノ・デュモン監督が一番好きなジャンヌ・ダルク映画でもある。
『ジャンヌ』でも「顔」のショットを強調することで心理的葛藤を抽出している。『裁かるゝジャンヌ』が「顔」の映画であるのに対し、『ジャンヌ・ダルク裁判』は「声」の映画になっている。牢獄を偵察に来た者に対しジャンヌ・ダルクは淡々と話をするが、顔を見せない。生気を失ったような声と彼女の冷たい姿勢、手つきから痛みを感じさせる作りとなっている。火刑の場面では、小走りで処刑台に向かう彼女の足だけが映し出される。群衆に転ばされそうになっても粛々と処刑場に向かい、叫ぶことなく死を受け入れる。痛みの解放表現としての叫びを廃することで、声も挙げられぬ抑圧を強固にしているのである。
このようにジャンヌ・ダルクの物語は、毎回監督独自の視点によって解釈、再構築されていく。ブリュノ・デュモンの場合、ジャンヌ・ダルクの物語の本質である若き女性が社会によって踏みにじられていく様子を動の存在としての『ジャネット』、静の存在としての『ジャンヌ』とまるで蝶番のような関係で構成することで、普遍的物語に落とし込んでいる。その普遍性を前に、私は大坂なおみやグレタ・トゥーンベリといった抑圧する社会と闘う者の顔を浮かべた。
社会の代表と祭り上げられるが、嘲笑と揚げ足取りによって追い込まれていく。社会の恥部をブリュノ・デュモンは告発してみせたのだ。
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(文:CHE BUNBUN )
–{『ジャンヌ』作品情報}–
『ジャンヌ』作品情報
ストーリー
15世紀、フランスの王位継承をめぐって、フランスとイギリスが血で血を洗う争いを繰り広げていた。「フランスを救え」と言う神の声に導かれてフランス王の軍隊を率いていた若きジャンヌ・ダルク(リーズ・ルプラ・プリュドム)は、神、愛、罪、福音と祈りを説くが、その力に畏怖と疑心を持った味方の軍内部から反発が生じる。やがてイギリス側に捕らえられたジャンヌは、教会によって異端審問にかけられる。抑圧と支配の濃密な論理で迫る雄弁な男たちに対し、自らの霊性と使命に忠実であり続けるジャンヌは、告発に屈せず、反駁の叫びと沈黙で応じる……。
予告編
基本情報
英題:Joan of Arc
出演:リーズ・ルプラ・プリュドム/ファブリス・ルキーニ/クリストフ/ほか
監督:ブリュノ・デュモン
公開日:2021年12月11日(金)
製作国:フランス