冒頭、少女が新聞紙で作った自作のドレスを身に纏い、くるくると踊りながら、まるで「私のお部屋を紹介するわ」と観客を誘うかのように自室に突入する。もうこの時点でコレオグラフ、カメラワーク、当然ながら選曲も含め、何もかもが素晴らしい。
開始からおよそ1分も経っていないのに、筆者は試写室で「うわ、うわあああああああああああ!!!!!紛れも!!!!なくゥッ!!!!エドガー・ライトのぉぉっぉぉぉぉぉぉ!新作だぁぁぁぁぁあぁぁ!!!」と、ごく当たり前の事実を咆哮したい衝動を堪えるのに必死だったし、思いっきり落涙してしまった。「あんたファンだから涙腺決壊ハードル低いんでしょ」と言うなかれ。こんな幸福なシーン、映画、そして音楽と相思相愛な人間にしか撮れない。
オープニングシークエンスで踊っていた彼女の名前はエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)。英国の片田舎に祖母と2人で暮らしている。夢はファッションデザイナーで、ある日ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの合格通知が届く。祖母と一緒に喜ぶエロイーズを見るにつけ「うわ、うわぁぁあぁあっぁぁ!!!!!あるよあるよ俺もこの経験あるよ服飾の専門学校に合格して東京に出るんだつってさぁ!!!!!あの!!!ときの!!!!!感じぃぃっぃぃぃ!」と再び叫びたくなる気持ちを必死に抑えつつ、やっぱり落涙した。
「素人があのクオリティのドレス作れるわけないでしょ。あんた映画評書いてんだからちゃんと観測しなさいよ」と言うなかれ。一応服飾専門学校卒なので、あのドレスがどの程度のスキルで作られているかくらいは判断できる。念の為渋谷パルコで確認してきたが、ハイスキルである。エロイーズが仕立てるのは無理だろう。だが、ドレスのクオリティなど高かろうが低かろうが何の問題もない。
正直、映画評を書くにあたって自分に引き寄せて鑑賞するのは禁忌なのだが、筆者は5分で「こんな面白い映画……もう……仕事として観なくても……いいかな……」と諦め、以後夢中で鑑賞した。
結果どうだったか。もう最高である。エドガー・ライトへの感謝の気持ちが抑えきれず「これはもう映画評書くだけでは収まらん」と、思わず昭和ホラー映画風ポスターまで作成してしまった。
公開日にあわせてTwitterに投稿したところ、エドガー・ライトが2分で反応。当然筆者の彼に対する好感度はストップ高に達した。
これはもう恋だと言ってもいい。だが本記事は映画評だからして、手心を加えるなど言語道断である。でも、褒めるところしかないんだなこれが。
つっても書かねばならぬことがある。本作は様々な要素が徹底的に対置され、混じり合う
上述した理由からIQを80くらい下げて「うわぁ〜!楽し〜い!」と鑑賞したものの、仕事としてある程度中身のあることを書き、気の利いたパンチラインくらいはのこさねばならない。本作はエドガー・ライト自身が「後半の展開」について箝口令を出しているので、その辺りは避けるとして、大まかな構造について触れていきたい。
本作は、様々な要素が徹底的に対立というか、対置されている。主題である現代と過去、愛と憎悪、60年代ロンドンの光と闇、男と女、そして現代と60年代の音楽。エドガー・ライトは本作の公式サイトにて、以下のように語っている。
「ロンドンには愛憎入り交じった感情を抱いている。残酷にも美しくもなる街だ。絶えず変化し続けてもいる。過去数十年を美化するのは簡単なことだ。自分が生まれてなかった時代だとしても、“活気あふれる60年代にタイムトラベルできたら最高だ”と考えても許されるかもしれない。だけど、そこには頭から離れない疑問がある。『でも本当に最高かな?』…特に女性の視点で見るとね。60年代を生きた人と話すと、大興奮しながらワイルドな時代の話をしてくれるんだ。でも、その人たちが語らない何かのかすかな気配をいつも感じる。もし尋ねれば、彼らは『厳しい時代でもあった』と言うだろう。だから、この映画の主眼は、バラ色の光景の裏に何があるか、いつそれが現れるかを問うことなんだ」
本人が語るとおり、本作は特に60年代ロンドンのきらびやかな側面と、不道徳な側面を徹底的に対比してみせる。だが、対比だけでは終わらない。前述した過去、愛と憎悪、60年代ロンドンの光と闇、男と女、そして現代と60年代の音楽は、エロイーズとサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)がシンクロするように、見事に交わり同期する。
肝心要のポイントであるエロイーズとサンディのシンクロ描写はもちろん素晴らしいのだが、それ以上に白眉なのが音楽の使い方である。エドガー・ライトは映画作家のなかでもトップレベルの選曲スキルがあり「どこでどんな曲を、どう使うか」にも長けている。
なので、本作の選曲も当然ながら素晴らしい。ただ唯一、曲のネタバレも面白みを半減させてしまうかもしれないので少々ボカすけれど、The Whoの「とある曲」が流れるシーンがある。あそこだけはもう少し爆音で響かせて欲しかった。
それはさておき、サンディはBeatsのヘッドフォンで60年代の音楽を聴く。「毎回ガジェットの使い方がお上手ですなぁ」と手放しで称賛したくなるが、それが霞むほど、もう、ものすっごいのは寮でパーティーが行われるシーンでの音楽、そしてヘッドフォンの使い方である。
エロイーズは寮に入るのだが、寮友には服がダサいとか話がつまらないとかで田舎者扱いされ、ちょっとしたハブにされる。その寮でパーティーが開催されることとなる。けれどエロイーズには居場所がない。
会場となった部屋では爆音で現代の音楽が流れており、彼女は隅にあるソファーに沈み込み、Beatsのヘッドフォンを装着し60年代の音楽を再生する。するとなんと、現代の楽曲と60年代の楽曲の低音が完全に同期するではないか。ここが凄まじい。「うわぁぁぁぁぁぁ!同期ぃぃぃぃぃしてるぅぅうぅぅっぅぅ!」と叫ぶどころかあまりの衝撃に「うわぁ……しゅごいぃぃ……」と5歳児くらいまで退行してしまった。
エドガー・ライトはこれまでの作品でも完璧な選曲家として振る舞ってきたし、ネクストレベルな選曲をしてきたが、本作においては映画における曲の使い方も一段上のレベルに引き上げた。これだけでも観る価値がある。
ネタバレ回避に腐心しつつも、ひとつだけ核心に言及するならば「安心してください。いつものエドガー・ライトです」
構造についてもう少し言及する。エドガー・ライトファンの方には若干のネタバレになってしまうかもしれないが、本作の核心について一言だけ記すならば、「安心してください。いつものエドガー・ライトです」である。
本作を過去作と比べてみると、『ベイビー・ドライバー』や『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』、『ショーン・オブ・ザ・デッド』よりも、比較的『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-』『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』に近い。
で、エドガー・ライト作品は終盤になるにつれ、今から破滅的に適当な表現をするが「あれ? あれ? ああ! wwwwwwww」というケースがほとんどだ。
要はタランティーノのように「溜めに溜めてついに限界を迎えたときに、物凄いスピード感をもってドンパチをはじめる」みたいなもので、つまりは「なんか我慢できなくなる」と書いた方が適切だろうか。
この「あ、今、我慢の限界超えたな」というエドガー・ライト・マナーが本作でも出ているかどうかが心配で「試写の感想とか読んでると、もしかしたら俺たちのエドガー・ライトが遠くに行ってしまったのでは」と、インディーズバンドがメジャーデビューした時にファンが考える余計なお世話みたいなものを焼いていたのだが、終わってみれば「いつものエドガー・ライト」だったので、ファンとしても大満足である。逆に一見さんには新鮮に映ることだろう。
これが彼の癖なのか、それともファンサービスの一環なのかは判断つかないが、『ラストナイト・イン・ソーホー』も過去作と同様に、エドガー・ライトがガッツリ刻印されており、何なら過去作とのシンクロも感じるほどなので、安心してご覧いただきたい。
ところでエドガー・ライトって、なんだか「こっち側」の人のような気がしませんか
思えば、エドガー・ライトはいつでも「こちら側」の人間だったような気がする。映画館の暗闇で隣に座っている人が映画を撮っているようなものだ。彼は映画作家である以前に映画ファン、音楽ファンである。そんなもん皆同じかもしれないが、おそらく、エドガー・ライトはそこに「映画や音楽に救われたことがある」リージョンが加わる。同族としてはジョン・カーニーが居る。映画や音楽によって救済されたことのある人間が制作する作品だからして、『ラストナイト・イン・ソーホー』は強い浄化の力を持っている。ホラー映画なのにである。
正直、冒頭シーンで泣いたとき、「ああ、平気な面して暮らしてたけど、けっこうコロナで食らってたんだな」と、考えたこともない言葉が浮かんだ。これだけでも浄化されている。筆者は本作によって浄化され、映画に救われた経験がまたひとつ増えた。ありがとう、エドガー・ライト。
※これより作品のネタバレを含んだ内容に触れています
–{追記:以上、激賞したのだが少しだけ追記(若干ネタバレあり)}–
追記:以上、激賞したのだが少しだけ追記(若干ネタバレあり)
と、激賞してきた『ラストナイト・イン・ソーホー』なのだが、感想を友人(女性)とやりとりしていて、正直「やっぱこれ、触れといたほうが良いよなぁ」と感じたので、以下記しておく。
本作は前半のタクシーのシーンを皮切りに、結構エグい性暴力が頻繁に描写される。また映像もフラッシュバックするような演出が繰り返される。なので、過去にそういった経験がある方が鑑賞すると、辛い思いをしてしまう可能性がある。
本コラムは「いやあ、最高っすよ」方向で進めていたものの、やはり結構な尺が割かれている搾取の構造については、一筆入れておいたほうがフェアであると判断した。
とはいえ、エドガー・ライトは過激な、人によってはフラッシュバックするような描写を「道具」としては使っていないし、真摯に、優しい眼差しをもって描いていたと筆者は見積もる。
だが本作は、極論として登場するほとんどの男性が殺傷されるものの、結果として男は得するのみである。「殺されたから復讐完了でしょ」とはいかないだろう。なぜなら、サンディの人生は死ぬよりも遥かに辛い生き地獄であり、あまりにも哀しい物語だからだ。なにせ殺されてしまえば、ネオン管のライトが切れるように苦しみは終わる(場所に囚われて成仏できない=死後も苦しむ、という見解は除外する)。正直、この点だけは「(クライマックスに至るための)いつものエドガー・ライト」として駆動するための潤滑油として使われていたような気がしてならない。願わくば、もう少しだけ彼女を救済して欲しかった。
以上、追記である。危うく劇中に登場した男性になりかけていた筆者に、「見て見ぬ振り」をさせてくれなかった友人に感謝を。あとエドガー・ライト、俺のインスタアカウント名を間違ってシェアしてるからできれば修正してください。
(文:加藤 広大)
–{『ラストナイト・イン・ソーホー』作品情報}–
『ラストナイト・イン・ソーホー』作品情報
【あらすじ】
ファッションデザイナーを夢見るエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、ロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学。だが、同級生たちとの寮生活に馴染めず、アパートで一人暮らしを始めることに。そんなある日、エロイーズが眠りにつくと、夢の中で、60年代のソーホーにいた。そこで歌手を夢見る魅惑的なサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)と出会ったエロイーズは、身体も感覚も彼女とシンクロしていくのだった。夢の中の体験が現実にも影響を与え、充実した日々を過ごすエロイーズ。タイムリープを繰り返す彼女だったが、ある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。さらに現実では謎の亡霊が現れ、次第にエロイーズは精神を蝕まれていく……。
【予告編】
【基本情報】
出演:アニャ・テイラー=ジョイ/トーマシン・マッケンジー/マット・スミス/テレンス・スタンプ/マイケル・アジャオ ほか
監督:エドガー・ライト
脚本:エドガー・ライト/クリスティ・ウィルソン=ケアンズ
映倫:R15+
製作国:イギリス