Netflixで配信中のドラマ『イカゲーム』が空前の大ヒットをしている。世界90カ国以上で「今日のTop10」の1位を記録し、配信開始後わずか28日で1億1100万人の視聴者を獲得。TikTokで関連動画がバズることでさらなるブームを呼び、女優のチョン・ホヨンのインスタグラムが2000万人以上のフォロワー数を獲得するなど、まさに世界的な熱狂を生んでいるのだ。
ここまでの社会現象となった理由は、ビジュアルが鮮烈でコスプレがしやすい(=さらにSNSで注目される)、物語が複雑でなく理解しやすい、キャラクターが個性的、残酷な内容がさらに話題を呼んだ、などさまざまな要因が考えられる。その中でも、「(韓国の)貧困を風刺した内容」であることは大きいだろう。詳しい理由は後述するが、劇中のゲームが「子どもの遊び」であることも、その風刺をさらに強烈に突きつけることに成功していた。
そして、配信開始から1ヶ月以上が過ぎた今、かなりの賛否両論も巻き起こりつつある。面白いことに、その否定的な感想にこそ本作の本質が表れている、実は賛否どちらの意見も作品のテーマをストレートに受け取っているのではないか、と思わせたのだ。
そして、これから『イカゲーム』を観る人には「まずは第6話まで見てほしい」と切に願う。筆者個人は序盤のゲーム以外の長めのサブエピソードにあまりノレなかったのだが、その第6話の鮮烈な内容に完全にノックアウトされ、「このために、この物語はあったんだ」と膝を打ったからだ。その後はのめり込むように最終話の第9話まで一気観して、掛け値なしに傑作であると賞賛することができた。
以下より、『イカゲーム』本編のネタバレを避けつつ、賛否両論の意見こそに作品の本質が表れている理由を解説していこう。とは言え、次第に浮かび上がる作品のテーマについては記しているので、何も予備知識がないまま観たいという方は、先に本編をご覧になってほしい。
1:「子どもの遊び」は「大人の世界(社会)」の残酷さを示すにある?
『イカゲーム』ははっきりと「デスゲームもの」だ。それは集められた登場人物が「負ければ死ぬ(もしくは凄まじいペナルティが課せられる)」過酷な環境で死闘を尽くすというもので、日本では特に人気にあるジャンルと言える。
例えば、中学生たちが殺し合う凄惨な内容のため映画化の際に国会で論争を巻き起こした小説『バトル・ロワイアル』、莫大な賞金または借金が登場人物の行動原理になるマンガ『賭博黙示録カイジ』や『LIAR GAME』、はたまた理不尽な戦いに参加させられるマンガ『GANTZ』などを思い出す方は多いだろう。実際にファン・ドンヒョク監督は日本のマンガのファンであり、これらの作品からの影響を認めている。
言うまでもなく、デスゲームというジャンルそのものに新鮮味はない。初めのゲームが「だるまさんがころんだ」というのは、奇しくも映画化もされたマンガ『神さまの言うとおり』と同じであったりもする(こちらは監督が影響を否定している)。
だが、『イカゲーム』が他のデスゲームものと一線を画するのは、ゲームが「子どもの遊び」で統一されていることではないか。タイトルのイカゲームは冒頭から韓国特有の子どもの遊びであると説明されるし、初めの「だるまさんがころんだ」以外のゲームもまた「ああ、子どもの頃に遊んだよねぇ」と、本来であれば懐かしむものだったりするのだ。
だが、その子どもの遊びのはずのゲームで、当然のように「負ければ死ぬ」のである。この理不尽さ、単純さこそが本作のキモであり、同時に賛否両論の理由だ。他のデスゲームものでは智略が必要なルールの詳しい説明がされたり、激しい頭脳戦の末に相手を打ち負かすカタルシスがあったりもするが、この『イカゲーム』にはそれが全くと言っていいほどにない。ゲームが「単純で深みがない」どころか「幼稚」と言い切ってもいい内容になっているのだ。
では、なぜ『イカゲーム』がそのような子どもの遊びをフィーチャーしたのか。それは、相対的に「大人の世界(社会)」の残酷さを示すためにあるように、筆者個人は思う。
子どもたちが毎日のようにしている遊びは、それ自体は人の生き死には関わることはない。勝っても負けても「楽しかった〜!」という無邪気な気持ちだけが残るだろう。だが、社会で生きている、我々大人はどうだろうか。日々の仕事そのものが自身の人生や生活にも深く関わっており、大きな失敗をしてしまったりしたら、それこそ生き死にも直結してしまうこともあり得る。大人はある意味で、毎日のように勝ち負けのあるゲームをしているとも言える。劇中のゲームは、その大人の残酷な世界を、子どもの遊びに置き換える形で示したもの、とも言えるではないか。
また、(劇中でそのようなゲームがあるわけではないが)子どもの頃に「白線を踏みながら歩いてどこまで行けるか?」という遊びを、「落ちたらサメに喰われて死ぬ」といった設定でやってみたことはないだろうか。そのような子どもじみた妄想を、大人が「本当にやってみた」という滑稽さと理不尽さが、本作には確実にある。最終話の第9話で「黒幕」と呼ぶべき人物が話していることを鑑みれば、それは明白だろう。
劇中のゲームを「単純かつ理不尽でつまらない」と否定的に感じるのは、実はストレートに作品を受け取っている、ということでもあるだろう。だが、そのゲームが単純かつ理不尽というのは作品の意図そのもの、劇中最大の皮肉として効いていると思うのだ。それは、次の項で記す韓国の貧困の現状や、キャラクターの個性を相対的に浮き彫りにもしていた。
–{「選択の余地などない」貧困に対する欺瞞が描かれていた?}–
2:「選択の余地などない」貧困に対する欺瞞が描かれていた?
『イカゲーム』の劇中で、主催者側がしきりにゲームの参加者は「平等」であると、誰にでもチャンスを与える「公平さ」があると訴えているというのも皮肉的だ。ゲームは前述してきた通り、それ自体がくだらない子どもの遊びである上に、体力を求められる場面も多いため女性やお年寄りにとっては不利にも思えるし、時には運に大きく左右されることもあるのだから。
その時点で主催者側が訴える平等や公平さは「欺瞞」以外の何物でもないのだが、それに関する強烈な風刺が第2話にある。実は「参加者の過半数が賛成すればゲームを中断できる」という規約が提示されており、それに則って投票を募る場面があるのだ。
この投票の結末は、ぜひその目でご覧になってほしい。そこから導き出されるのは、「貧困者には選択の余地などない」という、さらなる残酷な事実だった。
何しろ、登場人物それぞれが現実で深刻な経済的な悩みを抱えており、彼らには「負けたら死ぬが勝てば莫大な賞金が得られるゲーム」への参加が「生きるために必要」になっているのだ。投資に失敗した秀才、弟のために大金が必要な脱北者の女性、妻と娘を養う必要にかられているパキスタン出身の男性、それぞれが厳しい格差社会の「犠牲者」とも言える人物ばかり。ギャンブルで金を失う主人公や、組織に追われる武闘派ギャングという「自業自得」な人物も中にはいるが、やはり根底には資本主義の社会で「負けた」ことが理由にある。
劇中のゲームの主催者は、そんな人生どん詰まりの参加者たちに、「民主的な投票」により、「イヤだったらゲームを辞めてもいいですよ」と、「選択肢を与えてあげている」のだ。貧困の真っ只中にいる彼らには「どうせこっちしかない」状態になってしまっているのにも関わらず……。
これらの主催者の欺瞞を、現実の社会を牛耳る為政者や権力者たちの姿に置き換えることもできるだろう。「皆さんのことを考えている」や「私たちは真摯に尽くしている」と口では言っていても、実際に行われていることは「全く事態を好転させるものではない」や「むしろ選択肢のなさを痛感させられる」ことは、現実の社会でよくあることではないか。
劇中の投票は、権力者の「お前らのことを考えてやっている(どうせこっちの思うようにしかならないがな)」という、欺瞞にまみれた「結局は優位に立つことが決まりきっている譲歩」のイヤらしさを感じさせるである。その他にも「ゲーム中ではない就寝中に襲ってもお咎めなし」という放任ぶりがあり、それも「そこまで面倒を見るわけがないじゃん」という、やはり絶対的に有利な立場にいる者の欺瞞にしか見えない。
3:さらなる欺瞞を暴く、第6話の衝撃
そのように劇中のゲームは欺瞞に満ち満ちているのだが、第6話ではさらなる衝撃が訪れる。今までのゲームでも感じていた理不尽さが、さらにとんでもない方向へと突き抜けたのだから。参加者たちがどのような試練に挑むかは……ぜひ、実際に観て確認してほしい。「夕暮れ」が映えるセット、次第に焦燥感が増していく画作りも圧巻だった。
さらに恐ろしいのは、これまでで最大の試練、いや絶望を与えるこのゲームで、参加者たちの「本質」が暴かれていくことだ。特にお人好しであり、持ち前の気運で勝ち残ってきた主人公の、情けなさ、その小賢しさが、どうしようもなく「人間らしく」て大いに感情移入をしてしまった。彼のことを卑怯だと罵るのは簡単だが、彼と同じようなことをしないとは、誰にも言い切れないのではないか。
さらに、その良い意味で最悪の展開を迎えたその6話以降は、つるべうちのようにさらなる過酷なゲームが続いていく。ゲームそのものが子どもの遊びだからこそ、「こんなにくだらないことで死ななきゃならないのか」という皮肉が、やはり『イカゲーム』という作品には通底している。本来は、人の命以上に大切なものは、この地球上に1つもないはずなのに……。
–{賛否どちらも同じことを言っているかもしれない}–
まとめ:賛否どちらも同じことを言っているかもしれない
世にあるデスゲームものはインモラルかつ残酷なようでいて、人の死を強く意識させることで、相対的にの命の尊さを、もっと言えば「生きる意味」を考えさせてくれる、実は教訓を与えてくれるジャンルではないか、とも思わせる。『イカゲーム』ではそのことを、「子どもの遊びで負けたら死ぬ」という理不尽さ、それと相対する深刻な貧困に置かれた登場人物の状況を丹念に示すことで、デスゲームものの中でも頭一つ抜きん出た説得力を持たせているのではないか。
『イカゲーム』が賛否両論を呼んでいる理由を改めて記すと、ゲームが子どもの遊びであるため単純かつ理不尽であり、主催側が参加者に選択肢を与えるようで実は欺瞞に満ち満ちているといった、端的に言って「胸糞が悪い」ことにもある。それを「つまらない」と思えば否定的になるし、それを「面白い」と思えば肯定的にもなる。実は賛否どちらも同じことを言っているのではないか、とも思うのだ。
また、前述したように登場人物はそれぞれが(特に韓国の)貧困を体現した存在であるが、だからこそ「ステレオタイプすぎる」という批判もあるようだ。筆者個人としては、これには悪い印象はない。貧困の実情をわかりやすく、デフォルメして示すことで、ストレートに問題の当事者意識を持ちやすくなっていると思うからだ。情けないが確かな善意も持つ主人公を筆頭に、表面的な印象だけにとどまらない、豊かな人間性を描くことにも成功していると思う。
もちろん、これら以外の理由で否定的な感想を持つ方もいるだろう。だが、それはそれで良いことではないだろうか。『イカゲーム』の物語に触れれば、良いにせよ悪いにせよ、貧困の先に待ち受ける「死の淵」にいる人間の存在を意識できる。そして、どんな作品でも否定的な感想を持つということは、その人の大切している価値観を再確認できたということでもあるからだ。例えば、結果として「人の命が薄っぺらく感じる」などと思ったのであれば、それはしっかりと人の命の大切さや、貧困などの社会問題を誠実に考えている、ということでもあるのだろう。
ちなみに、監督と脚本を務めたファン・ドンヒョクは2011年に『トガニ 幼き瞳の告発』という、実際の社会問題、それも障害を持つ児童への性的虐待という最悪の事件を元にした映画を作り上げている。監督自身が、社会問題を映画に昇華させて提示する、気骨のある作家というのは間違いないだろう。
その他にも、アカデミー賞作品賞を受賞したポン・ジュノ監督作品『パラサイト 半地下の家族』(19)も格差社会の問題をブラックユーモアを通じて描く内容であった。確かな娯楽性がありながらも、しっかりと観た人に社会問題を考えさせる韓国のエンターテインメント。そのハイクオリティぶりと高評価の理由は、そこにもあるのではないだろうか。
おまけ:『今際の国のアリス』も要チェック
この『イカゲーム』の前、2020年にもデスゲームもののドラマがNetflixで展開していた。日本のマンガを原作とした『今際の国のアリス』である。『イカゲーム』ほどの話題にはならなかったものの、そちらの大ブームもあって世界各国の「今日のTop10」に再浮上しており、かなり高い評価も得ているようだ。
こちらは、うだつの上がらない青年とその友人が、突如異世界に送られ、次々と智略や体力を必要とするゲームに挑むというもの。まずは第1話の、巨大セットにより実現した「渋谷から異世界への転送シーン」の長回しが圧巻なので、ここだけでも観てほしい。この巨大セットは、後に日本映画『サイレント・トーキョー』や中国映画『唐人街探偵 東京MISSION』でも使われている。
原作の再現度、リッチな画、山崎賢人や土屋太鳳を筆頭とした豪華キャストの熱演、地上波放送では不可能な残酷描写と、全方位的に優れた内容だ。緊急事態になるほどにテンポが鈍重になるという欠点もあるにはあるが、中盤からのゲームの規模の大きさ、そして「空手水着美女VS日本刀全身タトゥー男」という異色すぎるバトルには涙が出てくるほどの感動があった。
『アイアムアヒーロー』(16)や『キングダム』(19)など、マンガの実写化作品の成功例をいくつも作り上げた佐藤信介監督の力が遺憾無く発揮されている快作と言っていいだろう。『イカゲーム』とはデスゲームものというジャンルは同じでも、全く異なる魅力のある作品として、ぜひ『今際の国のアリス』も楽しんでほしい。