『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』レビュー:今、なぜか大島渚!

ニューシネマ・アナリティクス

■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」

今、なぜか大島渚……。

などと、かつての角川映画の名惹句を真似したくなるような現象が今起きています。

「大島渚全映画秘蔵資料集成」(大島渚プロダクション 監修/樋口尚文 編著)が国書刊行会より5月に刊行予定で、それに先駆けて渋谷シネマヴェーラでは4月に特集上映を開催。

そして2021年4月24日現在『戦場のメリークリスマス』4K修復版がヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野舘ほかにてリバイバル公開中。

2021年4月30日からは『愛のコリーダ』修復版が公開予定であります。
……が、今回の緊急事態宣言を受けた東京・大阪・兵庫・京都の映画館は休業対象となってしまうことから公開延期となる可能性も出てきましたので、今後の動向に関しましては公式サイト https://oshima2021.com/ の情報や、各上映劇場にお問い合わせください。

『戦場のメリークリスマス』は本日現在、また宣言対象外県でも公開中ですので、記事はこのまま書き進めさせて頂きます)

今、なぜ大島渚なのか? 

彼の映画を見たことのある方なら、そして彼が生きてきた時代に間に合った方なら、何となくそれは理解できることでしょう。

『愛のコリーダ』へ至るまでの大島監督の反骨のキャリア

まずは大島監督の経歴をざっとおさらいしてきたいと思います。

1932年3月31日、岡山県に生まれた彼は、6歳で父を亡くしたことで、母の実家の京都へ移住。

1950年、京都大学に入学し、京都府学連委員長として学生運動に携わり、同時に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っています。
(この時期、演劇を通じて東京大学の佐藤純彌など、後に映画演劇の世界へ飛び込む同世代とも多数関わっています)

1954年、松竹に入社し、大船撮影所で助監督して大庭秀雄や野村芳太郎らに就き、1959年に『愛と希望の街』で監督デビュー。

従来の松竹大船調から激しく逸脱したアヴァンギャルドな内容の流れは翌1960年『青春残酷物語』『太陽の墓場』にも継承されるとともに当時の若い映画ファンの支持を集め、当時フランスで勃興していた映画運動になぞらえて「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手として篠田正浩や吉田喜重らとともに注目されるようになっていきます。

しかし同年『日本の夜と霧』が公開4日後に松竹の勝手な判断で打ち切りとなったことに大島監督は激しく怒り、1961年に松竹を退社。

その後「創造社」を設立し、映画のみならずテレビ・ドラマやドキュメンタリーなど幅広く映像活動を展開。

『白昼の通り魔』(66)『絞死刑』(68)などその多くは政治的もしくは社会派的題材をモチーフにした内容で、当時の学生運動の気運などとも呼応し合いながら彼の評価はさらに高まっていき、1971年『儀式』はキネマ旬報ベスト1になりました。

1972年『夏の妹』を最後に創造社を解散。

そして、この後から大島渚は一気に世界へ躍り出るようになるのです。

–{ただただ人間同士が愛し合う『愛のコリーダ』}–

ただただ人間同士が愛し合う『愛のコリーダ』

『絞死刑』『少年』(70)『東京战争戦後秘話』(70)『儀式』がそれぞれカンヌ国際映画祭監督週間部門に、『夏の妹』がヴェネツイア国際映画祭に出品されるなど、世界への飛躍を試みるようになっていた大島渚。

それまで政治・社会的題材を多く採り上げてきていた彼がフランスとの合作で臨み、1976年に発表された『愛のコリーダ』は、愛する男を殺害し、その男根を切り取るという戦前の一大スキャンダル事件として知られる安部定事件の映画化でした。

もっともこの事件は『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』『実録安部定』といった映画でも描かれています(その後も『SADA~戯作・安部定の生涯』など数多く映画化されています)。

しかし『愛のコリーダ』は日本でタブーとされるSEXシーンの本番行為、および局部をあからさまに撮影するという手法に打って出たのです。

このため公開当時の日本ではハードポルノとして大きく騒がれましたが、そういったシーンはすべてボカシの入った修正版としての公開を余儀なくされました。

また本作のシナリオ写真集がわいせつ文書図画にあたるとして、監督と出版社社長が検挙起訴される「愛のコリーダ」事件も勃発しましたが182年に無罪として結審。

この裁判のときの大島監督の発言「わいせつがなぜ悪い!」も当時は話題を集めたものです。

このように日本ではハードポルノ的な次元でスキャンダラスに騒がれがちだった『愛のコリーダ』ですが、性描写がオープンなフランスなど海外では「愛の映画」として正当な評価を得ました。

そのことはおよそ45年の時を経て、まだまだ解禁とはいかないまでも、ある程度までの描出が可能となった現代日本の感覚でこの作品を見据えると、これが「ただただ愛し合う」映画であることが理解できるかと思われます。

この映画、108分の上映時間の大半は男女の絡み合いを描いていますが、それはポルノチックな意味合いでのSEXシーンとは一線を画した「愛情の確認行為」として徹底されています。

女=安部定(松田英子)は狂おしく求め続け、男=吉蔵(藤竜也)は己の限界までそれを優しく受け止め、応え続けていきます。

ふたりの絡みをずっと見ていくにつれ、恐らく多くの観客は「うらやましい……」と憧れることでしょう。

その意味ではハードでも何でもなく、実に優しい愛の作品であり、また男性目線によるわいせつ感も実は皆無で、その意味では男女平等の目線で貫かれていることも今なら理解できるはずです(本作に意外と女性の支持者が昔も今も多いのは、そのせいと考えられます)。

また、そうした男女を結びつける象徴として、ここでは男根が大きくクローズアップされていきます(逆に女性の陰部があからさまに映ることは意外に少ない)

つまりこの作品、人間同士の愛の行為を描くためには、その結びつくツールでもある男根を映さないと成立しないことを悟った大島監督が、日本国内では下世話に騒がれることを覚悟の上で取り組んだ作品であったといえるでしょう。

今の、特に若い世代ならば、そのことをスムーズに理解していただけることかと思われます。

本当にこの映画、「ただただ愛し合っている」事の美しさを描いた作品なのです。

–{黒地に白文字のエンドタイトルまで美しい『戦場のメリークリスマス』}–

黒地に白文字のエンドタイトルまで美しい『戦場のメリークリスマス』

さて、『愛のコリーダ』は第26回カンヌ国際映画祭監督週間部門に出品され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞および英国映画協会サザーランド賞を受賞。

こうした世界的評価を経て取り組んだ次作が、やはりフランスとの合作『愛の亡霊』(78)です。

不倫した妻が愛人と共謀して夫を殺害し、やがてはともに堕ちていくストーリーは前作と似た部分もありますが、性描写はぐんと抑えられてドラマ性も強調。

この作品で大島監督はついに第32回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞しました。

しかし、海外の評価は国内の映画製作になかなかプラスをもたらしてはくれません。

この後大島監督は東映で『日本の黒幕(フィクサー)』の監督に抜擢されるも、脚本の最終段階で折り合いがつかなくなり、降板(映画は降旗康男監督が1979年に完成)。

そして次に取り組んだのが『戦場のメリークリスマス』(83)ですが、こちらも製作は難航し、交渉していたキャストは次々とスケジュールの折り合いがつかなくなって降板。

(当初はロバート・レッドフォード、滝田栄、緒形拳といった俳優陣にオファーがなされていました。日本人ふたりに関しては共にNHK大河ドラマの主演依頼があったことでスケジュールの折り合いがつかなくなり、出演が叶わなくなりました)

こうした中、デヴィッド・ボウイが快く出演を承諾してくれたのも、大島監督の世界的名声の高まりとも無縁ではないでしょう。

また、日本側キャストも既成の俳優ではなく坂本龍一とビートたけしを抜擢するという大英断は、当時の若者たちに一気にこの映画への期待を募らせてくれました。

特にビートたけしは当時パーソナリティを務めていた「オールナイトニッポン(木曜第1部)」で本作の製作裏話をあることないこと面白くしゃべり続け、映画の公開中も伝説のTVバラエティ番組「俺たちひょうきん族!」の中で「戦場のメリーさんの羊」なるハチャメチャ大爆笑コントを展開し、本作がカンヌで賞を取れずにスタッフ一同がこそこそ引き上げていくところまで報復絶倒の笑いを以って表現(ちなみにこのときのカンヌのパルムドールを受賞したのが、緒形拳主演の『楢山節考」でした!)。

また当時の日本映画界は戦争映画がブームになっていましたが、大島監督はそれらとは一線を画したものをめざし、見る側もこれを戦争映画という括りではなく、捕虜収容所内で展開される「愛」の映画として認識していた節が多分に感じられます。

映画マスコミは東西の文化対立を描いた映画とみなしましたが、実際に観客の多くを担っていたのは若い女性たちで、男女の別を排した友愛の行方にこそ着目していました。

既に少女漫画の世界では「パタリロ」など美しい男同士の愛憎表現は当たり前になっていたこともあって、そういった風潮に見合った日本映画がデヴィッド・ボウイ×坂本龍一によって体現されたことに感銘&喝采したのです。

またその手のものが苦手な向きにも、トム・コンティ×ビートたけしの男同士の友情描写に涙するという、実に用意周到な内容でもあったと思います。

極めつけは出演のみならず音楽監督も務めた坂本龍一による、あのテーマ曲の世界的大ヒット!

以前、坂本龍一に取材した折、世界中、言葉の通じないどこの国に行っても『戦場のメリークリスマス』の音楽を作曲した人だと紹介されるだけで、その後の仕事がスムーズになると言っていました。

つまりはそれだけ、この作品がワールドワイドに迎え入れられたということです。

ちなみに私はこの作品、今はなき1000人以上収容できる東京の大劇場・新宿ミラノ座で見ましたが、ドラマのすべてが終わり、エンドタイトルが始まってからの感銘は今も忘れることはできません。

通常エンドタイトルは黒地に白文字でスタッフキャストの名前が挙がっていくもので(ここで退席してしまうもったいない人の、昔も今も何と多いことか!)、本作もその例には漏れません。

しかし坂本龍一の音楽と、黒地に白文字が挙がっていくシンプルな構図から発生するリズムとが見事に調和され、ひとつのライヴを堪能しているかのような醍醐味と、そこまでの映画そのものの感動が見事に調和し、その意味では比類なき秀逸なエンドタイトル足り得ていたと思います。

(事実、このとき1000人以上の観客のほとんどは退席することなく客席にくぎ付けのままでした)

こういった映画館ならではの体験を、是非今回の4K修復版でも体感していただきたいと思います。

–{大島監督とのたった一度の個人的な思い出}–

大島監督とのたった一度の個人的な思い出

この後、大島監督はチンパンジーと人間の愛を描いた『マックス・モン・アムール』(86)を発表しますが、1990年に入って新作の企画に着手するも資金不足のため中断を余儀なくされ、96年に病で倒れますが周囲の尽力で1999年に新選組内部の愛憎を描いた『御法度』を発表し、これを長編映画の遺作とし、2013年1月15日に永眠しました。

病に侵されるまで、大島監督はテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」の常連としても人気を博し、毎回どこで怒鳴るかが視聴者の間で面白可笑しく取沙汰されるなど、そのパフォーマンスも大いに親しまれました(監督自身、テレビ出演は大好きだったそう)。

私自身、大島監督とは一度だけお会いしたことがあります。

1990年代前半、当時編集者だった私は大島監督の現在を訊くといったインタビューの立会い兼写真撮影を担っていたのですが、取材中にカメラを向けると決まって監督は瞬時に目線をレンズに写してキリっとポーズを取るのです。

その光景が妙におかしく、こちらもだんだん乗ってきて何度も何度もシャッターを切り、そのつどポーズをとる監督とのやりとりは、後から思えばまさにコントのような風情でした。

しかし、いざ編集作業中、プロではない自分が撮った写真を載せて大丈夫なものか? といった不安が持ち上がり、また雑誌ができた際に上司に呼び出され、監督の名前が旧字「渚」ではなく新字体になっていたことを指摘され、「大島監督に謝れ!」と怒られて、すぐに謝罪の手紙を送りました。

数日後、私あてに大島監督から1通のFAXが届きました。

「全然気にしないでください。文章も写真もすごく気に入っています。」

この文面を見た瞬間、私は大島監督の優しさのほんの一部に触れることが出来たようで、瞬く間に真のファンになっていきました。

大島監督はそのキャリアの初期から反骨と怒りの姿勢で現代社会を撃つ作品群をスキャンダラスに連打していきましたが、その根底には「愛」が確実に備わっており、しかしそれは「愛は地球を~」などとは無縁の、愛を絡ませ格闘しあうことによって人間の本質が描出できることを肌で理解していたアーテイストであったと捉えています。

その意味でも『愛のコリーダ(「闘牛」という意味です)』は大島監督の大きな転換期にも成り得ていると思いますし、ふとこの監督は「イマジン」を歌ったジョン・レノンとも相応される存在だったのではないかと思えるときもあります。

コロナ禍に伴う社会の不調と政治の堕落、さらには国際間の緊張が日々高まっていく昨今、大島監督作品は今の自分たちに何ができるのか、何をすればよいのかを巧みに示唆してくれているような、そんな気がしてなりません。

この機会に『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』はもとより、ぜひ大島作品の多くに触れていただけたら幸いです。

(文:増當竜也)