「映画天国」にて、2021年3月8日25時59分(3月9日1時59分)より、『ソーシャル・ネットワーク』が地上波放送されます。
本作は言わずと知れた、Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグを主人公とした映画です。しかし、実話をそのまま映画化したというのには語弊があり、事実と異なるシーンも数多くあります。
原作とされている書籍は、作家ベン・メズリックが執筆した「facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男」ですが、実際の映画のために参照されたのは書籍の執筆前のプレゼン用の企画書に過ぎず、正確には原作とは呼べません。脚本の執筆の際に、マーク・ザッカーバーグ本人からの取材もできなかったのだそうです。
実際に出来上がった映画についても、マーク・ザッカーバーグは内容を楽しんだ様子であったものの「事実に即していない部分がある」と述べ、劇中に登場する実業家ショーン・パーカーに至っては「完全なるフィクション作品」とまで告げていたそうです。
そして、実際の本編では終盤に「普通は、証言の85%は誇張、15%は偽証」というセリフがあります。これは「映画のエピソードの85%は現実から“盛って”いて、それ以外は全くのウソなんだよ」というメタフィクション的な言及でもあるのでしょう。
なぜ、そのように誇張をし、ウソをついてまで実在の人物を描くのでしょうか。それは、作り手の「伝えたかった物語」があるからであり、そのために主人公がサイテーな人間になったということで、間違いないでしょう。そのワケを以下より記していきます。
※以下より映画『ソーシャル・ネットワーク』の結末を含むネタバレに触れています。鑑賞後に読むことをオススメします。
1:「コンプレックス」により成功する一方で、大切な人を失う物語になっているから
オープニングの会話シーンにおける、マークの(すぐ別れる)恋人として登場するエリカは架空の人物です。現実において、マーク・ザッカーバーグはFacebookが誕生する前、ハーバード大学在学中に現在の妻であるプリシア・チャンという女性とすでに付き合っているのですから。
逆に言うのであれば、このエリカとの会話という物語の発端、転じて「マークがFacebookを作った理由」こそ、作り手が最も描きたかったウソと言っていいでしょう。
この会話において、マークはエリカの「ボート部員はステキ」や「1番入りやすいクラブはどこ?」といった言葉に過剰反応してしまい、「大学クラブ強迫症」とエリカに言われてしまいます。つまりは、はっきりと「オタク」であり「クラブに入っていない」自分のコンプレックス(もしくはルサンチマン)をあらわにしているのです。
そして、エリカから「オタクだからモテないと思っているでしょ。言っておくけど、それは大間違い。性格がサイテーだからよ」とバッサリ切り捨てられます。その後に協力を要請してきたウィンクルボス兄弟はよりにもよってボード部員で、しかもエリートのクラブに在籍していました。
皮肉というべきか、おそらくマークにとってはそのコンプレックス、悔しい気持ちもバネになったのでしょう。マークはエリートのクラブに入らなくても、独自に世界中の人とつながることができるFacebookを作り、億万長者となり表向きは成功します。
しかし、マークはウィンクルボス兄弟からも、親友のエドゥアルドからも訴訟を起こされます。最後には面と向かって分かり合えなかったエリカにFacebookの友達リクエストを送り、何度も更新ボタンを押す……端的に言って「成功と引き換えに親友を失い、元恋人とも寄りを戻せなかった」という物語になっています。
そのマークの問題は、他人をすぐに見下す態度にもありました。何しろ、エリカから別れを切り出された時に「君はボストン大だからエリートに縁がないと思っただけ」「どうせボストン大だから勉強は必要はない」などと絵に描いたような学歴差別を言い放った挙句、彼女への侮蔑的な言葉をブログに並び立て、さらに女子の顔を並べて比べさせランキング化するひどいサイトを作り上げていたのですから。「自分と同じようにエリートになれていない」元恋人を蔑むばかりか、女性そのものも侮辱するサイテーな人間であることを、エリカに言われた後に自ら証明してしまっているのです。
コンプレックス(もしくはルサンチマン)は、その悔しい気持ちを努力に変えれば、成功につながるのかもしれません。しかし、そのコンプレックスを、誰かを侮蔑する形で二時的にぶつけたりすると、大切な人(恋人)を永遠に失ってしまってしまうかもしれません。この『ソーシャル・ネットワーク』は、そのようなコンプレックスの二面性を示した物語としても読み取れるのです。
–{2:グレーな描き方をしたからこその、「信用」の物語になっているから}–
2:グレーな描き方をしたからこその、「信用」の物語になっているから
この映画において、「グレーな描き方をされている」ことがいくつかあります。それは「マークは本当にウィンクルボス兄弟のアイデアを盗んだのか?」「エドゥアルドがニワトリを虐待したという記事を書かせたのはマークなのか?」「ショーン・パーカーのパーティーを通報したのは誰なのか?(マークはなぜパーティに行かなかった?)」ということ。これらの疑惑の真相は、結局はわからないままなのです。
しかしながら、マークは前述した通り「侮蔑的な言葉をブログに並べる」「女子の顔を並べて比べさせランキング化するサイトを作る」という、サイテーなことをした事実が示されています。そのこともあって、劇中の登場人物だけでなく、この映画を観ている観客もまた「コイツはサイテーだから、このくらいのことはしそうだ」というバイアスが働き、彼への疑惑を持ってしまうのです。
そして、ウィンクルボス兄弟とエドゥアルドからそれぞれ訴訟を起こされたマークは、莫大な示談金を払うことになります。女性弁護士の言うところの「今のあなたにとってはスピード違反と変わらない金額」を提示するだけで解決できてしまうのですが、失った信用は取り戻せないまま。数々の疑惑(グレーに描かれていたこと)が真実かどうかは、もはや関係なくなってしまうのです。
ひょっとすると、マークはエドゥアルドがフェニックスというエリートのクラブに入ったことを、(嫉妬の気持ちがあったとしても)心から祝福をしようとしていたのかもしれません。また、マークはウィンクルボス兄弟に何度も「今日は忙しい」とメールを送っていましたが、本当に忙しかった(やっていたのはFacebookの開発ですが)のであり、いつかは協力する気もあったのかもしれません。
だけど、結局は彼らの信用を失ってしまったことで、数々の疑惑も「コイツはサイテーだから、それもやったに決まっている」と思い込まれ、元恋人はもちろん女性への侮辱をしたという事実も裁判前の話し合いで持ち出され、最終的にはお金でしか解決できなくなってしまう。そんな信用にまつわる物語としても読み取れるのです。そのために、種々の疑惑のグレーな描き方(真実は闇の中)が必要だったのでしょう。
加えて皮肉的なのは、エドゥアルドが嫌がらせのためにマークの口座を凍結させたことが、はっきりとした事実として映し出されていることと、ショーンからの「(パーティーを)通報したのはエドゥアルドか?」という問いかけにマークが「違うよ」と即答することです。マークはとことんエドゥアルドを信用していた(だからこそ口座を凍結されたのがショックだった)のだろうな……と、この事実から思えるのですから。そのマークが「信じやすい」、ある意味では純粋とも言っていい性格であることは、ショーンからの「『俺がCEOだ、ビッチ』と書け」というひどいアドバイスを鵜呑みにして、名刺に書いていたことからもわかります。
最後に、マークは「僕は嫌な奴じゃない」と口にしますが、それに対しての女性弁護士最後の返答は「あなたは嫌な奴じゃない。そう振舞っているだけ」でした。
マークは自分の意向に反して広告主への営業に奔走する親友のエドゥアルドでなく、自分の意向と一致する上にもっと巨大な目標を掲げているビジネスパートナーのショーンを選んだ。周りからどう思われようとも、Facebookを成功させるために努力し、実際に億万長者となった。数々の疑惑の真相がどうあろうとも、それはれっきとした事実(現実のマーク・ザッカーバーグもほぼそう)です。そんなマークが、本当に嫌な奴、サイテーな人間かどうか、もしくは「そう振る舞っているだけ」かどうかは、観客それぞれの判断に委ねられている……そういう結末にもなっています。
–{3:『市民ケーン』を現代に甦らせた映画であるから}–
3:『市民ケーン』を現代に甦らせた映画であるから
この『ソーシャル・ネットワーク』とよく似ている、明らかに作り手も意識しているとよく語られている作品に、『市民ケーン』があります。その内容は「メディア王となった男の悲哀を、現在と過去の描写を織り交ぜながら描く」というものであり、「結局は真実がわからないままのグレーな描写もある」ことも含めて、『ソーシャル・ネットワーク』と共通しているのです。
また、『ソーシャル・ネットワーク』でマークがFacebookを拡大させていくのは、自身のコンプレックスを解消するため、フラれた恋人を見返すためでもあり、広告で早く収益化をしようとするエドゥアルドとは衝突してしまいます。『市民ケーン』のケーンも、そのマークと同様にもともとの動機はあくまで「人とのつながりを得るため」であり、「金が目的ではなかった」のです。
しかし、世界を変えるほどの影響力と、一生かかっても使いきれないほどの大金を手にし、何より世界中の人とつながれるメディアを作り上げたのに、大切な人とは絶縁してしまい、孤独になってしまうという矛盾に満ちた悲哀……これもまた両者で一致しています。
その『市民ケーン』は1941年の作品でありながら、「パンフォーカス」や「クレーンショット」など現代に脈々と受け継がれる映画の撮影技法・演出を開発しており、史上最高の映画とも呼ばれ賞賛されている作品です。
しかも、『ソーシャル・ネットワーク』で『市民ケーン』のような作品を撮ったデヴィッド・フィンチャー監督は、2020年に『市民ケーン』の舞台裏を描きつつも、そのオマージュに溢れたNetflix映画『Mank マンク』を作り上げました。
つまりは、デヴィッド・フィンチャー監督は「史上最高の映画である『市民ケーン』のような映画を現代に甦らせる」ことを目指し、リスペクトを捧げようとしている作家でもあるのです。『ソーシャル・ネットワーク』のマークが表向きはサイテーな人間となった理由の1つも、『市民ケーン』のケーンが傲慢かつ権力に溺れてしまう、やはりサイテーな人間に見えることの反映でもあるのでしょう。
そして、『ソーシャル・ネットワーク』や『市民ケーン』の、「王になったけど大切なものを失った人間」の物語は、私たちに「本当の幸せや成功とは何か?」ということを、今一度考えさせてくれます。相対的に「私は親友や恋人を大切にしよう」と思うのも良いですし、逆に「私は何かを犠牲にしてもビジネスでの成功を掴みたい」と思うのも良いでしょう。こうして物語についてさまざまな受け取り方ができるのも、映画という芸術の魅力です。
(文:ヒナタカ)
–{『ソーシャル・ネットワーク』作品情報}–
『ソーシャル・ネットワーク』作品情報
ストーリー
世界最大のSNSサイトFacebookの創設者マーク・ザッカーバーグの軌跡を描いたヒューマン・ドラマ。監督は『セブン』『ファイト・クラブ』の鬼才デヴィッド・フィンチャー。マーク・ザッカーバーグを演じるのは『グランド・イリュージョン』『ローマでアモーレ』の若手個性派俳優ジェシー・アイゼンバーグ。2003年、ハーバード大学に通う19歳の学生マーク・ザッカーバーグと親友のエドゥアルド(アンドリュー・ガーフィールド)。彼らは、大学で友達を増やすため、大学内の出来事を自由に語りあえるサイトを立ち上げる。二人で始めた小さなサイトは瞬く間に広がり、ついには社会現象を巻き起こすほどの巨大サイトへと一気に成長を遂げるが……。
基本情報
出演:ジェシー・アイゼンバーグ/アンドリュー・ガーフィールド/ジャスティン・ティンバーレイク/アーミー・ハマー/マックス・ミンゲラ/ブレンダ・ソング/ルーニー・マーラ/ジョセフ・マッゼロ ほか
監督:デヴィッド・フィンチャー
製作国:アメリカ
上映時間:120分
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント