『ミスト』はとにかく衝撃的なラストが語り草となっており、原作者のスティーブン・キングが小説から変更したその結末を絶賛したことも話題となっていました。
このラストは、人によっては「最悪だ」「そんな風になるわけがない」などと、激しい拒否反応を覚えるでしょう。しかし、筆者は結末に至るまでの物語を振り返ると、そこには明確にいくつかの大きな理由があり、納得できるものであったと考えます。そのワケを、以下より解説していきましょう。
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※以下より、映画『ミスト』の結末を含むネタバレに触れています。観賞後にお読みください。
1: 約束を守ろうとする実直な人間の、「他の全ての方法」が失われてしまったから
主人公のデヴィッドの最後の選択は、車に乗り合わせた仲間たちを、自身の息子を含めて銃殺するというものでした。銃弾が足りなかったためデヴィッド自身は怪物に殺されることを願うも、霧の中から現れたのは軍の戦車でした。そして、物語の序盤に8歳の長女とその弟を救うためにスーパーの外に出て行った女性が、救助用のトラックに子どもと一緒に乗っているのも目にします。あと数分だけでも希望を捨てずに待っていたら、集団自殺をせずに済んだのに……という絶望的なラストとなっていました。
この結末に至ったのは、デヴィッドが息子との約束を守ろうとする、良くも悪くも実直な人間であったことが、まず大きな理由でしょう。「何があってもママの元へ戻る」と約束していたが、母親は自宅の窓辺で糸に覆われて死亡していたため、その約束は叶わなかった。「お前を1人にして悪かった。もう二度と置いていかない」と約束していたからこそ、息子を集団自殺からの生き残りの1人にはしなかった(この場の5人に対して銃弾は4発だった)。何より、息子と「僕を怪物に殺させないで」と約束していたから……デヴィッドは、仲間を含めて息子を銃殺するという最悪の選択をしてしまったのです。
それ以外にも、デヴィッドは仲間のアマンダにも「君1人じゃない、僕たちも一緒だ」と“一蓮托生”であることを話していました。この世の終わりを象徴するかのような、長い脚を持つ巨大生物をも目の当たりにしていました。車の中では、仲間のダンとレプラーは「仕方ない、できる限り努力をした」「誰も否定はできない」とも口もしていました。こうした1つ1つの出来事が、デヴィッドが「もう拳銃で集団自殺するしかない」までに絶望する理由になっています。
その選択に至ったデヴィッドは、火をつけたモップのために大火傷を負った青年ジョーに「俺を救えないのなら、ひと思いに頼む」と言われ、「そんなことを考えるな。必ず何か方法を見つけるから。もう少し頑張ってくれ」と答えていたこともあり、決して自殺を推奨するような人間ではありませんでした。しかし、もしも「他の全ての方法」が失われてしまったら、人は今まで考えるはずもなかった(集団)自殺を選択するほどに絶望をしてしまう。その事実を、この映画は恐ろしいまでの冷徹さで描いているとも言えるでしょう。
狂信者のカーモディの脳を撃ち抜いたオリーもまた、「他の方法があれば撃たなかった」と言っていました(逆に言えば、その拳銃と銃弾があったせいでオリーは殺人を犯し、デヴィッドもあの選択をしてしまったのですが)。しかし、本人が「これしかない」とまでも思う選択であっても、それが本当に正しいかは、結果を知るまでは誰にもわからないものです。だからこそ、あの最悪の後味を残すラストは逆説的に「どんなに絶望したとしても、集団自殺という選択は絶対に間違っている」という、痛烈な批評にもなっているとも言えます。
その批評の証明とも言えるのが、前述したように序盤にスーパーの外に出て行って「子どもの命を救うことを最優先にした」女性が子どもたちと共に生き残っていたという事実。それと相対するように、デヴィッドは自身の子どもを自らの手で殺してしまうのですから……その絶望は、死よりも恐ろしいでしょう。
–{2:自身も危険な扇動者になっていたから}–
2:自身も危険な扇動者になっていたから
最後の集団自殺以外では、デヴィッドは周りを気遣おうとし、勝手な行動をする他人の命をも救おうとしていた、「正しい」人間のようにも思えます。しかし、物語を振り返ってみると、そこまでの過程でもデヴィッドのせいで命を落とした人物が多いのです。
例えば、序盤にデヴィッドは「シャッターから音がする」と言って4人の人間を呼び寄せ(みんなで見にいこうと言ったのは作業員のジムですが)、そこで若い店員のノームが触手に襲われ命を落とします。デヴィッドの主張を聞き入れようとしなかったジムやノームにも責任があるのはもちろんですが、元々の原因はデヴィッドにもあるのです。
さらに、デヴィッドは「ライトは緊急時のみ、何か侵入した時だ」とジムに教えていて、中盤で怪物たちが襲ってきた時に、その言いつけをジムが愚直に守ってライトを片っ端からつけてしまったからこそ、さらに怪物が光に吸い寄せられ被害が広まっていました。しかも、大火傷を負った青年ジョーのために隣の薬局に抗生物質を取りに行ったことで犠牲者は増え、ジョー自身も死んでしまうため無駄骨になってしまっています。
デヴィッドは、スーパーから脱出したい一番の理由は狂信者であるカーモディの存在であり、「宗教狂いのイカれ女だ。扇動する前にここを出よう」とも話していました。確かに、カーモディは生贄を捧げようともしており、実際に自身に罪がないと必死に主張するジェサップ二等兵も信奉者にナイフで刺され怪物に殺されてしまいます。このままスーパーに止まれば、デヴィッドの仲間からもさらに犠牲者が出てしまっていたでしょう。
しかし、デヴィッドがやったことをよくよく考えれば、「多くの人を扇動し、その結果として犠牲者を増やして、最後には集団自殺をしてしまう」というものだったのです。カーモディとその信奉者の方が(生贄を殺すも)「スーパーの中で団結して居座る」という安全な選択をしており、デヴィッドのほうが結果だけ見ればより多くの人間を死に追いやってしまった……というのは、なんという皮肉でしょうか。そのような危険な扇動者となっていたことに、デヴィッド自身が気づいていなかったということもまた、あの最悪の結末の理由になっていたのだと思うのです。
意味深なセリフがもう1つ。デヴィッドはカーモディの信奉者の人数について「すでに4人いる。昼には8人に増える」と口にしていたのですが、そのデヴィッド自身がシャッター前に連れて行った人数は4人、最後にスーパーから脱出を試みたときの仲間の人数は8人だったりもするのです。この人数の一致は、デヴィッドとカーモディが「本質的には同じ」ということを示していたのかもしれません。
–{3:不寛容と排他主義、そして「正しさ」にも問題があったから}–
3:不寛容と排他主義、そして「正しさ」にも問題があったから
あの最悪の結末に至った理由は、それぞれの派閥に属する人間の不寛容と排他主義にも原因があると考えます。
例えば、カーモディは序盤に「偉そうにしないで。あなたを友達にするくらいなら、トイレの汚物の方がマシ」と言い放っており、終盤でも「私たちの信仰、価値観、生き方を嘲笑い、謙虚さ、経験さを罵倒し、私たちを無視し、からかうのだ」などと、徹底的に自身の信奉者以外を「我々を蔑む愚かな存在」だと決めつけていました。
ニューヨークの一流弁護士であるノートンは、触手に襲われたことを説明するデヴィッドのことを信じられず、「くだらんジョークはやめろ。去年に訴えたからその報復か?」などと言うばかりか、その後も証拠が不十分だとしてデヴィッドたちに協力することなく、スーパーから脱出をします(その後の消息は不明)。
そして、デヴィッド自身も前述したようにカーモディを宗教狂いのイカれ女だと蔑み、完全に決別します。その仲間の老教師のレプラーも、ジムに向かって「妹も私の教え子ね。成績の悪い兄妹だったわね」と言わなくてもいい罵倒をしていたりもしました。
このように、それぞれの派閥にいる者たちは、他の派閥の者たちに協力はもちろん、受け入れようともしない、それどころか蔑視や嫌悪感を露わにしてばかりでした。それでいて、自身たちの派閥のリーダーには疑問を抱くことなく追従してしまっているのです。劇中の「恐怖にさらされると人はどんなことでもする。解決策を示す人物に、見境もなくしたがってしまう」という言葉通りに。
この物語を思い返せば、「自身の属する派閥の価値基準や判断は間違っていないか?」「自分の派閥以外の者に排他的だったり、侮蔑的な態度を取っていないか?」と、我が身を振り返るきっかけにもなるでしょう。デヴィッド、カーモディ、ノートンというそれぞれの派閥の者(リーダー)たちが、お互いに寛容な態度を取り、過度に対立することがなければ、あの結末には至っていないはずなのですから。
そして、何よりも皮肉的なのは、彼らのほぼ全員が、自身が「正しい」行動をしていると、恐らくは信じきっていたことでしょう(ジムは一度自らの判断を謝っていますが)。正しいと思ってやったことが悪い結果を生み、それが間違いだと認めないことで、さらに最悪の結果へと至ってしまう、ということも現実では往々にして良くあることです。
この映画『ミスト』のラストは、何度も言うように最悪だと断言できるものです。しかし、この最悪の結末があってこそ、逆説的に「こうならないため」にできることを、あらゆる方向性から考え、そして生きるための希望も得ることができるはずです。
–{おまけのトリビア:もともと考えていたラストとは違った…?}–
おまけ その1:もともと考えていたラストとは違った!でもそれで良かったかも?
さて、そんな映画『ミスト』の衝撃の結末ですが、当初に想定していたラストとは違っていたりもします。実は、脚本も担当していたフランク・ダラボン監督が考えていた案では、デヴィッドの側を通り過ぎるトラックに乗っていたのは、子どもたちの命を救うことを最優先にしてスーパーの外へ出て行った女性だけではなかったのです。
その「二台目」のトラックに乗る予定だったのは、作業員のジム、店長のバド、狂信者のカーモディ(本人は死んでいるが)の元信者たちなど、スーパーに残った人たちだったのだとか。しかし、俳優たちとエキストラたちはすでに役を演じ終えて現場を離れていたため、このアイデアを捨てることを余儀なくされたのだそうです。つまりは、元々はスーパーに残った人も生きていた事実をまざまざとデヴィッドに見せることで、より「スーパーから出ていくべきではなかった」という結末にする予定だったのです。
その方が良かった、という方もいるでしょうが、筆者は現状のラストのほうが納得できます。何しろ、スーパーに残った人の多くは狂信者のカーモディを信じきっており(そうではない人もいたかもしれませんが)、その中にはジェサップ二等兵を刺し殺した人もいます。そうであったはずなのに、スーパーに残った人たちを「最後に助かった」としてしまうと、デヴィッドたちが間違っていて、スーパーに残った人たちが正しいとさえ捉えられてしまう結末との齟齬が生じて、悪い意味で後味の悪さが生まれてしまったのではないでしょうか。
この映画で訴えられているのは、やはり不寛容と排他主義の恐ろしさ。デヴィッドたちもカーモディとその信奉者たちも、どちらも間違っていると筆者は思うのです。
おまけ その2:実は『ショーシャンクの空に』と描こうとしていることは同じ?
フランク・ダラボン監督は何しろ『ショーシャンクの空に』という(同じくスティーブン・キング原作の)映画史上に残る感動作を手がけていたので、その真逆のようなホラー映画『ミスト』の内容を観て「本当に同じ人が監督した映画なのか?」と思った方もいるでしょう。
しかし、その両者が描こうとしていることは、実は「どんな時にも希望を失ってはならない」ということで一致しているようにも思えます。『ショーシャンクの空に』の主人公を絶望の淵まで追い込むサディスティックな作劇も、『ミスト』に通じていると言えるのではないでしょうか。
映画は得てして、ネガティブなものであればネガティブなりに、ポジティブなものであればポジティブなりに、作り手が同じメッセージを込めることも、受け手が主体的に考えることもできます。それこそが、映画に限らず創作物が示した「物語」に触れる大きな意義なのではないでしょうか。
ちなみに、原作者であるスティーブン・キングは映画『ミスト』に「心から恐怖を感じた」と言い、それを聞いたダラボン監督は「自分のキャリアの中で最も幸せな瞬間だった」と語っていたのだとか。それも含めてダラボン監督はやはりドSだとも思いますが、だからこそ観客に絶大なインパクトを残す、「絶対に忘れられない」『ミスト』や『ショーシャンクの空に』を作ることができた、とも言えるかもしれません。
参考:The Mist (2007) – Trivia – IMDb
(文:ヒナタカ)