『窮鼠はチーズの夢を見る』レビュー:大倉忠義&成田凌が体現する自然体の愛

映画コラム

 (C)水城せとな・小学館/映画「窮鼠はチーズの夢を見る」製作委員会

愛の形は人それぞれではありますが、その中には長年タブーとされてきているものも存在します。

同性愛もそのひとつではありましたが、最近は、特に21世紀に入ってからはLGBT問題を訴える声が高まってきたこともあってか、かなりオープンになってきている感もあります。

また同時に日本では女性向けのコミックやアニメーション作品で同性愛を麗しく描くものが増え、日常的に受け入れられるようになってきたことも要因の一つとして挙げられるかもしれません(1970年代から80年代にかけて発表された魔矢峰央の「パタリロ」「飛んで埼玉」の再ブームも、ある種の象徴のように思えます)。

またそれらは当初“腐女子”と呼ばれるマニア向けではあったものの、徐々に市民権を得てきて(腐女子も今では“富女子”と記されることがあります)、現に最近その手のアニメ映画の劇場へ赴くとオシャレした若い女性客で満杯になっていることも多く、その光景などを目の当たりにしていると、タブー云々の偏見を抱いているのは、もはや旧世代でしかないのではないかとさえ思ってしまいます。

愛に異性も同性も関係ない、いや逆に異性愛も同性愛もあるからこそ、愛の世界はこれからますます自然体を伴いながら深まっていくのかもしれません。

実際、そのことを示唆してくれるかのような映画が日本で、しかもアニメではなく実写で作られ、9月11日から全国で公開されます……

《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街501》

行定勲監督作品『窮鼠はチーズの夢を見る』は、大倉忠義&成田凌という実力も存在感も美貌も備えた若手俳優を迎えて、世の女性たちが嫉妬してしまうかのような狂おしい愛の世界を激しくも美しく、そしてごく自然の佇まいで繰り広げていくのでした!

受け身の愛を享受してきた男そんな彼を愛し、翻弄する男

映画『窮鼠はチーズの夢を見る』は、「脳内ポイズンベリー」などの映画化作品もある水城せとなの“恭一&今ヶ瀬シリーズ(窮鼠シリーズ)”として知られる同名作および「俎上の鯉は二度跳ねる」を原作に映画化したものです。

学生時代から自分を好きになってくれた女性と付き合ってばかりの恋愛を繰り返してきた大伴恭一(大倉忠義)は、ある日後輩だった今ヶ瀬渉(成田凌)と再会します。

興信所に務める今ヶ瀬は、恭一の妻・知佳子(咲妃みゆ)からの依頼で彼の浮気調査をしており、瑠璃子(小原徳子)との関係を捉えた証拠写真などの資料の数々を恭一に差し出します。

妻に秘密にするよう懇願する恭一に、今ヶ瀬はその夜キスを迫ります。

実はずっと昔から、今ヶ瀬は恭一のことを想い続けていたのでした。

まもなくして知佳子と離婚(この理由がまた意外なのですが)した恭一の住まいへ今ヶ瀬が転がり込んできて、いつしか成り行きでふたりは同棲することに……。

今ヶ瀬に振り回されつつ、最初は嫌がっていたキスも次第に受け入れられるようになっていく恭一でしたが、そこにかつての恋人・夏生(さとうほなみ)や部下のたまき(吉田志織)といった女性たちが彼の前に現れては今ヶ瀬を嫉妬させ、同時に恭一の心も狂おしく乱れては、流されっぱなしの己を自問自答していきます……。

–{タブーを超越した自然体のラブ・ストーリーの力強さ}–

タブーを超越した自然体のラブ・ストーリーの力強さ

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正直なところ、同性愛を題材にしたものは、個人的にちょっと不得手なところがありました(特に男性同士のものは……)。

しかし、ここ10年ほど、BL(ボーイズ・ラブ)的要素の強いアニメーション作品を仕事で多数見る機会が増えてきたこともあって、次第にそうした偏見は薄れ、今では性の別なく美しいものは美しい、麗しいものは麗しい、それで良いではないかといった意識を普通に抱けるようにもなってきています。

もっともそれはアニメなど二次元作品の場合が主で、これが三次元たる実写になると、どんなに優れた出来の海外作品でも、なかなか偏見の意識が抜けきれない憾みが自分自身の中にはあったことも告白しておきましょう。

ところが、そういった偏見はこの『窮鼠はチーズの夢を見る』で完全に払拭されたと、堂々と宣言できます。

つまりはこういった世界に苦手意識を持つ人をも虜にし、旧来の意識を払拭する魅力を備えた作品、それが『窮鼠はチーズの夢を見る』なのです。

ここでは異性同士とは「何か」が確実に違う同性同士の愛を、それゆえに苦しくも愛しいといったスタンスで一貫して描出されており、そこには興味本位とか嘲笑的な要素は微塵もありません。

そういえば今年の初め、吸血鬼に血を吸われた者が同性愛者になるという日本のパニック・ホラー・コメディ映画が大炎上して公開中止運動まで巻き起こりましたが、本作はそういった次元の映画作りなどとは真逆の、人が人を愛し、それゆえに悩み苦しむことに同性も異性も関係ないことにこそ着目しながら、ごくごく当たり前のように男と男のラブ・ストーリーを展開させていきます。

もはやLGBTを“問題”と称することすら違うのではないかと言わんばかりの、作り手による自然体の姿勢には溜飲が下がる想いでもあります。

一方で、同性愛と異性愛との相違をも言及すべく、この主人公カップルの前には幾人かの女性たちが現れては、時に赤裸々で、時にしたたか、そして時に哀しいバトルも繰り広げていきますが、そのことで不謹慎かもしれませんが「愛の世界とはかくも深くて面白く興味深いものであるのか!」といったことまで痛感させられてしまうのでした。

現実的に世の中には今なお、人それぞれのさまざまな愛のタブーが存在するのも事実です。

同性愛、SM、ロリコン、ショタコン、シスコン、ブラコン、マザコン、ファザコン、部分フェチ、年齢が離れていればいるほど燃えて萌える……その他いろいろありますね。

しかしながら、こういった要素のものが悪しきタブーの枠を打ち破り、ごくごく自然な愛の形の一つとして語られるようになっていけたとしたら、ラブ・ストーリーこそはこの世で最大的に力強くも美しく、面白くも深く、恐ろしいまでに魅惑的なものとして映えていくのではないかと、この映画を見ながら思えてなりませんでした。

大倉忠義は、受け身で成立してしまう異性間の恋愛をずっと享受してきたがゆえに、突然の後輩からの愛の告白によって何某かの愛の意識が変革していく恭一を、一方で成田凌扮する今ヶ瀬はあたかもメフィストテレスのように恭一を見知らぬ世界へ誘いつつ、時に女性的な、時に男性的な両面を巧みに醸し出しながら、嫉妬も含めた純粋な愛の道を突き進んでいきます。

たとえば今年の主演男優賞でどちらかを選べと言われても「それは無理!」と拒絶してしまうほどの双方の名演と存在感は、この手のジャンルのものは苦手という人の意識も大きく変えてくれること必至。

劇中、彼らによる激しいラブシーンも存在しますが、それも単に「美しい」の一言では済まされない、あくまでも映画的魅惑を湛えた濃密な愛の形として描出されていて(その対比として最初に大倉×小原徳子のラブシーンが設けられているのも、巧みな計算のように思えます)、そうこう考えていくうちに行定勲監督が本作を、彼が今まで手掛けてきた異性間のラブストーリーと何ら変わらない姿勢で取り組んでいることにも改めて唸らされます。

昭和の時代から成瀬巳喜男を筆頭に、愛を描くに長けた名匠&巨匠は幾人か存在しますが、少なくとも行定監督こそは令和の世でその筆頭として讃えたい、その証左となるにふさわしい秀作と言えるでしょう。

また20世紀までは表立ってのスキンシップがははばかられていたであろう同性同士の愛情表現が、ソーシャル・ディスタンスが叫ばれるコロナ禍の今、かくも大胆かつ堂々と、そして美しくも濃密なる最接近の「密」として奏でられていることも、偶然か必然かといった映画と時代のランデブーがもたらした奇跡のように思わずにはいられません。

(文:増當竜也)