行定勲監督にきっかけを与えた作品——映画『ピンクとグレー』トークイベント

INTERVIEW
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10月28日(水)、東京国際映画祭のプログラムのひとつとして、映画『ピンクとグレー』の上映と行定勲監督のトークイベントが開催されました。

今作は、アイドルグループ「NEWS」のメンバーであり、作家としても活動する加藤シゲアキの処女小説を原作に、人気俳優・白木連吾の死によって手に入れた名声に苦しみながら、連吾の親友・河田大貴がその死の真相にたどり着くまでを、斬新な仕掛けで描いた物語。

監督がどういう思いでこの作品に取り組んだのかなど、MCとのQ&A方式で進行したトークをほぼ書き起こしでお届けします。

自分の描く死と他者の描く死

MC「構造的な部分の面白さのなかに、決めつけられない多様な愛のかたち、現代に非常に通じるような愛のかたち、ある種の不条理を感じたんですが、どのようないきさつで作ろうと思ったんでしょうか?」

行定監督「原作の加藤シゲアキくんは小説をもう何冊も出していて、僕も読んでいるんですけど、デビュー作を映画化しないかとお話をいただいたんですね。読んでいて強く感じるのは、エロスが浮き彫りになっていること。男と男のエロスであったり、姉と弟のエロスという。映画作るにおいても、それがテーマになってくるとは思っていた。ただ、今の時代の空気からすると、濃厚な濃密な表現でエロスを描くというのはどうも不嫌いな感じがある。どういう形であればそれが一番消化されるかずっと考えてはいました。ずっと映画を作っていて、生とか死とかっていうのは前提にあるんですけど、死っていうのはこの小説の中にも中心に介在しているんですよね。重要なのは死んでいく人間ではなく、残された人間を描くことというのが僕の心情としてずっとあって、自分に引き寄せるとそうなっていくわけですよね。加藤くんの小説の中には同じように「死」という「謎」がある。その「謎」に取り残された自分がどう向き合っていくのか、ということが自分の映画に引き寄せやすかったというのはありますね」

MC「『ひまわり』とか、行定さんの作るいろんな映画からそういうものは感じますね。全体を通じて漂ってくる香りが、原作のあった作品というよりもいかにも行定さんの香りという感じがしましたけど、自分のテイストにしようという意識はしてなかった?」

行定監督「自分のオリジナルで死を考えると、不可解で曖昧で結構つかみにくいものとしているんですけど、他者の書く物語の中の死というのは意外と明快で、人の死と少し距離を持つことで、きっと何か定義づけたくなるというか。その定義づけたくなる部分が小説の中には多々ある。とは言っても、この映画の中で「お姉ちゃんのせいだよ」というセリフもあるし、リバちゃんはそう思ってたと思うんだけれども、なんかそれだけじゃないだろっていうのがやっぱりあって。でも、生きてる人間って意外と残酷で、死と向き合ってるときはピュアな姿なんだけれども、だんだん忘れていくようなものなんです。忘れたくなるというか、忘れられないクセに忘れないと生きて行けないというか。忘れないと飯だって食ってられないし、前に進まなきゃしょうがないっていう。そこが残酷でありながら、死者に逆に足をすくわれるというか、そういう意地悪な感じに捉えたかった」

生きている人間にとって圧倒的なもの

MC「まずはお姉さんの死。僕が感じたのは、カミュは自殺を否定しているけども、カミュ的な不条理の自殺。何の意味があるではなく、今日太陽が暑かったからとか1月24日が好きだったからとか。もう一方の捉え方としては、彼女が一番きれいな時に、好きな弟にいつも見つめられている自分の一番きれいな時に消えてやろうという残酷さみたいなものもあって。行定さんが料理しているからそう感じるのかもしれないけど」

行定監督「そうですね。そういうのもあるんでしょうね。原作にもあるんですけど、お姉さんが他界するんですよね。しかも演技をしてる時に突然死ぬという。で、そこにおいての、ああいうことする人間のいさぎよさを感じるというか、生に対しての自分なりのけじめの付け方をしているんですよね。あんな不可解なことをされること自体に、憧れとはちがう圧倒的な気持ちのようなかなわないものがあって、その圧倒的なものを象徴として追い求めている、追随してる人間としての生き方をひとつ描いてみたいと思ったし、僕自身もそういうところがあるんですよね」

MC「やりたいことをやるんではなくて、やれることをやるんだって死んじまったような、そんな感じがしますよね。ゴッチはその同じ不条理の感じで追随したという考えと、お姉さんがそういう風に1月24日っていう数字の中で死んだから自分も同じ数字の中で死ぬっていう考え方もある。さっき同性同士のエロスというようなことをおっしゃられたけども、もしかしたらゴッチはリバに対してある種の、同性愛的と決めつけるのは陳腐だけれど、一番大切なものとして思っている感情があったのかな、と考えるとすると、死ぬことで自分自身を演じてもらう、同化させるという残酷さに引きずり込んだ気がしないでもないんですが」

行定監督「それはどれもあるんじゃないですかね。シナリオを作る上で、それは全部通ってきた感情であるし、でもそれを明確にしない道を選び出すのが原作との違いなんですよね。原作は自分が同化する道を選んでるんです。なんで映画では変えたんだよ、と思う人が客席の中にもいるかもしれないですけど。映画にする上ではそうじゃない着地点もあるんじゃないかと思いついたんですよね。どっちかというと不条理な部分ってあって、僕もデビュー作の『ひまわり』からずっと考えてるけど、死んでいく人の気持ちなんて結果たどりつかないんですよ。そこの境地にいかないっていう。で、自分は残された人間の日常みたいなものを肯定するしかないと思っていたんだけれども、それを肯定しないで作れる気がちょっとしたんですよね。卑下したくはないし、死を選んだいさぎよさを美化するつもりもないですけど、自分を思いあぐねて生きてはいるんだけど、なかなかそこにたどりつかないというか。死者に対する届かない思いは、それを理解するかしないかで変わっていくと思うんですけどね。だからそこを描きたいな、描けるな、と。自分の作品だとなかなかそうならないんだけど、他者の考えた物語だと、そこがすごく明確に思い浮かんだっていう」

MC「外から見られるっていうことですか? クールに」
行定監督「そうですね。自分のものとして、自分が理解出来ないと映画が作れないとか演じられないとか、どっかでそう思ってる部分ってあると思うんですけど、そうじゃなくてもいいんだよなってこの小説によって思えたことは、いいきっかけを与えてもらえたなぁと。そこには向き合えたかなって思いますけどね」

–{モノクロシーンの意味とは}–

モノクロシーンの意味

MC「ピンクとグレーという言葉の意味合いはどう理解したんですか?」

行定監督「これもまたトラップで、常に原作ものをやるときはそうなんですけど、自分なりの理解がないといけなかった。『GO』みたいな明確なタイトルだったらいいんですけど、吉田修一さんの『パレード』のときも、じゃあなんでパレードなんだよ、と。まぁ『ピンクとグレー』は鮮やかなものと色がない世界と、そういうつかみ方でいいと思うんですよね」

MC「画面の中でもそれをにおわせる表現がありますよね」

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行定監督「モノクロのシーンもあってね。でも、グレーだからモノクロにした訳じゃないんですよ(笑)。『ピンクとグレー』だからモノクロにしたんだろう、と言われるとちょっと違う。単純にそう思ってる人もいるけど、まぁそれはそれでいいかな(笑)」

MC「姉と弟みたいな同じ血が流れてる人間と、結局自分と同じじゃない血が流れてるヤツへの思いと、そういう解釈もできますし、言えばいろいろ出てくる気もしますけど」

行定監督「今回、初めてモノクロで撮って思ったんですけど、モノクロって生々しく見えるもんだなぁって。色の情報が俺に向いてないと思いましたね。できればずっとモノクロで撮っていたい感じがする。モノクロだと役者の顔しか見ないでしょ? 余計なものを見ないし、演出してても余計なことが気にならない。「今、後ろに人が通ったんじゃないの?」とか、気が散らずに被写体に目がいくんですよ。カラーで見ていても作り物のように見えるし、生々しさってなかなか出ないものだなぁって。生々しく映し出すっていう手法はあると思うんですけど、モノクロの方がやけにひとつひとつの表情みたいなものを明確に捉えられる気がしましたね」

行定監督の感じたアイドルのすごさ

イベントの後半ではQ&Aが行われ、客席から監督への質問が寄せられました。

質問「行定監督の『真夜中の5分前』という作品を観た時もアイデンティティについて考えさせられたんですけど、今回撮るにあたってアイデンティティについて考えられたところはありますか?」

行定監督「自分自身が何者かわからないですからね、常に。僕自身もわからないから撮るというのもあるんです。特に人の小説を映画にする時、その作家が何をいわんとしてるかなんて、聞いても答えないですから。で、自分なりに登場人物のことを考えながら、その考えてる状況とか結果とか、自分が考えたなりに見つけ出したものの断片が映画の中にあるんだろうと考えていて。僕個人としては自分自身のアイデンティティはあまり考えないですね。それはだいたい他人が決めてることだと思ってるんですよ。他人から言われると、そうかなって。僕の発言とかが「キツいですよ」って言われると、「優しいのにな」って思ったり、「じゃあ静かにしてよう」と思ったりとか。他人に言われないとわからないですよね。それでいいと思っているからでしょうけど。ただ、小説家や映画を作る人間たちっていうのは、常にアイデンティティっていうものを思うのかもな。それは、何者か分からないものを少しでも知ろうとする行為かなと思ってます。そういう意味でいうと『ピンクとグレー』という作品は、アイデンティティが明確にならない時期から、少しそれがつかめてる時期の愚かさを描いてる感じがします。わかっちゃいないくせに、みたいな。結果、リバちゃんは何も分かってないですよね。もう一度ゼロから、ここから始まるんだろうな、と。「サリーのことを大切にしてやってくれよ」というのが他者が彼に対して与えた評価ですよね。今は「お前はサリーを大切にしてやることくらいしかできないよ」っていうね。でもそれがすごくいいなと思って、そこを強調したいなと思って作りました」

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質問「小説ではリバちゃんが主人公ですけど、映画でゴッチを主人公にした理由が知りたいです」
行定監督「中島裕翔くんが似合うのがゴッチだと思ったんですよね。本当にアイドルってすごいんですよ。ジャニーズ事務所のアイドルのすごさを僕は映画の中の演出で実感できた。「Hey Girl」っていう80年代っぽい感じの不思議な歌があるんですけど、プロモーションビデオを撮った時、ものの15分くらいの撮影ですけど、彼はキメキメでほとんどOK。柳楽優弥くんでも同じものを撮ろうと思ったんだけど、彼は全くできなかったからカットしたのね。誤解を恐れずに言うと、恥ずかしげもなくカメラに向かってアピールするっていうのは、本当にプロじゃないとできないんですよ。それができちゃうし、恥ずかしくもない。そりゃそうですよね、東京ドームとかで「きゃー!!」って言われる中でアピールしてますから。でも、後半で彼は芝居の引き算をしないといけなかったから、クセで首の後ろに手をやるクセを前半ではやめさせて後半に生かそうと思って。後半は黙ってるとすぐ首の後ろに手を回してるんですよ(笑)。あと、菅田将暉という優れた俳優、今日本映画界が本当に欲しているような奇才だと僕は思うんですけど、彼と五分にやれるし、お互いがリスペクトしてるのが分かる。仲が良くて、いつもベタベタしてるし、釜山映画祭の時もふたりで手をつないで夜の街を歩いてるんじゃないかっていうくらい。そのおかげもあって、この映画の関係性をうまく作れたと思ってますけどね」

質問「原作小説があるものを映画化するにあたって、いろいろな意見があると思いますが、原作者の加藤さんや他の方と原作との違いについて話したりはしましたか?」
行定監督「加藤くんにはまだ聞いてないんですよ。加藤くんは映画が好きで、映画をよく観ていて、役者としても映画俳優をもっとやっていきたいという気持ちを持ってる方だと思うんですけど、そういう意味では理解してくれるだろうなと最初から思っていて。脚本を読んでもらった時には「実験的な部分もあって、行定監督の本気度が伺えました」というコメントだったので、原作を元にした映画の作られ方があると理解してる人だと思うんですよね。自分の原作を大切にしている小説家だと「一字一句直すな」という方もいらっしゃると思うんですよ。それはそれで受けて立たなくちゃいけないし、こっちのハードルも上がるっていう話だけど。そういうタイプと、加藤くんみたいに、あえて言わず監督がどう受け取ったかというのを見るっていうふたつに分かれると思うんですよね。「変えるな!」といわれるのも、ものすごく燃えるんですけど、あまり言われたことがないんですよね。僕が聞いてないのかもしれないですけど(笑)。でも、誰よりもこの小説が好きだと思わないと映画にできないと思うんですよ。そうじゃないと、その小説を預かれないというかね。だって、生み出す小説家が絶対に一番大変。だから映画監督も原作に頼らないで、ゼロからオリジナルを生み出すべきだと思う。それは一番大変なことだし、一番面白いことだとは思うんですよね。「これだったら」と思う小説と出会えば映画化しているっていう気持ちは、常にありますけどね」

これまで行定監督がどのように映画を作ってきたのかも知ることができ、より深く作品を楽しめるトークイベントとなっていました。
映画『ピンクとグレー』は2016年1月9日(土)より、全国ロードショーです。

(文・取材:大谷和美)