原田監督と樹木希林の不思議な関係が見えた、映画『わが母の記』トークイベント

INTERVIEW
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2015年10月26日(月)、東京国際映画祭のプログラムのひとつとして、映画『わが母の記』の上映と原田眞人監督、樹木希林さんを招いてのトークイベントが開催されました。

今作は作家・井上靖の自伝的小説が原作で、幼少期の出来事により、母親・八重(樹木希林)との間に溝を抱える作家・伊上洪作(役所広司)が家族との関わりを通しながら、真実を知ることで確執を解き、関係を取り戻していく家族の愛を描いた作品。

“日本の今”を映す作品として選出したというMCのコメントの後、おふたりから挨拶が。
原田監督「日本の今、作品の舞台は昔ですけれども、小津安二郎の今という気分で作りました」
樹木「この映画と、原田監督に出会って、後の人生は幸せでした(笑)」
と作品を振り返ります。

樹木さんが役を引き受けた意外な理由

「これまでの原田監督の作品は、大きな権力に対する個の関係みたいなものが多かった気がするんですけれども、この作品を作られたいきさつというのは?」というMCからの質問に「基本的には権力に立ち向かっても、社会的な問題をいれても、やっぱり家族のドラマが根底にあったのと、これは母ものですよね。井上靖先生の原作を読んだ時から映画化したいと思った。井上先生とお母さんの関係もいいなと思ったし、僕が映画に目覚めたのは母が映画を好きだったということがあって。本来の自分の映画の原点に帰ってきた作品です」と原田監督。
ちなみに一番最初の映画の記憶は、母に連れられて観たフレッド・ジンネマン『山河遥かなり』なんだそう。

樹木さんに対して「どこまでが演技かと思うほどのすごさを感じたんですが、この作品のような痴呆の演技の経験は?」と尋ねると、樹木さんは「記憶にないです(笑)」と痴呆の役にかけた回答で笑いを誘います。

また、樹木さんは「最初にお話をいただいた時は土蔵のばっちゃんの役だったんです。最後、写真だけになったばっちゃん。その時には2シーンしかなかったので、それなら1日、2日で終わるなと思って引き受けたんです。それから1ヶ月半くらいしてから監督に会いたいと言われて、会いにいったら、八重をやってほしいと言われて」と、この役を演じることになった経緯を話します。

続けて「過去にもそういう経験があったので今回も断ろうと思っていたら、監督が井上先生の家で撮影をするというから、その家を見てみたいという思いで引き受けました。そこで撮影するなら、やります!となったのが一番の理由ですね」と話し、建て壊された後の土地も見に行ったそうで、物件好きとしてのエピソードを語る樹木さん。意外な理由からこの映画へ参加したことが明らかになりました。

一方、「家のことは先にプロデューサーに聞いていたんじゃないかな。会ったときから樹木さんはやる気だったと思いますよ」と原田監督。
「井上さんの家が翌年の5月にはなくなっちゃうからそれまでに撮らないと、とプロデューサーと話していたんですね。彼はいろいろとリサーチしていて、樹木さんが八重さんをやってくれないと企画自体が成立しませんよ、と言うので、ふたりで樹木さんを口説こうということになってお会いしたんです。さっき樹木さんは誇張して言ったんだと思うんですが、僕が会った時に、どう見ても八重さんに見える格好でやってきたんですよ」と話すと、樹木さんは「私は着物を着て行っただけよ!」と反論。「それがそのまま八重さんに使える着物で、髪型も今日みたいなモダンな感じじゃなく、おばあさんに見えるような感じで(笑)。それで座るなり、「私は八重さんって足が早い人だと思うのよ」っていう。「あ、もうやる気になってるんだ!」って思いました」と続ける監督に、樹木さんも「やる気になってたんだ!」と驚きつつ「その辺はどっちが先立ったか覚えてないけども、とにかく井上さんの家が見られるというのは感動しましたね」と話していました。

樹木さんの発言に原田監督がタジタジ…?

母の記憶の断片が消えていくなか、主人公が中学生の頃に書いた詩を紙切れに書いて大事に持っていたシーンについてMCが言及すると、「あのシーンは女性スタッフが全員泣いていた。逆に男性スタッフが泣いていたのは長女(キムラ緑子)がお母さんが亡くなったと電話してるところなんですね」と原田監督。
するとMCは「僕、女系かなぁ?」と会場を笑わせ、原田監督は「僕もあのシーンは撮りながらグッと着ましたけど、役所さんのああいう泣き顔は見たことなかったし、樹木さんのああいうお芝居も初めてみました」と話します。
そのシーンについて樹木さんが「神々しい存在感」だったと原田監督が言うと、「でも憎たらしいんですよ、監督は」と樹木さん。
「そのシーンはもう最後の方だったので、何も言いませんでしたけど、ちょっと芝居をすると「なんだよ、新劇みたいな芝居になっちゃったなぁ」なんて言うんですよ」と続けます。「そんな失礼な言い方しませんよ!」とフォローする監督ですが、「モニターを見ながらつぶやいてるのが聞こえちゃうんですよ(笑)」と笑いながら話し、和やかなノリで憎まれ口をたたく樹木さんと監督との関係が垣間見えるようでした。

–{「それは盗作にはならないんですか?」}–

「それは盗作にはならないんですか?」

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「やはり僕はこの作品で、小津監督の偉大な系譜に少しでも近づきたいと思っていて。なおかつ、始めに井上靖邸を見て絶対に使いたいなと思ったのは、小津映画のような奥行きの構図があったんですね。それにプラスして、もっともっと小津美術に近づけたいという思いがあって。それで撮影に入るちょっと前にわかったんですけど、樹木さんは小津さんの最後の『秋刀魚の味』の現場をご覧になってるんですよ」と原田監督が明かすと、樹木さんも「杉村春子さんのが出てらして、研究生が付き人として代わりばんこに現場に行くんですよ」と現場に居たいきさつを話します。
「中華料理店で自分の噂を父親と戦友がしているのを聞いて、ハッと泣くシーンだったんですけど、朝早くからお昼まで何度やってもOKが出ない。それを見てたっていう話を監督にしたら、うらやましそうに聞いて「いいなぁ」って」と樹木さん。
「それで20回くらいやったんでしたっけ? 終わったあとにがっくりとしてるのかと思ったらそんなことなく」と原田監督がその話を続けると、「全然がっくりしてないの。素晴らしいと思った! 私は監督に対しての尊敬という考え方が欠如してるんですよね」と淡々と話し、会場から笑いがこぼれます。
「杉村春子さんは監督さんに対して尊敬してる。でも自分ができないことが悪いと思わないの。終わると「お昼天丼にする? 私はなんでもいいわよ」なんてね」と樹木さんはその時の杉村さんのあっけらかんとした雰囲気を再現しながら、「監督を先生という気持ちでいる人だから、杉村さんは黒澤明さんでも溝口健二さんでも、誰に対しても「はい。はい」って。それは素晴らしいことだと思いました。そういうことをお話しました」と監督のうらやんだエピソードについて披露していました。

その流れから、小津作品に触れて「『東京物語』でも子供が親を捨てるんだっていうセリフかシーンがありましたよね」とMC。
「あれは井上先生の短編小説からも借りたりとか、時代的なところもあって入れてますけど、一番小津オマージュとしては、オープニングショットが『浮草』の中村鴈治郎さんと京マチ子さんのトークバトルから借りてます。あの作品が小津作品で一番好きなんですけど」と原田監督が話すと、「その映画とほとんど同じような映像にしてるんですか?」と樹木さんから質問が。
「フレーム的な、構図的なものは似させました」と答える監督に、樹木さんは「それはあのエンブレムじゃないけど、盗作にはならないんですか?」とたずね、会場を沸かせます。
原田監督も思わず笑いながら「それはならないです(笑)。オマージュといえば盗作にならないことになっています」とウィットに富んだ樹木さんの質問に答えていました。

原田監督と心が通じたと感じたシーン

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井上先生が原田監督の高校の先輩だという話題になると、原田監督は近親憎悪のような感覚があって当時は一切読んでいなかったと明かしますが、40代50代になってから読むとものすごく味があって惹かれるものだったそう。

軽井沢の別荘も井上先生のものを借りて撮影したそうで、樹木さんは「監督のすごいところは、夏のシーンを撮って1日はさんでまた夏のシーンの撮影だったのに、雪が降ってきちゃったから雪のシーンに書き換える。それがすぐできる」と原田監督をほめつつ、「台本ではぶつぶつ言いながら孫が世話をするのをよけて勝手にいるっていうシーンで、本当だったら窓を開けて触りたかったなぁと今反省するんだけど、その時その時を随所で変えていくから、こっちが追いつかない。まだ親しくないときだったから。今も親しくないんですけど」と最後にオチをつけて笑わせます。

一方、監督との信頼感ができたと感じたエピソードとして、三国連太郎さんの演じる夫が亡くなるシーンで「どう動きたいですか?」と聞いてもらったことをあげた樹木さん。

「その時に仲良くなれたというか、信頼してもらえたのかな、と。夫はもう死に際で、本当は台本通りそばにいて洗濯物を静かにたたんでいるのが普通の感覚なんだけど、息子に次の代を譲っているから、自分が大事にする相手は息子なんだという思いと、夫が寝てても自分の身なりを整える芝居をしたいと言ったら、廊下から鏡をずっと引っ張ってくるようにしてくれて、こういう呼吸ができるなら、もっと早くに言っていればよかったなぁと思いました」と若干の後悔を語ると、「あれは樹木さんが打ち合わせでおっしゃってたんじゃなかったでしたっけ? 瞬時には多分できないことなんですよ。その話を樹木さんから聞いたときは、“そうなんだ。やっぱり女性としての残り香みたいなものがあって、って。その八重さんをみたいなぁ”と思って鏡台とかそういうのも考えたような。いろんなものが凝縮して、僕も最近記憶がはっきりしないんですけど(笑)」と返しながら、原田監督は「僕の場合は最初にお会いした時からキャッチボールがうまくいってるなっていう感じで。あうんの呼吸で、もう八重さんになってるんだ。というところから始まってるんで、全部信頼してました」とコメント。
「そうなんだ。そういう風に思ってなかったんですけど、そうですか」とあくまで飄々とした態度の樹木さんでした(笑)。

–{「早く映画を観せろ!」と生まれてきた?}–

原田監督は「早く映画を観せろ!」と生まれてきた?

後半で開催された客席からのQ&Aも一部ご紹介します。

質問「樹木さんのお母さんはどんな人だったのかと、映画好きという監督のお母さんが一番好きだった映画を教えていただきたいです」

樹木「うちの母はどうってことない人なので、監督のお母さんはどうですか?」

原田監督「何の映画って言ってたかもしれないけど、役者なんですよね。グレゴリー・ペックが大好きで、あとウィリアムホールデンも好きでしたね。僕がおなかの中に入っていて陣痛を起こしたときに見ていたのは、グレゴリー・ペックの『子鹿物語』を観ていた時だと言ってたかな。坂東妻三郎の『紫頭巾』とハシゴしてる時に、「僕が早く映画を見せろ」とおなかをたたいたという話はよくしてまして。やっぱり役者本位ですよね。それで『七人の侍』の木村功さんを見たくて、僕をダシに使って御殿場ロケに連れて行ってくれて。それで僕は野武士たちが動き回ってるのを見て怖がってたのは今も覚えてますけど」

樹木「お父さんはどんな感じですか?」
原田監督「全く話しにならない、つまらない銀行員です(笑)。映画の話は全くしなかったですね」
樹木「渋い感じですか? 木村功さんみたいな感じですか?」
原田監督「全然違いますね! いや、そうでもないですかね…若い頃はハンサムだったかもしれないです」

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質問「今の日本で撮りたい場所はありますか? あと、樹木さんは井上さんのお宅を拝見したかったとおっしゃっていましたが、家や別荘などを歩いて感じたことがあれば教えてください」

原田監督「やっぱり皇居の中を撮りたいですけど(笑)。『日本のいちばん長い日』で撮りたくても撮れなかったところなので。でもやはり、『わが母の記』も『日本のいちばん長い日』も全部そうですけど、ことに『駆け込み女と駆け出し男』は時代劇だったので、日本にはまだまだ時代劇も撮れるいいところがいっぱいあるんだなというのを皆さんにも観てもらいたかったですよね。同時に井上邸のように失われていってしまう所もあるし、別荘はまだありますけど」

樹木「松竹の社長のおかげで、川奈ホテルでも撮影できたじゃない。初めて撮影現場になったそうです」

原田監督「それと、迫本さんのお友達の後藤さんという方が『金融腐蝕列島 呪縛』の役所広司さんがやった役のモデルだったので、そういう繋がりもあって。映画はどんどん作っておくべきですね(笑)」

樹木「それで私はですね、今は鴨長明の『方丈記』に凝ってまして、4畳半一間でもうよくなりました(笑)。なんにも家には興味がなくなりました(笑)」

質問「私観ている樹木さんの映画では「葬式」や「死」の場面がよく出てきます。あとドキュメンタリー映画でインドの北部の仏教と関係のあるところに巡礼しているものもあったと思うんですが、それで、生と死の考えの基礎には仏教的なものがありますか?」

樹木「そうですね。仏教的というよりも、生も死も日常というか。生きてるまんま、死っていうのもそのまんま。此岸と彼岸というその境がどうもないみたいなんです。あんまり「死
」を特別視していないから、ちょっと面白いかたちになってしまうみたい。今作の最後のシーンでも、監督に「鼻に綿を詰めますか?」と聞いたら、「そこまで面白くしなくていいです」と(笑)。そのくらい、劇的な感覚がないものですから、多分そう受け取られたんだと思います。これからも私は、自分の身体もガンというものを抱えてますし、生きてるのも死んでるのも成り行きというか、そんな感じでおります」

原田監督に影響を与えた名作の話題も飛び出すなか、意外にも樹木さんが主導権を握って原田監督をけなしつつ、ほめつつ、たびたび笑いが起こり、チャーミングな樹木さんの姿も見られたイベントとなりました。

映画『わが母の記』は現在、DVD・Blu-rayが発売中です。

(文・取材:大谷和美)