2015年8月8日より公開となる映画『日本のいちばん長い日』の特別試写会が7月22日に東京・よみうり大手町ホールで行われ、原作者である半藤一利氏と、原田眞人監督によるフォーラムが行われました。
戦後70年の今、戦争を改めて考える
映画『日本のいちばん長い日』は、昭和史研究の第一人者であり、圧倒的支持を受ける半藤一利氏の『日本のいちばん長い日 決定版』を『わが母の記』『駆込み女と駆出し男』などの原田眞人監督が映画化に挑んだ作品。
この日、東京・よみうり大手町ホールで特別試写会が行われ、作品の上映前に行われたトークショーでは、読売新聞東京本社論説委員・天日隆彦氏のコーディネートのもと、半藤一利氏、原田眞人監督の両名が、本作で描かれた当時の人物たちについて語られました。
シネマズでは、フォーラムの全容をお届けいたします。
読売新聞東京本社論説委員・天日隆彦(以下、天日):
それでは、まずお2人から自己紹介を兼ねて、一言ずつご挨拶をお願いしたいと思います。
原作者・半藤一利(以下、半藤):
本作は今から50年前、私は35歳の頃に書いたノンフィクションです。あれから50年が経ちまして、何回か映画化の話はあったりました。けれど、とても今の東京では撮ることができないほど、東京が変わってしまったので、映画化はあきらめていたんです。今回、原田監督のすごい演出で出来上がったこと、本当に嬉しく思っています。
原田眞人監督(以下、監督)
2週間ほど前に、都内某所で各国の大使館関係者をお招きして、特別試写をやったんですね。その時に150カ国に案内を出したのですが、66カ国150人の方が参加してくださって、そのうち40人が大使でした。見終わった後、盛大な拍手がおきて、その後のレセプションでも素晴らしい作品だったと好意的な感想を述べていただけました。
その時に共通して言われたことが“人間性”です。人間ドラマとしてこの終戦を描いてくれた、この“人間性”が素晴らしいということを言っていただけました。
半藤先生の『日本のいちばん長い日』は、1967年に岡本喜八監督が一度映画化しています。しかしながらその当時は、昭和天皇が描けない時代でした。日本はやっと昭和天皇が描ける時代になった。
さらに東京、そして日本のどこにも昭和の風景はほとんど無くなっているんですが、我々は新しい武器を手にしました。CGです。CGやVFX、こういったもので街をつくることができます。今回は京都をベースに、日本映画としてはじめて昭和天皇が前面に出てくる半藤先生のノンフィクション大作にふさわしい映画化ができたと思っております。
役所広司演じる“阿南惟幾”について
天日:
本作には終戦に関わった、政治家、軍人、官僚が出てきます。まずは阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣についてお聞かせください。
半藤:
阿南さんという大将は、少しでも昭和史を勉強された、もしくは読んだ方ならご存知かと思います。陸軍は当時、統制派と皇道派の2つの大きな派閥に分かれていて、これが常に抗争していました。結果として統制派の人たちは天下を取りましたが、いずれにしても、ものすごい派閥争いがあったんですね。
阿南さんという方は全く派閥には関係のない“無色の人格者”と言われた方なんです。ただし、褒め言葉だと“無色”なんですけど、要するに派閥にも入れないような、陸軍の中では若干“見劣り”のする軍人であったと言ってもいいんじゃないかと思います。
–{「誠なれ…」阿南が遺した言葉}–
阿南さんは、陸軍士官学校を卒業した時の成績は300人中90番。あまりいい成績じゃありません。陸軍大学校も卒業しているんですが、陸軍大学校を実は3回落ちているんですね。そして4回目の時は、阿南さんはすでに中尉になっていて、阿南さんたちの部下たちが「うちの中隊長は教育の方に熱心で陸軍大学校を受ける。今度が最後だから、我々は阿南中隊長に協力するから、阿南中隊長は我々を訓練しなくてもいい。自分たちは自主的にやるから」と、全中隊が阿南さんを応援にかかったというぐらいに、教育熱心な方なんです。
そのおかげがあったかどうか知りませんが、陸軍大学校に入りまして、この時も卒業するときは60人中18番。これはかなり成績がいいんです。しかし、出世コースを歩いたとなれば、もっと今回の話が以前から出て来てもいいのですが、阿南さんの名前を昭和史で探そうとしても、1回だけ大きく出てきたのみです。
海軍大臣の米内光政大将が内閣を組織した時に、米内内閣を倒すために陸軍が畑俊六という陸軍大臣を辞職させる、その時に阿南惟幾という名前が陸軍次官として出てきます。阿南さんがむりやり米内さんに「陸軍は内閣に協力出来ないので大臣を辞めさせ」というようなことを言うわけです。
その件で名前がばっと出てくるんですが、またスッと消えちゃいます。それ以降は中国大陸で勇戦力闘したとかいう形で出てくるんですが、あんまり褒められた勇戦力闘じゃないんですね。「進め、進め、進め」というんで、ものすごい損害を出すような戦い方だった。
だから「あの人は戦争下手だ。あの人は訓練とか教育とか、そっちのほうが向いている」と陸軍では言われていたようです。
阿南さんがいちばん真価を発揮したのが、東京陸軍幼年学校の校長であった頃といいますから、阿南さんは本当に教育といいますか、陸軍の軍人を鍛えあげるのには向いた方であったようです。
「誠なれ…」「顔を直せ」阿南惟幾が遺した2つの言葉
半藤:
この方が自分で常に言ってたことが2つあります。映画の中でも出てきたと思いますが「誠なれ、ただ誠なれ誠なれ、誠、誠で誠なかれし」この言葉が有名なんです。
要するに人間は“誠実”でなければならない。人間は誠心誠意、全力を尽くさなければならない。だから「誠なれ、誠なれ、誠なれ…」とこれが一番大事なんだとこういう風に部下たちを教育したと。
もうひとつ「顔を直せ」という言葉を盛んに言ったそうです。「顔を直せ」というのは、化粧をしていい顔になれというのではなく「人間というのは人格を磨くことによって非常にいい顔に変化する」と。「若い時の顔と、年取った顔というのは人格を磨くことによって全然違う人間になれるんだ」と。したがって「精神というものを鍛えあげて、そしていい顔になれ」と。そういう風に言われていたようであります。
実は終戦の時、天下を取っていた統制派の軍人たちが次から次に大失敗を犯していくんです。戦争を行うより惨めだと言っていて、どうにもならなくなった時に陸軍が失敗をしてしまうんです。そこで、そういう人格者であった阿南さんが残っていたというのが、日本の国にとっては非常に幸運なことであったと私は思います。
もうひとつ大事なことは、阿南さんは昭和4年から8年の4年間、昭和天皇のお側に使えた侍従武官(じじゅうぶかん)をやっているんです。
–{終戦の鍵を握った3人の男たち}–
この昭和4年から8年というのは、日本が満州事変とか上海事変とか熱河作戦とかいろんな意味でどんどん大陸のほうへ侵攻していって、日本の国が攻撃的な国になり、そして昭和天皇が最も悩まれた時なんです。
その時の昭和天皇を、後ろからきちっと支えたんです。阿南惟幾というのは、謹厳実直、寡黙ということで有名だったようです。昭和天皇がこういう方が大好きなんですね。
つまり、阿南さんから4年間、侍従武官をやったということ。これが実はその『日本のいちばん長い日』が終戦へ向かって、とにかく戦争をやめるということを成功させた一番大事なことだったんじゃないかと思います。
で、さらに大事なことは、阿南さんが侍従武官をやっていた時に鈴木貫太郎が侍従長(じじゅうちょう)をやっているんです。
貫太郎さんは昭和のもっと早くに侍従長になっています。二・二六事件で、重症を負って侍従長を辞めざるを得なくなるということになって、昭和11年の終わりに辞めるんです。
阿南さんが侍従武官をやっている時に貫太郎さんは、侍従長として、同じように天皇のもとに仕えていた。この3人が、昭和がもめ出した時に天皇と一緒になっていたという、一番の偶然というか、面白さがそこにあるんです。
この3人が終戦の時の最後のところで、非常にお互いがお互いの人格を分かり合っていた。「この男は、こういう男だ」ということを非常に理解していたと。ここが実は一番大事なところじゃないかと思います。
いずれにせよ、阿南惟幾という陸軍大臣は、最後になって全責任を負って、昭和の時代に犯した陸軍のいろんな間違いに対して「自分は責任を持って、その罪を国民にお詫びして、腹を切る」といって腹を切るわけなんですね。いずれにしても、こういう誠実な人間が最後に残っていたというのは、日本の国にとって非常に幸運なことであったと、私はそう思います。
–{“アンビバレンス”を与えられた}–
監督:
今、半藤先生がおっしゃったことは映画の中でほとんどカバーしているんですが「顔を直せ」っていうことだけはちょっと入れていません。僕も半藤先生の本を読んでて「顔を直せ」っていうのはすごく気に入ってたんですが、これ僕らが撮影の時に役者に言うことに似ているので、敢えて入れることもないかなと思って外しちゃったんです。ですが、戦戦下手であったという点では、この作品の中では、決起する将校の1人井田中佐の口を借りて「あれだけ部下の将兵を殺して尊敬されているというか、褒められているのは阿南さんと乃木大将ぐらいだ」という台詞があります。これやっぱり考えてみればみるほどすごく重要な台詞だと思います。
乃木大将は、昭和天皇にとっても本当に理想の軍人です。乃木大将が、校長ですか教育長みたいな形で、昭和天皇の10歳になる頃に全てのことを教えているということで昭和天皇がすごく尊敬していた。明治天皇が亡くなられた時に乃木大将が殉死されて、その時にはじめて大きな悲嘆の心に触れたという、そういうようなエピソードもあります。
その乃木さんと並ぶくらい阿南さんというのは、昭和天皇にとって重要なってくる。それで、今回役所広司さんにやってもらったわけですけども、僕は半藤先生の原作を読んだ時から、阿南さんは役所さんしかいないなと。それと同時に“家庭人”としての阿南さんを強調したかったんですね。
岡本作品では三船敏郎さんがやって、切腹まで豪快にやっていたのですが、これは阿南さんじゃないんですね。阿南さんのご遺族の方も本作を観てくれて「はじめて自分の父親を描いてくれたと」すごく感動してくださったんですね。
本作は1945年4月から8月までの話ですけど、この映画のリアルタイムで登場する時には、まず阿南さんは家庭人として描こう、家庭人として登場させよう、それが軍服を着た時にこの映画の終戦への歯車がじわりじわりと回ってくると。そのことと、それからやはり阿南さんの最後の最後まで今半藤先生がおっしゃったように教育者として優れていたと。
規律背反の心『アンビバレンス(Ambivalence)』
監督:
そして、彼がつくりあげた軍人たちがクーデターを起こすんですね。彼の子どもたちと同じです。それから阿南さんの次男というもの戦死されている。この中の映画の中で唯一の幻想シーンとして、阿南さんが道場で自分の息子の真剣を奮っている様を見ますけれど、それを抑えて飲み込んで戦うことよりも和平のほうを選ぶという、これがひとつの阿南さんの心情の象徴シーンとして描いているんです。
ですから、阿南さんのことを他のいろんな資料を読んでいると、素晴らしいノンフィクションブックで『一死、大罪を謝す』という角田房子さんの本がありますが、この本だと肯定的に“腹芸”だという人と、否定的に“気の迷いだ”とみる人といます。
否定する人が言うには、阿南陸将の秘書官をやった林三郎大佐。この人も「あの人は最後の気の迷いだ」みたいなことを言ってるんですね。で、僕はこれどちらも正しくて、どちらも違うと思っているんです。
歐米映画の主人公が抱えているような規律背反の心“アンビバレンス(Ambivalence)”というものです。
例えば『アラビアのロレンス』もそうだし『波止場』の主人公マーロン・ブランドもそうだし『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)もそう。極端に言うと『戦場にかける橋』のアレック・ギネス。橋を建設して泰緬鉄道の橋を、最後に自分が壊さないといけないという、この究極なアンビバレンスを与えられた名作の主人公たち。そういうものに匹敵するものを、阿南さんは持っていると感じてこの映画を作りました。
鈴木貫太郎首相、そして迫水内閣書記官長について
天日:
続きまして、さきほどお話にも出ました鈴木貫太郎首相、それから鈴木首相を助けました迫水内閣書記官長、この2人が終戦の時にどのような役割を果たしたのかお願いします。
半藤:
その前に、今日家を出てくるときに私の家内が「せっかくだから私の本を宣伝してこい」と言うので、文春文庫で『漱石の長襦袢』という本があるんですが、これを持ってまいりまして、これ私の女房の本なんです。
なんでこれを持ってきたかといいますと、実は私の女房は夏目漱石の孫にあたるんです。みなさんは全然知らないと思いますが、夏目漱石の奥さんの鏡子という夫人は実は元の名前は中根と申しまして、この鏡子夫人のいとこが岡田啓介という海軍大将の奥さんなんです。ということは、夏目漱石は義理のいとこが岡田啓介ということになるんですね。
–{意外な繋がりが与えた影響}–
岡田啓介というのは、二・二六事件の時に総理大臣をやっておりまして、殺されないで済んだ方なんですが、海軍の大将で、これが鈴木貫太郎さんを総理大臣に昭和20年の4月に無理やり担ぎだしてきた張本人なんですね。
で、岡田圭右さんと迫水さんというのがこれまた親戚なんです。この系図が女房の本に書いてあるんですね。詳しく知りたかったら買ってみてください(笑)ということは、要するに夏目漱石も岡田啓介と親戚になりますし、迫水さんとも遠い親戚です。ということは鈴木貫太郎も実は岡田啓介と親戚になるんです。
これも難しいから僕は言いませんけど、つまり終戦の時の鈴木貫太郎、迫水久常というのは親戚同士で、後ろに岡田啓介という親戚であり海軍大将がおりまして、この連中が変な話なんですが、一緒になってやったんですね。そういう意味では私も鈴木貫太郎、迫水久常、岡田啓介と全部親戚なんです(笑)
この鈴木貫太郎はという人は実は大変な人なんです。日清・日露戦争の時のすごい勇者なんです。「鬼貫太郎」と呼ばれたくらいにものすごく戦った人。
そういう人ですからぐんぐん出世していきまして、海軍のトップを極めた人なんですね。ところが、昭和になりましてすぐに「侍従長は海軍から、侍従武官長は陸軍から」というしきたりがありまして、それで海軍から侍従長になられたんですが、実は左遷も左遷、すごい左遷なんですよね。
正直いうと。鈴木貫太郎さんは、連合艦隊長官もやりましたし、軍令部総長もやった海軍のトップを極めた方で、宮中における席次はすごく高いんです。ところが、侍従長になると席次が一気に下がるんですね。普通の人はそういうことを承知しないんですが、鈴木貫太郎は承知して、侍従長になったと。
さらに、鈴木貫太郎の2番目の奥さんというのが、昭和天皇の乳母なんです。鈴木貫太郎は、侍従長をやっている時に、天皇とは親子ぐらいの差がありまして、昭和天皇は鈴木貫太郎を父親のごとく思い、そして鈴木貫太郎の奥さんも母親のように思って育ったというところがあって、ほんとうまい具合になっていたんですね。
そこに、一中一高東大という出世コースを歩いた大蔵官僚のものすごい秀才である迫水さんという親戚が、がっちりと下から支えます。そしてその上に岡田啓介という重鎮が乗っかりまして、それで日本の国をなんとか戦争を終わらせる方法にもっていこうという全力を尽くすんですね。ですから、親戚筋というのはあまり馬鹿にできないなと。私もそう思いまして、今日は妙なご紹介をしましたけど、そういうことであります。
さっき言い忘れましたが、終戦当時の阿南さんは58歳、鈴木貫太郎78歳、迫水さんは43歳、この歳頃でございます。なぜこんなことを言うかといいますと、この後で、反乱軍の将校たちの話が出てまいりますので、その将校たちの年齢を紹介しようと思いますので、ちょっと覚えておいていただきたいと思います。
山﨑努が演じる鈴木貫太郎という男
監督:
半藤先生、迫水さんは岡田啓介の娘の旦那ですよね?
半藤:
迫水さんの奥さんが、岡田啓介の娘です。前の奥さんですね。早死されるんですけど、岡田圭右の娘婿ということになりますね。
監督:
岡田啓介さんは、この映画の頭でちょっと出てきます。杖をついて東條英機に怒鳴るおじいさんが、それが岡田啓介さんです。それで、迫水さんは堤真一がやっています。
–{「そのさまは鞠躬如であった」}–
監督:
鈴木貫太郎の山﨑努さんは、僕は脚本を書いている時から、役所さんの阿南さんと、貫太郎さんの山﨑さんというのをイメージして脚本を書きました。やっぱり貫太郎さんというのは半藤先生が仰ったように、すごい豪胆な人だなあと。これが今まで映画で描かれると違って描かれるんです。
岡本作品の批判をするわけじゃないんですけども、あれは『日本のいちばん長い日』の最後の2日間を中心に描いていたので、笠智衆さんがやっていたんですけど、どうしても貫太郎さんがふわふわした頼りない人で…。
終戦の4ヶ月前に、昭和天皇がどうしても貫太郎さんに首相になってくれと言って、阿南さんと3人がチームになるんですね。要するに貫太郎さんを首相に持ってくれば、阿南さんが陸将でくるんじゃないかと、そういう伏線もあったと思うんです。
ところが、僕はやっぱり半藤先生の『日本のいちばん長い日』を読んだ時に一番「あ、このシーンを映画化したいな」と思ったのが、貫太郎さんが昭和天皇に面と向かって御前会議の時に聖断を仰ぐんですけれども、そのときに半藤先生の本では「そのさまは鞠躬如であった」と書いてあるんですね。
米内さんや迫水さんの全然別個に彼らを書いた本で、彼らの見た目で鞠躬如という言葉が出てきているんです。これは『論語』の言葉らしいんですが『論語』の中で「非常に身を固くして慎み、かしこまっている様」とかそういうのが出てきます。
これを、映像化するときにどういう風な動きにしていいのか?実際に貫太郎さんがどう動かれたか、どういう形で挨拶をしたのかというのは無いんですね。ただ見た人が「鞠躬如だった」と言っているだけなんで。
それで「能・狂言の足の運びかな」と思って、茂山一門の茂山逸平さんに現場に来てもらい、その場で山﨑努さんに動きを指導してもらったんです。山﨑さんは大俳優ですから、これは茂山逸平さんが驚くほどベテランの能楽師のように、すぐ足元・動きをマスターしてくれて、素晴らしいシーンになったと思っています。
半藤先生が仰ったように、昭和天皇というのは戦前の日本にとって“全ての家族の家長”でしたけれども、この作品はその家族の絆みたいなものを描いているし、その昭和天皇と貫太郎さんと阿南さんというのは擬似家族だったんじゃないかという。
そういうところが僕の極みで、この“鞠躬如”という、いわゆる儀式ですね、才芸の。昭和天皇が全てをやってきている祭祀、その昭和天皇の業務に相応しい祭礼的な動きを鈴木貫太郎さん的に考えてやった。でそれを阿南さんがサポートした。この3人というのは、擬似家族の関係で年齢的に言うと、鈴木貫太郎さんが父親で、長男が阿南さんで、次男が昭和天皇。
この3人が1フレームの中に入るという、このカットを撮りたくて、それがこの映画の“へそ”だなと。そういう感じがして脚本を書いて、実際に映画を撮るときも、この時は本当に緊張した中の映画作りのおもしろさというのがありました。
迫水書記官長の堤さんのことは飛んじゃったんですけど、ひとつだけ付け加えさせてもらうならば、鈴木貫太郎さんのお孫さん、道子さんも既に何回もご覧になって頂いています。プログラムにも道子さんは、音楽評論家ですので書いてくださっています。
それから、迫水さんのお孫さんたち、長男・長女のお2人ともこの映画を早くにご覧になって、すごく褒めてくれたのですが「ひとつだけ事実と違う」と言われたところがあったんですね。
ご覧になれば解りますけど、迫水さんは登場の瞬間から自転車で来ます。実はいろんな当時の車っていうのは、なかなか手に入らなくて迫水車として1台あたえる分に無かったので、迫水さんのコンセプトは自転車ということにして、自転車で走り回る人ってことにしたんですね。
そしたら、迫水さんたちのお子さんたちは「父は半月板を痛めていたので自転車に乗れなかったんです」と言う。仕方ないです、これは。映画の嘘です。でも、堤真一の自転車姿というのは本当に様になっていると思うんで、これはもう許してもらいました。なので、みなさんそのつもりでご覧ください。
クーデーター未遂を起こした若き将校たちについて
天日:
内閣書記官長といいますと今で言う内閣官房長官なんですが、当時は割りと事務的な仕事が多くて内閣官房副長官的な仕事をされていたとも言われています。
次に、反乱を起こそうとしたクーデター未遂を起こした将校たちについて話をお伺いしたいと思います。映画では畑中少佐というのが特にクローズアップされていますけど、その他の何人かの将校たちが描かれています。
半藤:
先ほど予告しました通り、年齢を先に申し上げておきます。畑中少佐は当時33歳、椎崎中佐は当時34歳。これはあまり映画に出てきませんが、東條英機大将のお嬢さんを、お嫁さんにした古賀秀正少佐が26歳。それからもうひとり参謀の石原貞吉少佐が32歳ということです。
–{秀才たちが起こした反乱}–
つまり、その若い人たちが「断固として日本は降伏しない、徹底抗戦、そして本土決戦へ」とにかく敵に大損害を与えて有利な形で、有利な条件で講話に入るべきであると、そうしないで講話に入ったら、無条件に日本は“占領政策”を押し付けられるということで、この連中は決起するわけなんです。
こういう若い人たちですから、戦歴といいますか、軍歴はありません。ほとんど、この人達は陸軍大学校出です。ですからみんな秀才です。秀才な人たちですから、前線に出ることはほぼなく、みんな陸軍省か参謀本部附のどちらかに属する人たちであったと言ってもいいと思います。
念の為に申すと、畑中さんという方はものすごく評判のいいといいますか、私が取材をしまして、いろんな人から話を聞いて、1人として悪口を言う人はいないんです。あのぐらい純粋にあのぐらい日本の国を思い、あのぐらい自分のことを構わずに、信念といいますか、自分が考えていることに一直線に進むことが出来た人間というのは、他に居なかったような気がするというぐらいに評判のいい方でございました。
その人が思いつめて断固として「降伏は許しがたい」といって立ち上がったわけでございます。8月15日の天皇が放送をする直前に、宮城前の松林の中で拳銃で自分の頭を撃って自殺をされたという。
この人達のことを書いていて誠に申し訳ないことで、行かなきゃいけないと思いながら行ってないんですが、どなたが建てたか存じないんですが、今は麻布の清正寺というところに碑があります。もし映画をご覧になった後で、この若い人たちの“命を捨てても”本気になって国のためにいろんな信念を通した、ということに感銘されて少しでも気の毒に思うなら、そこおwお参りをされるといいかと思います。
私が聞いた範囲では、畑中さんの1つ歳上の椎崎さんという方が、少し政治的な感覚の強い人で、うまく使ったという言い方ではおかしいんですが、2人で乗っかったという風な人が多かったという風に思います。
古賀さんと石原さんという人は、2人とも近衛師団の参謀です。宮城の中でクーデターを起こすためには、宮城の中に入らないといけません。宮城の中に入るということは近衛師団の兵隊しか入れないんです。畑中さんと椎崎さんがいかに自分たちが信念を通そうと思っても宮城の中にはいれてもらえないんですね。
そこでどうしても近衛師団の参謀を仲間に引き入れる必要があるということでいろんな工作があったんだと思います。この人達も畑中・椎崎さんに、乗っかりまして仲間に加わったということでございます。
これを上から見守っていて、本当は一緒に動いたという人たちの中に竹下正彦という中佐と、井田正孝という中佐がいるわけです。この方たちは全部、陸軍大学校、ほんと秀才です。
少し歳上っていうのは違うんですね。井田さんは33歳でほとんど彼らと仲間なんですけど、井田さんは最後までやるつもりだったと思うんですが、途中から諦めたというのは早かったと思います。竹下さんは37歳と、ほんと少しの歳の差がはたらいて、あっと後ろに回ったということになるかと思います。
竹下さんは、実際にお会いして、何でも話してくれたんですけれども、何でも話しながら肝心要のことは全て隠しておりました。そのことが分かりまして「竹下さんもなかなかの狸だな」と今は印象を持っております。でも、こういうのは、全部が全部いっぺんに出ることはないので、時間が経つことによっていろんなことが少しずつ出てくるもんだという風に私は思っております。
なにせこの『日本のいちばん長い日』の元の原本は50年前に書いたものです。ですから、わたしは分かった事実を訂正して今は“決定版”という名前で出ております。今はかなり正確になっておりますけれど、1番最初の時のご本をお持ちの方は決定版とだいぶ違っていると思いますので壇上から申し訳ないんですが、お詫びして訂正をさせていただきたと思います。
–{若き将校を演じた松坂桃李}–
若き将校を演じた松坂桃李、そして無名の新人たち
天日:
原田監督、映画ではどのようにこの将校たちを描いたのかをお願いします。
監督:
決起将校たちは、今まで何度か描かれているんですけど、いつもその決起するというところだけピントが合わされているんですね。僕は井田中佐にしても、畑中少佐にしても決起する前、普段この軍人たちがどういう生活をしているんだというその部分が必要だと。
僕は以前『クライマーズ・ハイ』を作ったんですが、これは新聞社の話です。その新聞社の中で50人、いろんな人がいるんですが、それをリサーチしてその50人登場する人たちに、構成なら構成、社会部なら社会部でニックネームをつけて、それからどういう仕事をしているという全て本人に分かってもらってやったんですね。
今回は案外難しかったです。軍人だっていうのはどういうことをやっているのか。その環境をまず調べて、30人ほどいますけど、この中に全員を入れて何回もリハーサルをして、同時にこの連中全てに坊主になってもらって、いろんな基礎訓練、2ヶ月ほど訓練を積んでもらいました。
ところが、軍人らしい動きって今はもう自衛隊に参加した人の動きがベースで、旧軍隊ではこうだったけど、今は自衛隊ではこうなっているという、その差があったりする。
そこで、僕は日本の軍人らしさということよりも、むしろ英国のイギリスの演劇界の大物たちや、シェークスピア役者たちが演じた身のこなし、キビキビしたところ、そういったものを参考にしてもらうために、アメリカ人監督のシドニー・ルメットの『丘』という映画、ショーン・コネリーが主演で、ハリー・アンドリュースとかイアン・バネンという当時の名優たちが全部出ているんです。こういう人たちの動きをむしろ参考にしろと。そして、そこにある種の基本的な日本の軍人の動きというのを入れています。
ですから多分、みなさんがご覧になる、松坂桃李が演じる畑中少佐以下、井田中佐含めて全員すごく新鮮なところがあると思います。僕自身彼らにすごく感謝しているし、1人ひとりが何をやってどう考えてっていう、これを頑張ってやってくれました。
キャスティング的には、松坂桃李というスターの1人がいれば、後はみなさんに精神の発見みたいな形で、むしろ無名の新人たち、ただし舞台の経験があるというそういう役者を雇っています。彼らの頑張り方というのはこの作品のひとつのポイントですので、ぜひご覧になってください。
そして、今半藤さんがおっしゃったような色々なキャラクターがいます。それぞれに魅力的です。映画のみどころのひとつになっているんで、誰が誰であるのかということは後で混乱するかもしれないんですけど。そういう人は畑中だけ見てても構わないんですが、松坂桃李も本当に素晴らしい畑中少佐を演じています。こういう人であったのなら、やはり仲間はみんながついていくだろうなと、そういう畑中です。
それからやはり、井田中佐、竹下中佐というのは、これは阿南さんが救った将校たちですね。そういう面白さも含めてぜひ決起将校たちのどうなっていったのか。この映画で描いている部分が終わった、その1週間後に殺されちゃった人もいるわけで、あるいは自殺した司令官もいる。ですからこの作品以降、まだまだ時は流れていきます。そういう面も含めてひとりひとりの運命というのを、映画を見終わった後に、それぞれ感じるところがあったなら、違うところで思いを馳せて頂きたいところであります。
–{本木雅弘が演じる昭和天皇}–
本木雅弘が演じる昭和天皇
天日:
この映画の中で極めて重要な登場人物であります“昭和天皇”。昭和天皇について原田監督のほうからお願いいたします。
監督:
昭和天皇は、1番最初に誰に演じてもらおうかという、これがものすごく重要だったんですね。最終的には本木さんになったわけなんですけど、最初候補は4人くらいいて。準備に入った時には、本木さんロンドンだったんですね。ご家族と一緒に向こうに居られて。別の人から色々交渉をはじめて。
昭和天皇の僕のコンセプトとしては何かというと、本木さんはもちろん実際の昭和天皇よりもハンサムなんですが、美しいとか美しくないとかそういうことではなくて“気品”ですよね。
昭和天皇は、たとえばマッカーサー司令官が昭和天皇に会った時に、最初に感動しているわけです。それで、2回目からは昭和天皇に対しては“サー(Sir)”という敬称をつけて話しているんです。つまり、昭和天皇には実際にお会いすると“神のすえ”という形の何か違うものがあったであろうと。
これが戦後、ニュースフィルムであるとか写真とか、そういったものからは匂ってこないです。そういう昭和天皇の神がかりの雰囲気、それから人間味というものは、実際に2時間16分の映画の中にいれるとしたら、スター性があって、カリスマ性があって、なおかつ昭和天皇を理解してくれている、そういう俳優さんということで最終的に本木雅弘さんになりました。
それで、本人も言われていることですから敢えていいますが、本木さんというのは「史上最大の決断を毎日下さなければいけない」くらい“優柔不断な人”なんですね。全てのことに迷うんですって。
ですから、昭和天皇みたいな役をオファーされたら、これはもう悩みの悩みの悩みなんですね。で、ものすごい時間かかったんです、了承してくれるまで。最終的には、義理のお母様の樹木希林さんがプッシュしてくれて。樹木希林さんとは『わが母の記』で一緒にやっていたので「原田作品ならあんた出なさいよ」と言ってくれて、最終的にOKしてくれたんですね。
本木さんとは色々メールでやりとりして、撮影が去年の10月中旬に始まったんですが、本木さんが戻ってこられたのが11月3日。その時に、彼の中にすでに昭和天皇の像として降りてきたものがひとつあって、ただひとつ悩んでいたのが“眼鏡”です。
昭和天皇というのは、この15年戦争、最後の太平洋戦争だけじゃなくて、満州事変からはじまる15年戦争の中で眼鏡が2タイプあるんですね。ひとつは縁無し、もうひとつは銀のフレーム。「これどっちにしましょうか」と彼は悩んでいたんですね。
僕も見てみると、どちらも合っている。縁無しだと形はいいんだけど本木雅弘が前に出過ぎる、銀のフレームがあると、天皇に見えるけれども、どうも今ひとつ腑に落ちない。それで悩んでいた。
僕の方も「どっちがいいでしょうね?」と言われて「どっちもいいけど…」と受け応えしたら、11月3日に撮影が早く終わった後、全員じゃないんですけど美術部とか録音部とか全部のスタッフがいたので、本木さん挨拶したいって言ってくれて。それでスタッフを一同に集めました。28人いました。
本木さん、ものすごく腰が低い方なんです。「はじめまして、私今回昭和天皇を演じさせて頂きます、本木雅弘です」って挨拶をはじめて。そして、1番最後に「実は眼鏡で悩んでいます」と言って、みんなに銀縁のやつと縁無しのやつをかけて「どちらがいいでしょう?」と聞いたんです。そしたら、14対14だったんです。これで彼がまた悩んで、彼の出番がその1週間後でしたから。
みなさんご覧になれば、どっちかわかると思いますけど、両方使っています。
時を経て描ける昭和天皇の姿
半藤:
今から48年前に岡本喜八監督が映画を作った時に、昭和天皇を表に出せなかったんです。先代の松本幸四郎というものすごい大物を使っているんですが、後ろ姿しか映せなかったんです。要するに、昭和天皇は、ほとんど発言をしないっていう風な映画だったんですね。
でも、本当にこの終戦というのは鈴木貫太郎が“鞠躬如”として静かに前に進んで「陛下のご決断を」と言った瞬間の、この天皇は「私は外務大臣の意見に賛成する」といって戦争をこのまま集結するということに断を下したところに、一番大事なところがあるわけなんです。
ですから、昭和天皇が主役にならない映画っていうのは無いわけなんですが、今度はじめてそれがそっくり出てきたというので、私は本当に「これで終戦というものはある程度分かったんじゃないだろうか」ということで、原田監督には大変感謝しています。そして、この時代というものがそのくらい変わったんだなということを痛感しております。
–{戦争ははじめるのは簡単だが…}–
はじめるのは簡単、終えるのは命がけの努力が必要
天日:
そろそろまとめに入りたいと思います。今年は戦後70年の節目の年ですけど、終戦の日、1945年8月15日が戦後の日本に何をもたらしたのか、現在どのような意味を持っているのか、半藤先生にお話を頂きたいと思います。
半藤:
映画を観ていただいても、私の本を読んで頂いてもわかると思います。とにかく戦争というものは、はじめるのは簡単なんです。しかし終えるということは、ものすごく命がけの努力をしなきゃならない人たちが、たくさんいなければ終戦という形に終えることが出来ないということが、この本を書きながら痛感したことです。
あの時代にいろんな人にインタビューして話しを聞いたんですが、ほんとに一番聞きたかったのは昭和天皇なんですね。昭和天皇にあの時代インタビューなんて、とんでもない話ですから、私の本の中では「と、言った」としか書いてないんです。
「それはその時顔をしかめて言った」とか「昭和天皇はその時に怒って言った」とか「唇を噛み締めて言った」とか形容詞を入れると、もう少しドラマチックになるんだけどなと思いながらも「と、言った」としか書いてないんですが、とにかく昭和天皇は、最後になってよく決断されたということは、映画を観ていただければわかると思います。
そのくらい戦争というのは、始めるのは簡単ですが終えるのは大変です。「戦争を永遠に日本はしない」ということを決意したほうが、いいんじゃないかというのが私の感想でございます。
正しく歴史を解釈し、声を出していかなきゃいけない時期
天日:
原田監督、結びとしてこの映画で描かれたかったことをお願いします。
監督:
まさに半藤先生がおっしゃったとおり、戦争というのは終結させるのがいかに大変かという。
21世紀になっていろんな形でその昭和天皇を論ずる傾向が出てきました。これまでも、例えば海外のジャーナリスト、学者でいうと、1番最初に出てきたのが多分1966年のレナード・モズレーの『天皇ヒロヒト』だと思うんですが、そのあと1971年にディビット・バーガミニというのが『天皇の陰謀』というのを書いて、これはとんでも本ですけど、全て戦争の陰には天皇の腹黒い陰謀というものがあったという。
で、こういうものは、エドウィン・O・ライシャワーさん達がまだアメリカでご存命だったので、ライシャワーさんというのは駐日大使をつとめられたし、昭和天皇にもお会いになられているし、この人達がもう全部否定してくれたんですね。
–{我々は正しく歴史を解釈するべき}–
監督:
もちろん日本でも否定しましたけれども、それが21世紀に入って変わってきちゃった。歪められた昭和天皇像を書いたハーバート・ビックスの『昭和天皇』という本がピューリッツァー賞なんか取っちゃっているんですね。
これはもう間違いだらけの本で、そのことは日本でも指摘されている。僕はアメリカで育っていますからアメリカのことすごく好きなんですけど、いまだにまだアメリカ人と話してみると、やっぱり昭和天皇に関しては、どうも解釈が違うなというのがあるんですね。これ多分ビックス本の影響かなという気がしています。
この映画は1945年の4月から始まりますけど、その2ヶ月前、吉田茂さんなどに煽られて近衛文麿以下重臣たちが昭和天皇に和平を持ちかけるというプロセスが、半藤先生の『原爆の落ちた日に』にものすごく詳しく書いているんですね。
この事象を取り上げて、ねじ曲がった取り上げ方をしているのがビックス本、それからその他色々日本にもそういう学者がいるんですが、その時に近衛文麿が和平を持ちかけたのに昭和天皇は「いやいや、まだもっと戦って、もう一発叩いてからだ」って言ったというんです。けれど、そんな会話じゃないんです。
要するに近衛文麿が、開戦の時に内閣を投げ出して、その3年4ヶ月後にはじめて昭和天皇に会ったらいきなり和平を持ちだしてきて「軍部の中に共産主義者が大勢いるから危険だ、日本はこのまま戦っていたら悪になってしまう」ってそういうなこと言ったって、昭和天皇が認めるわけがないじゃないですか。
そういうようなやりとりがあって、昭和天皇の中で「本当にこれは和平に動くためには腹を据えて動かなければいけないな」というところから多分鈴木貫太郎さんというのが出てきているんだと思うんですね。
ですから、この映画の前談のところですね、そのへんのところを詳しく知りたければ、半藤先生が最近改訂版を出された『原爆の落ちた日』、これにそのプロセスが書かれています。本を昨日、一昨日読んですごくそこに影響を受けているんでこんな長くなっちゃいましたけれど、要は昭和天皇を含めて貫太郎さん、阿南陸将、この3人が軍を無くして、国を残すという決断をしました。それが70年前なんです。我々の今があるのは、そのおかげです。
ところが残念ながら、最近政治家は都合のいいように歴史を解釈して、民意を無視してどんどんおかしな方向に日本を進めていっていますよね。ですから、我々は本当に歴史を正しく解釈して、どこからきてどこへ行くのかというのをもう一回確認して声に出していかなきゃいけない時期に来ていると思います。
そういう大きな時期にこの映画、半藤先生の大傑作ノンフィクションが、こういう俳優たちによって演じられて、映画として、海外を含めた広くの人たちに公開されるということは、大きな意義を感じています。ぜひこの映画、みなさん応援してください。よろしくお願いします。
映画『日本のいちばん長い日』は2015年8月8日より公開。
(C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会
(取材・黒宮丈治)
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